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S.T.「病的な新訳ホールデン――dirty wordsからみるThe Catcher in the Rye翻訳論――」

目次
序論
第一章 正気の度合い
 第一節 crazy(Ⅰ)
 第二節 mad
第二章 怒りと病
 第一節 my ass
 第二節 pain in the ass
 第三節 crazy(Ⅱ)
結論

参考文献
Appendix

序論
 J・D・サリンジャー(J.D. Salinger)のThe Catcher in the Rye(以下、The Catcherと略記する)は、1951年に出版された長編小説である。この小説は主人公のホールデン・コールフィールド(Holden Caulfield)が成績不良で退学処分にされた高校を飛び出し、ニューヨークの街を彷徨いながら過ごした3日間を、彼の一人称の語りによって描いたものである。その過程で彼は“phony”で汚れた大人社会に対して怒りの声をあげ、また純粋な子供の“innocence”を守ろうとしながら、その両者の境界で不安定に生きている自分の居場所を探し求めるのであった。
 The Catcherの出版当時ほとんど無名の作家であったサリンジャーのこの作品は、発売の2週間後には『ニューヨーク・タイムズ』のベストセラーリストにランクインし、最高で4位を獲得、30週にわたってリストに留まり続けた。そして同年にイギリスで出版され、翌52年にはイタリア、ノルウェー、そして日本でそれぞれ翻訳された(1)。
 The Catcherは今日まで30ヶ国以上で翻訳されているが、日本においてはそのときの橋本福夫訳『危険な年齢』(ダヴィッド社、1952)の他に2つの翻訳が存在する。野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』(以下、『ライ麦』)(白水社、1964)と、村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(以下、『キャッチャー』)(白水社、2003)である。
 60年代に入り、カウンターカルチャーと呼ばれる社会に反抗する若者の文化が急速に世界に広まった時代に、The Catcherは本格的に人気を博しだした。それはThe Catcherの中での、ホールデンが感じた社会への怒りや憤りの要素が当時の社会の風潮と一致していたためであろう。そのさなかに出版された野崎訳は、やはり「カウンターカルチャー風」(2)の訳文であるとか「鬱屈した若い男の子が反抗しているような、乱暴な感じを受ける」(3)などと評されている。The Catcherも『ライ麦』も反抗する若者のバイブルとして広く受容されたのである。
 それから約40年振りの新訳である村上訳は、野崎訳とは違った読まれ方がなされている。ホールデンの「精神の病にまつわる雰囲気を明確に」したことで「主人公対インチキな社会という構図で読まれることが多かった『ライ麦』に、もう少し主人公の内面深く降りていくような解釈の可能性があることに気づきやすくなった」(4)というのだ。
 The Catcherには汚い言葉、つまりdirty wordが多用されており、出版当時はそれが一因となり全米で学校や図書館から有害図書の指定を受けたとされる。
 しかし『ライ麦』と『キャッチャー』におけるdirty wordの訳文を比較すると、『キャチャー』は『ライ麦』が放つような「乱暴な感じ」はなく、有害図書となり得るほどのものではなくなっている。そしてそれらの比較を進めていくことによっても、The Catcherに新たな解釈をもたらすキーワードとも言える村上ホールデンの病の度合いが、野崎ホールデンより強まっていることが見えてくるのだ。
 本論では作中のdirty wordsを2つの傾向に分類し、村上ホールデンが野崎ホールデンより病的になっている箇所を例示していく。

結論
 野崎訳の出版された60年代は、学生運動や大学紛争、安保闘争、ベトナム戦争反対の運動など、正に反抗の時代であった。
 対して村上訳の出版された現代は、こころの時代と呼ばれている。PTSDなど60年代には発見されていなかった多くの病に名前が付けられ研究されるようになり、社会の問題は個人に還元されるようになった。
 この2つの時代の関係は、本論で論じてきた、野崎訳はホールデンの怒りや反抗する姿を前面に出し、村上訳はそれらが弱まり彼が抱える精神の病を明らかにした翻訳であるという、極論すれば対社会と対自己であると言えるこの両訳の関係と一致する。翻訳がそれぞれの時代を象徴しているのだ。そしてホールデン・コールフィールドという人物を形成する重要な要素であるdirty wordsからも、その様子がはっきり見えるのである。


(1)ポール・アレクサンダー、田中啓史訳『サリンジャーを追いかけて』(DHC、2003),p.160と、村上春樹「『キャッチャー・イン・ザ・ライ』訳者解説」村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』(文春新書、2003),p.208を参考にした。
(2)井上健「大いなる翻訳の2つの心臓:語彙と文体の訳し直しをめぐって」『英語青年』149巻5号(研究者、2003),p.268
(3)越川芳明・沼野充義・新元良一「特集:サリンジャー再び 村上春樹を読む」『文学界』57巻6号(文芸春秋、2003),p.295
(4)竹内康浩「翻訳書書評 J・D・サリンジャー作/村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』」『英語青年』149巻5号(研究者、2003),p.315
(5)村上・柴田『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』,pp.88-89
(6)本論においてのテキストは、J.D. Salinger, The Catcher in the Rye(Little, Brown and Company, 1991)と、野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』(白水社、1984)、村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(白水社、2003)を使用した。以下作品からの引用はこれらの版からとし、本文中にページ数を( )で表記する。
(7)村上・柴田『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』,p.26
(8)同上,p.116
(9)翻訳の持つ性質については、森田草平「翻訳の理論と実際」『英文の翻訳』別宮貞徳(大修館書店、1983)p.89を参考にした。
(10)村上・柴田『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』,p.54
(11)竹内「翻訳書書評 J・D・サリンジャー作/村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』」『英語青年』,p.315
(12)村上・柴田『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』,p.56

参考文献
井上健「大いなる翻訳の2つの心臓:語彙と文体の訳し直しをめぐって」『英語青年』149巻5号(研究者、2003),pp.268-269
越川芳明・沼野充義・新元良一「特集:サリンジャー再び 村上春樹を読む」『文学界』57巻6号(文芸春秋、2003),pp.284-304
森田草平「翻訳の理論と実際」『英文の翻訳』別宮貞徳(大修館書店、1983),pp.87-89
村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』(文春新書、2003)
野間正二『戦争PTSDとサリンジャー 反戦三部作の謎をとく』(創元社、2005)
『“キャッチャー・イン・ザ・ライ”の謎をとく』(創元社、2003)
ポール・アレクサンダー、田中啓史訳『サリンジャーを追いかけて』(DHC、2003)
斎藤環『心理学化する社会 なぜ、トラウマと癒しが求められるのか』(PHP研究所、2003)
竹内康浩「翻訳書書評 J・D・サリンジャー作/村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』」『英語青年』149巻5号(研究者、2003),p.315
田中啓史『シリーズ もっと知りたい名作の世界④ ライ麦畑でつかまえて』(ミネルヴァ書房、2006)
by mewspap | 2007-02-17 09:36 | 2006年度卒論


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