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「書くというのは時系列の混乱であり、自我の分裂である」(Mew's Pap)

2年ほど前から授業でe-LearningシステムのCEASを利用しているが、その実施画面のオンライン公開をしてほしいと依頼が来る。

他の諸先生と違ってITに通暁しているわけではないし、CEAS利用と言っても大したことやっているわけでもない。受講生の投稿によるBBS(掲示板)を主にした運用なので、それをそのまま公開すると学籍・氏名を初めとする個人情報にも関わる。

ということを言い訳にお断りしたら、今度は事例報告書に原稿を書いてくれという依頼が来る。

授業について振り返って記述するのってなんだか落ち着かないしいやだなと思う。何のかんの理由を付けてお断りする。

そのうち今度は、オンラインで公開する事例報告ならどうかと依頼が来る(めげないんだなあ)。

責任者の先生にも事務の人にもずいぶんお世話になったし、もうこれ以上は断り切れないのでオーケーし、一気呵成に一週間で書き上げる。オンライン公開なので字数制限はないということで、思いつくまま書いていると、「卒論」ほどではないが18,000字超となる。

文学や映画の作品解釈実践の授業事例を公開しても、いったいこんなの誰の役に立つのだろうと思う。多様なCEASの授業支援機能があるなかで、BBSのヘビー・ユースというのも極めて特殊だ。

ということで、何を目的に、誰を宛先に書いているのか分からなくなる。こういう文書は苦手なんだよな。
ずいぶん据わりの悪いものができ上がってしまった。

そのなかで、年来ゼミで言い続けてきたけど、どうもうまく伝わらないなあと思っていた点に深く得心がゆく表現がぽこっと出てきた。
「卒論は共著である」(ゼミ標語のひとつ)ということと、「他者に向けて書く」(ゼミ標語でさまざまなヴァリエーションで言っている)ということに関わるふたつの点である。

正式の公開より先にここでその部分を挙げてしまう。まずは「卒論は共著である」ということについて。
下位年次科目で、BBS投稿を軸にした「共同」作業を受講生同士がおこなうようにしているが、その原点にあるのが実はゼミでの下書き相互チェックだったことを思い出したのである。


 受講生同士の共同という授業運営の原点は、ひとつに卒業演習での卒業論文作成指導がある。2000年度から、ゼミ生同士が卒業論文を相互に批評するレヴューを執筆し、ゼミ冊子にまとめるのを、卒業演習での最後の課題とするようになった。そこで気づいたのは、他の学生の卒論を読むことの学習効果の高さである。2万字に及ぶ論文の完成というのは、ほとんどの学生にとって初めての経験である。それを経たのちに他の学生の卒論を読むとき、もはや受け身の「読み手」ではなく、自身も同じく卒論を完成させた「書き手」の目線で読むことになる。さらに、他の学生の卒論の意図や趣旨、論構成や論証の可否、伝達性や説得性を批評しながら、その卒論の発想から完成までを遡及的に追体験しつつレヴューを書くことになる。読む行為のうちに書く行為を呼び込み、書くことに読まれることを織り込む姿勢は、読み手を想定して説得的な論述文を書くという視座に直線的につながる。毎年、このようにして書かれた相互レヴューには、完成したばかりの卒論以上に、批評性と説得性に優れたものが多い。
 さらに数年前からは、この学年末の相互レヴューを応用して、卒論の執筆自体に活かすために、提出前の卒論下書きを相互に批評する方法を取り入れた。テーマ、論証性、引証方法の是非等についてはもちろん、文体や「てにをは」に至る文章作法に関しても、互いの卒論下書きに文字通り「朱入れ」をするものである。担当教員とは次元の異なる目線から読み・読まれることは、自分の考えが相手に「いかに伝わらないか」を実感することにつながる。むろん、複数の目で見て朱入れしたコメントはそれ自体、書いた本人にとって有用である。しかし何よりも重要なのは、他人の文章を読み、自分の文章が読まれるプロセスを通じて、書き手としての自分をより上位次元からまなざす目を獲得することである。卒業演習では「卒論は共著である」というのを標語のひとつにしているが、それは単に他の学生にチェックを入れてもらって書き直すことだけを指しているのではない。相互性と共同性のプロセスを通じて、それぞれが書き手としての自分の姿勢を捉え直し、文章のなかに読者を織り込んで「読者と共同で書く」姿勢で臨むのが、「共著」ということの主眼である。

ほーほーそうだったんだ。「共著」というのは「読者と共同で書く」ということだったんだね。

上記に続けて、今度は「書く」ということそのものに照準し、「書くというのは時系列の混乱であり、自我の分裂である」と訳の分からないことを吠える。
依頼原稿の主眼である「オンライン授業」ということとはますます関係なくなってくるので最終的に削除しようと思ったけれど、どうも据わりの悪い今回の原稿で、「そうそうそうなんだよな」と自分で書きながら深くうなずく箇所だったので、ま、いっかとそのまま送稿。

こんな感じ。

 この方式をさらに下位年次科目でも応用したのが、上の「米文学作品研究a」事例で示したような、相互のレポート読了とレヴュー執筆の課題である。ふつう受講生は、自分が書いたレポートは授業担当教員だけが読むものと了解している。そしてこの前提了解のもとに、レポートを書くことになる。そうすると、「提出先」である読み手は他でもなく授業を担当してきた担当教員だけなので、どうしても書き方に「甘え」を呼び込んだ論証性・説得性に欠けるレポートが出てくる。論述文のさまざまな前提条件を無視し、論旨の飛躍や欠落は担当教員が「補完して読んでくれるだろう」という姿勢になりがちである。むろん、この陥穽にはまっていない優れたレポートも少なくない。そうした優れたレポートを前にした場合、今度は逆に、読み手が授業担当者ひとりというのは惜しいという気持ちになる。
 この両者の解決に向けた方途は極めて単純であり、受講生全員が提出レポートを読むようにすればよい。もっとも、当初こちらが期待したのは、同じテーマ、同じ条件で書かれた他の受講生の優れたレポートを読むことには学ぶ点が多いだろうということだった。しかし、上述のように、効果は期待以上だった。担当教員ひとりではなく、多数の人に読まれることを前提にレポートを作成することの効用は小さくない。書くというのは時系列の混乱であり、自我の分裂である。自分が今書いているものは、未来のある時点における自分とは異質の読み手を宛先としている。いつとも知れない未来の他者の目線に憑依して、現在を「遡及的に」振り返りながら言葉を紡ぎ出す、というのが書くということの本義である。さらに、他の受講生のレポート群を読むことは、他人に向けて自分の考えを記述して読んでもらうということはどういうことなのか、という「メタ的」な視点からみずからの書く行為を振り返る機会になる。

ううむ。この訳の分かりにくさ。
ぴったり。
ゼミ標語に加えよっと。
by mewspap | 2007-03-01 19:12 | Mew's Pap


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