■シネマ◆
■の■■■ ■つぶ■■ ◆ その22(前) ■■■やき ■ ■ ◆ 2003-05-01 ほぼ一ヶ月ぶりの配信。 嗚呼、春は悩ましくも残酷なまでに忙しい。 新学期で授業も始まるし、教学上の問題は続発するし、桜は咲いては散るし、法文坂の工事はまだ終わらないし、妙に暑くなったり冷え込んだりするし、雨が降ったりやんだりで傘を教室に置き忘れるし。 そのうえピアノの練習はしなくてはならない。 この春、アキモトせんせはピアノで「ねこふんじゃった」を弾けるようになりました。 ぐふ、うれし。 この世には二種類の人間がいる、というのを枕詞とする話法が巷間に流布されている。 そのほとんどが、単純二元論、素朴ディコトミーですな。 老/若、金持ち/貧乏、地図が読めない/他人に道順を訊ねることがでない、女をバカだと思ってしまう/男をバカだと思ってしまう等々、人間を二種類に類別する分節軸に事欠くことはない。 たしかに、「この世には二種類の人間がいるというふうに考える人間」と、「この世には二種類の人間がいるというふうには考えない人間」の二種類の人間がいることはまちがいない。 わたくしは後者の部類に属するが、ひとつだけ深く心に刷り込まれた二分法がある。 この世にはピアノを弾ける人とピアノを弾けない人がいる。 ところが、驚くべきことに、「ピアノを弾けるひと/弾けないひと」というこの二分法が認知されているとはとても言い難い。 なぜか。 ピアノを弾ける人は、「ピアノを弾ける人/弾けない人」という二項対立への意識がそもそも希薄か、有り体に言えば絶無だからである。 ピアノを弾ける人は、ピアノが弾けないということの異文化性に無頓着であり、それが包摂する他者性をよく観念し得ないからである。 すなわち、ピアノが弾ける人にとって、ピアノが弾けるということは先験的な所与の条件であって、それはピアノが弾けないという事態に対する絶対的な盲目性を担保するものなのである。 ピアノが弾ける人にとって、ピアノが弾けない人というのは、文化的に分節され得ない存在であり、すなわち「人間」ですらないのだ。 彼らにはピアノが弾けない人が「見えない」のである。 したがってこの「ピアノを弾ける/弾けない」という分類法が、われわれの文化において前景化することは金輪際あり得ない。 ゆえに、ピアノが弾けない人は、圧倒的なカオスと闇の前文化的ランガージュの海へと永久追放される。 だからピアノが弾けないという事態は深く抑圧されたルサンチマンとなり、決して解消への回路を与えられない積年の怨嗟として世の中に伏流する。(伏流しているはずだ。) だって、ピアノが弾ける人はそんなことまったく気にしないんだもん。 ピアノが弾けるというのは、なにもショパンとかラヴェルとかドヴィッシーの旋律がどうしたとか、ビル・エヴァンズとかバド・パウエルとかチック・コリアのタッチがどうのこうの、ということを言っているのではない。 幼少期にピアノを習った、家庭にピアノがあった、リビングルームでお母さんが(お姉ちゃんが)弾いているのを耳にしたという程度である。 せいぜい「ねこふんじゃった」に加えて「エリーゼのために」を数小節弾けたというぐらいのことである。 「レット・イット・ビー」のイントロだけは知っているということにすぎない。 要するに「おうちにピアノがある人/ない人」という分類でもよい。 わたくしが言う「ピアノが弾ける」というのはその程度の「文化的」産物にすぎない。 しかしながら、アキモトせんせのようなある種の人間の額には、この程度の文化的差異化からの永久に放逐された者の刻印が刻まれている。 子どものころ、おうちにピアノがなかったんだもん(ついでに言えばリビングルームもなかったが)。 高度経済成長期、ピアノとは(疑似)経済的安定の、(疑似)教養の、(疑似)都市文化の、(疑似)核家族文化の、(疑似)幸福な家庭の、(疑似)すくすく成長する明るい子の、一言にして絨毯敷きの日の射し込むリビングルームの、まったき象徴であった。 東京郊外のベッドタウンで過ごしたわたくしの幼少期、「おうちにピアノがない」というのは明らかにマイノリティであった。 そして高度経済成長とヤマハは、「一家にピアノ一台の幸福」というイデオロギーを巷間に膾炙した。 寡聞にして知らないが、高度経済成長と中産階級文化とベッドタウンの政治学におけるヤマハのピアノという日本の家族文化論は、ぜったいに誰かが取り上げるべきテーマである。 誰か書いてくれないだろうか。 そんときはアキモトせんせがリサーチ対象のインタヴューイとして、若干3時間ほど滔々と奔流の如く縷々私見を述べてヤマハへの恨み辛みとそこから派生したルサンチマンの根の深さを述べてさしあげ、インタヴューワーをうんざりさせてあげるのにやぶさかではないのだが。 だって実際、ほら、そこのきみ。きみんちにもピアノあったんでしょ? そっちのあなたなんかピアノ教室にピアノ習いにまで行ってたでしょっ。 まさかそこの人、ひらひらピンクのドレスか馬子にも衣装半ズボンスーツで、「ピアノ発表会」などという世にも恐ろしきものに出たことはないだろうね。 わたくしのおうちにはピアノがなかった。 小学校一年生のとき、学校のグランドピアノに感動したわたくしは母親に「ピアノを習いに行きたい」と懇願したものである。 それはわたくしにとって、政治性が浸食し、イデオロギー性の横溢する「文化」というものへの、ファースト・コンタクトであった。 だが、わたくしの母親は「そんなのはブルジョワのやること」というご裁断をもって一蹴する暴挙に出たのであった。 以後、根深いルサンチマンを生きたアキモトせんせは、静けき住宅街を歩いていてリビングから聞こえてくる幸福な「ねこふんじゃった」のピアノの楽音に涙しながら、「ブルジョワのおうち」の前を通りすぎて生涯を終えることになるであろう。 と思っていたら、子どもの小学校入学祝いに知人が中古のピアノをくれた(エレピだけど)。 おかげでアキモトせんせは憧れの(ブルジョワの)「ねこふんじゃった」を弾けるようになりました。 我が後半生は、前半生に鬱積したさまざまなルサンチマンを、落ち穂拾いのごとくひとつひとつ手にとってよしよしと慰撫し、生ぬるい自己慰謝のうちに解消してゆくことに費やされるかのようである。 わたくしはまたひとつ深く眠るルサンチマンを成仏させ、かくしてまたひとつ人間が丸くなりました。 けけけ。 わたくしの周到なプランニングによれば、次は「さいたさいたチューリップのはなが」に果敢にもチャレンジすることになっている。 左手の運指、ギターで言うところのアルペイジオが巨大な壁として立ちはだかる難題である。 なんでピアノが弾ける人は右手と左手が別個の動きができるのであろうか。 不思議である。 いずれにせよ、しばし我が書斎は幼稚園のような豊穣なる楽音に満たされことになるであらう。 だから今ひとつ自分には運がないと思ってる人も心配いらない。 きみもいずれ「ねこふんじゃった」を弾ける日がくるから。(論旨不明。) アキモトせんせが子ども時代のカナシミを慰撫しつつ「ねこふんじゃった」を弾くヨロコビを、「正義」の鉄槌であれ「ジハード」の自爆テロであれ、一瞬にして奪うような「真善美」の摂理などこの宇宙には存在しない。 遠距離からのトマホークによる「成功裡に終わった爆撃」で跡形もなく四散した無名兵士の細胞に、アントン・ルビンシュタイン作曲の「ねこふんじゃった」のフィンガリングが生み出す和音と不協和音の小確幸(「小さいけど確かな幸せ」@村上春樹)が刻まれていなかったなどと、一体誰が言う権利があるのか。 う~む。 わたくしは喜んでいるのか哀しんでいるのか怒っているのか、いずれなのであろう。 げに、ルサンチマンとは「繰り返し訪れる感情」の謂いなり。 などとほざいているうちに時は刻々と過ぎゆく。 こくこく。 今回は『ワイルド・アット・ハート』『トゥルー・ロマンス』『エボリューション』『ゴースト&ダークネス』についてつぶやく予定であったが、おばかなことをほざいていて時間がなくなってしまった。 『ゴースト&ダークネス』は延期。代わりに、以前にも『スクリーム2』と『チアーズ』について書いてくれたAyaさんが、今回は『ボウリング・フォー・コロンバイン』について語る松本人志の語り口について寄稿してくれましたので、巻末に掲載します。 では、まずアキモトせんせ一押しのウィレム・デフォーが出ている『ワイルド・アット・ハート』から。 ◆『ワイルド・アット・ハート』WILD AT HEART1990年アメリカ 監督:デイヴィッド・リンチ 脚本:デイヴィッド・リンチ 出演:ニコラス・ケイジ、ローラ・ダーン、ウィレム・デフォー、イザベラ・ロッセリーニ、クリスピン・グローバー つまらん。 デイヴィッド・リンチはわからん。 カンヌ映画祭のパルムドールなんですよね。 『オズの魔法使い』の"wicked witch"と"good witch"のモチーフを使っているのはわかります。東の魔女と西の魔女ですね、リンチ先生。 で、だから何なの? おもしろくないよー。(涙) ファンタジーとしても出来がよくわからない。 最後に、渋滞した車のボンネットの上を橋渡りして女を追いかけるニコラス・ケイジの図像だけは印象に残るけど。 ニコラス・ケイジは、『コン・エアー』で似合わないマッチョやってるなと思ったけど、きみって元々マッチョな役者さんだったんだ。知らなかったよ、すまんすまん。 ところでアキモトがせんせ一押しのウィレム・デフォーがなかなか出てこない。 ああ、いらいらする。 どんな映画でも、最後まで観るか、途中でぶち切って観るのを完全に止めるかのどちらかなんだけど、デフォーの「狂いぶり」見たさに早送りしちまったぜ。 すまんな、リンチくん。でも、つまんないんだもん、許ちてね。 で、期待に違わずデフォーの「狂いぶり」にげらげら笑う。 ケイジくんと銀行を襲撃し、ショットガンで銀行員を撃ったあと、デフォーはケイジくんを裏切って「今度はお前だ、でへへへへへ~」と銃口を向ける。 たいへんクリーピーです。 ケイジくんが銀行の外に逃げ出してもあわてず騒がず、「お~けへぇ、お~けへぇぇぇ、いっしっしっし~」とドアップで「狂い顔」。 いとクリーピィなり。 ところがそこに警官が登場して「ホールドアップ!」。 「ぬぬ、こしゃくな」と警官に刃向かおうとして撃たれた「狂える鬼畜」のデフォーくん、よろよろとよろめいて持っていたショットガンの銃口を自分の首もとに向けてしまい、膝からガクッと崩れ落ちる瞬間に誤って引き金を引いてしまう。 至近距離からの強力な散弾が爆裂。 頭引きちぎれて丸ごとぶっ飛び。ぼんっ。 形を失ったデフォー顔面がぴゅるぴゅる~と空中散歩。 ほいでから地面に落下して、べちょっ。 どひええぇぇ。 デフォーくん、まちがいなく映画史に残るレアな死に様の図像だよ。 『プラトーン』の天を仰いで神を指弾し、運命を呪詛し、理なき戦争と軍隊の欺瞞を告発して非業かつ英雄的な「バンザイ死」を見せてからわずか4年。ギリシャ悲劇の英雄のようなあのデフォーくんはもういない。 そこにあるのは「鬼畜には因果応報のザマミロ惨死」だけである。 デイヴィッド・リンチはわからん。 これはジョン・ウォーターズとクエンティン・タランティーノ的な「すべての人間はばかになっている」というテーマを、ジョン・ウォーターズのえぐい諧謔とタランティーノの審美主義抜きに、デイヴィッド・リンチ的わけわかんない風(涙)に語った映画である。 アメリカ人は、よい子のお話であれギャング映画であれ「資本主義の階梯を登り詰めていくアメリカン・ドリーム」話型が大好きだが、既にアメリカン・ドリームを実現したあとの「金持ちばか」は、何をしたらいいかわかんない救いようのないばかであると観念している。 金持ちは皆ひとしなみに「悪い魔女」になるのである。 わかったよ。 ケイジくんの恋人役で大富豪の娘ルーラ(ローラ・ダーン)ちゃん、せんせがいいことを教えてあげる。 教養もなく、スキルもないと、人生たいへんだよ。 教養もスキルもない女は、他者の敬意を得ることはできない。 そんなんいらないもーん、などと言わないように。 他者の敬意を得られない女は、結局はずっと他人に鼻面を引きずり回されておろおろと無為な人生を過ごすことになる。 そんなのいやでしょ。 でもそういう女はそういう懲罰を受けなければならない。 そうあるべきなのである。 でないとフェアじゃないもん。 ところがである。 教養もスキルもなくとも、他人のマニピュレーションから逃れるもうひとつの迂回路がある、とこの映画は教えてくれる(絶対いつかデッドエンドに至ると思うけど)。 それが"true romance"幻想だ。 女にはこのオプションがあるんだぜって言うのだよ。 ほんまかね。 アキモトせんせは懐疑的である。 この映画は逃避行カップルのロード・ムーヴィ・ジャンルに属する。 原型は『俺たちに明日はない』のあれである。 女同士だけど『セルマ・アンド・ルイーズ』のあれである。 男同士だけど『明日に向かって撃て』のあれである。 団体さんの逃亡劇なら、『ロング・ライダーズ』『ワイルド・バンチ』『バンディッツ』なんかがあるね。 逃げろ逃げろ映画である。 でも憶えておくように。 『俺たちに明日はない』も『セルマ・アンド・ルイーズ』も『明日に向かって撃て』も『ロング・ライダーズ』も『ワイルド・バンチ』も『バンディッツ』も、逃げろ逃げろの行く末に楽園なんて結局は存在しない。 みんな死んじゃうんだよ。 ケイジくんは蛇皮のジャケットを着ている。『スネーク・アイズ』という映画にも出ていたし、ニコラス・ケイジは蛇と縁が深い。 そう言えば、あのでっかい半眼がブチ切れ役やって三白眼すると、椎名誠の本の常連イラストレーター「ワニ目画伯」沢野ひとしが描く爬虫類人間に似ている。 かつてエイリアンに殺されたハリー・ディーン・スタントンが(やっぱり)殺され役で出ている。 でも、実は彼が『パリ、テキサス』の主演で彷徨える人を演じた名優さんなんだということを知っているひとは稀である。 やっぱ『エイリアン』で「ネコちゃんネコちゃん」と猫探ししていてエイリアンにむさぼり喰われてしまったひと、というのがハリー・ディーン・スタントンのただしい記憶のされ方であろう。 ◆◆『トゥルー・ロマンス』TRUE ROMANCE 1993年アメリカ 脚本:クエンティン・タランティーノ 監督:トニー・スコット 出演:クリスチャン・スレーター、パトリシア・アークエット、デニス・ホッパー、バル・キルマー、ゲイリー・オールドマン、ブラッド・ピット、サミュエル・L・ジャクソン、クリストファー・ウォーケン、クリス・ペン これまた『俺たちに明日はない』の現代版。 監督のトニー・スコットはリドリー・スコットの弟なんだ。 ハリウッド「はらはらドキドキ」監督兄弟である。 そんで脚本はクエンティン・タランティーノか。 すごいぞ。 クラレンス(クリスチャン・スレーター)と娼婦アラバマ(パトリシア・アークエット)は唐突に「ほんまの恋(トゥルー・ロマンス)」に落ち、たまたま手に入れた莫大な量の麻薬をもとに一攫千金目指してカリフォルニアを目指します。 上述『ワイルド・アット・ハート』で触れた"true romance"幻想をそのまま「メタ的」に構想した映画である。 そして西に向けて逃避行westward boundってのは、ただしくアメリカ神話を下敷きいしたものです。 で、逃げるばかカップルに追っかけるマフィアと相成る。 この「バカップル」は絶対死ぬなと観客に思わせておいて、なんと最後まで死なない。 他の人がみんな死んじゃって、このカップルは生き残ってハッピーエンド。 映画の文法を越境するかのように、若い二人に国境を越えさせて、以後シアワセに暮らしましたってとこで終わる(生まれてきた赤ん坊も交えて海辺で幸福そうに遊んでいるのがエンディングの図像)。 『俺たちに明日はない』『セルマ・アンド・ルイーズ』『明日に向かって撃て』『ロング・ライダーズ』『ワイルド・バンチ』『バンディッツ』話型から、軽快に逸脱する。 ここにタランティーノの「優しさ」というのを垣間見ることができる(と思う)。 『レザボア・ドッグス』のエンディングもそうだったけど、あんだけ暴力と「鬼畜サイコパス」群像を描きながら、タランティーノはみずから創造した人物を深い愛おしさをもって慈しんでいるかのようだ。『パルプ・フィクション』でもそうだった。 とにかくこの映画は「タランティーノ風」プロットさばきが秀逸である。 ぜんぜん関係のない人物たちの行動が、クライマックスのある一点に向けて不可避・不可逆的に収斂してくる。 クラレンスとアラバマの若い二人、ヤクの取引の場のハリウッド敏腕プロデューサー、マシンガン抱えたその用心棒、警察に内通している映画人、ホールドアップを叫ぶデカたち、そしてシチリアン・マフィアが一部屋に一堂に会して、お互いに「武器を捨てろ!」「お前こそ武器を捨てろ!」とわめき合った挙げ句に、つまんないきっかけでドンパチを(やっぱり)始めちゃって累々たる屍の山を築く。 本来は悲劇のはずだが、この狂気のシーンには喜劇的要素が濃い。 したがってタランティーノは正しい。古来、tragedyとは「英雄=主人公の死で終わるもの」と定義されていた。 そしてcomedyは「カップルの結婚で終わるもの」である。 だから、主人公の結婚とハッピーエンディングで終わるこの映画は、ただしく「喜劇」なのである。 そしてメタシアターなんて小難しいこと言わずとも、全編これ映画の引用・暗喩・言及に満ち満ちている。 映画賛歌の映画なんです。 監督のトニー・スコットも、撮っいてたいへん楽しかったであろう。 クリスチャン・スレーターはベスト・パフォーマンスを見せてくれる。 彼には他に何か観るべき映画あるのだろうか。寡聞にして知らない。 アラバマ役は『救命士』でニコラス・ケイジの相手役のパトリシア・アークエットだけど、狂った殺し屋にぼかぼかに殴られる役を体当たりで演じます。 ナスターシャ・キンスキーにちょっと似ている細面だけれども、『俺たちに明日はない』のフェイ・ダナウェイを彷彿とさせるノワールな女なのだ。 そして脇役がすごい。鬼畜でサイコな方々がいっぱい出てきます。 これでもかってくらい、「いかに突発的に激しくぶち切れるか」を争う演技力競争をしております。 まずはクリストファー・ウォーケン。 とってもこわーいシシリアン・マフィア。 デニス・ホッパーにとことんおちょくられて、みずからホッパーを射殺します。「殺しは初めてだ……1984年以来な」との由。 ってそんなあんた、コワイよ。 「元祖ブチ切れ男」デニス・ホッパー。 主人公のパパ役である。 サイコなマフィア、クリストファー・ウォーケンの拷問にもめげず、息子の逃亡先を白状せずに、ウォーケンをおちょくりたおす。 「ああ、お前さんシチリア系か。オレは本を読むんだがな、それも歴史の本が好きでね。シチリアは昔々ムーア人に征服されたんだよ。ムーア人ってな黒人なんだな。で、お前さんの祖先の女たちを犯しまくったってわけ。だからシチリア人ってなぁニガーの血が交じってんのさ。はははは。ははははははは」 どんっ。 ウォーケンに粛々と撃たれて惨死。 南無。 やはりこのホッパーが一番恐いキレ方を見せる(だって自分を殺すようしむけるために、めちゃ恐いマフィアのお兄さんをおちょくるんだから)。 ゲイリー・『レオン』の鬼畜刑事・オールドマン。 「売る虎奇知害」のポン引きにしてヤクの売人。あまりの素行の悪さに、主人公のクリスチャン・スレーターに股間と眉間を撃たれて憤死。 アーメン。 サミュエル・L・『交渉人』『アンブレイカブル』・ジャクソン。 これまた「ぷちっと切れた」ギャングで、ヤクの取引相手をぜんぶ殺します。 ジェイムズ・ガンドルフィーニ。 女のアラバマをとことんどつき倒すクール・サイコなヒットマン。 ところが根性娘アラバマをイジメすぎたので、彼女にあんよをコーク・スクリューで刺され、ばかでかい花瓶とトイレの水槽の重~い蓋で脳天をどつかれた挙げ句、弾がなくなるまでショットガンでさんざん撃たれて惨死。 合掌。 デヴィッド・J・スカル『モンスター・ショー――怪奇映画の文化史』(国書刊行会)の訳者、栩木玲子によれば、このシークエンスだけ「ホラー映画のモード」なのだそうだ。確かにね。 他にもクリス・ペン(ショーン・ペンの弟)、トム・『救命士』のブチ切れベトナム後遺症男・サイズモアが「ぶっ飛び」デカさん役で出ている。 二人とも銃撃戦の挙げ句に惨死。 May your souls rest in peace . . . ヴァル・キルマーがどこに出てんのか誰にも分からないであろう。 主人公のオルター・エゴ(第二の自我、分身)のエルヴィス・プレスリー役なんだよね。 ブラッド・ピットもちょい役で登場。 アブナイ目に合いながら最後まで死なないラリパッパのヤク中にーちゃん役。 ウォーケン、ホッパー、ピット、ジャクソンはもちろん、オールドマン、キルマーみんな「脇役」で使って、しかもその存在感と見せ所をちゃんと撮っている。スコット/タランティーノ、恐るべし。 今年観た「グレートな映画」ナンバー・ワン。でもキライ、この映画。 冒頭、『パルプ・フィクション』の宣伝とタランティーノのインタヴューがちょっとあって、その惹句が「クエンティン・タランティーノ――時代にとどめを刺す」だと(だっさー)。 でも、確かだ。タランティーノは(何に対してだかわかんないけど)とどめを刺したことは間違いない。 だから、言いたい。「もういいよ、よくわかったから」って。 I've had enough! タランティーノ映画は一年に二本以上観てはいけない。 (その22後半に続く)
by mewspap
| 2006-01-05 17:57
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