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シネマのつぶやき:『ヒアアフター』――Childless Mother, Motherless Child

久しぶりに映画館に足を運ぶ(ちょうど1年ぶりだぜ)。
そんな忙しいわけじゃないんだけど、オフの日はふぅっと昏倒することが多く、映画見に行こうっとなかなか思えないんですよね(トシだし)。

ようやくふらふらとお出かけし、おお、なんてよいタイミングだと思う。わお、クリント・イーストウッドかあとか、わお、ロドリゴ・ガルシアかあとか思ってはしごして見る。
『ヒアアフター』と『愛する人』を連ちゃんで見て、それからお家に帰ってまた炬燵に寝っ転がり、借りてたDVDの『パーマネント野ばら』を見る。

そして、あれ、「母性」という鍵語ででくくりたくなる映画が多いなとふと思う。
別に選んで見ているわけじゃないんだけど(映画館に行くのも1年ぶりだし)。

母性(motherhood)というと習い性のように神秘化したがる傾向がいまだに見られるけれど、それは不要にしてしばしば有害でさえある。
母性というのは平たく言えば「母であること」「母なるもの」の意で、ある関係性によって生じる女性の定義と言っていい。

というわけで、まずクリント・イーストウッド監督の『ヒアアフター』。

シネマのつぶやき:『ヒアアフター』――Childless Mother, Motherless Child_d0016644_17303655.jpg『ヒアアフター』
Hereafter
2010年アメリカ
監督:クリント・イーストウッド
出演:マット・デイモン、セシル・ドゥ・フランス、ジョージ・マクラレン、ジェイ・モア、ティエリー・ヌーヴィック、リンゼイ・マーシャル、ブライス・ダラス・ハワード
宣伝ポスターを見たらタイトルは『ヒア アフター』となっていて、映画館に行ったら掲示板に『ヒア・アフター』とあった。
原題はもちろんワン・ワードでHereafter。名詞で「来世」の意味です。考えたら不思議な語ですね。空間概念hereと時間概念afterの合成語なのだから(beyondhereともafternowとも言わない)。でも「来世」というのも時間と空間を連ねた語か。

主要登場人物は三人。
癒しがたい虚無感とかすかな希望を求める身振りとのあいだに揺らぐジョージ(マット・デイモン)、才色兼備のフランス人女性ジャーナリストのマリー(セシル・ドゥ・フランス)、そしてドラッグ・アディクトでアル中のシングル・マザーと双子の兄との三人暮らしの12歳の少年マーカス(ジョージ・マクラレン)。

サンフランシスコ、パリ、ロンドンに暮らす三人の道が最後に交差していく。クリント・イーストウッド監督の職人芸です。うまいなあ。




生まれも育ちもサンフランシスコのジョージはサイキックで、死者たちと交感しその言葉を遺された人に伝えることができる(イタコですね)。
利に聡い兄ビリー(ジェイ・モア)とのコンビで、かつてジョージは自分の異能を切り売りする仕事をしていた(イタコ商売です)。しかし、死者たちの声に耳を傾ける日々に倦み疲れ、ジョージは自分の能力を「恵み」(gift)ではなく「呪い」(curse)だと言って封印し、今では湾岸工場労働者として単調で静かな日常を生きている。

マリーはTVディレクターの恋人ディディエ(ティエリー・ヌーヴィック)とアジアでバカンス中に、たまたま津波に遭遇して生死の境をさまよう「臨死体験」をする。その体験によって、敏腕政治ジャーナリストとしてのそれまでの価値観は一変し、パリに戻ったあともキャスターの仕事が手につかない。あげくに番組を降板させられるばかりか、後任の若く美しい女性キャスターに恋人のディディエも奪われてしまう。

冒頭は津波のシーン。2004年に起きたスマトラ沖地震による津波に材を得ているのであろう。
マリーはディディエの娘のためにおみやげを買おうと一人ホテルを出て、通りに並ぶ売店の一軒で縫いぐるみの人形を求める。売り子の女性の幼い娘(たぶん)が抱いている人形がかわいいので、それと同じものをと言っているとき津波が押し寄せる。
マリーは街路に渦巻く奔流に押し流されながらも売店の少女を助けようとするが、ついにはその握った手を離してしまう。
CGを駆使した迫力の映像でいきなり観客を掴む。濁流にのまれ、押し流されてきた瓦礫や建材や車両に翻弄され、頭を打ち付けて気を失い、水中深くへと引きずり込まれていく。
沈んでいくマリーの虚ろな目に、垂直の仰角カメラで下から見た水面が映る。そして、沈黙のなか幸福感に満たされたヴィジョンが訪れる。青白く淡い光のあふれるその不思議な空間には、逆光で何人かの人影がぼんやりと浮かび上がる。
静かにたたずむ彼らのなかに、縫いぐるみを抱えた少女もいる。

マリーが水中から水面を見上げるショットと対照的なカメラワークが、マーカスの兄ジェイソン(フランキー・マクラレン)がトラックにはねられて死ぬ場面にある。
ジェイソンの死体と周囲の騒然たる人々の姿は「垂直的俯瞰」で捉えられる。
中条省平によれば、こういったショットは『ミスティック・リバー』や『チェンジリング』にも見られるもので、クリント・イーストウッドに特徴的なカメラワークである。
マリーの下から仰ぎ見る臨死ヴィジョンに対して、死んでしまった少年は「冷然と眺めおろす神の視点」で捉えられる。*

映画冒頭の迫力映像の掴みのあと、物語はわりと淡々と進む。

ロンドンの安アパート。
ヘロイン中毒から抜け出す決意をした双子の母ジャッキー(リンゼイ・マーシャル)は、処方箋を書いた紙をマーカスに渡して薬局へのお使いを頼む。しかし兄のジェイソンが自分が代わりに行くと言ってアパートを出る。
その帰り、年長のストリート・キッズに追われて通りに飛び出したジェイソンはトラックにはねられる。

口達者で聡明な兄ジェイソンを交通事故で喪ったマーカスは、あずけられた里親の家庭にも馴染めず孤独を託つ。マーカスの願いはただひとつ、兄ともう一度話をすることである。それで怪しげな自称霊能者たちの許を訪ねてロンドンの街路をさまよい歩く。

ジョージ、マリー、マーカス三人三様の物語は、ひとつひとつを詳細に眺めてみても、既視感を覚えるだけかもしれない。しかし映画はそれぞれを湿度も高く掘り下げていくというのではなく、三人の歩みが収斂して交差する一点へと至る道筋を(湿度も熱もわりと低く淡々と)描いている。

三つの人生を、最後に焦点を結ぶ瞬間に向けて収斂させる物語展開も、特段トリッキーでもアクロバティックでもない。鬼面人を驚かす不可思議な運命の変転や宿命的な遭遇などという重さもない。
こうして、扱っている題材にもかかわらず(それゆえにこそ)、湿・熱・重をできるだけ排除した筆致で描いている。この辺がクリント・イーストウッドの職人芸でしょう。

偶然の結びつきを生み出す要素はもちろんあちこちに布置されている。そこに人工的な脚本を読み取る人もいるでしょう。
三人が接点を持つのはロンドンのブックフェア会場である。そこで三人が出会うという偶然を生むための物語上の伏線は、いささか取って付けたご都合主義に見えるかもしれない。
ま、いいんじゃないか、と私は思う。
偶然というのは、あとから遡及的に振り返ってみると(ストーリー化してみると)、「出来すぎている」ものなのだから。
ブックフェアでの出会いという偶然を生むのは、ジョージの場合はチャールズ・ディケンズ、マリーはイギリスの出版社、マーカスの場合は自分より以前に里親の下で育てられた元里子の青年である。

ジョージはディケンズに傾倒しており、毎晩ディケンズ作品のオーディオブックを聴きながら眠りにつく。
工場をレイオフされた彼は、サイキック・ビジネスを再開しようという兄ジミーの申し出を拒否して、単身ロンドンに赴く。一観光客としてディケンズ・ミュージアムを訪れ、ちょうどロンドンでブックフェアが開催されていることを知る。いつもオーディオブックで聴いていた著名な俳優が、そのブックフェアでディケンズ作品のパブリック・リーディングをおこなうことになっている。

番組を降板されたマリーは、自分の臨死体験に基づく本を書く決心をする。しかし、彼女と政治関係の書物(ミッテラン元大統領の伝記)の出版契約をしていた編集者は、そのような「きわもの」はフランスの出版業界では誰も相手にしないと拒否する。マリーはイギリスの出版社と新たに契約を結び、英語でHereafeter: A Conspiracy of Silenceを著す。そしてロンドンのブックフェアで販促の朗読をするために、イギリスに向かう。

ディケンズは数々の孤児物語を書いたが、マーカスはその主人公のごとく事実上の孤児となる。
双子という半身を失い、薬物依存症の母親も入院するため(たぶん)、里親の下に預けられることになる。
その里親に育てられ、今や警備会社に職を得て自立している元里子の青年がいる。いつまでも頑なに心を開かないマーカスのために、里親夫婦はロール・モデルとなり得るその青年に会わせることを思いつく。
こうしてマーカスはくだんのブックフェアに出かけることになる。

かくして、マーカスはジョージを通じてジェイソンという半身と「再会」を果たし、ジョージとマリーはマーカスを通じてお互いの半身を得る。

よかったよかった。

出来すぎた偶然性を利用した人工的な脚本でしょうか。
ディケンズ好きのアメリカ人肉体労働者、イギリスの出版社から英語で書いた著作を出版することになるフランス人ジャーナリストというのは、違和があるかもしれない。でも、まあそれは黙過し得るものでしょう。
しかし、自分と同じ里親に養育された元里子がたまたま警備員になっていて、まさにこのブックフェアで警備に当たっているというのは、あとから付け足したような印象は否めない。
ま、仕方ないんじゃないの、と思う。
ジョージとマリーの接点を作るのは困難ではないが、二人とマーカスとのつながりを生み出すのはそう簡単ではない。出会いの場所をイギリスはロンドンにすることで第一関門はクリアできる(マーカスに空間的に近づく)。次の一手にアクロバティックな偶然性を用いるのも仕方がないところでしょう。マーカスを本好きのブッキッシュな少年という設定にするわけにいかないし(それじゃジョージとキャラが被るし)。

しかし、違和の本質はそれと別のところにある。そしてそれはこの映画に伏流する「母性」のモチーフにかかわるものなのである。

マリーは硬派TV番組のキャスターという仕事を失い、臨死体験について本を著すということで政治ジャーナリストの名声も失う。恋人も失う。

しかし、マリーの喪失感の淵源は、津波で手を離して死なせてしまった少女にあるはずである。
冒頭の津波のシーンとマリーの臨死体験におけるヴィジョンで優れて痛切なのは、少女の小さな手を離してしまったことと、直後にマリーが目にした死者たちのたたずむヴィジョンにその少女が登場するところである。

少女を助けられなかったことがマリーにとってトラウマティックな体験となるはずだと私は思う。
しかし自身も死にかけたこと、そして臨死体験のヴィジョンをかいま見たことが前景化され、マリー自身はもちろん物語自体が少女のことをすぐに忘れてしまう。

ひどいね。

まあ、マリーは許してあげる(自分も生死の境をさまよったんだし)。
しかし物語が健忘症に陥ってはいかんね。

冒頭に描かれた少女の死は、この物語が暗に言及し続ける「母性」の失敗に他ならないからである。
そもそもマリーは、恋人のディディエがいらないと言うのを聞かず、彼の幼い娘のためにおみやげを買うためにホテルを出て津波の直撃に遭う。
バカンスで逢い引きをしている相手の娘のために、おみやげを買って帰ることにこだわる彼女の行動は、一見したところ不可解である。
しかし、失敗した母性という観点から見ればなんら不思議はない。
マリーはディディエの娘の母親たることを願望し、母親の代役を演じているのである。

街路を押し寄せてくる津波を目にしたマリーは、売店の少女の手を取って逃げる。立ちすくむ母親の代わりを務めるかのように、見ず知らずの少女の手を取るのである。
したがって少女の死は、マリーの代理の母親としての失敗を意味するのである。
そこにディディエの娘に対する母親役割の失敗を重ねて見ることもできる。
マリーは売店の少女が抱いていた縫いぐるみと「同じもの」をディディエの娘のために買おうとする。彼女が少女を救おうとするのは、少女にディディエの娘を重ねているからでもある。

そして、マリーは奔流のなか握った少女の手を離してしまい、少女と縫いぐるみは水にのまれていく。
少女も縫いぐるみも死者の世界へと運ばれ、マリーの臨死体験のヴィジョンには少女とともに縫いぐるみも登場する。
こうしてマリーは二重の意味で母性に失敗する。少女の死と、象徴的な意味でのディディエの娘の死。二人の少女の「母親」としての二重化された失敗。マリーとはすなわち"childless mother"なのである。

この物語は冒頭でみずから提示したこのモチーフをすぐさま忘れてしまう。
マリーの臨死体験におけるヴィジョンは、幸福で静謐な来世の瞥見として追想される。
しかし、キャリアや恋人や名声の喪失よりも、縫いぐるみを抱いた少女の死こそ、マリーの最大の喪失感の原因であり、物語を動かす最大のモチーフとなるはずだった(のになっていない)。

マーカスの母親ジャッキーはドラッグ・アディクトでアル中だが、けっして悪辣な母親ではない。双子の息子たちに愛情を注いではいるが、それは空回りしてすべてがうまくいかない。
そこに見られるのは決して母性の欠如ではなく、やはり母性の失敗と呼ぶべきものである。

この映画はジャッキーを通じて失敗した母性を描き、マリーを通じて果たされなかった母性を描く。
Ah, those childless mothers!

返す刀で父性は物語から徹底的に排除される。

ジャッキーはシングル・マザーで、双子の少年たちには当然のように父の影はない。
マーカスの父親役割を担っていた兄ジェイソンは事故死していなくなる。
ロンドンの地下鉄テロがあったとき、生前ジェイソンが被っていて今ではマーカスが手放さない帽子が風に吹き飛ばされ、それを追いかけたマーカスは電車に乗り遅れて一命を取り留める。
それが自分がマーカスのためにしてあげられる最後だと、ジェイソンはジョージを通じてあの世から語る。

そしてマーカスにもう自分の帽子を被ってはならないと命じる。もう自分を頼りにせず、自身の力で生きていくようにと。
このようにジェイソンの言葉を伝えるジョージと、じっと耳を傾けるマーカスの関係は、案に相違して「父子関係」の代理表象になることもないのである。

父性の排除のもう一つの例は、ジョージの恋人となりかけたメラニー(ブライス・ダラス・ハワード)とのエピソードである。
メラニーはジョージの異能力を自分にも試させてほしいとせがむ。不承不承応じたジョージが死者の世界から召喚したのはメラニーの父親であり、彼女が幼いころに父親によって虐待されていたことが示唆される。

ディディエには娘がいるが、イケメン中年男の彼は女たらしの辣腕ディレクターという人物造形のみが際立ち、父親らしさというものに著しく欠ける(彼の娘も最後まで画面に登場しない)。

ジョージの兄ビリーには娘たちがいるが、子どもたちはつねに遠景にある。子どもたちの父親としてのビリーの姿が前景化することはついにない。

エンディングで強調されるのもやはり母性である。
マーカスのおかげでジョージとマリーは再会し、二人は手をつないで去っていく(マリーちゃんもう手を離しちゃだめだよ)。
いかにもありがちなエンディングである。

と思ったら映画はまだ終わらない。

エンディングはその次のシーンである。
病院の面会室でマーカスが母ジャッキーと再会する場面で映画は締めくくられる。

この映画は"childless mother"を強調することで始まり、"motherless child"と"childless mother"が再会するシーンで終わるのである。

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*中条省平「二十一世紀のイーストウッドは十字架の彼方に」『クリント・イーストウッド――アメリカ映画史を再生する男』(ちくま文庫、2007);「二一世紀のイーストウッドは十字架と化した」『ユリイカ』5月号(2009)
by mewspap | 2011-03-06 17:26 | シネマのつぶやき


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