人気ブログランキング | 話題のタグを見る

シネマのつぶやき:『ディア・ドクター』――中心にある空虚の屈託(その2)

都会のうつけ者、事故に遭う
原型的なよき物語には、主人公に寄り添って支える「補助者」役の人物が(ほとんどまちがいなく)登場する。
すでに触れたように、この映画でそのような役割を担うのは、大竹看護師と製薬会社の斎門である。

二人を特徴づけるのは、この地域で他に見られない特異な技能を有していること、そしてリアリストとしての性向である。

救急医療の現場で看護師を勤めた経験のある大竹が、専門的な技能を有していることは言うまでもない。
しがない営業担当の斎門は、さまざまな医療現場に関する知見と医薬品に関する知識を有するだけでなく、外部のネットワークを持っている。

そして二人ともリアリストである。



大竹のいたのが救急医療の現場だったということは、彼女がかつて都会の病院に勤めていたことを示唆している。
医師である夫と離婚し、おそらく故郷であるこの土地に帰ってきて、診療所唯一の看護師として働きながらひとり子育てをしている。
こういうバックグラウンドの女性が現実に対するクールで透徹した視線を持っていることは想像に難くない(もうぜんぜん難くない。脳天気な天然呆けなんかだったら即座に生活破綻をきたすであろう)。
彼女は都会と医療現場の内実に知悉し、生活の窮状を経験し、人生の限界を静かな諦観をもって受容している。そして、農村の住人たちの内実も知っている。

斎門は各地域を回るしがない営業担当であり、まさにそのことが彼を書生的な理想論からもっとも遠い人間にしている。彼はしばしば実人生に疲れた卑屈でシニカルなまなざしを投げる(香川照之くんにぴったし)。
そして大竹と同じく、田舎の老人たちがどのように思考し行動するか、その実際にも通暁している。

実態は空疎にもかかわらず、「神さんより仏さんより」地域で敬愛される有能な医師を成り立たせているのは、この二人の技能とリアリズム、そしてそれに基づくプラクティカルな事態対処に他ならない。

しかし、偽医者が補助者の支援によって無医村に献身的な貢献をし敬愛されるという閉じた物語は、このままで終わることはない。というかそれでは何も動き出さず、物語は始まりもしない。

繰り返し述べているように、よき物語は欠落から始まる。
そしてその欠落を用意するのが、閉じた世界に攪乱をもたらす異要素である。

閉じた世界に攪乱をもたらすものはつねに「外部」からやって来る、というのが物語の約束である。

都会からやって来たうつけ者、若く無知で金持ちのぼんぼんの苦労知らずで人の好い、ほとんど類型的な「現代の都会の若者」を物語は召喚する。

研修医の相馬啓介(瑛太)の登場の仕方は、都会のうつけ者の記号を過剰なまで布置したものである。

緑が広がる田んぼにはさまれた狭い農道を、真っ赤なスポーツカーが乱暴に突っ切る。
このカラフルなミスマッチこそまずは啓介を特徴づけるものだ。
左ハンドルのオープンカーのスピーカーからはドラム&ベースの大音量。
長髪にピアスの啓介は、左脚をダッシュボードに載せかけ、携帯電話で友人と大声で馬鹿話をしながら無謀な運転をする。

そして事故る。

なぜか。

事故に遭わなければならないから。

啓介が遭遇する(みずから招来する)事故は通過儀礼であり、彼はすみやかに「越境」を果たす。

都会のうつけ者は、彼を成り立たせるさまざまなものを、まず奪われる。
真っ赤なスポーツカーはポンコツとなる。
携帯電話はどっかにすっ飛び、カーステは沈黙し、ノンシャラントな若者の馬鹿づら仮面は剥奪される。
啓介は脳震盪を起こして気を失う。意識の喪失はそれまでの(都会のうつけ者としての)自我の喪失である。

診療所のベッドで目を覚ました啓介は、さまざまな治療を受けている地域住民たちに囲まれている。
カメラはその一人ひとりを映し出すが、みな一様に無表情で、そのまなざしは何も語らない。誰ひとり、口をきくこともない。
こうして啓介は「言葉の通じない」世界に放り込まれる。彼がこれまで慣れ親しんできた(都会のうつけ者としての)自己中心的な考え方も、態度も、言葉も、まったく通用しない異世界で彼は目覚めるわけである。

肝っ玉母さんふうの看護師の言動は彼の理解の外であり、診療所の医師はあろうことか犬の診察をしてその症状の診断を下している(ように最初は見える)。

こうして外部の異要素は、あっと言う間にこの世界へとイニシエーションを強いられる。

よき物語は欠落から始まる。
その欠落を準備する外部の異要素が導入される。
もうほとんど自動的に、物語が動き出す。

考えたら「外部からの来訪者」は啓介ひとりではない。
大竹もそうだし、斎門もそうだ。
かづ子の娘のりつ子も、今では外部の人間である。いや、伊野自身、実家のマンションを映したショットを見る限り、そもそも都会からやって来た異邦人だった。

この映画は、日常が永遠に反復しているような閉じた農村に、次から次へと「外部からの来訪者」がやって来て、すったもんだする物語だと言うことができる。
内部の秩序は攪乱し、外部の者はやがて去ってゆく。
そして内部にありながら常に疎外された「内なる部外者」である村のうつけ者が、ひとりハーモニカを吹いて終わる、そういうお話なのである。

二つの父子関係を隠した疑似父子関係
この映画は二つの父子関係の失敗に基づく「疑似」父子関係の形成を描き、そして(やはり)その失敗を描く物語だと言うことができる。

後景に隠れているのは、伊野とその父親、そして啓介とその父親という二つの父子関係である。
前景に露出しているのは、伊野と啓介の疑似父子関係である。

伊野と啓介が、それぞれに父子関係に失敗した息子であることは、映画の背景に暗示された物語として垣間見ることができる。

伊野は父からペンライトを盗み、医師である父に憑依することによって、父の地位を象徴的に奪う。
彼は医学部卒の医師という、父の学歴と経歴を詐取するのである。
そもそも、かつて伊野が父の仕事に近接した仕事――医薬品メーカーの営業担当――に就いていたのはなぜか。
そして医師を詐称し、父を「模倣」した偽医師として医療活動に従事していたのはなぜか。
ファザコン以外に考えられんでしょ。
その屈託からは、彼が医師である父の期待を裏切って、自身は医師になれなかった「馬鹿息子」であり、父の承認を得られず/父の承認を求め続ける、父子関係の失敗者であることが読み取れる(読み取れるでしょ)。

啓介に関しては、もうほとんどソープ・オペラと言っていい類型的な物語が見え隠れする。
彼は金持ちのぼんぼんの馬鹿息子として物語に登場する。
一介の医学生にあんなスポーツカーは買えんでしょ。金持ちのパパに買ってもらったんだよね、坊ちゃん。
なるほど啓介は、医師であり病院長である父の期待を裏切らず、医大に入って医者の卵となった(むろん塾のお金も受験料も入学金も学費も全部パパに出してもらってだよね、坊ちゃん)。
啓介は拝金主義者の父を蔑み、同時に自分がこうしてあるのは父の拝金主義のおかげであることを知っている。したがって彼は、蔑視する父のおかげで今の自分があることを憎むのである。
彼は父の期待に添うことしかできず、そして父の期待に添うことがすなわち敗北なのである。こうして啓介も父子関係の失敗者を運命づけられる。

啓介は伊野のなかに、自分の父親とは対極にある理想像を幻視する。伊野に理想の父親像を投影するのである。
伊野が従事する地域医療に、「病院の跡継ぎ」という強いられた役割と異なるアイデンティティを求めるようになるのも、むべなるかなである。

二人のあいだには師と弟子の関係が、もっとはっきり言えば疑似「父子関係」が生まれる。
それが啓介が何よりも求めていたものであり、伊野がもっとも忌避していたものであろうことは想像に難くない。

父と子の関係を、都市と田舎の関係に置換する拡大解釈を試みることもできるかもしれない。

父なるものは、都市の病院の医師であり、中心を占める存在である。
だめ息子は、中心から排除された無医村における偽医者/研修医であり、周縁に生きる場を見出す。
いかにも唐突な解釈だが、医療をめぐる都市と農村こそ、この映画の基幹的なモチーフだったことを思い出せば、それほど奇をてらったものでもないだろう。

中心から逃げ出して世界の周縁に居場所を見出していた伊野は、ここにいたってはからずも自分をまた別の中心としてまなざす(「理想の父」と幻視する)啓介を前にして、またしてもとんずらをこくわけである。


あれ、まだ終わらないじゃないか。
どこまで行ったら締めくくれるのだろう・・・。

またね。
by mewspap | 2009-08-02 17:51 | シネマのつぶやき


<< シネマのつぶやき:『ディア・ド... 2009年のピンホール >>