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とことこと終わりが通り過ぎてゆく(Mew's Pap)

恒例の、最後の最終が、終わりました。

みなさんの健闘を祈る。
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by mewspap | 2008-12-29 09:16 | 2008年度ゼミ

「学生は終わる」のである(Mew's Pap)

エミさんが下に書いていることは要するに「学生が終わる」という感懐に他ならない。
毎年この時期、このような認識に到達する最初の人が出てくるときが、私の役目の終わりを教えてくれる。
ゼミ標語にも書いているように、「歴史」というものを俯瞰的に見るよう宿命づけられた私の視座からすれば、このように毎年さまざまなかたちで反復される言葉がいよいよ初めて表明される投稿の出現は徴候的である。これこそ、私がずっと待ちに待っているものなのである。

エミさんはつねづね「最初にする人」という流儀を貫いてきた(十分指導したので私はもー知らねと言われた「最初の人」となる「栄誉」も得た)。

したがって「学生が終わる」ということの意味の了解を最初に表現する役割が彼女に回ってきたのも、まあ、けだし当然であると了解される。

ずいぶん前に文学部HPのコラムに主として1年次生を念頭に書いたコラムで記したことの、「実はそういうことを書きながら何を言いたいのか」の本当の趣旨なんだけど(1年次生には決して分からないであろう)、それは4年次生向けに端的に言いたいことだったのである。つまり、きみたちは「学んで生きる」という名を冠した「学生」としての特権を、もうすぐ失んだよってこと。

そういう時期にいるんですよ、きみたちは。いや、ほんと。

饒舌でちょいとしゃべりすぎの私であるが、そろそろきみたちに言えることはわずしか残されていない。恒例の「年末年始行方不明」になる前に残された言葉はほんとにわずかである――みなさん、健闘を祈る。

教えるフェーズをそろそろ終えて、祈りのフェーズに入りつつあるのである。
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by mewspap | 2008-12-18 21:46 | 2008年度ゼミ

研究ノート11  (エミ)

とうとうゼミの皆に会えるのも数回になってしまいましたね。。

本当に4年間てあっと言う間なんですねぇ。。早い早い!!

こないだ下書き交換しましたね!

れ○ちゃんのは完璧すぎて、、まじ困りました。 何度見ても「直しようがない・・・」の一言です。
もう・・・むりやり見つけ出して直しました!!ワラ

しっ○のは、、直しすぎました。。 途中呼び出しまでして・・・申し訳ない!!でも一緒にディナー出来て、ついでに語れて、楽しかったぁ☆☆ワラ

自分のが返ってくるのが怖いですーー・・・

みんな、後もう少し!!頑張って笑顔で卒業しましょ~ね♪♪ 
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by mewspap | 2008-12-18 18:42 | 2008年度ゼミ

可笑しゅうてやがて哀しき「←col.→」語コミュニケーション(Mew's Pap)

12月16日は久しぶりに全員参集して、恒例の「下書き交換会」。
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私も久しぶりに夕刻まで時間があったので、終了後も再訪してきたしっぽさんがびっくり眼に「え"!、そーなんですかぁあ」を連発するのにお付き合いする。

でも研究室訪問でその場に居合わせた3年次生たちが意表を衝く質問をしっぽさんの方に振っても、まったく動揺することもなく(ちょっと尻尾ふりふりしながら)意外な「大人のおねーさん」応答をしてくれて嬉しい。成長したね(涙)。

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by mewspap | 2008-12-17 21:11 | 2008年度ゼミ

研究ノート⑤序論 (silver)

序論

 映画に限らず物語は導入、展開、終結の三部で構成されるが、その中で製作者の手腕が最も注目されるのは終結である。映画の宣伝にラストを「予想もつかない」、「大ドンデン返し」などと表現したものが多く見られるが、それほど観客はラストに期待しているのである。
 本論文では、多数の映画作品のラストで見られる「夢オチ」について論述する。「夢オチ」とは、ラストに起こった出来事、または劇中起こった出来事を登場人物の見た夢や妄想であったとする手法である。「夢オチ」の手法は作者の手抜きであるなどと評されることが多いが映画の終わらせ方の一つの手法として本論では一定の評価を与えつつ、さまざまな作品についての考察を行う。
 本論文で中心的に扱う作品『25時』(25th Hour, 2002)、比較対象となる『ステイ』(Stay, 2005)、『未来世紀ブラジル』(Brazil, 1985)、『マルホランド・ドライブ』(Mulholland Drive, 2001)は全て「夢オチ」である。これらの作品に共通するのは、主人公が自分の夢を実現することができないという点、現実から逃避するために夢を見るという点、人間の極限状態における心理状態を描写している点、自らの人生を後悔している点である。それぞれの作品の登場人物が何を求め、何を失い、なぜ「夢」を見たのかを考察する。
 第一章では『25時』の主人公と彼の見た夢について考察する。麻薬密売の容疑で7年の刑を受けた主人公がラストで夢を見ることとなった経緯を探り、夢を見る結果となったのは自らの人生の後悔にあることを論証する。
 第二章では『ステイ』、『未来世紀ブラジル』、『マルホランド・ドライブ』を比較対象として『夢オチ』映画に共通して見られる点を考察する。それぞれの作品も『25時』と同様に主人公の人生の後悔が作品の重要な要素となっていることを論証する。
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by mewspap | 2008-12-13 22:51 | 2008年度ゼミ

研究ノート⑤ 序論 (Jutice)

 エドガー・アラン・ポー(Edgar・Allan・Poe)の生涯は、愛する者の死であふれている。幼少期に母を亡くすとその後も彼の前からあこがれの人、妻といったふうに愛する人を次々と失っていく。このように、実生活では苦悩と死への恐怖の連続であったが、一方で自らの愛する者の死や病気によって衰弱する姿を目の当たりにすることが、彼の作品の中に色濃く反映されている。また、ポー自身もこういった環境の中で精神不安定になり、かつ過度の飲酒と相まって幻想的な世界が描かれるきっかけになったことは間違いない。
 ポーの描く女性は、何者かによって暴力を受ける。彼女たちが暴力を受けるのは、彼らに恐怖をあたえるからである。その恐怖は、彼らにとって精神的に苦しいものである。彼らはその恐怖を克服し、心の安らぎや暴力的な欲求を満たすために暴力をふるうのだ。しかし、彼らは単に暴力をふるうのではなく、精神が異常ではないのかと感じさせるはど冷酷な人間を表している。ポーは、人間の心の底にある暴力的な欲求を描き、それを彼らの行動で示している。つまり、人間がいかに暴力的な生き物かを彼女たちに復讐する形で見事に表している。
 ポーの作品を語るにおいて死や恐怖は欠かせないテーマである。なぜなら、死の恐怖と戦い、苦闘する姿を描くことが彼にとっての美を表している。彼女たちは、恐怖を与えるだけの在在ではなく、死という形で作品の中に永遠化される。それは、ポーが実生活で得られなかったものである。また、ポーの作品の中で死んだと思われていた女性が再度、姿を現すのは恐怖をあたえるというより、彼女たちへの愛を表現するためである。
 本論文では、第1章で暴力と女性の関係を、第2章で死と女性の関係について主に考察する。
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by mewspap | 2008-12-09 09:09 | 2008年度ゼミ

序論 (なっつん)

 映画『スタンド・バイ・ミー』(Stand By Me, 1986)は、スティーヴン・キング(Stephen King)の短編集『恐怖の四季』(Different Seasons, 1982)に収められた、秋の物語The Bodyを原作としている。この映画は、4人の少年の成長物語である。死体探しを目的に、4人の少年が線路沿いを歩いて冒険旅行にでかける。旅の途中には町はずれの大鉄橋、夜の森、沼地など、様々な障害が待ち受けている。死体探しの旅での経験を経て、4人の少年は成長するのである。物語は、大人になった現在のゴーディ(Gordie Lachance)が、不慮の事故でクリス(Chris Chambers)が死んだということを知ったことをきっかけに、昔を振り返り、思い出を語っていくという形で進められる。
 本論では、この物語の語り手であるゴーディに着目する。死体探しの旅を経験したことで、子ども時代のゴーディがどのように成長したのかを考察していくと共に、最終的に、映画と原作、それぞれの主人公の描かれ方を見る。映画では、語り手であるゴーディが主人公として描かれている。一方、原作The Bodyはというと、作者のスティーヴン・キング自身が「ゴーディをナレーターだととらえていた」「クリスが悲劇の主人公だと考えていた」と、語っている。しかし、果たして本当に原作の主人公はクリスなのだろうか。実際は、原作においても、語り手であるゴーディがクリスたちとの思い出を語ることで、自身の成長物語を書いているのではないだろうか。映画『スタンド・バイ・ミー』をメインに、ゴーディと彼の親友クリスに注目し、映画、原作ともにゴーディが主人公としての語り手であることを論じていく。
 第1章では、語り手であるゴーディに着目し、死体探しの旅を経験したことによってゴーディの心境がどのように変化したのかを考察する。
 第2章では、ゴーディの親友であるクリスの存在に注目し、クリスの存在がゴーディにもたらした影響を考察する。
 第3章では、第1章、第2章をふまえて、映画と原作の語り手と主人公について考察する。
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by mewspap | 2008-12-08 14:31 | 2008年度ゼミ

佳境入りを宣す(Mew's Pap)

郭公と鴬がうるさく唱和し始めた。
カッコウカッコウホーホケキョ。

佳境である。

昨年から、佳境にはブログのデザインが変わるようになった。
暖色系、というよりはパワー・カラー的な色合いから昂揚感を得て、エンジンふかしてアクセル踏み込むこと。
カッキョウ、カッキョウ、ぶんぶんぶぃーん。

オヤジギャグに脱力してハードディスクをクラッシュさせぬこと。
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by mewspap | 2008-12-04 17:37 | 2008年度ゼミ

研究ノート⑤序論

序論

  『プラダを着た悪魔』(The Devil Wears Prada, 2006)は公開と同時に若い女性を中心に大きな反響を呼んだ作品である。本作はローレン・ワイズバーガー(Lauren Weisberger)の同名の小説(2003)を脚色したものである。本作の脚本家であるアライン・ブロッシュ・マッケンナ(Aline Brosh McKenna)は本作の脚本についてオリジナルを尊重したと述べている。本作の筋書きの基礎は大筋でワイズバーガーの原作が尊重されている。しかしながら、登場人物の性格描写、エンディングに設けられた危機の2点については、原作と映画では大きく異なっている。本論文では、これら原作と映画の差異について考察・分析を行い、原作と映画でのアンドレア・サックス(Andrea Sachs)とミランダ・プリーストーリー(Miranda Priestly)に対する観客の印象の違いを考察する。
  第1章では、本作品のヒロインであるアンドレアの性格描写と言動を見ていく。彼女の周囲の人へ向ける言葉や思いを原作と映画で比較し、原作のアンドレアの方がより人間の汚い面をより多く持っており、映画のアンドレアの方がより田舎的で純真かつ素直な女性であることについて言及していく。
  第2章では、ヒロインの上司であるミランダの性格描写と言動をみていく。彼女の部下に対する言動や家族に対する思いを原作と映画で比較し、原作のミランダの方が単に嫌味な女性として描かれているのに対し、映画のミランダの方が弱い一面を持つ多面的で人間らしく描かれていることについて言及していく。
  第3章では、原作と映画でそれぞれに設けられたエンディングの危機の違いが、読者や観客に違う印象を与えていることを考察する。原作では読者の同情がアンドレアのみに向けられているが、映画ではアンドレアとミランダの両者に向けられている。そして原作ではミランダのような生き方を否定しているのに対して、映画ではミランダのような生き方を認めていることについて言及していく。
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by mewspap | 2008-12-03 17:59 | 2008年度ゼミ

研究ノート⑥(みきてぃ)

                                   序論                        
 
 2004年に公開された『シークレット・ウィンドウ』(Secret Window)は「分身テーマ」を主題としている。分身を描いた映画は数多くあるが、『シークレット・ウィンドウ』は、鏡、そして独特のカメラワークを用いた分身の描き方が特徴的である。
 主人公モート・レイニー(Mort Rainey)は郊外に一人で住んでいる。彼は髪の毛もセットせず、ぼろぼろのガウンを着ており、食事もろくにとっていない。このような荒んだ生活をしているのは、彼の妻エイミー(Amy)の不倫が発覚したことに起因する。すでに離婚協議を終えたにも関わらず、モートにはまだ未練があるのだ。そんな彼の最大の特徴はひたすら眠ることである。なぜなら彼には分身が存在し、モートが眠っている間に分身が活動するからである。
 エイミーの裏切りにより、モートは愛と憎しみの葛藤に苦しめられる。その葛藤が限界を超えたとき、彼の分身ジョン・シューター(John Shooter)を呼び込むこととなった。モートはエイミーを愛し、シューターは彼女を憎むことで、モートは葛藤から逃れた。そしてモートの分身シューターは、モートが眠っている間に活動し、放火や殺人といった罪を犯していくのである。そのように分身シューターを呼び込んでしまったのは、モートの特徴である、過剰な想像力を有していることや内的独白が多く、声だけの別人格が存在していることが深く関わっていると言える。
 シューターがモートであることは、カメラワークや鏡のモチーフにより浮き彫りにされる。鏡には自分自身が映っているのに、それをシューターだと思い込み、鏡を火かき棒で殴ってしまうシーンはその象徴である。
 映画のラストでは、モートはシューターに体を乗っ取られ、エイミーに対して憎しみしか抱いていないシューターは彼女を殺す。その目的を果たしてから、モートは変身する。髪をきれいにセットし、明るい色の服を着るようになる。またモートは、若い女性が登場する度に動揺していたのだが、ラストでは彼の方から積極的に若い女性に話しかけ、食事にまで誘うほどの変わりようである。
 映画の中のシューターは、モートが作り出した人物であり、モート以外には見えず、実在していない。頭の中で作り上げた架空の分身シューターは結局モートの体を乗っ取ってしまう。一方、原作『秘密の窓、秘密の庭』(Secret Window, Secret Garden)では、シューターの描かれ方が異なっている。まず、シューターはモート以外にも目撃されているのである。またモートがエイミーを殺そうとしていたときに、モートは銃で撃たれ、死んでしまう。しかし彼が死んだ後でもシューターがメモを残す場面があり、シューターがモートとは離れ、単独で生きていられるとされている。
 さらに分身シューターが現れた原因も異なる。映画では妻エイミーの不倫が主な原因として描かれている。原作ではモートが過去に小説を盗作したことが詳しく書かれている。彼は盗作したことを誰からも責められることなく、そればかりか売れっ子の作家になる。しかしモートが抱く罪悪感が消えることはなく、売れっ子だがデビューのきっかけは盗作という事実にずっと苦しめられていた。そんな中愛するエイミーの不倫が発覚し、モートは壊れてしまうのである。
 第一章では、主人公モートの人物像と、映画のラストで描かれている彼の変身について考察する。
 第二章では、分身の描かれ方に焦点を当て、モートの睡眠時間の多さや声だけだった別人格が実際に姿を現すこと、また分身を浮き彫りにする鏡のモチーフやカメラワークという四つの観点から論じる。
 第三章では、映画では分身シューターはモートであるが、原作ではシューターはモートではないという分身の描かれ方の違いや、分身を呼び込んだ原因が異なっていることについて考察する。
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by mewspap | 2008-12-02 06:32 | 2008年度ゼミ