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T.koujirou 仮スケルトン

卒論 仮スケルトン

戦争映画に見られる他者との出会い
―戦場と戦争終了前後における他者との出会いの違い―

目次
序論
第一章心理学における対人関係の作り方
 第一節自己開示と4つの領域
 第二節親密な関係を築くための条件
第二章戦場における他者との出会い
 第一節国によって与えられた他者のイメージによる他者と自己の自動化
 第二節兵機の進歩による他者と自己の自動化—極限状況での心理
 第三節『西部戦線異状なし』に見られる例外
第三章戦争終了前後における他者との出会い
 第一節『ジャスティス』における他者との距離
 第二節『スリーキングス』における他者との距離
結論

参考文献

 この論文では戦場と戦争終了前後の他者との出会いの違いを述べていくことを目的とする。そのためにもまず、原則として、人間は同じ人間同士なんらかの形で関わっていくことになるという前提に立ち、それは、人種、信条、性別を問うものではないことを確認する。
 よって、第一章では、現代の社会において、他者はどのように存在するのかを述べ、人間と人間が一般的にどのようにして対人関係を構築していくのかを、心理学の視点から明らかにする。ここの考察が、戦争がいかに人間を非人間化するものかを強調する前置きとなる。
 第二章では、戦場、つまり極限状況では、心理学の対人関係の構築は無く、それが不可能となる原因を各節で述べる。主な内容として、人間の自動化や機械に支配された人間、について述べ、自動化した自己が他者と出会うということを明らかにする。
 第三章では、戦争が終わる前後に焦点を当て、そのときの他者がどのように現存するのかを、映画『ジャスティス』と『スリーキングス』で説明していく。ここでの内容は他者との距離に注目し、自動化から回帰した人間が他者と出会う、あるいは、自動化した人間から回帰しながら他者と出会うということを明らかにする。
 結論では上記第二章、第三章で説明した、戦場と戦争終了前後の他者との出会いの違いをもう一度比較し、締めくくる。
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by mewspap | 2006-10-31 11:06 | 2006年度ゼミ

10月21日ゼミ写真撮影(Mew's Pap)

ゼミ写真撮影
d0016644_1322183.jpg真ん中で「白衣を着ている理系の人」が私(でも算数は苦手)。
なにゆえyuta、S.T.、Hanzoは来なかったのか。

写真撮影後、なにやらわらわらと参集し・・・
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合研での口頭発表の続き(なぜ彼はこんなにエラソーなのか)。d0016644_13351460.jpg

「今日もオレはきまっているゼ」(いや、ちがうんだってば)。d0016644_13363217.jpg

「えっと、えっと、えっとほぉ」(・・・)。
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「あたしゃ、まあ卒論なんざちょちょいのちょいでなんとでもなるけんね(たぶん)」(そですか)。
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ダンス・チーム登場(盆踊りと言った方がより適切であろう)。
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かくして秋はしんしんとして深まりゆき、締め切り日はちゃくちゃくと近づいてくるのであった。
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by mewspap | 2006-10-22 13:48 | 2006年度ゼミ

研究ノート5 (Adelaide)

 先週ゼミで家族や父親による子育てという方の本を読んでみたいと言ったので『家族学のみかた。』をという本を読んでみました。でも、先生が家族だとクレイマー、クレイマーから離れるかもしれないとおっしゃっていたし、心理学とかの本をまた探して読むのもなぁ・・と思ったので・・やっぱり、やめようかなぁ・・と思います。
 ということで(?)、今週は、クレイマー、クレイマーについて書かれている‘The New Woman at The Movie: Kramer vs. Kramer & Starting Over’、‘Kramer vs. Kramer A fraudulent view’、‘Kramer vs. Kramer vs. mother-right’の3つを読みました。
 前から、映画の中でのJoannaがすごくいらいらするという話をしていて、先週のゼミでもちょっとその話になったし、それに雑誌Working Motherの中の、クレイマークレイマーを見た人についての記事でも、やっぱり見た人たちは、ジョアンナはbad motherだと思うし、子どもを捨てるべきじゃなかったし、行くとしてもビリーにはちゃんと伝えるべきだったし、行くのならもう子どもはもどらないと覚悟すべきだったと思っている。(とThe New Woman at The Movie: Kramer vs. Kramer & Starting Overの中に書いていました)。なので、なんでみんながそう思うのかということについて考えてみようと思ってこの3つを読みました。
 3つの中で批判されているのが、Tedが仕事と子育てにと行き詰っている時に、その怒りをまったく会社には向けていないということです。会社の上司は彼が子育てするのにすごく反対しているし、最後には彼をくびにするけれど、テッドは会社の体制とかに対する怒りを表す場面はあまりないと思います。結局、仕事と家庭というのは完璧に2分されたものなので、自分がBillyのために時間をさいて仕事を100%できなかったから、くびになった。だからある程度はしょうがないと思っているのかなという感じがしました。そういうのもあって、すべて悪いのは母親業を捨てたジョアンナという風にみえてくるのかな、と思いました。
 それと、ジョアンナが人間性をほとんどもたないように描かれているという点も指摘されていました。ジョアンナが、人と触れ合うシーンは、最初のBillyにさよならをいうシーンと、ビリーと公園で過ごす時抱き合う場面しかありません。そして、ビリーをこっそり覗いているシーンは不気味だし、テッドが目をそらした隙にぱっと消えてしまい、魔女のような気もします。いつも、1人ですごく孤立していてちょっと気持ちが悪いです。それに対してテッドは最初、ワーカホリックやったけれど、どんどん人間らしさとか暖かさとかがあふれるシーンばかりになってくるし、という風にまったく逆のように描かれています。だから人間的な場面がほとんど描かれてない不気味なジョアンナと、そうでないテッドの2人がでてきて、みんながテッドに心を奪われるは当然ですね・・。
 母親=子育てという風なのは、女性が出産できる性だからという事実から産まれた思い込みだと言われているけれど、やっぱりみんながそう思っているわけで、母親が子どもを捨てるということはそれだけですごく悪いと思われると思います。その上、こういう風にジョアンナが描かれたら、彼女が非難の対象になるのはしょうがないと思います。こんな風にジョアンナが描かれたのは意図的なものがあったんじゃないかなと思います。この映画でジョアンナはすごく否定されているし、バックラッシュが起こっていた時代だから、家族を捨てたらえらいことになるぞっていうメッセージがやっぱりあったのかなと思いました。
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by mewspap | 2006-10-18 18:04 | 2006年度ゼミ

研究ノート4 (Adelaide)

K・ローゼンソール/H・ケシェット(小池美佐子/大場昌子訳)『シングル・ファーザー――子育てをする父親たち』(人文書院、1988) かなり古そうだったんですが・・読んでみました。原書は1981年にアメリカで出版されたもので、離婚を経験し子育てをすることになったシングルファザーを対象にしたケーススタディの本だそうです。「第三章 子育てをする父親たち」では、父親が、子育ては母親がという風潮と子どもをある意味一方的に押し付けられた中で、どのようにして子育てに苦痛を感じなくなるのかということについて書かれていました。

父親は、子育てを通して自分自身を再認識していくようです。最初は、子どもからの要求は一方的で非論理的であって、父親にとってはまったく理解しがたいものです。そのため、最初は、別れた妻、または女性の友人などの意見に頼りがちになります。しかし、徐々に時間がたつと自分の中にある子育ての能力に気付き、彼女たちの意見から自立していくようになります。自分の能力を評価してくれる相手を妻から子どもへと移すのです。その後、父親は、自分は子どもの愛情に、子供は自分の世話に、という相互依存の関係に気付いていきます。そして子どもへの認識を、彼を評価してくれる相手から、一人の立派な個人という風にかえていきます。子どもと向き合うことで、最初は非論理的で理解不可能であった子どもの感情や行動は、かつては自分自身の行動であったということに気付いていきます。これによって、父親は、自分自身とも向き合うことになり、自分自身の内面を知り、自分を成長させることができるのだそうです。このように、子育てを通じて成長した父親は、子どもとどう付き合うか、子どもは逆にどのように自分の個性と付き合わなければいけないかを決めることのできる基準のようなものを確立することができるので、子育ての中に仕事とおなじような満足感を得るようになるんだそうです。

離婚して、1人で子育てをすることは、父親の成長の契機となるということについてはあんまり考えたことがなかったのでそうなんだ~という感じでした。クレイマー、クレイマーもテッドの成長の物語なのかな・・。でも、ジョアンナは、子育てをして自分を成長させ子育ての中に仕事と同じような満足感は得る、ということができなかったから出て行った。ということは父親と母親は内面的な成長の過程が違うのか?と思ったんですけれど、この父親の精神的な成長は、父親が仕事をしている状態でのことなので、そのへんの違いなのかな?とも思いました。それに、父と母の子ども時代、彼らの両親から男児と女児への関り方の違いが影響しているとも書いていたのでそれもあるのかなとも思ったんですが・・。結局あんまりよくわかりませんでした・・!
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by mewspap | 2006-10-11 20:36 | 2006年度ゼミ

研究ノート rin

メリン神父について簡単に紹介します。
メリン神父は、物語最初ではイラクで発掘作業に関わっていました。しかし、悪魔の頭の破片を発掘現場から見つけるなど、不吉な予兆を感じ取り、再び悪魔と戦うことになるのだろうと覚悟します。(メリン神父は、以前に悪魔と戦った経験がありました)その予兆どおりに、メリン神父はリーガンの件でアメリカによばれます。そして心臓が悪いメリン神父は、リーガンにとりついたパズズという悪魔との戦いによって命を落とすのでした。
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by mewspap | 2006-10-07 12:41 | 2006年度ゼミ

研究ノート3 (Adelaide)

匠雅音『核家族から単家族へ』(丸善ライブラリー、1997) を読みました。この本には社会を歴史的に、農耕社会、工業社会、情報社会という3つの分類に分けてその変化とともに変わってきた家族の形について書かれていました。それをまとめてみます。

 農耕社会とは、産業革命が始まるまでの狩猟・採集、農耕・牧畜の時代をさす。この社会では、家が生産拠点であって、家と仕事場という分離はなかった。男性も女性もまた子どもも能力に差はあるが、共に生産労働に参加し、労働とは家全体におけるものであった。家事労働もまた、家全体の生産活動の1つとされ仕事として認識されていたし、子育ても男性と共に行っていた。このように、家族全員が生産組織であったため個人が個別に収入を得ることはできなかった。そのため、農家の耕作する土地の生産力の中では、家は何人でも働き手となる人間を取り込むことがでた。よって、この社会での家族形態は、祖父母や戸主の兄弟姉妹なども同じ家に同居する大家族であった。
 その後、産業革命が起こり、工業社会が始まった。農耕社会では家と仕事場は同じであったが、仕事場は外へと移動していった。そして、肉体的に強い男性は外に働きに出て行った。有償の職場労働が男性のものになると、無償の家事労働と子育ては必然的に女性の担当になっていった。そのため収入は家ではなく個人へと移っていった。個人として収入を得ることができるのは男性だけであったので、女性は結婚し男性の伴侶となり一生を過ごすしか道がなくなった。このように、生産労働をするものは1人となり、住居者全員が労働力ではなくなった。そのため、農耕社会のように家が多くの人間を抱えることができなくなり、外で収入を得る男性と家庭の仕事を引き受ける収入のない女性、という核家族の形に変わっていった。しかし、この核家族の中での女性の役割は技術が発達するにつれてあやふやになっていく。当初、家事は時間がかかり重要なものであった。しかし、電化製品などの登場で家事労働にかかる時間が大幅に短縮されたため女性は家事の中に存在価値を見出せなくなっていく。そして、子どもを立派に育てることに存在理由を求めていった。
 その後、コンピュータが導入されたことによって、肉体的に力があるものだけが生産労働ができるという時代ではなくなった。工業社会では女性は非力なため男性を外に送り出すことで生産労働を助けていたのだが、力に関係なく男性と同じように生産労働が行える情報社会にはいっていった。そのため、男性と女性は生きていくためには必ずしも夫婦として共に家庭を築く必要はなくなった。家事労働と生産労働を共にこなすことが可能になり、男女関係なく1人で生きてことのできる単家族が生まれた。子どもも夫婦がそろった家庭のもとで育てる必要がなくなり、親が1人で子どもを育てる単家庭も現れる。そして、この社会では生きるために一緒に同居するのではなく、一緒に生活するのが楽しいから同居するという形の家庭が生まれる。

『クレーマー、クレーマー』の時代は、情報社会だと思いました。でも、ジョアンナの仕事は、ビリーを育てることがほとんどだったので、子育てを主な仕事とする専業主婦が多い工業社会の形も残っていると思います。そして、この本でも女性が子育ての中に存在価値が見出せると思ったのは勘違いだったと書いているように、ジョアンナもそれを見出せなかったので出て行ったんだと思います。そして情報社会の中、1人でも生きていける収入を手に入れて、単家族をつくって帰ってきたんだなと思いました。その時に新しい恋人もできていますが、多分彼と結婚する時は仕事をやめて核家族にもどるんではなくて、単家族がよりそってできた家庭を築くんだろうと思いました。
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by mewspap | 2006-10-06 02:28 | 2006年度ゼミ

研究ノート (Adelaide)

本当に久しぶりの投稿になってしまいました。
前期から読むといっていた『Kramer vs. Kramer』の小説をやっと読み終えました。
大筋は、だいたい映画と同じですが違うところもあったのでいちようここに書いておこうと思います。

大きく違うなと思ったところは4つありました。

 1つ目は、小説の始まりはJoannaが家をでていくところからではないということです。これは映画の時間では描ききれないということもありますが、小説ではJoannaがBillyを産む場面から始まります。その後、TedとJoannaの出会い、Billyが産まれてからの生活についてかかれていました。Joannaの葛藤についての記述も映画にはほとんどなかったのですが小説では描かれていました。
 2つ目は、Tedが映画のようにまったく家事、育児に無関心な仕事人間ではなかったということです。小説ではJoannaと一緒にマタニティー教室のようなものに通っている場面も描かれていました。また、家事もできるだけ手伝っていました。さらに、Joannaが仕事をしたいといいだした時には、それに対しては反対しましたがJoannaの負担を軽くしようと、もっと多く家事や子育てを手伝ったりしていました。
 3つ目は、映画では象徴的になっているフレンチトーストを焦がしてしまう場面がなかったことです。上に書いたように、Tedは家のことがまったくわからない仕事人間ではなかったのでJoannaが去った後も家事についてトラブルはほとんど描かれていませんでした。仕事をしている間、Billyをみる人がいないので家政婦を雇っていますが、映画のようにまったく何もできないし、Billyともコミュニケーションがとれないというわけでもありませんでした。一般的に父親に期待される役割は果たしていた上に、母親の役割も背負わされて、頑張っているかわいそうな父と息子という感じでした。
 4つ目は、Joannaの職業です。映画では、裁判でBillyの親権を争う時JoannaはTedよりも高い年収を得ているキャリアウーマンとして描かれていました。しかし、小説の中ではそうではありませんでした。家をでてすぐの彼女が見つけた仕事はHertzでレンタルの手続きをするパートタイマーでした。その後は、Grand Central Racquet Clubで働いています。ここが少しよくわからないのですが、"I’m working for the Grand Central Racquet Club. Sort of a girl Friday."とかいてあるんですが・・。どういう仕事をしているのか、いまいちよくわかりませんでした・・・。

まだまだ細かいところはあるんですが大体こういうような感じです。4つ目は少しあやふやですが・・。
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by mewspap | 2006-10-05 03:56 | 2006年度ゼミ

研究ノート rin

図書館でアメリカの宗教についての本を探してきて、今読んでいます。悪魔や神を映画の中で今以上に深くみていくには、もっとアメリカの宗教について知らなければならないと思ったからです。
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by mewspap | 2006-10-03 19:20 | 2006年度ゼミ

ゼミ連絡(Mew's Pap)

◆ゼミ写真の撮影について
10/14を第一候補、10/21を第二候補に、ゼミの時間に写真撮影を予定しています。
この撮影に参加しないとちょとさみしい思いをすることになるので、ぜひともみんなで撮れるようにしましょう。
すでに連絡があったと思いますが、ryokoさんに幹事をしてもらってますので、彼女に至急連絡するように。

◆「10月および11月が勝負だぜ」について
先日の秋学期初回授業に参加した人にはきりきりとねじ巻きましたが、10月と11月が勝負時です。
木曜4限のオフィスアワーの時間もゼミに設定しますので、どんどん自動巻のねじを巻きつつ木・土の時間帯に研究室に来るように。

◆10/6(木)2限の2年次向け授業について
2年次向けの米文学作品研究ではアメリカ映画論をやっています。
今回は意表を衝いて『ダーティハリー』(1971)を取り上げ、さまざなな角度からこの映画を分析する講義をします。
猫元ゼミの学生は参加自由ですので、時間がある人はぜひ参加するように。
C301教室、10:40からの2限です。

咳はなかなか止まらんが、ようやく性悪な風邪も回復の兆しである。
気合い入れて秋学期に臨まなければならないのである。

以上。
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by mewspap | 2006-10-02 21:15 | 2006年度ゼミ

研究ノート10(YOKO)

夏休みは、
・『被服心理学』(日本繊維機会学会,1998)
・『服飾表現の位相』(昭和堂,1992)
・千村典生『増補戦後ファッションストーリー1945-2000』(平凡社,2001)
・パール・バインダー著,杉野目康子訳『ドレスアップ・ドレスダウン/人は何のために服を着るのか』(岩波者店,1988)
・ベス・ミルスティン・カバ/ジーン・ボーディン著,宮城正枝/石田美栄訳『われらアメリカの女たち/ドキュメント・アメリカ女性史』(花伝社,1992)
という5冊の文献に目を通してみたわけですが、結局どのような卒論にするのかということで、今週は昨年の卒論集を参考に見てみました。
夏休みに読んだ文献には、衣服はときとして言語以上の情報伝達手段となるということが結構書かれていて興味深かったので、映画中の衣服からのメッセージを読むということで、構造としては、一章では様々な映画を取り出してみて、別の章で50年代を舞台にした映画に絞ってみて、というような感じかな?とか考えてみました。内容としては、昨年のマルコムXについて書かれた論文の一部分で「服装に見る内面」ということが書かれていましたが、そういったことを全面的に、より詳しくといったような感じになるかなと思います。といってもまだまだ内容が薄く、はっきり定まりきらない感じなので、来週のゼミではここに書いたことと同じことを発表することになると思います。
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by mewspap | 2006-10-01 13:09 | 2006年度ゼミ