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T.koujioru 研究ノート6

今週は「極限状況にあるもの」について考えました。
 極限状況で起こることは、他者を非人間化することだ。極限状況に身を置かれたとき、人間が考えること、それは、自分の命をどうやって守るかということだ。自分の命を守るには、他者を殺さなければならない。しかし、原則として、人間は他の人間を殺さないものだ。そこで戦争行為や大量虐殺に入る前に、まず「排除」したい相手を非人間化する。そしてそのためには、自分が今から行なう行為を正当化するための理由づけが必要となってくる。他者を人間ではないと見なす理由づけは、自分だけではなく、国や時代も関連してくる。
 まず、国が自分たちの兵士の行為を正当化するために考えることは、いかにして殺人行為を愛国心へと転換させるかということだ。そのために、国は兵士に対し、敵国の悪いイメージをどうやって埋め込むかを考える。例えば、その相手を野蛮人としてみなし、アラブ野郎、黒ん坊、黄色野郎、吊り目野郎、邪教徒、偶像信者などと言い立てたり、敵を拷問者とみなし、その様子をポスターで表したり、噂を流したりすることで、兵士に敵国の悪いイメージを植えつける。自分による正当化としては、もちろん自己防衛ということもある。そして自国による敵国のイメージによる自身の正当化だ。
 戦争行為を正当化することで、他者を非人間化した人間は、その後殺戮を繰り返す。他者を非人間化するという行為が最も非人間的行為だと思うが、無自覚のうちに他者を殺していくうちに、自身が非人間化していることに兵士たちは気づかない。このように、極限状況の戦争真っ只中では、他者の非人間化と、自分の正当化、そして自身の自動化が起こる。こういった状況では他者と理解し合うことは不可能に近い。
 しかし、かつては騎士道という言葉があるほど、英雄的な戦いがあった。次週は、それがどうして人が自動化してしまうようになったのかを調べてみようと思います。
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by mewspap | 2006-08-31 17:45 | 2006年度ゼミ

シネマの子つぶ:最近観たいくつかの映画の短評(Mew's Pap)

Coming Soon . . .

なお、「主宰王様編集長横顔」「投稿要領・投稿規定」カテゴリに、関連する過去記事を若干数リンクして掲げておきました。

映画関係の人は、「映画文献&サイト」を更新しましたので見てください。
映画関係サイトとして、「データベース/映画情報検索」「スクリプト」のオンライン・サイトをいくつか提示しています。
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by mewspap | 2006-08-28 16:28 | Mew's Pap

研究ノート6(YOKO)

今週は大学の図書館へ行き、ファッションに関する本を3冊ほど借りてきてみました。
来週できるだけ読みすすめたいと思います。
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by mewspap | 2006-08-27 16:53 | 2006年度ゼミ

よしなしごとのつぶやき:オープン・キャンパスの朝、JR車内ににジャケットを置き忘れる(Mew's Pap)

本日はオープン・キャンパスがあり、個別相談の高校生対応をする役を仰せつかったので出かける。

オープン・キャンパスで高校生諸君と直接お話をするのは2年ぶりである。

遠い自宅からの遠距離通勤に耐えかね、普段はTシャツにジーンズにスニーカーというオンボロないでたちを、「営業用」にして「勝負服」にして「戦闘着」と思い定めて通勤し授業に臨んでいるが、本日はさすがに多数の高校生のお相手をすることになるので、大人である本学学生に対するのと同じ格好もできぬかと(出勤前の約10秒ほど)思量をめぐらし、せめて上着を着ようとジャケットを持参する。

しかし、やはり慣れぬことはせぬものである

結局、暑いので羽織ることもなく、通勤のJR車内でも上着は邪魔なので棚に置いておいたら、大阪駅で下車するときにものの見事に置き忘れた。

JR御堂筋口の改札をくぐった瞬間に手ぶらであることに「あれ?」と気づく。

即座にきびすを返して改札口の案内係の駅員さんにお伝えしたら、20分あまりもあちこち走り回り、問い合わせ、探し出してもってきてくれた。すまない。

待っている間、改札を通り抜ける人々をぼうっと眺めて過ごす。
改札担当の駅員さんは二人いるけれど、ひとりは私のジャケットを探しに走り回ってくれているので、お客の対応はおひとりである。
1分間に10名以上の人が駅員さんに何か尋ね、通過していく。
曰く、○○特急は何番線から発車するのか、△△電車は何時に到着するのか、××に行くにはどの電車に乗ったらいいかそれは何番線から出るのか次は何時発なのか、新幹線経由の乗車券が自動改札を通らないがどうしたらいいか、券売機で特急指定席券は買えるのか、券売機はどこにあるのか、トイレはどこか、近くに何か食べることのできるお店はあるか・・・。

忘れ物のジャケットが到着するのを待つ20分ほどのあいだに、200名以上の人が突然到来してはきわめて多様な、そしてそれぞれに喫緊の要請を吐露して秒速の的確な返答を求め、「そして一言の感謝の言葉を残すでもなく」そそくさと去ってゆく。
ストレスフルである。私なら1時間ともたずにノイローゼになるであろう。

私のイメージのなかで、駅員さんというのは不機嫌な表情をしているのが常である。
しかしそれも致し方ないであろう。
不機嫌というより、疲れているのである、あれは。こちらとしては「ただひとつの質問」をしているだけで、それに駅員というプロフェッショナルから的確な対応を得るのを当然としていて、それが得られれば駅という「時間に追われる」場のしからしむところにより急いで次の目的地へと移動していくのであるが、そのような人間は私ひとりではない。
次から次へとそういう数多くの「私」がやって来て適切かつ瞬時の対応を求めているのである。

オープン・キャンパスはたいへんな盛況である。私は正門横の新会館でS崎先生とともに文学部のブースで個別相談に応じるが、みなさんの「後輩(予定者)たち」が続々訪れる。
全学部がブースを設けて学部別相談をやっているが、文学部は広いホールの一面を全部占拠している。壮観である。

10時始まりのはずが、前倒しですでに始まっており、2時過ぎまでノン・ストップで続く。
ちょっととぎれ目を見つけてようやく昼ご飯。凛風館に初めて入った。
お弁当をかっ込んだらすぐさまとって返して、4時終了のはずが5時前まで続く・・・。

ふう。

本日お相手した数十人の「未来の文学部生(候補)」で印象に残ったのは・・・ま、やめておこう。
高校生というのは、未だ他者を知らず、したがって我を知らない。
自分の視野がきわめて狭隘であるを知らない。
しかし愚かであるというのとは違う。
ほとんどタブラ・ラサのごとく、可能性の横溢する奇跡の時間を生きているのである。
奇跡を認識(realize)して実現(realize)するのは当人次第である。
そしてこの瞬間が奇跡であり、それを認識し実現するのが本人次第であるを知らないというのが、高校生の定義なのである。
大学生はまずそれを認識するのを本務とする。
あとは実現し得るか否かが、大学生となって卒業できるか否かを左右するのである。
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by mewspap | 2006-08-26 21:53 | Mew's Pap

シネマのつぶやき:『エミリー・ローズ』――女は強い法廷ジャンル

d0016644_111237100.jpg『エミリー・ローズ』The Exorcism of Emily Rose
2005年アメリカ
監督:スコット・デリクソン
出演:ローラ・リニー、トム・ウィルキンソン、ジェニファー・カーペンター、キャンベル・スコット、コルム・フィオール
キャッチ・コピーは「この映画はホラーではない、実話である」というものである。
実話に基づくということが何か映画的価値を昂進させるものとは思わないが、「ホラー映画」ではないというのには同意する。
これは「裁判劇」である。

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by mewspap | 2006-08-25 11:13 | シネマのつぶやき

T.koujioru研究ノート5

戦場の映画と捕虜収容所や戦後映画の違い

 戦場の映画と捕虜収容所や戦後映画の違い、それは「人間性の喪失とその回帰」である。
 この二つの時期の特徴をそれぞれ見ていくと、戦場の映画では、「人間の自動化」が起こる。人間の自動化とは、本人の意思いかんにかかわらず、特定の状態が引き起こされることである。自動化された人間は、機械化されたロボット兵のように虐殺、略奪を繰り返し、人間性を喪失していく。今死ぬかもしれないという状況に人が置かれた時、その場に、兵士としての誇り、尊厳、美意識は失われる。
 それに対し、捕虜収容所や戦後映画の特徴は、人間性の回帰である。極限状況を離れることで、人は理性を取り戻すことができる。自動化された人間でなくなることで、心を取り戻し、他者を理解することも可能となっていく。そして、この他者の理解は自己の理解にもなる。
 つまり、戦場と捕虜収容所や戦後では、人間性の喪失とその回帰が行なわれている。次回はこの違いが生じる理由の「極限状況にあるものと無いもの」を考察しようと思います。
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by mewspap | 2006-08-25 09:26 | 2006年度ゼミ

シネマのつぶやき:『空中庭園』――ここでもドア

d0016644_5475512.jpg『空中庭園』
2005年日本
原作:角田光代
監督:豊田利晃
出演:小泉今日子、板尾創路、鈴木杏、大楠道代
d0016644_54908.jpg去年、角田光代の原作小説を読んだけれど、虚偽の仮面に彩られた「何ごとも包み隠さず秘密をもたない」家族の、郊外団地の暮らしという閉塞的な物語に辟易した。
6章からなる小説は、それぞれ6人の人物が交替で語り手となる。
高校生の娘、中年の父親、母親、祖母、父親の愛人、中学生の息子。一人称語りなので、語り口は6人6様でたいへん技巧的である。
母親と祖母の凄絶な「母娘」関係と、過去の記憶の編纂というモチーフは、陰鬱ながらも衝迫力に満ちている。
それ以外は、それぞれの語りの中心モチーフとなるのが「オープンさを装う嘘だらけの家族の鬱屈」というもので、どうも苦手の部類に入る。「鬱陶しい」という言葉の字句通りの意味が頭をよぎる。

映画版はこれまた技巧的なゆらゆら揺れ、くるくる回転するカメラで、家族の表層の明るさに隠された不安定さを「いらだたしげに」表現している。

そして、あれれ、この映画でもやっぱり鍵となるのは「ドア」(およびそのヴァリエーション)じゃないか(『綴り字のシーズン』@シネつぶブログ2006-08-21参照)。

ドアを筆頭に、「通路」というのはなかなか興味深い記号となる。
それは「回路」であり「境界」でもある。
「こちら」から「あちら」への回路として、あるいは「内」と「外」を隔てる境界として、なかなか象徴的な意味を込めやすいのであろう。
「敷居をまたぐ」の流儀で通過儀礼の役割を担う場合もある。
ドアの内側が人の「内面」、外側が「現実」という象徴性を担う場合もある。

何よりも「通路」には両義性があり、出入りする回路ともなり障害ともなる。開かれた交通のものであると同時に、閉ざして交通を遮断するためのものともなる。外と内を隔てるものであり、出入りするものであり、出られず(監禁)、入れなく(閉め出し)するものともなる。

ということで、小泉今日子の熱演が目を引くけれど、この映画では再三再四登場する「ドア」図像が注目である。
その昔、徹夜明けの夏の早朝にコンビニで聴いたキョンキョンの「夜明けのMew」にはたいへん感動したのだが(なぜだかわからんが)。
夜明けのMew's Papである。みゅー。
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by mewspap | 2006-08-24 05:50 | シネマのつぶやき

よしなしごとのつぶやき――算数で「負けること」を考える(Mew's Pap)

一昨日、久しぶりに投稿した時間が12:55だったことには深い意味がある。
駒大苫小牧と早実の決勝戦再試合の開始が1時だったからなのである。

延長15回引き分けとなった前日の決勝戦と併せて、凄絶な死闘であった。ぱちぱちぱち。
そして夏の大会三連覇を目前にした「常勝」駒大苫小牧のナインが負けた。
トーナメントは残酷である。
勝者はたった1校の9人、ベンチ入りの選手を合わせても18人しかいないのだ。

地方大会を含め、今大会の出場校数は4,112校だったそうである。
したがって、4,111校が「敗退」したことになる。

平成17年度の学校基本調査によれば、高等学校数は5,418校なので、およそ76%の高等学校が出場し(へぇ)、かつ、ただ1校を除くそのすべてが「敗北」を経験したわけである。
ということは1校当たり18人の選手として、73,998人の高校生が「負けた」計算になる。

同じ調査によれば、高等学校に在籍する生徒数は3,605,242人なので、その76%ほどのおよそ274万人の高校生が「我が校が敗れた」経験をもつ。

「負け」こそ十代半ばの諸君が共有する「世代体験」と言ってよろしい。
それは将来に向けて大いなる糧となるであろう。
「勝ち組」「負け組」なんていうつまらん物語は早々に放擲し、「負ける」ことを通じて学ぶ新しい物語を紡ぎ出していただきたいものである。

ちなみに、早実は第一回大会以来90年、88回の大会に出場し、そのうち87回の「敗北経験」をもつ。
早実の歴代正選手の数に87という数字を掛ければ、いや、上の計算式に倣って正選手だけでなく歴代在校生に87という数字を掛ければ、「早実の負けたティーンエージャーたち」の数は・・・まあ、いいや。

早実の斎藤佑樹は24年前の「偉大な先輩」である荒木大輔(現在は西武ライオンズのピッチング・コーチ)に憧れて早実に入ったと言っていた。
荒木の甲子園出場は斎藤が生まれる6年前のことである。
リアル・タイムで観た私としては、月並みだが感無量である。クリシェを重ねれば光陰矢のごとしの感を強くするのである。
みなさん、人生は「速い」ですよ。
うかうかしているうちに、どっかのプロ野球チーム(かあるいは大リーグのヤンキースあたり)の「斎藤佑樹ピッチング・コーチ」に憧れて早実に入った野球児が、甲子園のマウンドで額の汗をハンカチにぬぐっている風景に、「感無量」だの「光陰矢のごとし」だのとつぶやく日がやって来るんだから。
いや、ほんと。
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by mewspap | 2006-08-23 10:38 | Mew's Pap

シネマのつぶやき:『綴り字のシーズン』――聖別された子ども

d0016644_12542158.jpg『綴り字のシーズン』Bee Season
2005年アメリカ
監督:スコット・マクギー、デビッド・シーゲル
出演:リチャード・ギア、ジュリエット・ビノシュ、フローラ・クロス、マックス・ミンゲラ、ケイト・ボスワース
知的で家族思いの「完璧」な父、美しく優しく聡明な母、頭脳明晰でチェロを奏でるティーンエイジャーの息子、そして愛らしくおとなしい小学生の娘からなる理想的な4人家族が、しだいに壊れていく物語である。

そして家族のなかで最年少でもっとも無力な幼い娘が、トリックスター的アクロバティックな振る舞いにより、危地に陥った家族を救済しつなぎ止める物語である。

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by mewspap | 2006-08-21 12:55 | シネマのつぶやき

研究ノート rin

映画『エクソシスト』をみて、カラス神父の変化について紹介します。
・カラス神父は、聖職者でありながらも精神科医の免許も持っていました。専門は悪魔祓いではなく聖職者の心理カウンセラーです。
・カラス神父は、自分が聖職者であり精神科医でもあったのに母親を救えずに死なせてしまいます。そのことが原因で信仰心がとても薄れてしまいます。
・カラス神父が悪魔憑きされたリーガンを初めてみたときに、医療処置を母親に勧め、悪魔の存在を信じなかったのは、自分が精神科医であったことと信仰心の薄れのせいであったと私は考えす。
・リーガンの身に起こる様々な超自然現象に立ち合うにつれ、カラス神父は悪魔の存在を認めていきます。
・メリン神父と悪魔祓いをするころには、リーガンが悪魔にとりつかれていることを完全に信じているように私にはみえました。
・母親に「娘は死ぬのか」と聞かれ、カラス神父は‘No’といってリーガンの部屋に戻っていくシーンではカラス神父のもとに強い信仰心と正義が戻ったように見えました。
・最後のシーンではカラス神父は自分に悪魔を憑かせて、窓から飛び降り、死んでしまいます。ここではカラス神父が自分の意思で飛び降りたのか、悪魔によって飛び降りさせられたのかによって解釈が変わってきます。

箇条書きですが、映画の流れに沿って書いてみました。
悪魔祓いをテーマにした映画には、科学の側から悪魔の存在を疑う人間、信仰心の無さから悪魔の存在を疑う人間、戦う神父、悪魔に憑かれた被害者、その家族など登場人物の立場にパターンがあるように思えてきました。
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by mewspap | 2006-08-20 21:59 | 2006年度ゼミ