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「卒論アーカイヴ」カテゴリの設置(Mew's Pap)

卒論アーカイヴのカテゴリを設置し、1995年以降の卒論タイトル一覧を記しました。
経年変化の観察はそれ自体おもしろいけど、蓄積はそのままデータベースとして未来における有効な参照枠となるでしょう。

卒論サマリーと相互レヴューを掲載する『卒業論文要旨&レヴュー』の表紙も掲げます。
2000年から始めてもう6年目になるが、初年度は表紙にタイトルさえ付していない。元々このレヴューというのは、その年に「プリンタ故障のため」提出が遅れた学生が2名もいて、学部執行部に私が呼び出されたのがきっかけで始めた。
いかなる理由があれども提出期限遅れは認めないというのが私の方針であったが(とんがってたんだね)、その2名をさんざ説諭した挙げ句に「通すつもりはない」と申し渡した。
そのように執行部にご報告すると、驚いたことに、逆に部長を初め執行部の方々より「教育的配慮」をもってことに対処するようご下命があったのである。

ううむとしばし考えて、当該の2名にはうちのゼミ生全員の卒論およびその年に私が書いた論文を読破しレヴューを書かせる課題を思いつく。
期間も短く課題量の多い作業であったが、この2名はなかなか読書好きで文章力もあったのでこなせるだろうと思ったのである。
そしてこれを機に各ゼミ生にも要旨を書かせて、要旨とレヴューのゼミ冊子を作成することも思いつく。

転んでもただでは起きない人なのである。

爾来、6年間続いている。

当初は要旨とレヴューだけのぴらぴらの冊子だったが、それでもコストは完全に私の持ち出しであった。
それが3年前より補助金が学部より支給されるようになったので、卒論本体も「余録」として載せるようになり、とつぜん分厚くなった。
このような冊子を(持ち出しなしで)作成できるのも、文学部長の慧眼とご英断のおかげである。昨年までは「予算かぎりあるゆえ先着順」ということであったが、今年は締切がずっと先に引き延ばされただけでなく、「先着順」の文言も消えていた。
さらなる洞見とほとんど蛮勇とも言えるご政断に謝するところ多なのである。

とは言え、卒論本体をお任せのハードカバー製本で「記念品」的な冊子を作成しているゼミは散見されども、ゼミの最終課題として要旨と相互レヴューを新たに書き起こして冊子のメインとするようなゼミは寡聞にして知らない。
これは多分に時間とエネルギーを要す骨の折れる手作業であり、毎年もう今年かぎりにしようと思いつつ、結局やっちゃうんだよね。
というか、今年はやらないと言う根性がないんだな、これが。
このブログがうまく展開してゆけば、ちょうど入試期間中にぶつかる時期のハードな作業はなしにできるかもしれないけれど。
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by mewspap | 2006-02-25 16:48 | 2005年度ゼミ

2005年度卒論(Mew's Pap)

標記カテゴリに全員の卒論の目次、序論、結論、注、参照文献をアップ完了しました。
思ったよりもたいへんな作業で、うう、こんな企画は提案しなければよかったと後悔しつつこりこりアップ。
来年は本人にしてもらうことにしようっと。

ミスタイプ等の訂正があれば連絡されたし。
自己訂正は不可なり。
削除することも不可なり。

文章を書くとは恥をかくことでもある。
すでにそのことに気づいた人は、その分大きな飛躍をしている。
読み直してみて、ううむなかなかよいではないかとほくそ笑んでいる人は、まだまだである。

文章を書くとはただひたすら他者に向けて/他者のためになされる営為である。
文章生産においては他者が内化されていなければならない。
すでに自分の独り言に過ぎないなと思う箇所に気づいている人は、その分大きな飛躍をしている。
読み直してみて、まだ私の言っていることの意味が分からない人は、チッチッチ、まだまだである。

ここで他者とは、具体的には、きみたちとって見ず知らずの来年度以降の後輩たちがまずその筆頭に挙げられるであらう。
ここに掲載されるは、すなわち晒され、餌食にされることを意味するかもしれない。
光栄なことではないか。
十二分にその栄誉に値すると私は確信するのである。
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by mewspap | 2006-02-24 16:08 | 2005年度ゼミ

Chiaki「盗みと嘘から生まれる擬似家族関係――Paul Auster, SMOKE――」

目次
序論
第一章 擬似家族を生んだ盗みと嘘
 第一節 オーギーと老婆エゼル
 第二節 ラシードとポール
 第三節 ラシードとサイラス
 第四節 フェリシティとオーギー
 第五節 オーギーとポール
第二章 表象としての空間
 第一節 エゼルの家
 第二節 オーギーの煙草屋とオーギーの家
 第三節 ポールの家におけるポールとラシードの距離間
 第四節 サイラスのガソリンスタンドでのラシード
 第五節 フェリシティの家
結論

参考文献

序論
 ポール・オースター(Paul Auster)が初めて脚本を担当した映画『スモーク』(SMOKE,1995)には、一般社会では悪行か犯罪だとされる盗みと嘘によってそれぞれが孤独であった人間同士に結びつきが生まれ、新しい人間関係が形成されてゆくさまが描かれている。登場人物たちは盗難事件が発端となって巡りあい、人物間にあった嘘や秘密を分かち合うことによって、まるで血のつながった家族のような関係、すなわち「擬似家族」関係を持つようになる。
 盗むという行いは、世間一般では刑罰に値する行為であり、人の信頼を裏切るものだ。同じように嘘をつくこともまた、相手を信用せずにだまそうとする行動である。物を盗むことと嘘をつくということは、人の絆を断ちはしても新しく人間関係を生むことはないはずである。しかし、『スモーク』では、逆説的に盗みと嘘を発端として孤独だった人間同士がまるで本当の家族であるかのような擬似家族関係を築いていく。
 本論文では、『スモーク』における嘘と盗みが、登場人物の関係性にどのような影響を与え、どのような機能があるかに着眼する。
 第一章では、登場人物を五組の人間関係に分け、それぞれを擬似家族と定義し、パートナー間の物語で表現されている嘘や盗みに関連する事柄を取り上げて分析する。嘘と盗みという反社会的な行動によって擬似家族関係が誕生した経緯を追い、五組の家族を取り巻く物語を比較し、共通点と相違点を明らかにする。そうすることにより、盗みが発端となって人間関係が始まり、嘘が露呈し、登場人物が持つ秘密をパートナーと分かち合うことによって、まるで本当の家族であるかのような絆を持つ擬似家族が誕生することがわかるであろう。
 第二章では、擬似家族を取り巻く物語に表れる空間と登場人物たちの距離間に焦点をあてる。登場人物たちが暮らす部屋や仕事場を彼らの内なる心の表象であると定義し、それらが示す登場人物たちの擬似家族関係の深まりを論証する。盗みや嘘から関係が始まる当初と、真実が明るみに出た後の人間同士の距離間を検証することで、盗みと嘘が擬似家族関係をより一層深めているということを明らかにする。

結論
 本論文では、孤独であった人々がそれぞれパートナーと出会い、血のつながりや人種の違いをこえて、まるで本当の家族であるかのような関係で結ばれる過程において、盗みと嘘がどのような影響を与えているかに注目してきた。オーギーとエゼルの場合は、オーギーの店でのエゼルの孫ロジャーの万引きが出会いのきっかけとなり、家族のふりをしてクリスマスを楽しむという嘘の演技が二人を擬似家族関係で結びつける役割を果たす。ラシードとポールとの出会いは、ラシードが強盗の落とした金を盗んで逃げ場を探していた時である。そしてラシードが嘘で隠していた真実をポールが受け入れることによって、二人の関係は実の親子以上の強いものになる。ラシードとサイラスが12年ぶりに再会した時、ラシードは偽名を使っていた。新しい生活をおくっていたサイラスと12年前にサイラスに捨てられたラシードは、ラシードが実はサイラスの息子トーマスであったことが明らかになった時、殴りあいという方法で親子関係を取り戻す。フェリシティとオーギーは、オーギーがルビーが隠していた50%の確率を信じ、元々はラシードが強盗から盗んだ金である五千ドルを渡すことで、二人の間は擬似家族関係で結ばれる。オーギーとポールの間には、盗んだカメラが撮った写真がきっかけとなりお互いに信頼しあう擬似家族関係が生まれ、オーギーはポールにカメラの秘密を打ち明ける。
 社会的に悪とされ、人の信頼を裏切る行為である盗みと嘘が、『スモーク』では擬似家族関係の誕生とその関係の深まりに必要な要素となっている。どんなに孤独な人間でも、血のつながりや人種の違いなど関係なく、共に信じあい秘密を共有することができる人がいれば、その人と家族のような関係を築くことが可能なのである。


(1)Paul Auster, SMOKE & BLUE IN THE FACE ( MIRAMAX BOOKS, 1995 ), p.96.
以下、本作品からの引用はこの版からとし、本文中にページ数を()で表記する。
(2)「ポール・オースター 孤児の再発明」,『ユリイカ』第31号一巻(新潮社,1999), pp.162-164.
(3)飯野友幸・編『現代作家ガイド1 ポール・オースター [増補版]』(彩流社,2002).
(4)Paul Auster, Ghosts(新潮文庫、平成七年)柴田元幸訳 pp.34-35.
(5)Wayne Wang, SMOKE (Miramax, 1995), chapter21.
以下、本作品からの引用はこの版からとし、本文中にチャプター数を()で表記する。
(6)Paul Auster, Auggie Wren’s Christmas story , 『SWITCH』 Vol.13, No.6 (Switch Publishing, 1995)p.60.
(7)同上, p.56.

参考文献
Paul Auster Auggie Wren’s Christmas story,『SWITCH』(Switch Publishing, 1995) pp.54-60.
Paul Auster Ghosts, (新潮文庫、平成七年)柴田元幸訳
新井敏記「ポール・オースター ブルックリン再訪」,『SWITCH』(Switch Publishing, 1995) pp.70-81.
飯野友幸編『現代作家ガイド1 ポール・オースター[増補版]』(彩流社, 2000)
伊藤淑子『家族の幻影 アメリカ映画・文芸作品にみる家族論』(大正大学出版会, 2004)
川口敦子「ハーヴェイ・カイテル ライフ・レッスン」,『SWITCH』(Switch Publishing, 1995) pp.34-50.
君塚淳一「信じる者は救われる」,日本マラマッド協会編『ユダヤ系アメリカ短編の時空』(北星堂書店, 1997) pp.366-377.
「ポール・オースター 孤児の再発明」,『ユリイカ』第31号一巻(新潮社,1999), pp.160-166.
筒井ともみ「映画と言語、あるいは、可視領域からインナーライフへ」『現代詩手帳 特集:ポール・オースター』六月号(思潮社,1993)pp.66-69.
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by mewspap | 2006-02-24 15:51 | 2005年度卒論

Hiroko「Amanda Brown, Legally Blondeにみる髪色の象徴性」

目次
序論
第1章 『リーガリー・ブロンド』のブロンド・ガールのイメージ
 第一節 エルとバービー人形
 第二節 ブロンド対ブルネット
第2章 アメリカにおけるブロンド・ガールのイメージ
 第一節 マリリン・モンローの影響
 第二節 ブロンド・ジョークについて
第3章 ステレオタイプの構築とその関係性
 第一節 登場人物の関係性と役割
 第二節 原作小説と映画のストーリー展開の違いから
第4章 コメディとブロンド・ガール
結論

参考文献

序論
 多様な人種が混在するアメリカ社会では、肌の色や髪の色といった外見で判断されることが少なくない。ブルネットの女性は知的とみなされ、赤髪の女性は情熱的であるというように、根拠のないイメージが一般に流通している。そのなかでもブロンドの女性は“dumb blonde”(1)などと言われるように、従来から頭が良くない弱者としてのイメージを背負わされてきた。本論文ではブロンドの女性の描かれ方を通して、現代のアメリカにおける髪色にまつわる象徴性を見ていくこととする。
 アマンダ・ブラウン(Amanda Brown)の小説『リーガリー・ブロンド』(Legally Blonde, 2001)は、ブロンドに対する典型的なイメージと対峙して行くことを主題においた作品である。ブロンドの女性は賢くないというイメージに反し、知性のある主人公が登場するのだが、このような物語は数少ない。『リーガリー・ブロンド』は、現代アメリカにおいてブロンドの女性であることが、周囲の人からどういったイメージを持たれるのかが顕著に表されている作品である。この小説と、この小説を原作とする映画『キューティ・ブロンド』(Legally Blonde, 2001)から、現代のブロンドの女性のイメージを読み解いていく。
 かつて「ブロンド神話」と呼ばれるものがアメリカやヨーロッパにはあり、ブロンドの女性は優れたものとして憧れの対象となっていた。ところが、ブロンドのイメージは徐々に変化していった。ブロンドであることは美人の絶対条件であったが、美人が必ずしもブロンドだとは限らなくなったのは、16世紀後半からだと言われている。数百年の間に髪を染める技術も進歩し、科学技術だけでなく人々の価値観や美意識も変わってきたが、ブロンドと美女との関係性が切れることはなかった。それどころか美人というイメージのほかに、頭が弱いとか、性的に魅力的であるとか、髪の色と何ら関係のない身体や内面の特徴も結び付けられるようになっていったのである。そして今日のアメリカでのブロンドの女性のイメージは、「美人だけれど頭が軽い」というように否定的な意味をもつことが多くなっている。
 本論では、髪の色の象徴性について、ブロンドの女性のステレオタイプとその描かれ方を通して論じていく。第一章では、『リーガリー・ブロンド』のブロンドの女性像を、主人公エルを通して浮き彫りにする。周囲の人々からブロンド・ガールのステレオタイプとみなされるエルの外見と、エルの内面とを比較しながら論じていく。第二章ではアメリカのブロンド・ガールのイメージについて、マリリン・モンローとブロンド・ジョークを取り上げて論ずる。第三章では作品中の登場人物とストーリー展開の点から、ステレオタイプの構築とその関係性を論じていきたい。原作小説と映画版における、登場人物とストーリー展開の相違点について言及しながら、エルのブロンド・ガール・イメージとの結びつきについて考察する。第四章では、『キューティ・ブロンド』と同時期に製作された作品や、『ハッピー・ブロンド』(Totally Blonde, 2001)等を参考に、コメディとブロンド・ガールとの関連付けの論証をしていくこととする。

結論
 アメリカ文化にみられる様々な固定観念のなかから、髪の色にまつわるものとして、『リーガリー・ブロンド』のブロンド女性のステレオタイプを通して、髪色の象徴性を論じてきた。ブロンドの女性は「少し頭が悪いが、優しい性格のグラマーな美人」というステレオタイプで描かれ、映画や小説のなかでそのイメージが利用されてきたのである。
 元来、美人の条件とされたブロンドの髪のイメージは、時代と共に変化してきた。マリリン・モンローをはじめとする、セックスシンボルと呼ばれた女優たちによって、ブロンドのイメージは性的な魅力をさらに高められ、ブルネットとの対比によって、否定的な意味をつけられることとなった。映画製作者はそのイメージを利用して、ステレオタイプを流布してきた。構築されたステレオタイプは大衆に広まり、ブロンド・ジョークといったものを作り出していったのである。そして、それらを反映したイメージが、再び映画の中に戻っていくのである。その循環のなかで、ブロンドやブルネットには、新たなイメージが付与され、髪色による象徴性が強化されていった。
 髪の色によるイメージの、特に美醜や優劣といった価値観は、他の色との対比や強調によって、絶えず変化するものなのである。


(1)「美人だが愚かな女」だという言葉。ブロンドの女性への軽蔑の言葉。
(2)高橋裕子『世紀末の赤毛連盟~象徴としての髪』(岩波書店、1996)pp. 33-34
(3)同上、p. 51
(4)春山行夫『髪 おしゃれの文化史2』(平凡社、1989)pp. 59-60
(5)高橋裕子『世紀末の赤毛連盟』p. 34-35
(6)ステレオタイプと現実との関係性については、上瀬由美子『ステレオタイプの社会心理学―偏見の解消に向けて―』(セレクション社会心理学21)(サイエンス社、2002)を参照した。
(7)モリー・ハスケル『崇拝からレイプへ-映画の女性史』(平凡社、1992)p. 304
(8)プロダクション・コードとは、映画制作倫理規定のことである。アメリカ映画製作者配給者協会(MPPDA)が、ハリウッド映画の中での、過激な性描写や暴力描写などを規制するために1930年に設定した規定。業界の自主規制のため、特に処罰規定などはない。
(9)モリー・ハスケル『崇拝からレイプへ』p303
(10)同上、p305
(11)秋田昌美『セックス・シンボルの誕生』(青弓社、1991)p. 33
(12)同上、p. 35
(13)ブロンド・ジョークの起源については、クリストファー・ベントン著 渡辺順子訳『イギリス人に学べ!英語のジョーク』(研究社、2004)p. 171を参照した。
(14)同上、p.172
(15)http://www.humorsphere.com/sms/dumb_blonde_jokes.htm
(16)http://www.ajokes.com/index.html

参考文献
荒俣宏『髪の文化史』(潮出版社、2000)
宇野久夫『髪型の知性』(紀伊国屋書店、1978)
亀井俊介『マリリン・モンロー』(岩波書店、1987)
クリストファー・デイビス、安部 剛『エスニック・ジョーク 自己を嗤い、他者を笑う』(講談社、2003)
J.ディッキー、 T.ストラトフォード、 K.デイビス編(井上輝子訳)『メディア・セクシズム‐男がつくる女‐』(垣内出版社、1995)
鈴木進、岩田道子、L.G. パーキンズ『アメリカン・ユーモア 英語にみるジョークと文化』(丸善ライブラリー 075)(丸善、1993)
トミー植松『英語の迷信エッセイ事典 結婚指輪の由来からスポーツ選手のジンクスまで‐』(洋販出版、1998)
フウス・ライテルス編(関 美冬訳)『モンロー・トーク』(河出書房新社、1992)
吉川裕子『アメリカン・ウーマン』(凸版印刷、1979)
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by mewspap | 2006-02-24 15:46 | 2005年度卒論

PRSuser「ヴァーチャル・リアリティによる人類の支配」

目次
序章
第一章 『13F』
 第一節 製作者達が仮想現実に1930年代を選んだこと
 第二節 本当の現実に生きている人間
 第三節 仮想空間の中に生きる人物達
第二章 『イグジステンズ』
 第一節 ヴァーチャル・リアリティ・ゲーム
 第二節 現実と幻想の混乱    
 第三節 現実主義との対立    
第三章 『マトリックス』
 第一節 「マトリックス」における「知っているということ」    
 第二節 「預言者」の正体、「選択するということ」   
 第三節 6度目
結論

参考文献

序章
 ヴァーチャル・リアリティの映画は今日まで沢山公開されている。1999年に『サーティーンフロア(13F)』“THE THIRTEENTH FLOOR”が公開された。この映画のストーリーは、ホールという男が仮想現実創作技術を駆使し1973年のロスを再現しようとしていたが、ボスが何者かに殺され、真相を追うために仮想現実と現実とを行き来するというものであるが、最終的にはホールの生きる世界も仮想世界だという事実に気づく。
 『イグジステンズ』“eXistenZ”も1999年公開のヴァーチャル・リアリティ映画である。美貌の天才女性ゲーム・デザイナーであるアレグラ・ゲラーは、自身の新作ゲーム「イグジステンズ」のテストプレイの会場で、最前列にいた男に小動物の骨でできた奇怪な銃で命を狙われる。その会場で警備をしていたテッド・パイクルは彼女を連れて逃げ、彼もゲームの世界に呑まれていき、現実と非現実の区別がつかなくなっていくという内容である。
 『マトリックス』“THE MATRIX”も1999年に公開され、斬新な映像とストーリーで映画界に革命を起こしたSF映画の傑作と言われる。その後、続編として、2003年に2作品『マトリックス・リローディッド』“THE MATRIX RELOADED”および『マトリックス・レボリューションズ』“THE MATRIX REVOLUTIONS”が公開された。
 凄腕ハッカーのネオは、正体不明の美女トリニティに導かれ、モーフィアスという男と出会い、今までの生活が仮想現実の世界「マトリックス」の中での経験だと知らされる。そして、ネオは自分が「マトリックス」から人々を解放する救世主だと言われる。「マトリックス」に繋がれ、仮想現実の中で一生を送らされる人類の解放がこの映画の主なテーマである。
 上記いずれの映画もコンピュータ技術の発達やヴァーチャル・リアリティを否定的に表現しているようだ。しかし、ヴァーチャル・リアリティを駆使した仮想世界が、多様な欲望の解消装置として機能する可能性は決して否定できない。仮想世界は、その中で1人の個人として生活するのだから一種の社会的リアリティをもつようになってきている。それゆえ、人々の欲望はそこで充足されるだけでなく、再生産され、増殖し続ける。つまり、別の自己として現実世界でかなえられない夢想や欲望をみたしても、再び仮想世界のなかで新たな欲望の虜になっていくだろう。それは近い将来、人類はコンピュータに支配されていくということなのだ。
 『13F』は、ヴァーチャル・リアリティの開発段階の話である。欲望の解消装置として仮想世界を使用した結果の仮想世界の混乱が表現されている。主人公たちが実は仮想世界のシステムの一部だったということからもわかるように、コンピュータによる支配を暗に表現しているように感じさせる。
 『イグジステンズ』の世界はヴァーチャル・リアリティ・ゲームが全人類に広まり、人類のコンピュータによる支配の序章を表現している。人類がヴァーチャル・リアリティ・ゲームの魅力に取り付かれ始め、現実と空想の区別に戸惑い、次第に人類が混乱に陥っていく様が暗示されている。
 マトリックスでは、ヴァーチャル・リアリティの世界に繋がれた人間が現実とかけ離れた世界を見せられている可能性もあることが考えられる。人生の重要な選択を操られ、人類の歴史自体が機械に作られている。これがコンピュータに支配されている世界の極限である。
 このようなことを詳しく述べていく。

結論
 これまでに述べたいずれの映画もヴァーチャル・リアリティ技術を否定的に表現していることは明らかなことだ。ヴァーチャル・リアリティ技術は人類を今よりさらにコンピュータに依存させ、人類の欲望を増加させ、現実をも歪めてしまう。そんな危険な技術なのである。ヴァーチャル・リアリティ技術が蔓延した世界が近い将来にあることは確かである。コンピュータ技術への依存度合いはどんどん増加しコンピュータなしでは生きられない人類が誕生するのである。そして世界人類が参加するような世界規模のサイバースペースが生まれ、見えない権力により全世界が動かされることになるであろう。いずれはその権力さえもがコンピュータになっていく。未来の人類がコンピュータに支配されているだろうことは否定できないだろう。


(1)西垣通『聖なるヴァーチャル・リアリティ』(岩波書店、1995)、p.139. 以下本作品からの引用はこの版からとし、本文中にページ数を( )で表記する。
(2)室井尚『情報宇宙論』(岩波書店、1991)、p.54.
(3)デーヴィッド・ミツオ・ニクソン「マトリックスかも」、ウィリアム・アーウィン編、松浦俊輔、小野木明恵訳『マトリックスの哲学』(白夜書房、2003)、pp.50-51.
(4)セオドア・シック、ジュニア「運命、自由、予知」、ウィリアム・アーウィン編、松浦俊輔、小野木明恵訳『マトリックスの哲学』(白夜書房、2003)、p.127.
(5)同上、p.133.

参考文献
セオドア・シック、ジュニア「運命、自由、予知」、ウィリアム・アーウィン編、松浦俊輔、小野木明恵訳『マトリックスの哲学』(白夜書房、2003)、pp.119-135.
デーヴィッド・ミツオ・ニクソン「マトリックスかも」、ウィリアム・アーウィン編、松浦俊輔、小野木明恵訳『マトリックスの哲学』(白夜書房、2003)、pp.43-59.
西垣通『聖なるヴァーチャル・リアリティ』(岩波書店、1995)
室井尚『情報宇宙論』(岩波書店、1991)
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by mewspap | 2006-02-24 15:42 | 2005年度卒論

Eri「現代のアメリカ映画における家族像――親子の観点から――」

目次
序論
第一章 アメリカにおける家族像の変遷
 第一節 1950年代 『エデンの東』
 第二節 1960年代 『俺たちに明日はない』
 第三節 1970年代 『クレイマー・クレイマー』
 第四節 1980年代 『フィールドオブドリームス』
 第五節 1990年代以降 『リバーランズスルーイット』
第二章 現代のアメリカ映画『アメリカン・ビューティー』
 第一節 バーンハム家における親子
 第二節 フィッツ家における親子
 第三節 二つの家庭
第三章 現代のアメリカ映画『ペイ・フォワード』
 第一節 マッキーニ家における親子
 第二節 シモネット家における親子
結論

参考文献

序論
 映画は言葉だけではなく、視覚や聴覚を通して人に感動を与え、人々を楽しませ、考え方や生き方までに影響を与える。
 アメリカ社会は、日本に比べて映画産業が盛んである。そのアメリカで数多く製作される映画の中で、親子や家族を取り上げる作品は、数多い。なぜアメリカ映画に、親子や家族が数多く描かれているのか。人々にとって最も身近であり、影響力の大きいテーマなだけに興味の惹かれるものだ。また、家族をめぐる社会的状況が変化するのとともに家族のありかたも変化してきているが、その変化に耐えて不変の規範性もある。それはなぜなのだろうか。
 そこで、本論文では第二次世界大戦を契機として、アメリカの映画のなかで家族、特に親子がどのように表象されてきたのかをたどり、家族のイメージがいかに構築されてきたのかを考えてみたい。
 第一章では、まず、現代のアメリカの家族になるまでの過程を探るため、1950年代から1990年代までを年代ごとに時代背景を見ていく。そして、映画作品を取り上げながらアメリカにおける家族像の変遷について論じる。
 第二章では、現代のアメリカ社会において問題ある家族が描かれている『アメリカン・ビューティー』(American Beauty, 2000)、第三章では、『ペイ・フォワード』(Pay It Forward, 2000)において、アメリカの家族がどのような現代の問題を抱え、どのような家族像を表象しているのかについて述べていきたい。

結論
 映画は芸術であると同時に、現代を映す鏡である。映画制作には莫大なお金と多くの人の生活を賭けて作られるため、現代を色濃く反映した売れる作品が作られている。そのため、映画はその国や社会の実情と近い将来の姿を映し出していることが多い。
 本論文ではアメリカの家族像を、親子をキーワードとして映画を通して見てきたが、ここ60年をさかのぼるだけでも家族の形や価値観が変化してきたことが分かる。そして、その変化は社会の変化に大きく関わっていたことは疑う余地もない。第二次世界大戦後から見られる「理想の家族」の姿は、メディアをとおして作られてきた。初めは、シンプルな良き両親と健康で元気な子どもという父親を中心とした家族であった。ところが、1950、1960、1970年と進むにつれて家族が核家族となり、片親の家族となる数も増えてくる。家族の働くスタイルを見ても1960、1970年ごろから父親が働くだけでは生活が豊かに暮らせなくなり、共稼ぎの家族が増えてくる。
 『エデンの東』では、母親は悪いイメージとして登場し、その後の映画でもあまり姿を表さなかったが、『クレイマー・クレイマー』を経て、登場時間自体も増えて変化している。母親の存在が次第に大きくなってきていることが分かる。
 『エデンの東』から現代までの映画の変化をたどってみても、1950年代の大きな事件はない家族の人間ドラマを描いた話から、『ペイ・フォワード』という世界を変えるための方法を考え、行動するという大きなテーマのある中に登場人物のエピソードとして家族の姿が表され、映画の内容も複雑になっていく。
 映画の中になぜ家族を扱う作品が多いのか。それは、人々が何をするにも生まれて育つ始まりが家族という環境にあり、最も生活に密着しているところからではないかと考える。誰もが持っている家族であるが、過去の家族の姿を見ながら実は自分の家族について考え、知らず知らずのうちにそのあり方を自分に問いかけているからかもしれない。
 また、問題が急増している現代のアメリカにおいて、人々の家族問題や親子関係に対する意識が少し変わってきていることも分かる。つまり、『ペイ・フォワード』に見られるように、幼いときに受けた家族間の心や体の傷は、誰もが多かれ少なかれ持っていて特別ではない。その問題に対して逃げだしたり関心を持ったりしなければ変わらず、立ち向かい行動を起せば変わることができると暗示している。
 時代によって社会状況や家族の形は違っても、家族の一人一人が自分の殻を脱ぎ捨て、本当の自分をさらけ出して互いに向き合うことが変化の激しいこれからの時代を生きていく私たちにとって必要なことでないだろうか。


(1)長坂寿久著『映画、見てますか スクリーンから読む90年代のアメリカ』(文藝春秋 1990)p.46
(2)同上pp.46-47
(3)伊藤淑子著『家族の幻影 アメリカ映画・文芸作品に見られる家族論』(大正大学出版会2004)p.63
(4)井上眞理子編『現代家族のアジェンダ 親子関係を考える』(世界思想社 2004)pp.142-143
(5)同上pp.143-144
(6)長坂『映画、見てますか スクリーンから読む90年代のアメリカ』p.53
(7)《URL: http://www.awesomefilm.com/script/kramerVsKramer.txt》スクリプトより
(8)棚瀬一代著『クレーマー、クレーマー以後』(筑摩書房1989)p.4
(9)《URL: http://www.awesomefilm.com/script/kramerVsKramer.txt》スクリプトより
(10)棚瀬『クレーマー、クレーマー以後』pp.6-7
(11)井上『現代家族のアジェンダ 親子関係を考える』p.144
(12)《URL: http://scifiscripts.name2host.com/msol/A_B.html》スクリプトより
(13)同上
(14)同上
(15)伊藤『家族の幻影 アメリカ映画・文芸作品に見られる家族論』pp.145-146
(16)《URL: http://scifiscripts.name2host.com/msol/A_B.html》スクリプトより
(17)『ペイ・フォワード』(ワーナー・ホーム・ビデオ 2000)より

図版出典
(1)《URL: http://carolitacafe.blog9.fc2.com/blog-entry-76.html》より
(2)《URL: http://www.uipjapan.com/americanbeauty/main.htm》より

参考文献
・生命保険文化センター編、伊東光晴監修『21世紀の家族像』(日本放送出版協会1986) 
・井上眞理子編『現代家族のアジェンダー親子関係を考えるー』(世界思想社2004)
・伊藤淑子著『家族の幻影―アメリカ映画・文芸作品に見られる家族論―』(大正大学出版会2004)
・総合研究開発機構編『現代アメリカの家族問題』(出光書店1984)
・棚瀬一代著『クレーマー、クレーマー以後』(筑摩書房1989)
・長坂寿久著『映画、見てますかースクリーンから読む90年代のアメリカー』(文藝春秋 1990)
・増田光吉著『アメリカの家族・日本の家族』(日本放送出版協会 1969)
・米倉明著『アメリカの家族』(有斐閣 1982)
・井上輝子、木村栄、西山千恵子他著『ビデオで女性学』(有斐閣 1999)
・《URL: http://www.toyama-cmt.ac.jp/~kanagawa/cinema/america.html》
・《URL: http://payitforward.warnerbros.com/Pay_It_Forward/》
・《URL:http://ter.air0day.com/?script=payitforward》
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by mewspap | 2006-02-24 15:37 | 2005年度卒論

Shin「Ernest Hemingwayに見る価値観の変遷と自己価値観の形成――個人的独立への道のり――」

目次
序論
第一章 アメリカにおけるピュ―リタニズムの伝統
第二章 従軍までのヘミングウェイ
 第一節 ジェンティール・トラディションとヘミングウェイ
 第二節 従軍――「男らしさ」への憧れ
第三章 第一次世界大戦とヘミングウェイ
 第一節 「兵士」フレデリックの負傷――組織から一個人へ
 第二節 「人間」フレデリックの抽象観念への不信の完成――意識的独立
 第三節 フレデリックの「単独講和」――心身の独立
 第四節 フレデリック自身による「生物学的罠」の経験――虚無の目覚め
 第五節 「兵士の帰郷」――旧道徳との断絶
第四章 戦後のヘミングウェイ――ジェイクに見る独立への道のり
 第一節 ジェイクの性的不能の意味
 第二節 二つの啓示
 第三節 ジェイクの独立
結論

参考文献

序論
 第一次世界大戦(1914-1917)終結後の1920年代、アメリカ文学界では新興勢力が台頭してきた。その勢力に属すると考えられた作家たちの特徴は青春期に第一次世界大戦に遭遇したというところにあり、今日ではそれらの作家たちを指すものとして「ロストジェネレーション作家」という表現が使われている。
 その作家たちの一人とされるヘミングウェイ(Ernest Hemingway)は、短編集『われらの時代に』(In Our Time、1925)でアメリカ文壇にデビューを果たした小説家である。続いてヘミングウェイは長編小説『日はまた昇る』(The Sun Also Rises,1926)を発表し、新世代の作家としての地位を確立、その後も長編小説『武器よさらば』(A Farewell To Arms, 1929)等の作品を発表し、地位を不動のものとしていった。
 以上に挙げたヘミングウェイの作品の多くには、ある共通点が見られる。それは、戦争に代表されるような、暴力的な状況のなかでの人間の生と死の姿が描かれていることである。ここで重要なことは、そこでは人間の「死」が、生命活動の停止を表すもの、つまり「死」そのものとして描かれている、ということである。これは生物学上の定義では当然なことではあるが、ヘミングウェイがアメリカで育ったという事実を考慮した場合、全く別の意味合いを含むことになる。
 なぜなら、アメリカという国はピューリタンの手によって建国され、その社会と文化はピューリタニズムの伝統を強くその根底にもって成立していたからである。アメリカのピューリタニズム社会において神はすべてに優越した。人間は、節制・倹約・勤勉といったような神に対する忠誠(徳)を実行することによって、死後は神の救済を受けられるとみなされていた。
 しかしヘミングウェイは、人間が「死」によって終わる存在であると捉えることにより、神とその救済を否定したと考えられるのである。それはつまり、それまでのアメリカのピューリタニズム的価値観自体を否定したことにほかならない、といえるだろう。
 ピューリタニズム的価値観のもとで育ったヘミングウェイがその否定に到ったのは、第一次世界大戦への従軍体験によるものが大きいのではないだろうか。先に挙げた諸作品で、ヘミングウェイが自分の戦争体験を織り込んだものが非常に多いことからも、従軍体験がヘミングウェイに与えた影響の大きさが窺われる。
 大戦の終結後、ヘミングウェイはそれまでの諸観念に基づいた価値観の社会と決別し、観念を排した事物の実存在に即した独自の価値観を求めていくようになる。それは、人生は死によって終わるという意識と密接な関係にあるものであり、このヘミングウェイの観念不信的な態度を指して、虚無主義との見方はできるだろう。
 しかしながら、ヘミングウェイは「虚無」を自覚しながら生きる「生き方」を目指したのではないだろうか。それは人生の終わりに「救い」ではなく「死」があることを見据えた上で、戦後の虚無の中を懸命に生きていこうとするヘミングウェイの人生に対する積極的な姿勢であるとも考えられるのである。
 本論文は、ヘミングウェイの生誕から第一次世界大戦後までの姿を追い、ヘミングウェイの価値観の変遷の過程と、その末に辿りついたヘミングウェイによる「生き方」の姿に迫ろうとするものである。
 第一章では、アメリカ建国からヘミングウェイの生誕までの間に、どのようにピューリタニズムがアメリカ社会と分かちがたく関わっていたか、考察する。
 第ニ章では、第一章で考察したピューリタニズムの根付いたアメリカ社会でヘミングウェイの生まれ育った環境を取りあげる。とくに「ジェンティール・トラディション」を問題にして、ヘミングウェイがどのような宗教的倫理観のもとで成長したのかを考える。また、家庭環境がヘミングウェイに与えた影響についても併せて考察する。
 第三章では、第一、ニ章で考察したヘミングウェイの持っていた旧価値観に一大変化――幻滅と虚無――をもたらした第一次世界大戦と、その後アメリカに帰還を果たしたヘミングウェイが体験した旧価値観との断絶を、『武器よさらば』と「兵士の帰郷」”Soldier’s Home”を取りあげて考察する。
 第四章では、旧価値観に幻滅したヘミングウェイが、諸観念を排した生き方と「闘牛士」の生き方とに新しい価値観のヒントを見たことに注目し、ヘミングウェイがそれらをどのように一般人の生活に取り入れたかを『日はまた昇る』の主人公ジェイク(Jake Barnes)の姿を通して考察する。第一次世界大戦後のパリで周囲と断絶し、虚無的な生活を送っているように見えるジェイクの姿から、虚無を生きるヘミングウェイ自身の姿と、ヘミングウェイが到達した「生き方」が窺えるであろう。

結論
 ここまでに見てきたように、ヘミングウェイはピューリタニズムの伝統を建国以来強くもつアメリカに生まれ、ジェンティール・トラディションの保守的な家庭の中で育った。社会はピューリタニズム的価値観によって形成され、あらゆるものに「神」が優越していた。人々は死後の「神の救い」を信じ、その救いを得るために現世でピューリタニズム的な徳を実践した。
 しかしヘミングウェイは第一次世界大戦に従軍した結果、ピューリタニズム的価値観に対して絶対的な不信と幻滅を感じ、「神」の不在と人間存在が「死」という「虚無」で終わる孤独な存在であるという、実感に基づく意識を抱かざるをえなくなった。それをヘミングウェイは『武器よさらば』のフレデリックに投影させた。
 ヘミングウェイはその意識を「兵士の帰郷」におけるクレッブスに引き継がせ、クレッブスをしてピューリタニズム的価値観への不信を示させた。戦後のヘミングウェイは故郷をはじめとするアメリカ社会との断絶を感じ、祖国アメリカを去った。
 そしてヘミングウェイはフランスのパリへ居を移したが、「虚無」の実感は社会のみならず他者全部との断絶感をヘミングウェイに与えた。戦争を体験したヘミングウェイには「虚無」は避けられぬ事実であり、旧価値観と諸観念に幻滅したヘミングウェイはその対処法をそれ以外に見つける必要があった。
 そしてヘミングウェイは、なにものにも頼らず単身で「勇敢」と「誠実」の態度をもって牛と戦い「威厳」を示す闘牛士の孤高の姿に、精神的な意味での「生き方」の啓示を見て、その啓示を『日はまた昇る』のジェイクに与えた。ジェイクは自分の孤独を受け入れ、社会をはじめとする他者に対しては「価値交換」の思想に基づいた、感傷的な諸観念を排した純粋な等価交換の姿勢をとり、社会との断絶を社会からの独立へ変えた、といえる。
 以上から、戦後のヘミングウェイが形成した自らの「生き方」――自己の価値観――とは、他のすべての存在から独立し、孤高の姿勢で「死」という宿命的な「虚無」と対峙し、その中を「勇敢」に生きていく、というものだったといえる。


(1)このピューリタニズムの契約思想を論述するにあたっては、柳生望『神不在の文学』(ヨルダン社,1969), p.43を参照した。
(2)同上, p.43.
(3)同上, p.39.
(4)同上, p.45.
(5)同上, p.104.
(6)レスター・ヘミングウェイ著 増子光訳『兄ヘミングウェイ』(みすず書房,1982),p.17.
(7)志村正雄「ピューリタニズムの変容と否定」,木下尚一編『講座アメリカの文化1.ピューリタニズムとアメリカ――伝統と伝統への反逆――』(南雲堂,1969),p.291.
(8)レスター・ヘミングウェイ著 増子光訳『兄ヘミングウェイ』,p.18.
(9)志村「ピューリタニズムの変容と否定」,p.292.
(10)ヘミングウェイ家の家庭内の躾を説明するにあたっては、カーロス・ベーカー著 大橋健三郎・寺門泰彦監訳『アーネスト・ヘミングウェイ(Ⅰ)』(新潮社,1974),p.25を参照した。
(11)同上,p.40.
(12)同上,p.43.
(13)『武器よさらば』を教養小説と見る考えの論述にあたっては、西尾巌『ヘミングウェイ小説の構図』(研究社出版株式会社,1992),pp.166-168.を参照した。
(14)この考えは、加藤宗幸『ヘミングウェイ・ノート――虚無の超克――』(九州大学出版会,1982),p.13を参照した。
(15)Ernest Hemingway, A Farewell To Arms (Charles Scribner’s Sons, 1957), p.36. 以下本作品からの引用はこの版からとし、本文中にページ数を(FTA)で表記する。
(16)S・サンダースン著 福田陸太郎/小林祐二訳『ヘミングウェイ』(清水弘文堂,1979),p.52.
(17)「単独講和」という訳語は、西尾『ヘミングウェイ小説の構図』p.182を参照した上で使用した。
(18)「生物学的罠」という訳語は、同上,p.176を参照の上で使用した。
(19)Ernest Hemingway, The Short Stories of Ernest Hemingway (Charles Scribner’s Sons Macmillan Publishing Company, 1966), p.147. 以下本作品からの引用はこの版からとし、本文中にページ数を(SH)で表記する。
(20)Ernest Hemingway, The Sun Also Rises (Scribner,2003),p.42.以下本作品からの引用はこの版からとし、本文中にページ数を( )で表記する。
(21)西尾『ヘミングウェイ小説の構図』,p.138.
(22)ジェイクがフランスとスペインでそれぞれの教訓を得たということの論述には、同上, pp.133-152を参照した
(23)同上, p.142.
(24)『日はまた昇る』における二人の闘牛士の闘牛への姿勢の根本にあるものの論述には、西尾『ヘミングウェイ小説の構図』, pp.144-146と加藤『ヘミングウェイ・ノート――虚無の超克――』,pp.129-159を参照した。 

参考文献
加藤宗幸『ヘミングウェイ・ノート――虚無の超克――』(九州大学出版会,1982)
カーロス・ベーカー著 大橋健三郎・寺門泰彦監訳『アーネスト・ヘミングウェイ(Ⅰ)』(新潮社,1974)
レスター・ヘミングウェイ著 増子光訳『兄ヘミングウェイ』(みすず書房,1982)
志村正雄「ピューリタニズムの変容と否定」,木下尚一編『講座アメリカの文化1.ピューリタニズムとアメリカ――伝統と伝統への反逆――』(南雲堂,1969)
S・サンダースン著 福田陸太郎/小林祐二訳『ヘミングウェイ』(清水弘文堂,1979)
西尾巌『ヘミングウェイ小説の構図』(研究社出版株式会社,1992)
日本ヘミングウェイ協会/編『ヘミングウェイを横断する――テクストの変貌――』(本の友社,2002)
森岡祐一/藤谷聖和/田中紀子/花岡秀/貴志雅之『酔いどれアメリカ文学――アルコール文学文化論――』 (英宝社,1999)
柳生望『神不在の文学』(ヨルダン社,1969)
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by mewspap | 2006-02-24 15:29 | 2005年度卒論

M2「二つのThe Stepford Wives―1975年作品と2004年作品の間に見られる差異―」

目次
序論
第一章 『ステップフォード・ワイフ』の社会的背景
 第一節 典型的な妻の姿と1975年の映画化
 第二節 女性のアイデンティティの変容
 第三節 2004年の映画化
 第四節 夫婦の形の変容と妻のロボット化に至った夫の動機付け
第二章 ストーリー内容に見られる差異
 第一節 転居のきっかけと夫婦形態
 第二節 妻の改造方法とその発露
 第三節 クライマックスと特異的存在
第三章 外見的要素
 第一節 1975年版におけるロングドレス
 第二節 2004年版における色の存在
 第三節 2004年版のエンディングに見られる外見の変化
結論

参考文献

序論
 アイラ・レヴィン(Ira Levin)の小説『ステップフォードの妻たち』(The Stepford Wives,1972)は、妻が夫に良妻賢母の女性ロボットに変えられてしまう恐怖を描いた寓話物語である。主人公のジョアンナ・エバーハート(Joanna Eberhart)がステップフォードという街へやって来る。その街には家事をすることのみに幸せを感じ、夫に尽くす容姿端麗な良妻賢母の妻たちばかりが住んでいた。その光景は特殊なものであり、妻たちはまるで動く人形のようであったが、人間味がないそうした妻たちには秘密が隠されていた。その秘密とは、夫たちが妻を殺して、自分たちの思い通りの性質を持った妻にそっくりのロボットと取り替えていたことである。
 この作品が発表された頃、アメリカではウーマンリブ運動が活発になっていた。働くのは男性、家事をするのは女性という典型的な性別役割分業に不満を抱き始めた女性が、あらゆる面での女性の地位向上を求める声をあげていた時期である。女性は、家事以外の場所に自分の存在価値ややりがいを模索していた。レヴィンの小説はそんな時代を捉えた風刺的ホラー小説と評された。そしてこの作品を原作に、1975年ブライアン・フォーブス(Bryan Forbes)監督の下、映画『ステップフォード・ワイフ』(The Stepford Wives)が制作、公開された。ホラーの形態をそのまま作品に織り込んだ、小説に忠実な形の作品となっている。
 それから30年の時を経て2004年にフランク・オズ(Frank Oz)監督の下、再びこの小説は映画化されることとなる。表現形態は一変し、作品の作風はコメディに様変わりしている。1975年作品の公開時から時代も移行しており、その時代変化が2004年版には反映されている。コメディタッチは、時代を上手く反映させるために用いられた表現方法なのである。
 このように、同じ原作を土台にした二つの『ステップフォード・ワイフ』にはどのような違いが見られるのだろうか。本論文では、1975年と2004年の二つの『ステップフォード・ワイフ』に描かれた妻をロボット化しようという偏執的思想の示す要因を、社会的時代背景の影響から考察する。また二つの作品の内容、登場人物の外見的特徴に見られる差異を比較し、論じていく。
 第一章では、それぞれの作品に含まれた社会的時代要因を考察する。1975年版はホラー映画として、2004年版はコメディ映画として制作された。同じ原作の作品の表現形態がどうしてそのように変わったのだろうか。そして、ステップフォードの夫たちによる妻たちのロボット化という行為への動機付けを、時代のジェンダー的要因から探る。
 第二章では、1975年と2004年作品の間に見られる差異を俎上に載せる。ホラー作品とコメディ作品という違い、また制作された年代が異なることによって見られるストーリーの展開の差異に焦点をあて、二つの作品を比較する。
 第三章では、二つの『ステップフォード・ワイフ』を通して見られる、登場人物の外見的要素について考察する。作品においてステップフォード・ワイフの表象は、ストーリー展開を示す上で重要な鍵となっている。それは、妻たちの表象が人間の女性からロボットへ変化を表すしるしとなっているからである。そこで、二つの作品におけるそれぞれの妻たちの表象を考察し、その表象によるストーリー展開の動きを探る。

結論
 本論文では1975年と2004年という制作された年代の異なる二つの『ステップフォード・ワイフ』を社会的要因から考察し、ストーリーと外見的要素を比較することで両作品の間に見られる差異について論じてきた。
 1975年版『ステップフォード・ワイフ』はレヴィンの原作に忠実に制作されており、時代を風刺したホラー作品となっていた。このホラー作品を2004年版ではコメディタッチにしたことで、現代の社会的要素を織り込んだ作品に仕上げていた。
 1970年代に起こったウーマンリブ運動を境に、女性はそれまでの性別役割分業という典型的ジェンダーから逃れたく、家庭以外の場所でアイデンティティを模索した。そうした女性の動きは男性にも影響を与えた。アイデンティティを求めて社会進出する女性の存在に、男性も典型的ジェンダーとの間で悩むこととなったのであった。この男性の抱える悩みはステップフォードの夫たちも抱いていたものであり、それを解消しようとして妻のロボット化という行為に至らせた原因でもあったのである。
 このような男女の時代に伴う心理の変化が、現代の社会的要素として2004年版の作品に加えられていたのである。そしてそれらは、妻たちの経歴の設定や、ジョアンナとウォルターの夫婦の関係、黒幕であったクレアの存在という新たな展開において描かれていた。
 また、両作品には異なったステップフォードの妻の表象が存在していた。1975年版においてそれはロングドレスであり、2004年版においては色彩と花柄である。表象は作品の中でストーリーを展開させる上で重要な役割を果たしていた。ステップフォードの妻たちの服装を統一することで、ロボット化された女性たちであることを示し、生身の人間と区別した。その区別から、表象は生身の人間からロボット化への変化を一目で判断できる証拠ともなったのである。
 以上のように、二つの『ステップフォード・ワイフ』は同じ原作から制作された作品であったが、ホラーとコメディによる表現方法、反映された社会的背景、男女間におけるジェンダーの変容、表象といった点で異なる内容を持っていた。


(1)恒常性とは、外部環境や主体的条件の変化に応じて体内環境をある一定範囲に保っている状態、および機能を指す。また、精神内部のバランスのこと。『広辞苑』(岩波書店,1998,2001,)より。つまり、周期が存在する女性の体は不安定になりやすいため、社会で働くのに適していないと考えられていた。
(2)竹村和子『フェミニズム』(岩波書店,2000),p.16.
(3)同上,p.16
(4)stepford wifeという言葉はレヴィンの小説” The Stepford Wives”に由来しており、「完璧すぎる良妻賢母」という意味で英語として使われていると町山智浩「ホラーな現実を映し出すコメディ『ステップフォード・ワイフ』」INVITATION3月号(ぴあ株式会社,2005),p.109にある。
(5)1975年版The Stepford Wives のDVDに収録されたメイキングにて、 監督ブライアン・フォーブス自身が語っている。
(6)Ira Levin,The Stepford Wives(Harper Torch,2004),p.188.
(7)スーザン・ファルーディ『バックラッシュ-逆襲される女たち-』伊藤由紀子,加藤真樹子訳(新潮社 1994),pp.153-155.
(8)上野千鶴子『90年代のアダムとイブ』(日本放送出版協会,1991),pp.86-87.
(9)このパラグラフは同上,pp.132-133.を参照した。
(10) 町山「ホラーな現実を映し出すコメディ『ステップフォード・ワイフ』」,p.109. 「『ステップフォード・ワイフ』オフィシャルサイト」プロダクションノートを参照した。《http://www.stepfordwife.jp/flash/index.html》
(11)2004年版The Stepford Wives DVD(角川エンタティンメント),字幕翻訳吉田由紀子,以下本作品からの台詞の引用は、本文中にDVD内で区切られたチャプター数で表記する。
(12)ペッパー・シュワルツ著 豊川 輝、けい悦子、豊川典子訳『結婚の新しいかたち -アメリカ夫婦57組の生活-』(明石書店,2003),p.8
(13)同上,pp.187-188.
(14)同上,pp.190-191
(15)Ira Levin,The Stepford Wives,p.8.
(16)製作当初、妻たちはバニーガールのような衣装の設定だった。しかし、出演者のナネット・ニューマンに似合わないことから、彼女に似合うロングドレスに変更された。 
(17)1975年版The Stepford Wives DVD(パラマウントホームエンタテインメントジャパン)以下作品からの台詞の引用は、本文中にDVD内で区切られたチャプター数で表記する

図表出典
(図1)"About”より《http://scifi.about.com/od/scifimoviesaz/fr/stepfordrev.htm》
(図2)”NY POST online edition”より《http://www.nypost.com/movies/22829.htm》

参考文献
"About”《http://scifi.about.com/od/scifimoviesaz/fr/stepfordrev.htm》
ベティ・フリーダン『新しい女性の創造』(大和書房,改訂版2004),pp.1-12
町山智浩「ホラーな現実を映し出すコメディ『ステップフォード・ワイフフ』」INVITATION 3月号(ぴあ株式会社,2005),p.109
”NY POST online edition”《http://www.nypost.com/movies/22829.htm》
ペッパー・シュワルツ著 豊川 輝、けい悦子、豊川典子訳『結婚の新しいかたち -アメリカ夫婦57組の生活-』(明石書店,2003),pp.8-11、pp.187-239
スーザン・ファルーディ『バックラッシュ-逆襲される女たち-』伊藤由紀子,加藤真樹子訳(新潮社 1994),pp.153-155.
竹村和子『フェミニズム』(岩波書店,2000),pp.13-22.
上野千鶴子『90年代のアダムとイブ』(日本放送出版協会,1991),pp.80-133
WWW.DOLLSOUP.CO.UK《 http://www.dollsoup.co.uk/wives.htm》
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by mewspap | 2006-02-24 15:22 | 2005年度卒論

Yu「アメリカの家族――古き良き時代からの移り変わり――」

目次
序論
第一章 伝統的家族
 第一節 古き良き時代
第二章 性別役割分業
 第一節 映画『花嫁の父』が描く家族
 第二節 『モナリザ・スマイル』においての女性の意識
第三章 変化するアメリカの家族
 第一節 映画『クレーマー・クレーマー』にみる家庭の変化
 第二節 映画『ミセス・ダウト』が示す性別役割分業の変化
第四章 伝統的家族の崩壊
 第一節 映画『アメリカン・ビューティー』における闇
 第二節 映画『エリン・ブロコビッチ』が示す複雑な家庭
結論

参考文献

序論
 アメリカは、様々な家族が共存する社会である。アメリカを代表する都市、ニューヨークの映像がよくテレビで放送されるが、それを見ていても、実に多くの家族が存在していることに気が付く。セントラルパークでは、若いカップルが子供を連れて歩き、中年カップルがベンチで仲良く話している。また、白人カップルが養子と見られるようなアジア系の女の子を連れて歩いている。同性同士が手をつないでいる様子も見られる。血縁関係をもっている家族だけでなく、非血縁家族を含め、現在のアメリカでは家族形態が多様化しているといえる。
 アメリカ人は、理想とする家族像を思い浮かべる時、1950年代のアメリカの家族を想像することが多い。「幸せな家族」としてイメージされるその家族は、庭つきの家に、暖炉のあるリビングルームがあり、頼りになる父、優しい母、元気な子供達が食卓を囲んで団欒しているようなものである。しかし、「幸せな家族」を構成している家族は、現在のアメリカにおいてごく少数である。いくらアメリカの人々が「幸せな家族」を理想としても、現在のアメリカでは理想に立ち返ることはできない。1960年代には、非婚や離婚が増え、次第にアメリカの家族は多様化していった。だが、形は変わっていっても、家族を求める気持ちは変わらない。結婚しても、その半数が離婚するというアメリカの国において、再婚率がまた高いのも、人々が家族を求めている証拠である。現在のアメリカの家族は、血縁関係を越えたものといえる。
 本論では、アメリカの人々の理想とする1950年代の「幸せな家族」像から、現在の家族に至るまでの家族の移りかわりを追っていく。
 一章では、「幸せな家族」としてイメージされている、1950年代の家族像を生んだ社会状況を見ていく。第二次世界大戦後、女性を家庭に縛りつけた社会の風潮と、男性は働き、女性は家庭を守るという性別役割分業の考え方がこの「幸せな家族」像を支えていたことを明らかにする。
 さらに二章では、1950年代の様子を描く映画、『花嫁の父』と『モナリザ・スマイル』を通して、当時の人々の思いに焦点を当てる。娘を嫁に出す父親の家族を描いた『花嫁の父』と、高等教育を受ける女子大学生と接することにより、社会における女性の立場を問う女教師を描いている『モナリザ・スマイル』を挙げ、どちらも一章で取り上げた性別役割分業が人々の意識の中にあったことを示したい。
 三章では、次第に変わってきた家族を、『クレーマー・クレーマー』と『ミセス・ダウト』から分析する。どちらの映画も、離婚を取り扱った内容で、女性が夫との別れを切り出している。これらは従来の性別役割分業に縛られている女性にとって、斬新な作品であった。女性がどのような思いで離婚に踏み切ったのか、その中身を見ていくことにする。
 四章は、伝統的な家族の崩壊と題し、外面は理想的な家族構成でありながら、内面の家族崩壊を描く『アメリカン・ビューティー』と、形にとらわれずに家族を構成する『エリン・ブロコビッチ』を対照的に比較し、現在の多様化した家族形態を示す。
 アメリカの人々が理想を抱きながらも、実際はそれとは反し、多様化した家族を形成していく姿が浮き彫りになるであろう。

結論
 経済的に豊かで幸せな理想の核家族が崩壊してしまった現在も、アメリカ人にとって結婚や家族は、人生の重要なものであり、精神的により豊かな生活をもたらすものとして期待していることに変わりはない。しかし、1950年代の「幸せな家族」という理想の家理想に近づくために人々は様々な家族を構成しているわけではない。現在では離婚率が高いアメリカだが、一章で述べたように、戦後、離婚は避けるべきものとして見られていた。しかし、『クレーマー・クレーマー』や『ミセス・ダウト』で見たように、男女の性別役割分業の意識がなくなってくるにつれて、家族は離婚も選択肢として受け入れるようになった。どんな家族を構成するにしろ、理想の家族を想像するアメリカの人々は理想のものと一致させることが難しくなった現在では、人々は1950年代のような理想の家族像に立ち返ろうとは思わない。それぞれが形にこだわらない自分だけの家族をつくっていくことがこれからは重要視されていくのではないだろうか。人々が理想とする「幸せな家族」像は、今や虚像であるといえよう。


(1)総合研究開発機構『現代アメリカの家族問題』(出光書店、1984)p.222
(2)映画の部屋―サブタイトル,  
http://www.netpro.ne.jp/~takumi-m/cinema-2001/movie-monofamily-1.htm
の「はじめに」を参考にした。
(3)ベティ・フリーダン、三浦 富美子訳『新しい女性の世紀』改正版(大和書房、2004)
p. 9
(4)同上, p. 9
(5)同上, p. 26
(6)同上, p. 313
(7)岡田光世『アメリカの家族』(岩波書店、2000)p. 189
(8)ベティ『新しい女性の世紀』, p. 13
(9)American Beauty, http://www.uipjapan.com/americanbeauty/main.htm のIntroductionを参考にした。

参考文献
ベティ・フリーダン、三浦 富美子訳『新しい女性の世紀』改正版(大和書房、2004)
岡田光世『アメリカの家族』(岩波書店、2000)
ジョージ・マズニック、青木 久男訳『アメリカの家族 1960-1990』(多賀出版、1986)
藤原智美『家族を「する」家』(プレジデント社,2000)
藤枝澪子『アメリカフェミニズム』(創元社、1991)
棚瀬一代『クレイマー、クレイマー以後』(筑摩書房、1989)
NHK取材班、『アメリカの家族―離婚、再婚、子供たち』(日本放送出版協会、1983)
総合研究開発機構『現代アメリカの家族問題』(出光書店、1984)
小檜山ルイ、北條文緒『結婚の比較文化論』(剄草書房、2001)
『花嫁の父』(Father of the Bride,America,1950)
『モナリザ・スマイル』(Mona Lisa Smile, America,2003)
『クレーマー・クレーマー』(Kramer vs. Kramer, America,1979)
『ミセス・ダウト』(Mrs.Doubtfire, America,1993)
『アメリカン・ビューティー』(American Beauty, America,1999)
『エリン・ブロコビッチ』(Erin Brockovich, America,2000)
映画の部屋―サブタイトル
http://www.netpro.ne.jp/~takumi-m/cinema-2001/movie-monofamily-1.htm
American Beauty
http://www.uipjapan.com/americanbeauty/main.htm
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by mewspap | 2006-02-24 15:13 | 2005年度卒論

Yuji「マルコムXの映画と自伝に見る自己模索と自己確立」

目次
序論
第一章 アイデンティティと名前の変化 ―マルコムX以前―
第二章 アイデンティティと名前の変化 ―マルコムX―
第三章 アイデンティティと名前の変化 ―エル=ハジ・マリク・エル=シャバーズ―
第四章 外見とアイデンティティ
 第一節 コンクによる白人への同化
 第二節 服装に見るアイデンティティ
結論

参考文献

序論
 黒人解放運動家の中で過激派として知られるマルコムX、本名マルコム・リトル(Malcolm Little)は1925年ネブラスカ州に生まれた。彼の人生は波乱万丈そのものである。幼少期から黒人であるために差別を受け、10代の頃には多くの黒人下層大衆の若者が経験するように彼も酒、タバコ、マリファナあるいは犯罪に手を染めるようになった。その後彼は警察に逮捕され、刑務所において人生の大きな転換期を迎える。彼は囚人であった頃に知った宗教とその宗教組織の指導者の教えに自分が求める真理を見出し、自分のアイデンティティを確立する。彼が出会った宗教とはネイション・オブ・イスラム(Nation of Islam)というもので、その教義は黒人と白人との分離を説くものであった。出所したマルコムは黒人解放運動家として精力的に活動していくが、1965年ニューヨーク、マンハッタンのオーデュボン・ボールルームで凶弾に倒れた。彼が信仰していた宗教組織の教団員三人が犯人として逮捕された。しかし彼の暗殺については諸説あり、その中にはFBIやCIAも協力していたのではないかというものもあるが、真相は定かではない。
 マルコムXの自伝The Autobiography of Malcolm Xは1965年に出版された。この自伝は執筆協力者としてアレックス・ヘイリー(Alex Haley)の名が挙げられており、実際にはマルコムが話したことを基にヘイリーが書いた書物である。映画Malcolm XはThe Autobiography of Malcolm Xを基にして1992年に映画監督スパイク・リー(Spike Lee)によって製作された。
 本論文ではこの自伝と映画をベースとして、マルコムの自己の模索と確立について論じていく。彼が生きた1920から1960年代のアメリカは白人中心の社会だったので、黒人であることだけで差別の対象となった。差別を経験した黒人は白人に同化する傾向が強かったが、それにより得られるものは少なかったと言える。この白人との付き合い方におけるジレンマが黒人を自己嫌悪に陥れることもあり、黒人のアイデンティティ確立の大きな障害となった。このようなジレンマにより、マルコムの白人に対する感情も不安定なものであった。しかし彼はある一つの宗教とその指導者の教えを受け入れたことでアイデンティティを確立する。
 人は生まれてから死ぬまでに自分とは何かという問いに直面する。マルコムの人生はそのようなアイデンティティ模索の旅の象徴であると言えるのではないだろうか。彼の生涯は波乱に満ちたものであり、確固たる自分を見出すことが困難な人生であった。そして何かのきっかけでそれを意識しアイデンティティを模索し、自己確立を求めるのである。アイデンティティとは過去の自分を見つめ、自らの置かれた現状を直視し、己を理解することによって得られるものである。マルコムは刑務所内で自らの過去と、自分の置かれている現実を直視することによりアイデンティティを確立したと言える。
 本論文第一章、二章、三章ではマルコムのアイデンティティが変化するのと同様に、彼の名前も変化することに着目して論じていく。彼の名前は数回変わっており、その変化には内面の変化が象徴的に表れている。心理学では名前と自己には繋がりがあると言われており、マルコムの名前の変更は他ならず内面的変化を表していることを論じる。
 第四章では外見と内面の繋がりに着目する。人の外見と内面は一直線に繋がっているわけではないが、マルコムについては外見と内面とは密接に関係があると言える。彼の内面は服装、身なりに表れており、その関連について論じる。
 なおアイデンティティという語は自我同一性、自己の存在証明、自己、自我など様々な日本語に訳されているが、本論文においては主に自我同一性、自己を意味するものとして扱うこととする。

結論
 本論文ではマルコムXとして世に知られているマルコム・リトルの生涯におけるアイデンティティの模索と確立、またそれに伴う名前や外見の変化について論じてきた。
 マルコムは多難な人生を生きた。彼が生きたのは黒人の自己確立が難しい白人中心のアメリカ社会であり、そこには自ら犯した過ちや黒人であるがゆえに生じる葛藤があった。その葛藤とは白人に迎合するのか、それとも黒人の人間としての自由と権利を主張するのかというものである。そんな中でも彼は確固たるアイデンティティを確立した。彼のアイデンティティは名前の変化とともに変わりつつあったが、核心部分では不変だと言えるものであった。それはアフリカン・アメリカンの自由と、人間としての権利を切に願うというものである。マルコムは自らのアイデンティティを宗教とその指導者の教えの中に見出した。その教えを糧として確立した確固たる自己、すなわちアイデンティティこそが、人間誰しもが直面する自分とは何かという問いに対する答えだったのである。


(1)無藤隆,高橋恵子,田島信元編 「発達心理学入門Ⅰ 乳児・幼児・児童」(東京大学出版会,1990),p.125.
(2)Malcolm X, The Autobiography of Malcolm X (An Evergreen Black cat Book, 1965),pp.8-9.  以下本作品からの引用はこの版とし、本文中にページを( )で表記する。
(3)鑪幹八郎 「アイデンティティとライフサイクル論」(ナカニシヤ出版,2002),p.207.
(4)J.クロガ-著 榎本博明編訳 「アイデンティティの発達 青年期から成人期」(北大路書房,2005),p.105.を参考にした。
(5)丸子王児 「マルコム・Xとは誰か?」(JICC出版局,1993),p.27.
(6)ジョージ・ブレイトマン編 長田衛訳 「マルコムX・スピークス」(第三書館,1993),p.33.
(7)黒田壽郎編 「イスラーム辞典」(東京堂出版,1991),p.85.
(8)http://www.script-o-rama.com/snazzy/dircut.htmlより。
(9)黒田「イスラーム辞典」,p.86.

参考文献
ジェイムズ・H.コーン著,梶原寿訳「夢か悪夢か・キング牧師とマルコムX」(日本基督教団出版局,1996)
ジョージ・ブレイトマン編 長田衛訳「いかなる手段をとろうとも」(現代書館,1993)
ジョージ・ブレイトマン編 長田衛訳「マルコムX・スピークス」(第三書館,1993)
マルコムX著,浜本武雄訳「マルコムX自伝」(河出書房新社,1993)
大河内俊雄「アメリカの黒人底辺層」(専修大学出版局,1998)
佐藤良明監修「マルコムXワールド」(径書房,1993)
猿谷要「歴史物語 アフリカ系アメリカ人」(朝日選書,2000)
丸子王児「マルコム・Xとは誰か?」(JICC出版局,1993)
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by mewspap | 2006-02-24 15:06 | 2005年度卒論