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編集会議(Mew's Pap)

昨日は1時から卒論冊子の編集会議(@合研および「出向先」のコピー室)。

卒論提出後、以下のような最終課題の連絡をしていたのである(来年も再利用するために載せておく)。

ゼミのみなさんへ(except S.T.)

ひと休みして落ち着いたと思いますので、そろそろ残りの課題と日程について検討しましょう。

Ⅰ.卒論の送信
まずは卒論本文を添付ファイルとして、こちらに送信してください。

Ⅱ.3つの課題
(1)英文による要旨(synopsis):可及的速やかに(今週末には送信すること)
(2)悪文解題(5つい上):可及的速やかに(今週末には送信すること)
(3)他のゼミ生の論文2本読んでレヴュー執筆(今月末を予定)
上記(1)~(3)いずれについても冊子を参照し、ワードファイルで記すこと。フォーマットはこちらで編集するので、卒論のビジネスフォームで作成してけっこうです。
(2)に関しては【事例文】【症例分析】【訂正後】と必ず分けて記すこと(冊子参照)。

ワードのファイル名を統一しておかないとぐちゃぐちゃになるので、以下のようにしてください。
(1)卒論要旨(自分の名前)
例:卒論要旨(Lin)
(2)悪文解題(自分の名前)
例:悪文解題(Eri)
(3)対象者の名前レヴュー(自分の名前)
例:ChiakiさんがShinくんのレヴューを書いた場合→Shinレヴュー(Chiaki)

Ⅲ.作業
(1)自分の卒論の両面コピー30部作成
(2)編集会議でレヴューの原稿チェック等
(1)についてですが、冊子は30部作成する予定なので、各自卒論を両面コピーしたものが30部ずつ必要です。
1枚目が表紙と目次、2枚目が1ページ目と2ページ目というかたちになります(冊子参照)。
これは自前でやってもらってもかまいませんが、お金もかかるので、日程を決めて集まりコピー室で一気にやってしまうこともできます。コピー室で作業したい人は日程調整が必要となります。
(2)についてですが、Linさんがビザの都合で2月前半は帰国しなければならないそうなので、2月の予定を早める必要があります。
私も「秘密特務」で予想以上に缶詰状態となり、1/31~2/11のあいだは時間がとれません。レヴュー執筆の時間ぎりぎりとって、編集会議&打ち上げは1/30でどうでしょうか。

Ⅳ.ブログのカテゴリ変更(2月中)
他に2月中を目途に、ブログに投稿した自分の全てのコメントのカテゴリ変更をしてもらいます。2月中ですから急ぎません。
現在はみなさんひとりひとりにカテゴリを割り当てていますが、これを2005年度ゼミにまとめます。
手順は以下のとおり:
1.Mew's Pap Roomにログイン
2.自分の投稿コメントのところで「編集」をクリック
3.編集画面上部のカテゴリ変更で「2005年度ゼミ」を選択
4.編集画面下部の投稿をクリック
全員の分をひとまとめにしておきますので、タイトルに( )で名前を入れ忘れている人は必ず早めに訂正しておくこと。

Ⅴ.ブログ掲載の提案
以下は提案ですので検討してください。
みなさんの卒論の「序論」「結論」および「注」「引証文献」を、「2005年度卒論」というカテゴリを立てて、ブログ上に公開したいと思います(本論は除く)。
問題は学籍・氏名ですが、そのまま載せるか、氏名だけにするか、ブログの投稿名に変更するか、検討を要します。
考え方はふたつあって、1)自分の書いたものに自分の名前が冠されないのはフェアではないので当然氏名を出す、2)ネット上ですからセキュリティ等を勘案してブログ投稿名にする、ということです。
これはこちらの作業となりますが、口頭試問も終わった2月下旬にやっておきますので、検討してください。

あとはレヴューを書く割り当てですが、少し考えて今日明日中には連絡します。
レヴュー執筆のための卒論の交換は、お互いにメールの添付ファイルでやってもらうかたちでいいですね?

以上です。
上記プリントアウトして瑕疵のないように。

合研とコピー室で手分けしてさくさくと作業を進める・・・のはずであったが。「やっぱり」次々とトラブル発生。プリントアウトして拳拳服膺し、瑕疵のないようにと釘まで刺したのに(涙)。

卒論のプリントアウトを持ってきていない者がいる(どうやってコピー取るんだよ)。
しかたなく合研のプリンターでプリントアウトしていたら、インクカートリッジ切れ。
個研から持ってきていたノートPCを持ち帰って接続し、個研のプリンタを使うも、なぜだかワードの書式設定が狂ってマージンがずれる。

期日を大幅に遅れて当日になってレヴューを送信してきた者がいて、しかも添付のワードファイルの文書が途中で途切れている(就職内定先に研修に行っているため連絡も取れず)。

なんと卒論のプリントアウトの裏面に「らくがき」をしているためにコピーができない者がいる。

コピー室でトラブル発生時に連絡するよう、合研のホワイトボードに携帯番号を大書しておいたのに控えていない者がいる。

案の定、コピー室では原稿がコピー機に巻き込まれて紙詰まり。

その他、チェック済み原稿をPCファイルに入力していない、ファイル名を指示通り明記していない、ワードのページ付けができていない等々、終わりのないトラブルに走り回らされる。

仕事というものは、「80%がトラブルの解決である」と私は思っている。
だから、少々のことではへこたれない。
しかし、「仕事の93%がトラブル対処」という事態に面して、途方に暮れるばかりである。

これらのトラブルのほとんどが、上記の連絡事項を言われた手順を踏んで期日を遵守していれば避けられたものである。

約束を守るというのはとても大事なことだ(小学校で習ったはずである)。
そして、涵養したスキルというのは自分のためにあらず、まず第一に他人に貢献するため、少なくとも他人に迷惑をかけないためにあるものだ(と大学ではつねづね示唆してきた)。

次々と惹起するトラブルに、いつにもまして教師にあるまじき皮肉、愚弄、嘲弄、指弾、あてこすり、あげつらい、譴責の暴言は苛烈を極め、みんなのまなざしも行方知らずにふらふらと泳ぐ。

5時も回ったころにようやく作業終了。
ふー。
終わったね。今年も終わった。

あとはこちらでレヴューを編集し、「卒論マニュアル」やら「べからず集」やら「悪文解題」やら表紙なんかを完成させて、製本に回すだけである。

d0016644_1350178.jpg卒業旅行と家庭内事情とアルバイトで参加できない3名(および単位認定事情で当初から不参加の一名)とバイバイして、「す○ぽん」で打ち上げ。

帰宅後、ちょっとお腹が空いたなと思って、深夜の台所に立つ。
血中アルコール濃度が高いときに、研いだばかりの鋭い包丁を振るってはいけない。
白ネギと一緒に左の人差し指の皮をざっくり削ってしまった(泣)。
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by mewspap | 2006-01-31 13:58 | 2005年度ゼミ

Lin「アメリカン・コミックスに見えるアメリカの大衆願望」

目次
序論
第一章 商品としてのアメリカン・コミックス
第二章 人気作品の共通点
 第一節 大都会としての舞台
 第二節 人間らしいスーパーヒーロー
 第三節 パワフルな悪役
第三章 時代流れの中のアメリカン・コミックス・スーパーヒーロー
 第一節 夢の実現者として誕生したスーパーヒーロー
 第二節 コミックス・コードによるスーパーヒーローの抹殺
 第三節 新たなスタイルによるスーパーヒーローの復活
 第四節 “9・11”同時多発テロ事件以降のスーパーヒーロー
第四章 フィクションと現実
結論

参考資料

序論
 ここ数年の間、アメリカン・コミックを原作とするヒーロー映画が数多く公開されて大ヒットしている。『スーパーマン』や『バットマン』のシリーズ、『スパイダーマン』や『デアデビル』、『ハルク』や『Xメン』、『ヘルボーイ』や『シン・シティ』などがそうだ。多くのアメリカン・コミックスが、続々と映画業界から世の中に出されて、注目されている。
 人気のアメリカン・コミックスには、アメリカ大衆の願望が色濃く映し出されている。アメリカン・コミックスは日本の漫画と違い、作品の所有者は作家個人ではなく、出版社である。出版社は売り上げを考えて、時事問題や消費者のニーズに合わせて、コミックスを出版する。本論文の第一章では、アメリカン・コミックスと現実の事件や出来事との関わりについて、具体的な例をあげつつ論じる。
 近年大ヒットした多くの作品には、いくつかの共通点が見られる。それは、大都会という舞台、スーパーヒーローの人間らしさ、そしてパワフルな悪役である。本論文の第二章では、人気アメリカン・コミック・スーパーヒーロー・ムービーから見えてくる共通点を3つに大きく分けて、詳しく紹介する。商品化した人気アメリカン・コミックスは、この3つの共通点で、アメリカ大衆の心をつかんでいる。
 商品としてのアメリカン・コミックスが、それぞれの時代や大衆のニーズに合わせて、変化しているのは、当たり前である。本論文の第三章ではアメリカン・コミックスの歴史を通して、アメリカン・コミックスが常にアメリカ大衆の望みに合わせて作られたものであると論じる。
 21世紀のアメリカ大衆も何かを望んで、何かを求めている。第四章では、スーパーヒーローのリアル化に満足していたアメリカ大衆が、2001年9月11日の同時多発テロ事件によって、現実世界にいるリアルヒーローたちを求める願望に合わせて、アメリカン・コミックスの表現も変化を見せ、スーパーヒーローとしての主人公を主にしてきたアメリカン・コミックスが、今やリアルヒーローを主人公にし始めた。アメリカン・コミックスは常に現実を反映し、現実と繋がっていることが分かる。

結論
 アメリカン・コミックスは、1930年代後半から今まで60年余りの歴史を持っている。この間、輝く時期もあるが、暗い時期もある。しかし、アメリカン・コミックスはいくつかの難関を乗り越えて、生き残っている。これは、アメコミの独特な性質のおかげとも言えるであろう。
 第一章で述べたように、アメリカン・コミックスは出版社が所有権を持っているため、常に時事的な出来事、あるいは時代とアメリカ大衆のニーズに合わせて作られている。どの時代でも、ターゲットを決めてから商品を作るのである。
 出版社はその時代のアメリカ大衆の望みに合わせて、できるだけアメリカ大衆が気に入ってくれる商品を作る。したがって、第二章で述べたように、アメリカン・コミックスはテーマが変わっても、キャラクターを変えても、似たようなパターンでストーリーが展開している。
 アメリカン・コミックスはアメリカ大衆文化の一つとして、時代ごとの様々な大衆願望や政治状況を映し出しながら綿々と続いてきた。アメリカン・コミックス60年の歴史は波瀾に満ちたものであった。第三章で述べたように、アメリカン・コミックスにはゴールデン・エイジもあり、その存続が危ぶまれた時期もある。映画化によって、また黄金時代の到来を迎えたこともある。“9・11”の影響で、アメリカン・コミックスの表現は変わったが、未だに人気を失っていない。
 どの時代にあっても常に、アメリカン・コミックスはアメリカ大衆の願望に歩調を合わせてきた。作品の中で、実際に存在している都会を舞台にしたり、キャラクターに人間性を取り込んだりして、現実世界に影響されつつ、リアルな世界を作り出している。アメリカン・コミックスはアメリカ大衆の心の表現である。


1.「アメコミくえすと」≪http://ameque.cool.ne.jp≫を参考したものである。
2.内田樹『街場のアメリカ論』(NTT出版、2005)第3章を参考したものである。
3.小野耕世『アメリカン・コミックス大全』(晶文社、2005)を参考したものである。
4.ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント「スパイダーマン誕生の秘密――スタン・リーの世界」DVD2002/10/23を参考したものである。
5.アメコミの歴史を語る時に使われる「時代区分の用語」。正確な定義は定まっていないが、ゴールデン・エイジは1930年代から第二次世界大戦までである。一方、シルバー・エイジは第二次世界大戦後から1960年代あたりを指し、シルバー・エイジ以降はモダン・エイジと呼ばれている。
6.1935年に設立し、New Fun Comicsを創刊した。1938年に、スーパーマンをAction Comicsに登場させ、始めてのスーパーヒーローを誕生させた。その後、バットマンやワンダー・ウーマンやプラスティックマンやJSA(the Justice Society of America)やJLA(the Justice League of America)などのキャラクターやスーパーヒーロー・チームを作り上げた。
7.1939年に、前身となるタイムリー・コミックス社(後に「アトラス社」と社名を変更した)が設立、Marvel Comics #1が創刊された。1961年に、今の社名に変更した。
8.「アメコミくえすと」≪http://ameque.cool.ne.jp≫を参考したものである。
9.3Dポートレイチャー:一人の人物を職業・家庭・過去の3つの面から描くこと。
10.純丘曜彰『エンターテイメント映画の文法――ヒットを約束する脚本からカメラワークまで』(フィルムアート社、2005 )pp.138-56を参考したものである。
11.アメコミの歴史を語る時に使われる「時代区分の用語」。ゴールデン・エイジは1930年代から第二次世界大戦までであると言われている。
12.コミックス・コード:コミック規制法典(漫画表現に関する倫理綱領)である。
13.≪http://www.so-net.ne.jp/SF-Online/no6_19970818/special2_6.html≫を参考したものである。
14.内田『街場のアメリカ論』を参考したものである。
15.≪http://ppgcom.gooside.com/amecom/ccodea.txt≫を参考したものである。
16.『スパイダーマン誕生の秘密――スタン・リーの世界』を参考したものである。
17.≪http://ameque.cool.ne.jp/9-11.htm≫を参考したものである。
18.同上。図も本サイドからによる。
19.みのわ あつお「超人からより人間らしいヒーローへ」『アメリカ映画がわかる』第91号(朝日新聞社、2003)、p.96を参考したものである。
20.≪http://ameque.cool.ne.jp/9-11.htm≫を参考したものである。

参考文献
アート・スピーゲルマン(小野耕世 訳)『消えたタワーの影のなかで』(岩波書店、2005)
秋田孝宏『「コマ」から「フィルム」へ、マンガとマンガ映画』(NTT出版、2005)
池田博『映画に見る物語構造の形態論』(星雲社、2001)
岩本裕子『スクリーンに投影されるアメリカ――「九月十一日」以降のアメリカを考える』(メタ・ブレーン、2003)
内田樹『街場のアメリカ論』(NTT出版、2005)
小野耕世『アメリカン・コミックス大全』(晶文社、2005)
小野耕世、小田切博『アメリカン・コミックス最前線』(トランスアート社、2003)
純丘曜彰『エンターテイメント映画の文法――ヒットを約束する脚本からカメラワークまで』(フィルムアート社、2005 )pp.138-56
田中英司『現代・アメリカ・映画』(河出書房新社、2004)
多田信『これがアニメビジネスだ』(廣済堂、2002)
中島義道『悪について』(岩波書店、2005)
原正人、本間寛子『ヒットの哲学――映画プロデューサーが語る』(日経BP社、2004)
光クラブ『架空世界の悪党図鑑』(講談社、2004)
日本放送協会『アメリカンヒーロの系譜――夢の実現者たち』(日本放送出版協会、1986)
三浦節子『アメリカン・コミックスへの旅』(冬樹社、1981)
みのわ あつお「超人からより人間らしいヒーローへ」『アメリカ映画がわかる』第91号(朝日新聞社、2003)、p.96
筈見有弘『70年代アメリカン・シネマ103――もっともエキサイティングだった13年』(フ
ィルムアート社、1980)
http://ameque.cool.ne.jp
http://hotwired.goo.ne.jp/news/culture
http://ppgcom.gooside.com/amecom/ccodea.txt
http://www.so-net.ne.jp/SF-Online/no6_19970818/special2_6.html
『アメリカン・コミックス・スーパーヒーロー・クロニクル――スパイダーマン、バットマン…超人伝説誕生の秘密』ハピネット・ピクチャーズ、DVD2002/10/25
『スパイダーマン誕生の秘密――スタン・リーの世界』ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント、DVD2002/10/23
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by mewspap | 2006-01-21 14:31 | 2005年度卒論

2005年度卒論カテゴリのちょっとお試し(Mew's Pap)

秋学期の成績評価のために土曜なのに出校。

法文学舎の裏手にある「勝手口」ゲートはふたつとも固く閉ざされ施錠されている。
あれ?
そうかそうでした本日はセンター入試なのでした。

正門から入り直し(裏口入学はいけんよ)、坂を上っていくと、法文学舎のところにも関所が設けられて入試部の方々が立ち番をされている。
ごくろうなことである。

知り合いの入試部の方に「ごくろーさまー」とにっこり微笑んで通過しようとすると、知り合いでない入試部の方に止められて受験票の提示を求められる。

はは。ははははは。

「今日午後12時20分ころ、大阪府吹田市の関西大学でセンター試験の実施中、受験生と間違われて警備係に呼び止められ、誰何されたことに激昂した関西大学某教授が、わけの分からないことを口走りつつ学舎を爆破して逃亡を企て、受験生たちによってたかって取り押さえられて袋叩きにされた模様です。本件に関して大阪府警は捜査する構えを見せておらず、大学当局はそのような教授の存在自体を否定。報告を受けた小坂憲次文部科学大臣はかかる事態にひとこと『ほっとけ』と指示を出したとのことです。呆れたせんせいですね」といったようなイブニング・ニュースにならなくてよかったね。

昨日Yuさんから卒論ファイルが届き、これで全員出揃った。
研究室に来ると、「卒業旅行のため」卒論冊子の編集会議に出席できないというHirokoさんが、30部分の卒論両面コピーを預けていっていた。
見ているだけでなんだか気恥ずかしくなるようなピンク色の紙袋に入れてある。
Pinky Girlsだって。
なんなんでしょうこれは、と思ってさっそく検索。
ホームページのキャッチコピーには「ピンキーガールズで、めざせ100%SEXY!ポップ&クールなセクシーアイテムが勢揃い!」だって。
完全に『キューティ・ブロンド』のエル好みである。
なるほどHirokoさんがこの小説と映画を卒論の題材に選んだのは、「100%趣味趣向の一致」ゆえだったと判明する。

先に連絡したとおり、ブログ上に卒論カテゴリを設置し、目次、序論、結論、注、参考文献を掲載する予定である。
つねに仕事の速いLinさんがやっぱり送信一番乗りだったので(その後、英文要旨も悪文解題もレヴューも一番だった)、試みに通称で掲載する。
こんな感じになるので見ておいてください。
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by mewspap | 2006-01-21 14:13 | 2005年度ゼミ

甘いもの苦手、肉に弱く、11人目の報告かなわず(Mew's Pap)

昨日は13日の金曜日という映画のタイトルのような(などと言ったらキリシタンの方々に叱られるが)日で、地域自治会で開催される「どんど焼き」の前日準備と自治会報用の取材。

10余名の「割烹着おばさま軍団」に交じって、紅一点ならぬ黒一点(いや白一点か?)。
写真をぱちぱち撮りインタヴューしつつ、バケツで餅米の洗米、大量のできあい餅のカット、そして小豆を洗って大鍋でことこと炊いてぜんざい作りのお手伝い。

手際の良さにお褒めの言葉を預かる。
この年代の女性はやはり「家事がまるでできない夫の妻」という典型的な話型を踏襲した方が多く、米洗ったり包丁振るったり鍋の番をしてときおりお玉でかき混ぜたりお湯を沸かしたりするだけで喫驚と称賛を得る。
お得な立場である。
私はなぜか昔から「おばさま」の受けがよい。飲み屋、定食屋、喫茶店なんかの女将のね。
意識しているわけではないが、おそらくコツは共感的なまなざしを相手に向けながら黙って耳を傾けることである。
年下の異性が「共感的なまなざしを投げかけつつ自分の話を聴いてくれる」という誘惑に勝てる人はそういない。

完成したぜんざいをお椀に入れて真っ先に「味見味見」と差し向けられたが、私は甘いものが大の苦手である。
ぜんざいのようなただひたすら甘いものはもっとも苦手である。
平身低頭してご辞退申し上げる。

それから昨秋あった防災イベントで備蓄した「フリーズドライ豚汁」をどんど焼きで供出することになったそうで、自治会長の命によりそれにお餅を入れることになる。
白みそ仕立ての豚汁雑煮。
げげ。
勘弁してほしい。
お湯で戻したフリーズドライ豚汁はけっこうおいしかった。
ぜひとも餅の投入はやめていただきたい。

本日は1限が試験、2限は年末に補講で試験をやったので休講となるはずが、あの日は大雪のために受験できなかった受講生が数名いる。
そのわずかな学生のために再試験。

1限は30分ずらして9:30開始。
50分の試験で、黒板にも9:30~10:20と大書する。
ノートPCを持ち込んでいるので、こちらは普段持ち歩いているメモ帳(cf.「研究用メモの効用」2005-4-30)をパコパコ打ち込む。

何かおでこのあたりがむずむずするので顔を上げると、受講生のみなさんが無言でじっとこちらを見ている。
ちゃお。
時計を見ると10:20。
「はい、あとちょうど10分間です」と厳粛にアナウンスしても、面持ちを下げる者がいない。
あ、10:20まででした。はは。はははは。

2限目も試験終了後7分くらいたって気がつく。
どうもぼんやりである。

お昼ご飯は正門前の吉○家にしょうが焼き定食(期間中につき50円安い430円)を食する。
ごはんも少なめにしてもらったのだけれど、それでもやっぱ午後はお腹がごろごろ鳴る。
あんな少量でも、やっぱり肉があまり得意ではないのである。

部屋に戻ってぼぉっと作業をしていると、唯一連絡が来ていないS.T.くんが登場。
うむ。
もっと勉強したいので来年も残留するそうである。

みなさんに「11人いる!」(@萩尾望都)とご報告することはかなわなかった。

残念ではあるが、ま、いいんじゃないの。
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by mewspap | 2006-01-14 15:37 | Mew's Pap

鏡開きは事故多発(Mew's Pap)

昨日、今日と提出日である。

今のところ7人から無事提出の連絡を受けた。

本日は秘密特務で朝から出校。
5時過ぎに解放されるが、阪急電車は事故でダイヤが乱れている。
ほらね。
昨日提出しておいてよかったでしょ。
ぎりぎりに提出しようと思っていた人たちは、世のいたずらに涙をのんでいるだろう。
そういうものである。

JRの帰途は問題なかったが、最寄り駅からのバスが待てど暮らせど登場しない。
冷え込むバス停に列をなして待つ。

駅そばの武庫川に架かる大橋で交通事故があったために遅れたとのことである。
大橋を通過するときふと窓から見ると、少なくとも3台の車がぐしゃっと潰れている。

仕事始めで、あちこちたががゆるんでいるのであろうか。
阪急の事故は人身事故だったらしいが。

ということで、鏡開きで子どもと一緒に餅焼いて食べるのに間に合わず。

みなさん事故なく提出されたことを祈る。

まだ連絡もらってない人、だいじょうぶだろね。
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by mewspap | 2006-01-11 20:12 | Mew's Pap

シネマのつぶやきアーカイヴ:THE TABLE OF CONTENTS

■シネマ◆
■の■■■
■つぶ■■ ◆ ◆THE TABLE OF CONTENTS
■■■やき ■ ■ ◆ ■
◆◆■◆■■◆アーカイヴ ■◆ ■ ◆2002-08-02~2004-12-31

=長さの関係上前半・後半と別記事となっている号があります=

「シネマのつぶやき」は、2002年8月から2004年末までの約2年半、少人数のインナー・サークルをお相手にメール配信していた身辺雑記付きの映画評です。その後、N島先生のホームページに転載していただきました。その辺りの経緯を記した文章を目次のあとに再録しています。


「シネマのつぶやき」目次

その1
『小説家を見つけたら』Finding Forrester 2000年アメリカ
『私が愛したギャングスター』Ordinary Decent Criminal 1999年イギリス
『キス・オブ・ザ・ドラゴン』Kiss of the Dragon 2001年アメリカ/フランス
『ファイナル・ファンタジー』Final Fantasy: The Spirits Within  2001年アメリカ

その2
『あの頃ペニー・レインと』Almost Famous 2000年アメリカ
『15ミニッツ』Fifteen Minutes 2001年アメリカ
『グリーンフィンガーズ』Greenfingers 2000年イギリス

その3
『シビル・アクション』A Civil Action 1999年アメリカ
『天使のくれた時間』The Family Man 2000年アメリカ
『理由』Just Cause 1995年アメリカ

その4
『アミスタッド』Amistad 1997年アメリカ

その5
『お早う』 1959年日本
『萌の朱雀』 1997年日本
『シュリ』Shuri 1999年韓国

その6
『ロスト・チルドレン』La Cite des Enfants Perdus 1995年フランス
『晩春』 1949年日本
『トゥーム・レイダー』Tomb Raider 2001年アメリカ
『わが青春に悔なし』 1946年日本

その7
『マッド・シティ』Mad City 1997年アメリカ
『ティファニーで朝食を』Breakfast at Tiffany's 1961年アメリカ
『麦秋』 1951年日本
『コン・エアー』Con Air 1997年アメリカ
『デッドロック』Race Against Time 2000年アメリカ(TV)

その8
『ルール2』Urban Legends Final Cut 2001年アメリカ
『デンジャラス・ウーマン』Corruption Empire 1999年アメリカ
『スクリーム 3』Scream 3 2000年アメリカ
『グリーン・デスティニー』Crouching Tiger, Hidden Dragon 2000年中国
『トゥルー・クライム』True Crime 1999年アメリカ

その9
『ディアボロス』Devil's Advocate 1997年アメリカ

その10
『マーシャル・ロー』The Siege 1998年アメリカ
『武器よさらば』A Farewell to Arms 1932年アメリカ
『裏切り者』The Yards 2000年アメリカ
『仁義なき戦い』 1973年日本
『最終絶叫映画』Scary Movie 2000
『アメリカン・ナイトメア』The American Nightmare 2000年アメリカ/イギリス

その11
『仁義なき戦い・広島死闘篇』 1973年日本
『仁義なき戦い・代理戦争』1973年日本
『ルール』Urban Legend 1998年アメリカ

番外編

その12
『処刑人』The Boondock Saints 1999年アメリカ/カナダ

その13
『悪魔を憐れむ歌』Fallen 1997年アメリカ

その14
『ブレイド』Blade 1998年アメリカ
『クリムゾン・リバー』Les Rivieres Pourpres 2000年フランス
『仁義なき戦い・頂上作戦』1974年日本
『チャイルド・コレクター:溺死体』The Spreading Groud 2000年アメリカ

その15
『偶然の恋人』Bounce 2000年アメリカ
『人狼』 2000年日本
『ソードフィッシュ』Swordfish 2001年アメリカ
『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』インターナショナル・ヴァージョン 1995年日本
『ユージュアル・サスペクツ』The Usual Suspects 1995年アメリカ
『シリアル・ママ』Serial Mom 1994年アメリカ
『どら平太』 1999年日本

その16
『パンサー 黒豹の銃弾』Panther 1995年アメリカ
『リプレイスメント』The Replacements 2000年アメリカ
『ニュー・ジャック・シティ』New Jack City 1991年アメリカ
『ミラーズ・クロッシング』Miller's Crossing 1990年アメリカ
『サザン・コンフォート:ブラボー小隊 恐怖の脱出』Southern Comfort 1981年アメリカ
『ホワイトハウスの陰謀』Murder at 1600 1997年アメリカ

その17
『ベオウルフ』Beowulf 1999年アメリカ
『あの子を探して』一個都不能少 1999年中国
『追跡者』U.S.Marshals 1998年アメリカ
『メメント』Memento 2000年アメリカ

その18
『スリー・キングス』Three Kings 1999年アメリカ

その19
『ブロウ』Blow 2001年アメリカ
『スコア』The Score 2001年アメリカ
『ロミオ・マスト・ダイ』Romeo Must Die 2000年アメリカ

その20
『N.Y.P.D.15分署』The Corruptor 1999年アメリカ
『ザ・ディレクター「市民ケーン」の真実 』RKO 281  1999年アメリカ
『リベラ・メ』Libera Me 2001年韓国
『真実の行方』Primal Fear 1996年アメリカ

その21
『レザボア・ドッグス:仁義なき男たち』Reservoir Dogs 1991年アメリカ
『救命士』Bringing Out the Dead 1999年アメリカ
『ギルバート・グレイプ』What's Eating Gilbert Grape 1993年アメリカ

その22
『ワイルド・アット・ハート』Wild at Heart 1990年アメリカ
『トゥルー・ロマンス』True Romance 1993年アメリカ
『エボリューション』Evolution 2001年アメリカ

その23
『ゴースト&ダークネス』The Ghost and the Darkness 1996年アメリカ
『スター・トレック:ファースト・コンタクト』Star Trek: First Contact 1996年アメリカ
『フロム・ダスク・ティル・ドーン』From Dusk till Dawn 1996年アメリカ
『シャドウ・オブ・ヴァンパイア』SHadow of the Vampire 2000年アメリカ
『ホタル』 2001年日本
『アステロイド:最終衝撃 ロングバージョン』Asteroid 1997年アメリカ

その24
『フロム・ダスク・ティル・ドーン3』From Dusk till Dawn3 2000年アメリカ
『ザ・ダイバー』Men of Honor 2000年アメリカ
『スティル・クレイジー』Still Crazy 1998年イギリス
『ナチュラル・ボーン・キラーズ』Natural Born Killers 1994年アメリカ

その25
『パール・ハーバー』Pearl Harbor 2001年アメリカ
『トレーニング・デイ』Training Day 2001年アメリカ
『タイタンA.E.』Titan A.E. 2000年アメリカ

その26
『スタートレック:叛乱』Star Trek: Insurrection 1998年アメリカ
『ハムナプトラ2:黄金のピラミッド』The Mummy Returns 2001年アメリカ
『ドラキュリア』Dracula 2000 2000年アメリカ
『ザ・メキシカン』The Mexican 2001年アメリカ
『バトル・ロワイヤル』 2000年日本

その27
『ラッシュアワー2』Rush Hour 2 2001年アメリカ
『バンディッツ』Bandits 2001年アメリカ

その28
『シッピング・ニュース』The Shipping News 2001年アメリカ

その29
『EXIT-イグジット-』Exit 2000年フランス
『バニラ・スカイ』Vanilla Sky 2001年アメリカ

その30
『アメリ』Le Fabuleux Destin D'Amelie Poulain 2001年フランス
『レプリカント』Replicant 2001年アメリカ

その31
『チェーン・リアクション』Chain Reaction 1996年アメリカ

その32
『ラブ・オブ・ザ・ゲーム』For Love of the Game 1999年アメリカ

その33
『ウエディング・プランナー』The Wedding Planner 2001年アメリカ
『ヴィドック』Vidocq 2001年フランス
『ジェヴォーダンの獣』Le Pacte des Loups 2001年フランス

その34
『ソラリス』Solaris 2003年アメリカ

その35
『彼女を見ればわかること』Things You Can Tell Just by Looking at Her 1999年アメリカ
『ザ・コア』The Core 2002年アメリカ
『悪魔のいけにえ 2 』The Texas Chainsaw Massacre Part 2 1986年アメリカ
『CUBE2』Cube 2: Hypercube 2002年アメリカ

その36
『ビッグ・フィッシュ』Big Fish 2003年アメリカ

その37
『おばあちゃんの家』The Way Home 집으로 2002年韓国

その38
『ウォルター少年と、夏の休日』Secondhand Lions 2003年アメリカ

その39
『ミスティック・リバー』Mystic River 2003年アメリカ
『コール』Trapped 2002年アメリカ
『ザ・リング』The Ring 2002年アメリカ

その号外の埋め草

その40
『ヴァン・ヘルシング』Van Helsing 2004年アメリカ
『ヴィレッジ』Village 2004年アメリカ

その41
『デッドコースター/ファイナル・デスティネーション2 』Final Destination 2 2003年アメリカ
『ワニ&ジュナ~揺れる想い~』Wanee & Junah 2001年韓国
『2010年』2010 1984年アメリカ

その42
『息子のまなざし』Le Fils 2002年ベルギー
『ロゼッタ』Rosett 1999年ベルギー/フランス
『ナビィの恋』 1999年日本

その43
『モンスター』Monster 2003年アメリカ
『パニック・ルーム』The Panic Room 2002年アメリカ
『オーシャンズ11』Ocean's Eleven 2001年アメリカ
『ローラーボール』ROLLERBALL 2002年アメリカ

その44
『シークレット・ウインドウ』Secret Window 2004年アメリカ
『ホワイトアウト』 2000年日本
『グラスハウス』The Glass House 2001年アメリカ
『ジーパーズ・クリーパーズ~暗黒の都市伝説~』Jeepers Creepers 2001年アメリカ

その45
『ブラック・ホーク・ダウン』Black Hawk Down 2001年アメリカ
『ウィンドトーカーズ』Windtalkers 2001年アメリカ
『YAMAKASI~ヤマカシ~』Yamakasi: Les Samourais de Temp Modernes 2001年フランス

その46
『父と暮らせば』 2004年日本
『スパイダーマン』Spider Man 2002年アメリカ

その年の瀬雑記


以上のように番外編を除き46号まで、130本ほどの映画について思いつきのでたらめを書いている。
テキストファイルでおよそ1メガ。ずいぶんと書き散らしたものだ。

ほとんど一筆書きで勝手なことを書き飛ばし、配信したらすぐに忘れる、というスタイルだったけれど、たくさん書いているとおのずと量が質的な変化を遂げるものです。書いた対象の映画が100を超えたあたりから、この雑多なテキストも私にとってひとつのリソースになるかもしれないなと思い始めました。

今となっては何でこんなことを書いたのか、この人の頭のなかはどうなっているのかまったくの謎で気が知れんというのが多々ありますが、「お、なかなか気の利いたことを言うではないか」という箇所も(若干)あるではないか。

この間、N島先生のホームページALL ABOUT CRICKET'S LIFEに間借りさせていただき、「シネマのつぶやきのヤドカリ」として部分的に掲載させてもらっていました。
あらためてN島先生に感謝。

この「ヤドカリ店子版」の表紙ページに、以下のような借家人のご挨拶を記しています。
執筆スタイルと趣旨の要約になっていますので、cricket先生を顕彰しつつここに再録しておきたいと思います。


■シネマ◆
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■つぶ■■ ◆
■■■やき ■ ■ ◆
■■◆■■■のヤドカリ ◆
朋友cricketせんせからHPの片隅に間借りさせてあげようというお誘いを受け、メルマガ「シネマのつぶやき」を再録させてもらうことになりました。

ヤドカリ店子版です。

このメルマガは、2年ほど前から、ゼミの学生を中心としたキャプティヴ・オーディエンスをお相手に、「ほっこりまったりインハウス」で始めたものです。

新旧かかわりなくほとんど無作為に選んだ映画について、わたくしが思いつきの三百代言をつぶやく、という笑止の至りこそその趣旨としております。

したがって、ここに書かれたテクストは専門的なフィルム・スタディーズとは縁もゆかりもなく、テクストのアドレッシー(受信者)として想定されているのも、わたくしの暴論を「ま、いっか」と苦笑交じりに黙過して甘やかしてくれる寛容な人、ということですので、そこんとこ、どぞ、よろしく。

しかし、映画について語るというのは、結構むずかしい。
文字テクストについて書く場合は、言葉が言葉を紡ぎ出すかたちになるけれども、映画の場合は通常の意味においてまだ「言語化されていないもの」について語ることになりますから。

視覚と聴覚を強烈に刺激することによる「ムーヴィ・ハイ」のなせるわざなのでしょう、映画館を出たあと駅に向かう道すがら、わいわいと観たばかりの映画について「解釈」を声高にしゃべっている人たちが必ずいるけれど、わたくしはどうも「あれ」が苦手である。

映画を観たあとは、オープンで爽やかな明るいパステル調のお店で「わいわい」ではなく、彩度を落とした暗めの照明の喫茶店で濃くて熱いコーヒーをすすりながら、断片的に「と思うんだけど、ちがうだろうか」とぼそぼそとつぶやく、という「あの感じ」がよいと思う。

ぼそぼそ。

ふむふむ。

という「あの感じ」でどうぞお読みください。

実際、激越な口吻で一刀両断という話法による映画評は苦手です(こわいし)。
難解な批評タームに彩られた映画論も苦手である(よくわかんないし)。

映画というメディアの特質と一世紀以上にわたる映画的記憶のしからしむところなのでしょうが、まことに門外漢が映画について語るのはむずかしい。

このメルマガ「シネマのつぶやき」では、「アキモトせんせ」という「ちょっとおバカな」ヴァーチャル・キャラクターを捏造し(実物は「かなりおバカ」であるやに側聞する)、「彼」に語らせるという隘路を戦略的に選択しております。

だからわたくしは一切責任を負わないのである。「あの映画評はおかしいのではないか」と現物のわたくしをつかまえて、「>○」ということのなきよう(ちょと古いけど角でワだから「驚かす」の意@庄司薫)、ここに伏してお願いします。

たとえ絶叫調の決めつけを避けたとしても、いたずらに難解な「批評」か、私的趣味の吐露たる「感想」へと二分する傾向が映画評にはあるようです。
目指すところはそのあわいだけれども、「アキモトせんせ」がその性格上往々にして後者に傾くのは致し方ないところとご容赦いただきたい。

各号の巻頭には、そこはかとなく書きつくるよしなしごとを付しています。
映画とは関係のない極私的な前説ですのでご笑覧のうえご放念ください。

ほんでは、四畳半一間ほどを間借りして、店子版「シネマのつぶやき」を順次アップしていきます。

宿主cricketせんせ、ありがとね。
お家賃は毎月ビール一杯でよいと言ってくださるとは、なんて寛大なるオッファーなんでしょう(言ってなかったっけ?)。

借家人拝

And after all the Jacks are in their boxes,
And the clowns have all gone to bed.
You can hear the happiness staggering on downstream,
Footprints dressed in red.
And the cinema whispers . . . .
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by mewspap | 2006-01-07 07:00 | シネつぶアーカイヴ

シネマのつぶやき(その年の瀬雑記:後)

■シネマ◆
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■つぶ■■ ◆ その年の瀬雑記(後)
■■■やき ■ ■ ◆ 2004-12-31

◇◇◇━━━
アキレスと亀
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なんでだか忘れたが、授業中にとつぜん有名なパラドクスの「アキレスと亀」の話になった。

驚いたことにこのパラドクスをまったく知らないという受講生がいて(ほんと驚いてはらりとテキストを取り落とす)、聞いたことはあるがその理路がよくわからないという者、さらに独自の解釈で説明を試みる者が混在して何がなにやらわからなくなる。

簡単に言うとこんな話である。

とっても足の速いアキレスと鈍足の(言うまでもなく)亀が競争することになった(理由は知らない)。
ただし、それではあんまりな話なのでハンディをつけ、アキレスが0地点から出発し、亀はアキレスよりも先のA地点からスタートすることになる。

するとあら不思議、アキレスは決して亀に追いつくことができないのである。
別に亀をなめきったアキレスが昼寝をかましていたわけではない(あっちのコンペで亀とかけっこしたのはアキレスではなく兎さん)。

アキレスが亀のいたA地点に到着するときには、いかに鈍足とはいえ亀さんも前進してB地点にいる。
そしてB地点にアキレスがいたったときには亀はC地点にいる(以下同じ)。

したがってアキレスは決して亀に勝つことができないのである。

古代ギリシアの哲学者ゼノンがそう言っているのだからそうなのであろう。

数学的に立証したり反証したりする人がおられるであろうが、かねてよりご案内のようにわたくしは算数が嫌いである。

だから数学者の説明を聞いたりしたら、1分以内に気絶するであろう。

別にムッシュ・ゼノンに異論をはさむつもりはないのだけれど、思うにこのパラドクスは、空間と時間の混在により、あるいは距離上のディスタンスと時間上のタイムスパンのすり替えによって起こる。

空間の話をしていたのに時間の話にすり替え、時間のことかと思ったら空間のことにすり替えられてしまうのである。

亀の「いた」地点をつねに定点として、その定点にアキレスが追いついた「とき」には、亀はさらにその先のところに「いる」というように。

言うまでもなく、洋の東西を問わず人間は時間軸を空間座標に置き換えることによって認識する(時間「軸」と言った瞬間にもうそうである)。

「長い/短い」期間とか。
「遠い」過去とか「近い」将来とか。
空間を計測する度量衡で時間を捉えますよね。

long, short, far (distant), nearは当たり前すぎてちょっと幼稚なので、授業でよく言及するのが"immediate"という単語である。
この単語は「直の」「接した」と「即座の」「直近の」という空間と時間の両者を表します。

仕方ないのである。時間というのは捉えがたいものなのだから。

要するにアキレスと亀のパラドクスは、時空認識の陥穽そのものに由来するのである。
亀がスタートしたA地点にアキレスが到達したとき、たとえわずかなりとも亀の方は前進してB地点に達している。アキレスがB地点にいたれば、亀はC地点に進んでいる。

このお話はつねに亀が「いた」場所を定点とし、アキレスはそれを目標としているので、亀が今「いる」場所に対して永遠に「遅れをとる」ことは必定である。
これではアキレスは亀に決して追いつくことはできない。

ということを授業でわいわい言っていると、そもそも当初はこのパラドクス自体知らなかったある学生が、「アキレスは過去の亀の影を追いかけている」という慧眼を示してくれた。

若いっていいね。

そうなのである。

距離の話をしているようで、実はこれは時間の話になっているのである。
アキレスはつねに「過去の亀」を追いかけるから、「現在の亀」に原理的に追いつけるわけがない。
哀れアキレスは構造的に負け続けるべく宿命づけられたランナーなのである。

もっと言えば、このパラドクスは「アキレスは現在の亀に追いつけない」というワーディングで「現在性」の共有を強調しているが、実のところつねに亀を未来に投企しつつ、アキレスを過去へと追いやっているのである。

可哀想な話ではあるが、時間と空間をめぐるゼノンの奸策に気づかない限り、アキレスは未来永劫走り続け、亀ごときの後塵を拝して惜敗の涙を流し続けることになる。

別にそんな賢しらな理屈を並べなくてもこのパラドクスはもう解決済みだよと思われるかもしれない。

まあ、そう言ってくれるな。

アキモトせんせだってたまにはインテリぽく見られたいこともあんの。

◇◇◇◇━━━━━━━━━━━━
ひさしぶりに『北の国から』のつぶやき
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ずいぶんひさしぶりですが、名作TVドラマ『北の国から』について。

振り返ってみると『北のに国から』のつぶやきは「シネつぶ」その19以来で、すでにさんざん書いたはずがまだ言い足りないのである。

それで続きは他日を期すつもりが、すっかり忘れていた(よくあることである)。

N島先生のHPにバックナンバーを載せてもらっていて、「そうそう」と思い出した。純と蛍の兄妹について書いていたのでした。

思うに『北の国から』の物語には、「蛍的存在様式」と「純的存在様式」と呼ぶべき「子どもの類型」が認められるような気がする。

以前書いたように、蛍は「決して語らない、言い訳しない、説明しない」人です。端的に言って、蛍というのは「……」という存在なのである。

なぜ蛍は語らないか。

語って、言い訳して、説明しても、世界は改変し得ないと蛍は知っているからである。世界は変えられない、自分はそこに有意な影響を行使し得ないという認識は、まさしく「子ども」の本能的な諦観である。

他方、ひたすらしゃべる純は世界変革の可能性を信じる人である(失敗を運命づけられた言葉による永久革命家であろう)。
彼は言葉による分節で、自分に都合のいい世界が現出すると信じている。

純が「子供らしくなく」「生意気」に見えるのは、言葉による世界への影響力を持ち得ると思っているように見えるからだ。
そして「しゃべり続け言い訳し続ける」純は、変革可能性を(もちろん)否定され、「自分に都合のいい」言葉を生産したという部分だけあげつらわれて、あとあとまで罪悪感を抱かされる。

あわれ。

おしゃべりの純に対して、蛍は「語らない人」だけれども、それだけではない。
蛍的存在様式の基幹は、「子ども界の人」のもうひとつ重要なカテゴリーである、「見る人」というところにある。

「見る人」としての蛍にとって、母の令子の浮気現場を目撃してしまったことが原風景をなす。そして蛍はそのことを誰にも語らない。

第17話で、五郎にも純にも内緒で母の乗った列車をひとり追っかける。

第20話で、父の五郎がこごみと仲良くしている現場を目撃してしまう。
こごみと五郎が丸太小屋作りの現場にいて、蛍は初めて自分で作ったお手製弁当を持参して息せき切って走っていき、二人の楽しそうな姿を見てしまう。

蛍はUFOも見る。そして純にそれを語り伝え、当然のことながら信じてもらえない。

無口で「見る人」蛍は、世界を変えるべく「語る人」になったとき、ことごとく失敗して理不尽な痛手を受ける。「おにいちゃん、私見た」と語ったとき、蛍は「語らない見る人」から足を踏み出す。

他方、五郎とこごみのことを、見てもいない純は語ってみせる。「蛍が何もしゃべらなかったら、そんな事件のことは知らなかった」と。

純の語りで繰り返される「そんなことはぜんぜん知らなかった」という文体に特徴的に表れているように、純は「見ていない」ことでも「語る」人だ。

「見てもいない」ことを「語る」純は、UFOの一件を新聞記者に話してしまう。

それがテレビ局の知るところとなり、蛍への取材の申し込みがある。
「語らない人」蛍は嫌がっていたが、自分がTV出演するところを母が見たら状況が変わり、五郎とこごみの「再婚」を阻むことができるかもしれないと思い直す。

意を決してテレビ取材を受けてUFO目撃談を語り、そしてそのヴァラエティ番組のなかで蛍の話は「子どもの空想」と嘲弄される。

「さっき出てきた女の子、とくとくとしゃべってたわよね」とコメンテーターが言う。「それでみなさん気づいてたかどうか、あの子の話、ちゃんとストーリーができている気がするのね。ってことはもう何人か、ずいぶんの人におそらくこの話をしたと思うし、話って、ほら、何度も繰り返してるうちに自分でもリアリティもってきちゃうでしょう。……あの子、なかなか美人だったじゃない。きれいな女の子ってそういうとこあるのよね。とにかく周囲を惹きつけておきたい――」。

語り始めた蛍の「言葉」はことごとく否定されるのである。

かくのごとくテレビ番組で愚弄され、「見たモン……。見たモン、蛍。ウソじゃないもン」とつぶやいて、蛍は涙ながらに走り去る。

多くを語らない稚拙なこの話法「わたしは見た。嘘ではない」そのものに、蛍の在り方がある。

「見る人」で「語れない人」なんである、蛍は。

テレビ出演によって、蛍は「語る人」であることに失敗する。
そしてもちろん、「見られる人」であることにも失敗する。
むろん蛍に責はないんだけれど、大人の世界が蛍に「語る人」であることを禁止し、かつ蛍が「見られる人」となるとき、それは「邪視」の対象としてでしかない。

「見る者-見られる者」とは権力関係である。
だが蛍は「見る人」の立ち位置から権力を得ることがない。
蛍は見る「べきではなかった」ものを見てしまうのであり、それゆえ権力化を阻まれている(しようと思えばできるのけれど、「見ること」=「知ること」によって一番傷ついているのが蛍だから、見たことを権力として濫用しないのである)。
つまり蛍にとって「見たもの」とは、子供の特性である「見てしまったもの」なのである。そして見ることによって、大人に対する負債感をまたひとつ増やしてしまう。

ついでに言えば蛍は「足が速い人」である。

原型は第17話の「東京に帰る母の列車を黙ったまま涙ぽろぽろで川岸で追っかけ」シーンであろう。
五郎とこごみのツー・ショットを目撃して走って去る。
テレビ番組で嘲弄されて走り去る。

その走り方にはまったく変化が見られない。
顎は引きぎみで、ひじを張った腕を大きく振り、「全力疾走」でものすごいスピードで走る。
そこに一切の「余念がない」走り方である。そのとき蛍は、「走る」という動作に憑依し、「駆ける」という動詞化している。

結論。蛍は「しゃべらない人」であり、「見る人」であり、「走るのが速い人」である(我ながらばかな結論である)。

しかし、単に蛍が受動で純が能動というわけではない。
蛍には「内面」がある。大人が、あるいは「おにいちゃん」の純が、「見ていない」ときの、われわれ視聴者だけが見ている蛍の「表情」がそれを表現している。

別に純に内面がないというのではないのだけれど、純の内面など透明なのだ。丸見えである。
外から丸見えの透明な「内面」など、言葉の定義への背馳である。
彼が往々にして抱く「秘密」は「子供の秘密」である。大人には見え見えだ。
他方、蛍の秘密は大人の秘密であり、それを隠す彼女の内面は堅牢である。
したがって、決して蛍に内面の語りなどさせてはいけなかったのである。

『'89帰郷』で、初めて蛍の内心の声が発せられる。
恋する乙女の蛍が勇次(緒方直人)と会話を交わしたとき、「やったァ」というシリーズ初めての内心の声がヴォイスオーヴァーとしてかぶさる。

このとき、堅牢なる「内面」を秘めた少女の蛍が失われるのである。
決して語られず、つまびらかにされないされない秘密であることによって、蛍の「内面」の重力と深甚は担保されていた。
実際に内心の声がつぶやかれてみると、それはきわめて単純なものであったことが露呈する。

純がすでに東京に出ていて不在なので、脚本上、蛍を語り手として引っ張り出さざるを得なかったことはわかる。
しかし、この特別篇で蛍がもはや子供でなくなって「語り始めた」とき、「蛍的存在様式」も終わりを告げたのである。

その後、蛍は五郎という係累を捨て、仕事を辞め、不倫をし、駆け落ちをし、不倫相手の子どもを宿したまま正吉と結婚することになるでしょう。

純は10代で馬鹿をやり、蛍は20代で切れてはじけてしまう。

蛍は母を見送り、雪子おばさんを見送り、純を見送り、そして初恋の勇次を見送ることになる。
そして一切の泣き言を口にしなかった。
子どものときから蛍は「定点」であり続け、「母なる大地」であり続けた。
こりゃどう見ても間尺に合わない。

その後の蛍はひたすら「蛍的存在様式」の埋め合わせに邁進することになる。

『'89帰郷』に始まる語り手としての蛍を見て、やっぱ純の語りの天才ぶりがよくわかった。
シリーズ最終回の『遺言』でも蛍は語り手だったが、いまいちである。ここで蛍はかつての「蛍的存在様式」の恨みを晴らすかのように、「批判し主張する女」になる。

気の毒だけれど、ほんといまいちなんだよな。

純の語りの意味とは何であるか、もう一度考えてみなければならない。

というわけで、この項続く(たぶん)。


さて、ほんとに2004年もさよならです。
いろんな点でたいへん疲れる一年であった。
そろそろ辛抱が切れるかもしれない。アキモトせんせがどっかで暴れ出すのを目にしたら、どうぞ理を唱えて「つまらないからやめておけ」と羽交い締めにしてください。

みなさんにとって2005年がごろごろ幸のころがったよい年であることを祈り上げます。
特にゼミ生諸君には、最後の孤独な戦いを心おきなく戦うことを祈る(骨は拾ってあげる)。

どうぞよいお年を。

2004-12-31
Copyright c.2004 by Mew's Pap Co.Ltd.
All rights reserved.

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by mewspap | 2006-01-07 02:00 | シネつぶアーカイヴ

シネマのつぶやき(その年の瀬雑記:前)

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■つぶ■■ ◆ その年の瀬雑記(前)
■■■やき ■ ■ ◆ 2004-12-31

やっほ。

いよいよ2004年の師走も大詰めである(なんか変な言い方だな)。
しんしんと暮れゆく年の瀬は、しんしんと降り積もる雪に覆われて、我が寓居も雪に包まれている。
今年の師走は忙しく、映画を観るひまもなかった。

ということで、2004年最後の「シネつぶ」は、映画抜きのあたふた身辺雑記でごめんね。

しかし、どんなにあたふたしようとも、おせち料理の用意だけはする。
わたくしが担当するのは、数の子とごまめとお雑煮だけなのだが。
だって好きなんだもん。

以前、史学・地理学専修のF田先生が文学部HPで「お雑煮文化論」と題したコラムを書いておられたが、我が家のお雑煮はいたってシンプルな醤油だてのおすましである。
昆布と鰹節とその他混合節で気合いの入ったお出汁は用意するが、あとは薄口醤油とお酒で味付けし、大根、人参、椎茸、鶏肉を入れ、三つ葉を散らして柚子を添えるだけ。
関東出身なのでおもちは四角餅が好みなのだが、こちらでいただくのは丸餅ばかりである。

四角かろうと丸かろうと餅は餅なので気にしない。

それよりも酉年なのにいきなり鶏の殺生をしてしまっていいのだろうか。

いいのである。おいしいから。

あと残った仕事は年越しそばの準備である。
こちらも気合いを入れて出汁をとり、でかい海老の天ぷらを揚げてトッピングとするのが倣い。

今年は何年かぶりに部屋の大掃除までしてしまった。
というかほとんど部屋の改造で、まだその過程なんですね。部屋のなかぐちゃぐちゃである。

なんやかやとあわただしいなか、書斎とリビングに本棚を作り付けたためです。

いかにも「昔気質の職人」という感じで口べたの建具屋さんに来てもらって、我が家の書斎とリビングに作り付けの本棚を設置してもらいました。

その片づけがまだ終わらない。このまま年越しとなりそうである。

でも天井までいたる作り付けの本棚って、年来のあこがれだったんですよね。

なんか「学者」とか「読書家」みたいじゃない。

◇━━━━━━━━━━━━━━
「化粧の文化史」公開授業無事終了
━━━━━━━━━━━━━━━
「化粧文化の新しい広がり――福祉場面における化粧の効能~タミー木村先生によるデモンストレーション・トーク~」と題した総合講座「日本学Ⅰ:化粧の文化史」の公開授業が無事終了。

吹田ケーブルテレビも取材に来ていました。

メイクアップ・アーティストのタミー先生は、高齢者施設で入居者に化粧を施す福祉活動にも従事されている。
その写真やヴィデオ映像を見せてもらったのだが、化粧前と化粧後では本当におばあちゃんたちの表情ががらりと変わる。
無表情だった方がにっこり笑い、無口の方が滔々としゃべり出し、歌を歌い出す人もいる。
不思議な魔法を見ているようである。

トミー先生はとってもいい方でした。
内側から「明るいエネルギー」をぴかぴかと放射している感じで、そばでお話をしているだけで元気をもらえるような人である。
おそらく福祉現場では、化粧をすることと同時に、このような人がそばにいることそのものが「エンパワーメント」効果をもたらすのでしょう。

化粧のデモンストレーションでは、受講生のなかから50代の現役の学生M原さんにメイクモデルになっていただいた。
当初、実演でモデルになっていただけませんかと声をかけたとき、「高齢者への化粧の効果」という趣旨なので失礼に当たるのではないかとちょっと気が引けたのであるが、たいへん「のりのり」の方で大いに楽しんでおられた。

喜んでもらえてわたくしとしても胸をなで下ろす。

実は二人目のメイクモデルには文学部事務室のU野さんにお願いしていたのだが、授業手順の都合でおひとりしか実演に時間を充てられず残念。
一部でよく知られているように、U野さんもたいへん「のりのり」系のお方で、「きれーにしてくれるんでしょ? あら、楽しみやわ!」と期待してくださっていたのに申し訳ない。

文学部執行部の先生も顔を出してくださった。
文学部長を初め、メイクモデルが現役学生であることにびっくりされていたN澤先生、かぶりつきでご覧になっていたO村先生、どうもありがとうございました。

公開授業なので学外の一般の方々にもご参加いただいたが、隅の方にちょこんと座ったちっちゃなおばあちゃんがいたのが嬉しかった。

◇◇━━━━━━━━━━━━━━━━━
「長期週一回型」学校インターンシップ報告会
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過日、学校インターンシップの事後報告会が開催されました。

今年度は延べにして約300名の学生が高校、中学校、小学校等に派遣されたが、冒頭の挨拶で文学部長は、この報告会は「経験の共有の場」であると話されていた。

インターンシップで様々な経験を積んだ学生は、「言語化」を通じて初めて自己の経験を我がものとし、かつ他の人と共有することができる。

そして言語化にはふたつ大事な点があると述べていた。
ひとつは「ストーリー化」であり、もうひとつは「キーワード抽出」である。

ストーリー化によってみずからの経験を自覚化し、かつ経験にキーワードないしポイントを付与することによって適切にレジスターされる、という趣旨であろう。

犀利で高度な論理性をもって鳴り、その浩瀚な「整理整頓された数多くの引き出し」からどんな問題にでもレファレンスをもっている部長ならではの「知的コツ」である。

なるほどいいことを教えてもらった。

ただ、「物語(ストーリー)」には、もうひとつ重要な役割があると思う。
キーワードでは括りきれず、ポイントというものでは表象し得ない何かが、「物語」の隅っこには潜むのではないか。

たぶんわれわれが飽きもせず物語を語る、物語を聴く(読む)ことの理由もそこにある。
キーワードやポイントの「提示」ではなく、「物語」を語ることの意義もそのあたりにありそうである。

さらに、言いよどむ、ためらう、口ごもる、適切に言語化し得ずキーワードを探しあぐねるというのも、黙過してはならない知的プロセスであると思う。

キーワードへと還元し得ないと感じる何かをその片隅に宿らせるため、その隙間に滑り込ませるため、あるいはこぼれ落ちそうな何かを危うくすくい上げるために、物語がある。

論理的で理路整然とクリアカットな物語ではなく、行きつ戻りつする「どもりがちの物語」からわれわれは語り始めるべきであろう。

整序された物語はその語る意味内容は伝わりやすいだろうが、つねにそこには何か取りこぼしがあるような、言い足りない何かがあるように感じるものでもある。

報告された6人の学生さんたちはみな堂々たるものであった(わたくしには真似できない)。

みなさん異口同音に「教えることのむずかしさ」について実感こもったお話をされた。

教えることが大好きで、教員たるを天職と考えている先生は世に多いが、わたくしには想像の外である。
どうもわたくしは「教えること」も「教えられる」ことも嫌いなようである(子どものときっから)。
「教育」というものにも違和を感じる。

それはもう小学校のころからなので、致し方ない。
学校という空間はそれこそ小学校のころから好きだったのだけれど、そこに「教育」というものが入り込むとどうも馴染めない(それじゃ学校にならんか)。
偏屈な奴ですまないと思う。

かくのごとく"teaching"ということには違和感を覚えるのだが、"learning"というものの価値を認むるに人後に落ちないつもりである。

そしてわたくしはheuristic(発見的認識)という言葉が好きである。
"learning"の本旨はそこにある。
それは、「教える/教えられる」対象としての知識がそこにあって、「教える者」と「教えられる者」のあいだに授受がおこなわれる、というのとは異なる。
教師が語る言葉から、彼が教えていないことを学ぶ、というのが理想である。

なるほど雲を掴むような理想なので、わたくしの話は自然と回りくどく、およそ「解答」のない話し方になる。
そしてしばしば破綻する(涙)。
過剰に語り、そして言い足りないと思うのが常だ。

わたくしが学校インターンシップの研修風景を見学に行った学生もひとり報告のため登壇したが、「教える/教えられる」関係のコミュニケーションについて触れていた。

彼女が言っていたように、このコミュニケーションは双方向性である。
「教える側」と「教えられる側」の立場は与件ではないし、確定的に定まったリジッドなものでもない。
わたくしが子どものときから苦手なのは、おそらく「教える者」→「教える内容」→「教えられる者」というコミュニケーション図式なのだと思う。

「教える/教えられる」関係性がリジッドなものでないのはもちろん、「教える内容」も所与のものではなくて、コミュニケーションの隘路からheuristicに立ち上がってくるというのがいいと思うんだけどね。

文学部のホームページに今回掲載されたコラムで、教育学専修のK崎先生が「私の専門は心理学である。けれども、『心のケア』という言葉には、どうしてもなじめない。なにかしら違和感を感じてしまう自分がいる」と書いておられて、門外漢ながらわたくしもたいへん共感を覚えた。

K崎先生は「心のケア」というものについて、こんな風に述べている。
 「心のケア」という言葉を使うとき、「それが必要」か「必要でない」かで、人を見てはいないだろうか。あるいは、「私はケアする人」「あなたはケアされる人」という関係になりはしないか。そこには、どうしても線引きの発想が入り込んでくる。「虐待」という言葉も同様だ。人が「虐待」と口にするとき、暗黙のうちに、「私は虐待をしない人」になっている。言葉の影響力は大きい。

 人は、支えると同時に支えられる存在である。だから、ケアするときもあれば、ケアされるときもある。それが、本来のありかただろう。けれども、「心のケア」という言葉は、どうしても一方的な響きがある。こう感じるのは、私だけかもしれないが。
(http://www.kansai-u.ac.jp/Fc_let/index.htm)

「心のケアをする人」「心のケアをされる人」「心のケア内容」の3点構図からなるコミュニケーションというのは、上の「教える者」「教えられる者」「教える内容」の関係性と類比的に思える。

関係ないよと怒られるかもしれないけど。

いずれにしても、われわれはみな一様に、小学校以来「教育」現場で長らく過ごしてきた。
大学4年を終えたら16年間である。

異様なほど長い。
学生さんたちにとっては、「人生のほとんど」である(そのまま大学に残ったわたくしにいたってはどうなるのか)。

しかしながら、それだけ長く「教育」空間に浸ってきたにもかかわらず、われわれは「教育」というものについてあまり知らない。
いや、あまりに「自然化」してしまっているのだろう。

研修に参加した学生さんたちは、「現場を直接体験する」ことと同時に、「教育」というものを対象化して見る視座を得たのではないだろうか。

留学生への日本語教育補助にあたった研修生が、報告のなかで異文化理解の機会を持つことができたと言っていた。
教育現場というのはわれわれが「一番よく知っている異世界」である。
そのような意味で、学校インターンシップは「自文化理解」の場でもあるのだろう。

研修生たちの報告後、フロアからある校長先生からひとつの異論が出された。
インターンシップに参加されたのは、いたって真摯で真面目な学生さんたちばかりである。
しかし、「教育」への情熱を秘めた「教員志望」の学生が、将来教壇に立つための準備や、あるいは「教育実習」の予行演習のために学校インターンシップに参加するというのは少し趣旨が違うのではないか、というものであった。

研修生たちが異口同音に語るきわめて良心的な「物語」の文法、そしてその拠って来たる心性に、一抹の疑念を抱いておられているとわたくしは解釈した(違っているかもしれないけど)。

傾聴に値する意見だと思う。

また、この校長先生は「教員志望」の学生こそ企業に就職すべきであり、企業に就職しようと思っている学生こそ教員になってもらいたいとも述べておられた。

かつて大江健三郎が、作家志望の若者には、まず就職して社会を見て、30歳を過ぎたあたりから小説を書き始めた方がいいとアドバイスすると書いていた。
自身は大学在学中に作家デビューし、卒業と同時に職業作家となってしまったために、自分には何かが欠けているとつねづね後悔の念を抱いてきたと。

インターンシップに参加する学生にこのような視座を求めるのは酷だと思うけれど、「教育」をめぐって個人的な違和感を拭いきれぬまま馬齢を重ねてきたわたくしとしては(そして「教育」が苦手なのに大学院を出てすぐ「教える側」になってしまった大馬鹿者として)、かの校長先生が開陳していたご意見には思わずうんうんと頷いてしまった。

うんうん(首肯)。

(以下その年の瀬雑記後半に続く)
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by mewspap | 2006-01-07 01:50 | シネつぶアーカイヴ

シネマのつぶやき(その46:前)

■シネマ◆
■の■■■
■つぶ■■ ◆ その46(前)
■■■やき ■ ■ ◆ 2004-12-17

やっほ。

だんだん寒くなってきたので、朝起きるやいなや「よっしゃ今晩は鍋にするぞ」と心に誓い、早くもうきうきする。われながら脳天気な人である。
でもなんか妙に暖かい一日だったりして困る。
夕方になるころ、ううーんどうしようかと頭を悩ます。ほんと脳天気な人である。
でもやっぱり晩ごはんは鍋なのです(おいしかった)。

本年の世相を表す漢字は「災」に決定したのだそうです。
例によって清水寺のお坊さんが黒々と大書していた(坊主が災いで「坊災」か、記念日みたいでへんなの)。
でも今年もいろいろあったからね。

いや、ほんと。

◇━━━━━━
へんな言葉たち
━━━━━━━
なんでだかよくわからないが、最近へんてこな言葉が流通している。

若い人たちが頻用する「なにげに」とか「さりげに」とか。
これは「なんとなく」「しらっと」というイメージで使われているようだ。

もちろん「なにげなく」「さりげなく」がただしい。

「なにげない」「さりげない」の「ない」という否定をはしょってしまうとは相当に大胆である。
否定を取ったら反対の意味になってしまうと思うのだが。

「なにげ」というのは「何気」であり、「気」というのは意識的な意図を表す。
「なにげない」は「何ら意識的な意図のない」ということである。
だから否定をはしょってしまって、例えば「なにげに言う」なんて表現は、「何か意図」(たいていは悪意)があって「意識的に言う」という意味になる。

「さりげに」も同様である。

「さりげなく」は漢字で表すと「然り気なく」となり、「然る」とは「そのような」という謂いである。
したがって「さりげなく」というのは、「そのような意図を感じさせずに」の意味となる。
だから「さりげにする」というのは、「そのような意図」(たいていは底意)をもって「意識的にする」という意味にならざるを得ない。

どうもなにげに(=悪意をもって)言ったり、さりげに(底意をもって)したり、相手を怒らせるきわめて攻撃的な身振りが巷間流行しているようである。世相かな。「災」。

しかしそれなら「大人気なく」「味気なく」「悪気なく」「危なげなく」はどうなるのか。
「おとなげに」「あじけに」「わるぎに」「あぶなげに」と言うのであろうか。

「何となく」が「何とに」とは一体何なのか。

「愛想なくすみません」は「愛想にすみません」か。
「紛れもない事実」は「紛れな事実」でしょうか。
「造作なくこなす」は「造作にこなす」かい。

「いぎたなく寝る」は「いぎたに寝る」、「もれなく当たる」は「もれに当たる」、「あどけない笑顔」は「あどけな笑顔」、「あられもない姿」は「あられもな姿」、「気ぜわしなく働く」は「きぜわしに働く」となるであろう。
「かたじけないでござる」は「かたじけでござる」、「まもなくいらっしゃいます」は「まもに来るぜ」、「いたいけない子ども」は「いたいけなガキんちょ」、「こよなく愛する」は「こよに惚れとるよん」となるとおっしゃるのか。

「いたたまれない気持ち」「覚束ない手際」「いかんなく発揮する」「心おきなく活躍する」は……もういい。

それから「きもい」とか「きしょい」というのもある。
むろん「気持ち悪い」「気色悪い」がただしい。
「悪い」というきわめてネガティヴなコノテーションをまるっと脱落させてしまっている。
これでは逆にポジティヴな含意となってしまうと思うんだけれど。

へんなの。

「意地悪い」は「いじい」(なんか年寄りくさい)であり、「気味悪い」は「きみい」(玉子かい)となることは避けがたいであろう。
むろん「身持ちが悪い人」のことは「みもちい人」と呼ばねばならない(なんか可愛らしい人みたい)。

だが、こういうものもいずれは「元来は誤用だが」という注釈つきで、辞書にもレジスターされてしまうのだろう。

世の中そういうものである。

例えば古典的な事例では、「見損なう」というのがありますね。
この言葉は「やなやろーだ」というニュアンスで使われているように思える。「そんなこと言うなんて、お前見損なったよ」というふうに。
元来「見損なう」というのは「評価を誤る」の意である。
だから「いい人(あるいは悪い人)だと誤解していた(けど違うんだ)」という趣旨で、「お前のこと見損なっていたよ」という言い方になるわけですね、本来は。

とはいえわたくしも他人のことはとやかく言えない。忸怩たる思いの間違いを数多重ねてきました。

例えばこの「忸怩たる思い」。
今でもときどき「悔しい」「情けない」「腹立つ」という含意で使っている人がいるけれど(わたくしもそう思っていた)、「忸怩たる思い」というのは「顔から火が出るほど恥ずかしい」という意味です、ほんとうは。

だから「私は内心忸怩たる思いを禁じ得ないのだ!」なんて怒鳴る人がいるけど、そういう怒り方自体、いささか忸怩たる思いを抱いていただかねばならない。

それから新聞記事なんかでときおり目にする表現で、青少年の犯罪者が「取り調べに対して悪びれた色もなく」なんていうのもしかり。
「悪びれる」というのは、「あー、オレっち人をぶっ殺してやったよ。それがなんか悪いんかい、けっ」みたいな態度のことだと思っていました(そりゃ「悪ぶる」でしょうね)。
「悪びれる」というのは「自信なげにおどおどした様子」の意味です、ただしくは。

だから人を殺めて捕まった少年犯罪者が「悪びれる風もなく事情聴取に応じている」なんていう報道は、恐い警察のおじさんの取り調べを受けても平然として淡々たる態度をとっているということです。
そして含意は、「われわれ常識人から見て、当然期待される子どもらしい態度をとらないような奇妙な若者が、またまた理解を越えた事件を起こした(やんなっちゃうね)」というものとなる。

古典的なところで他にも「棹さす」というのがある。
元来「時流に乗る」の意だったのが、「時勢に逆らう」と反対の意味になってしまったようです。
何を隠そう、それどころかわたくしは、『草枕』にある「情に棹させば流される」というのは、「強い流れで棹が流されてしまって困る」と解釈し、「下手に手を出すと自分に害が及ぶ」という意味だと誤解していた。

とっても忸怩たる思いを禁じ得ない。

じくじじくじ。

英語にも意味が逆転してしまった言い回しがあります。

有名どころでは"A rolling stone gathers no moss."というのがありますね。
高校のときに「このことわざはイギリスとアメリカでは意味が正反対になる」と教わりました。

"A sound mind in a sound body."は「健全な肉体に健全な精神が宿る」と解釈されるけれど、本来は"Let a sound body have a sound mind."という「祈願文」であり、「ご存じのように健康的な肉体にはなかなか健全なる精神というのが宿らないのが世の常ですけれど、ま、そこんとこがんばって肉体的には健康で精神的にも健全というほとんど不可能なアクロバットを遂行しましょうね」の謂いなのである。

端的に、このことわざは「健全な肉体に健全な精神は宿りません!」と宣言しているのである。

そう言えば、わたくしが若いころ「えびぞる」という造語が流行ったことを思い出した。
「海老」のように「反る」わけですから、「のけぞる」「おったまげる」「呆れかえる」といった意味で使われてていたように記憶している。

そしてこの言葉を典型例として、「最近の若者言葉は……」と眉をひそめる世の知識人たちがいましたが、かの井上ひさしがひとり反論を呈していたのを覚えています。
言葉のうつろいゆくは理の自然であると。
日本語はそのようなフレキシビリティが構造化されていると。

井上ひさしによれば、中世の坊主は「聖」(ひじり)と呼ばれていましたが、それをもじって「聖(ひじ)る」という言葉が民間流布したそうです。
「聖る」という動詞は「(坊主のように)ぶらぶらしてなんにもせずにのらりくらいと暮らしてゆく」といった意味だと説明されていた(やに記憶する)。
かくのごとく日本語はきわめて柔軟であって、現在の若者言葉にかぎらずご先祖さまも新造語の発明にご熱心であったと井上ひさしは言っていた。

読み間違いというのも多々ありますな。

たいへんな読書家であるにもかかわらず、なぜか井伏鱒二を「いじょうたるじ」だと思い込んでいた人をわたくしは知っている(ただしくは「いぶせますじ」ですね、もちろん)。

それからわたくしが学生時代に、「誤謬」を必ず「ごびょう」と読む先生がいました。なんか画鋲みたいですね(ただしくは「ごびゅう」です、むろんのこと)。
同じくこの先生は"determine"を必ず「ディターマイン」と発音されていました。過去形だと「ディターマインド」となるわけです。
かの先生は日本語は言うに及ばず英語もたいへん堪能でらっしゃったので、もしそれらが単なる思い込みでないとしたら、お育ちになった地方の方言か(「びゅう」と「びょう」の区別のない地域)、留学された英国の方言(コックニー訛りではもしかして「ディターマイン」なのかな)だったのかもしれません。

日本語であると英語であるとにかかわらず、教室で学生がトンデモな読み間違いをするという風景はしょっちゅうであるし、わたくしは吹き出しそうになるのをこらえながらあまり苛めないように心がけています。
わたくしは概して「読み間違い」には寛容です(自分でもよくやらかすから)。

例えば「馴致」。
わたくしは長らく「くんち」だと思い込んでいました(ただしくは「じゅんち」)。何となく「訓練」の「訓」に似てるし意味も近いので思い違いをしていた。

漱石の小説にしょっちゅう出てくる「兎に角」という言葉を見て、「うさぎにつの」って何だろうと深く思い悩んだこともありました(「とにかく」が正解)。

また漱石にはこんな会話もあって、目が点になったこともあります。

「無闇にお金をぱっぱっと遣う様にでも思っていらっしゃるのよ。屹度そうよ」
「うんこの前京都へ行ったときにも何だかそんな事を云ってたじゃないか」

「うんこの前」って一体、漱石ともあろう方が……。

しかし、学生諸君の場合、「思い込み」ではなく「ぜんぜん知らずに初めて見た」という語彙で言い間違えることが多いようです。
英和辞典をひいて、そこに書かれた日本語を適切に読めない。これはちょっと由々しきことである。

そういえば、近年のへんてこなものの筆頭に「ていうかぁ」話法があります。

そのことを朋友cricketことN島せんせがHPのダイアリーに次のように書いていました。
最近の私の口ぐせは、「ちゃうねん、ちゃうねん」である。
これは、スピリッツという雑誌の『ポンず百景』という漫画にでてくる「おかん」の口癖である。
しゃべり始めるときに、「ちゃうねん、ちゃうねん」から入る。
自分の前にある発話を全部リセットするのである。
これは、若者言葉の「っていうか」に似ている。
私はこれを研究対象としたわけではないので、粗雑な考察であるが、「っていうか」も、前の発話に賛意を示すでもないのみならず、反意を示すのですらない。
無視、なのである。
あんたのいうことはどうでもええけど、私的には。。。という意味である。
つまり、自分の土俵に入ってこい、という傲慢な態度である。
一人がこれをやって、みんなが私の土俵に入ってきてくれればいい。
しかし、これをみんながやり出すと、大変空虚な会話になる。いわゆる孤独な群衆というやつである。
People are just talking without communicating.
ということで、他人の発話に耳を傾けるようにせねばと自戒するcricket であった。
っていうか、「っていうか」って死語?っていうか、関西では使わないのかな?
(http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~english/diary.htm)

cricketせんせ、遺憾ながらこれは「まだ」死語ではないし、むろん関西でもよく耳にしますよ。
飛ぶ鳥落とす勢いの斎藤孝が「ていうか症候群」と呼んでいますね(『コミュニケーション力』岩波新書)。
ていうか、政治家やテロリストの密かな常套句として、これはきわめて国際的汎用性の高い話法と言っても過言ではないでしょう。
「相手の言い分まるっとリセット」の話法こそ、あらゆる紛争の淵源なのじゃないかな。

「わたし的には」で始まる文言も、「一切の反論を許さない」とデクレアーしているように聞こえる。
だって「わたし的には……と思うんですよね」というのに対してこちらの「意見」など表明しようがない。
「わたし」が「思う」というのは、たとえその内容がいかに狂ったものであれ、他者が介入し得ない不動の事実だから。
他人は「あなたが思う」という事実に決して参与できない。

だから論文では、「私を殺せ」「思うんじゃない」と繰り返し申しているのである。
「私」はなし。
「思う」こと禁止。

相手の言葉に対して「ほんま!?」と言うか「うそー!?」と応えるかも、コミュニケーションの立ち上げにおいてけっこう大事な岐路であるように思う。
考えたら「うそー!?」というのはあんまりな表現である。"You're a lier!"なんだから。

大阪弁(河内弁?)というのも不思議な言葉である。
初め「せやせや」という「諾」「了」"Yes" "Yeah"の肯定の表明が、わたくしには何のことかさっぱり解せなかった。
第一「せっせっ」と聞こえるんですよね。
せっせと何言っているんだろうって。
承認よりもむしろ反対言明、了解よりもむしろ攻撃のニュアンスが感じられた。

あまり知られていないことであるが、「これチャウチャウ犬とちゃう?」という大阪弁ジョークは20年前にわたくしが創始したものである。
今では巷間流布しているようでちょっとくやしい(みんな同じこと考えるんだね)。

「これチャウチャウ犬とちゃう?」(これはチャウチャウ犬じゃないですか?)
「ちゃうちゃう」(チャウチャウ犬とは異なりますよ)
「ちゃうちゃうちゃうわ」(異なりますよというのは誤りである)
「ちゃうちゃうちゃうちゃうわ」(異なりますよというのは誤りであるというのは間違いじゃこら)
「ちゃうちゃうちゃうちゃうちゃうわ」(てめー、このやろー、逆らうなっつーの)

以後、殴り合いによる決着を見るまで無限に続く。

わんわん。

要するに「言は剣より暴力的」ということである。

だから「挨拶」というのはけっこう重要である。

「やっほ」とか。

でも学生さんたちにはつねづね注意しているように、「こんにちわ」というのは誤表記である。
もちろん「こんにちは」がただしい。

◇◇━━━━━━━━━━━━━━
「ゆっくりルーティン主義」@『AERA』
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前回、『AERA』の「わるくち」を書いた手前気恥ずかしいのだけれど、12月13日号に我が意を得たりという記事を見つけた(まだ買い続けています、でへ)。

久しぶりに「そうだよね、まったく」と(帰りの電車のなかで)思わず嘆息するものでした。

毎日同じ時間に起きる。決まったルーティンをもっていてそれを遵守する。パターンとリズムとアクセントを変更しない。生活そのものを楽しむ、日常の些事をおろそかにせずに魂を込める。予定変更を求める外部的な介入には、静かに眉をひそめる。

村上春樹の主人公たちのように、料理をし、丁寧に洗濯をしてアイロンをかけ、掃除をして、好みのビールの銘柄を変えずに、飲む場所と時間にこだわり、慎重に聴く音楽を選ぶ。そしてそのプロセスそのもののもたらす「小確幸」をかみしめるように楽しむ。

こういうのが「ナウく」て「クール」で「おっしゃれー」で「いかす」な「かっくいい」ものなのである(ほぼ死語を列挙)。

「ま、もうあたふたしてもしかたないか」的に脱力した諦念の境地にぴったりの「人生の習慣」(@大江健三郎)ではないか。

だいたいわたくしは子どものころから「ひとりで何かする」のが好きでした。
「ひとりが充実している人」だと奥さんにもよく言われます。

有為転変が嫌い。
多忙がいや。
自分のなかのルーティンを定めて粛々とことを進める。

アポで空白を埋め尽くさないと気が済まない「スケジュール帳空白シンドローム」の人がわたくしには理解できない。

手帳の空白はわたくしにとって黄金の輝きに映る。

永劫回帰、円環、ルーティンが大好きで、一度決めたことを守って繰り返すことに至上の喜びを覚える。
別にいろいろハプニングがあるわけではないが、わたくしは「退屈」というのをしたことがない(電車で読み物持参するのを忘れたときや、仕事で有無を言わせずある一定時間拘束されるときを除き)。

日用品も決まったものを繰り返し買う。
料理の素材でも料理のプロセスでも、食事に行く店でも注文するものもたいてい一度決めたら変えない。
ワンパターン大好きである。

簡単なことと思われるかもしれないが、それは短見であろう。
時間がきわめてスピーディに流れる現代において、これはなまなかにできることではない。
だって、お気に入りの商品がすぐにモデルチェンジとなったり改良版となったりリメイクされたり生産中止になったり売ってるお店がつぶれたりするんだから。

我が家では、わたくしの「お気に入り」は店頭から消えるというジンクスがある。

歯ブラシ、コーヒー・ミル、コロン、料理用具、シャンプー、パソコンのキーボード、ボールペン、のど飴、スニーカー、ボタンダウン、マグカップ、編みタイ、タイトフィット・テイパードのジーンズ、コールテンのジャケット、手帳、メモ帳、ノート、シャープペン、ディバック、ウエストポーチ、セーター、財布……。要するに何でもかでもである。

あたかもわたくしが「気に入った」瞬間、その商品に刑が宣告され寿命が定まるかのようである(わたくしに愛用されることはメーカーが恐れおののく現象であろう)。

何も人気のなさそうなものを選択的に愛好する「自己成就的予言」の類ではない。むしろこれは一種の「マーフィーの法則」である。
わたくしが気に入った「から」消えるのではなく、長く使い続けているので消滅する商品と出会う確率が相対的に高くなるのである。そして「ほら、やっぱりね」と記憶に深く刻まれる。

何にせよ『AERA』の記事に登場する「堅固な脱力主義」とでも呼びたい女性たちに、わたくしは心から共感する。

彼女たちはもはや「均等法の波乗りサーファーのつもりがふと気づくと梯子を外され下の世代からも総スカン喰らう孤独なキャリア・ウーマン」とも「マンション買い急ぐ女たち」とも「パラサイト・シングル」とも「ブランド品買い漁り症候群」とも「勝ち犬/負け犬」とも「自分探し症候群」とも「カリスマ専業主婦への憧憬」とも無縁な方たちである。

おそらくは「韓流」なども一顧だにされないであろう。

ただし、記事にご登場の「ルーティン主義」を貫徹するこれら女性たちは、判で押したように一定以上の収入のある、そして深夜0時まで残業があるわけでもない、「独身女性」だった。

上に掲げた条件(安定収入、時間コントロール、そしてシングル・ウーマン)は偶然ではない。

フリーターやリストラ族はもちろん、低収入や激務を強いられている方々、営業職など時間管理が「他人次第」で日替わりになるような方々には無理な相談である。

何よりもドライな事実は、みな一様に「未婚」であること(同居人がいたらルーティン主義の貫徹はそれだけでむずかしい)。

そして「子なし」であること。

子どもというのは、こちらが疲れて寝ようとすると夜泣きをし、明日の仕事の準備をしているとゲロを吐き、忙しくなって目が回りそうなときに発熱するものなのである。

子どもとは世界最強のルーティン・デストロイヤーである。

ルーティン主義の教祖である村上春樹は、そしてその主人公たちも、みんな「子なし」である。
その村上春樹を若い女性たちが範としている現状には、ちょっと考え込まざるを得ないところがある。

と言ってみただけで、別に何も考えんけど。

(以下その46後半に続く)
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by mewspap | 2006-01-07 01:40 | シネつぶアーカイヴ

シネマのつぶやき(その45:後)

■シネマ◆
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■つぶ■■ ◆ その45(後)
■■■やき ■ ■ ◆ 2004-12-05

◆『ブラック・ホーク・ダウン』BLACK HAWK DOWN
d0016644_1424783.jpg2001年アメリカ
監督:リドリー・スコット
出演:ジョシュ・ハートネット、ユアン・マクレガー、トム・サイズモア、エリック・バナ、ジェイソン・アイザックス、サム・シェパード、ロン・エルダート、ユエン・ブレンナー、ウィリアム・フィッチナー、ブレンダン・セクストン・III、オーランド・ブルーム
ツタヤの惹句によれば次のようである。
1993年10月3日。ソマリアの首都モガディシュのダウンタウンに、100名の米軍特殊部隊の兵士たちが舞い降りた。彼らの任務は、現地の独裁者アイディド将軍の副官2名を捕らえること。当初、作戦は1時間たらずで終了するはずだった。しかし、2機のブラックホーク・ヘリが撃墜されたことで、兵士たちの運命は一変。仲間の救出にあたる彼らは、地獄絵図の真っ只中に取り残されることに…。

1993年 ソマリア。アメリカ兵士の15時間に及ぶ壮絶な市街戦の模様を生々しい体感映像で再現した戦争アクション。『アルマゲドン』『パール・ハーバー』の製作者ジェリー・ブラッカイマーとリドリー・スコット監督が手を組んだ衝撃の戦争大作。

わかりやすく明快な文章である。アキモトせんせとしてはこのショート・レポートに「優」を進呈したい。

なるほど「事実に基づく」映画の話法どおり、冒頭には背景説明のキャプションが流れる。

印象的なアラブ音楽をBGMに冒頭のキャプションが語るのは、ソマリアで血みどろの部族間紛争が続き、それにより30万人の餓死者が出た事態である。
国際世論の後押しでアメリカ海兵隊2万人が出動して紛争は一時沈静化したが、アイディド将軍率いる最大部族が国連平和維持軍に宣戦布告し、アメリカ軍も攻撃対象となる。

そして上空のヘリコプター(チョッパー)からの視点。
眼下に見えるのは荒涼とした大地に群れる人々、そしてアイディド将軍の民兵が国際赤十字の食料援助物資を掠奪独占している風景である。

「つねにただしい」アメリカのデルタ・フォースは、「悪しき」アイディド将軍の民兵が無辜の民を犠牲に供しているにもかかわらず、人命救助の介入が許されない。
国連規定の足枷ため、「正義」の行使がかなわず歯がゆい思いを強いられている。

「イノセントで正義のアメリカ」の苦渋というのが、冒頭で強調される物語である。

ヴェトナム、カンボジア、南米、中東いずこでも、野蛮で残虐な「非文明国」に対しアメリカが正義の刃を振るうという構図がア・プリオリに措定され、それが阻まれるのは許すまじき倫理規定違反であると観念されるようである。

多くの人物が登場してあたかも群衆劇の様相を呈するが、ソマリア人がほとんど文字通り「群衆」(rabble)として一括りにされるのに対して、「こちら側」のアメリカ兵の側は個性が埋没することはない。
一人ひとりの個性がくっきりと描出される。

出演はジョシュ・@『パール・ハーバー』・ハートネット、ユアン・@『スターウォーズ』『ビッグ・フィッシュ』・マクレガー、トム・@『救命士』『トゥルー・ロマンス』『ナチュラル・ボーン・キラーズ』『パール・ハーバー』・サイズモアらと多彩。
トム・サイズモアがいつものように「いい味」を出している。
将軍という意表を衝く役(!)のサム・シェパードもよい。
エリック・バナって人もクールでタフな戦場のヴェテラン、フート役で味を出す(戦争映画の類型的な人物像だけど)。

加藤幹郎先生の『映画ジャンル論』によれば、ヴェトナム戦争以降、ヘリコプターは戦争映画の顕著なイコンとなっている。
『M★A★S★H』『グリーン・ベレー』を初め、『地獄の黙示録』『プラトーン』『7月4日に生まれて』『カジュアリティーズ』『ハンバーガー・ヒル』。
そしてもちろんメグ・ライアンとデンゼル・ワシントンの湾岸戦争映画『戦火の勇気』でも。

ブラック・ホークというのは強襲用ヘリコプターであり、当然のことながらこの映画の中心的なイコンもヘリコプターである。
冒頭はヘリコプターから見た眼下の情景だし、映画の半ばで編隊を組んで海岸線沿いに飛行するシーンは『地獄の黙示録』からの引用かと思わせる。

がんがんかかるロック音楽も、戦場のアメリカ軍のもうひとつの「イコン」であろう(「図像」というよりオーディブルな「聴像」であり「聴覚イメージ」だけど)。

ブラック・ホークが出撃するとき、ジミヘンの「ブードゥー・チャイル」が鳴り響く。
『地獄の黙示録』における「パープル・ヘイズ」やドアーズの「ジ・エンド」、あの時代からアメリカ兵の嗜好に変化が見られないとは考えにくいが、リドリー・スコット監督はフランシス・F・コッポラやオリヴァー・ストーンと戦場の形象化において、同じイメージを投影していることが見て取れる。
(あ、デイヴィッド・O・ラッセル 監督の『スリー・キングス』ではラップ音楽だったっけ?)

イコンと言えば、湾岸戦争以来、砂塵のなかの戦車の白いボディや兵士の白いヘルメットに青々と書かれた「UN」の文字も、新たな戦場のイコンとなっている。

アメリカが「他国の紛争」に「介入」するという図は、どうしてもヴェトナムのデジャ・ヴュなので比較したくなるのであるが、両者には「イメージ上」の大きな懸隔も確かにある。

ヴェトナム戦争ではジャングルが戦場であり、敵兵は密林に潜んだヴェトコンだった。
今では「戦場」と呼ぶのがためらわれるような煤けた家並みが連なる街中が舞台となり、民間人がぞろぞろ登場して兵士との見分けも困難となる。
イエメンの街中を舞台とする『英雄の条件』は、まさしく戦場と非戦闘地帯の差異が消失し、兵士と民間人との識別が曖昧になるという点をモチーフにしたものであった。

この映画では最後の撤退シーンで、救出に来た国連軍の車両の前を、赤ん坊の遺体を抱いた老人が横切るスローモーションの絵柄が印象的であった。

つけ加えれば、この映画独自のイコンとして膨大な量の薬きょうがある。ヘリコプターに装備されたミニガンを乱射し、地上に雨あられと降り注ぐ薬きょうや、市街戦で重機関銃やライフルからはじけ飛ぶ薬きょう。
後半の山場でも、スローモーションで薬きょうがばらばらと降り注ぐショットが反復される。

上空から降り注ぐこれら多量の薬きょうが誇示するのは、アメリカという「圧倒的な火力と物量による正義」である。

他方、それらが遮蔽幕となって覆い隠すのは、薬きょうの大量放出にともなう結果であろう。

上空のヘリコプターから降り注ぐ薬きょうの「量」に観客は驚倒するが、そのひとつひとつに人間の死がともなうことを忘失しても倫理的痛みは感じない。

個性的なアメリカ兵に比して、"skinnies"(がりがり野郎ども)と蔑称で一括りにされる「敵」はわけの分からない影の群れであり、わらわらと襲い来る無数の「ゾンビ」のように見える。その死は個別識別されることなく、「大量の薬きょう」に対置された記号と化する。

アメリカのヘリコプターは手の届かない「上空」からミニガンを乱射し、「地べた」を徘徊する顔なき敵の死は薬きょうと等価の「量」に還元される。

街のあちこちから沸いて出て、墜落したヘリコプターを目指して蝟集し、そして次々と木偶人形のように撃たれて倒死する群衆の図像は、どう見てもゾンビ映画なのだ。

理想主義者の主人公エヴァーズマンは出撃前に、美しいビーチ、美しい太陽のこの土地は観光にこそ適しており、自分たちアメリカ兵がいるべき場所じゃないのではないかとつぶやく。
それに対し戦闘ヴェテランのフートは、「どう考えるかなんてどうでもよい。最初の一発が頭をかすめたとき、政治のたわごとなどどうでもよくなる」と応じる。

フートの経験主義的な「リアリズム」はエヴァーズマンの観念的な机上の「アイディアリズム」と対置されるが、フートが言うのもあくまで「わたしの頭」であり、銃弾がかすめたときの「わたしの政治的たわごと」の雲散霧消なのである。

だが、戦争映画の「視点」はあからさまに「政治的」なものである。
人間の生と死を一方の側から描き、敵側にはタンジブルな生も死もない。『コンバット』の時代から変わらぬ語法である。

こちら側の死はきわめてフィジカルである。
取り残された部隊の救出命令が出されるが、将軍の「ひとりも残すな」という言葉が繰り返される。
「死体でも、身体の断片だけでも」と。

こちら側にはさまざまなバックグラウンドをもった個性的な「人間」がおり、血にまみれたリアルな銃痕と死があり、対して向こう側には顔の見えない記号化された「悪しき敵」がいて、記号化された死を迎えるのをただ待っている。

降り注ぐ薬きょうは大量に映し出されるが、それが幕となって大量に発射される弾丸の行方を覆い隠す。

だからブラック・ホーク・「ダウン」なのであろう。
この映画で多くを占めるのは凄惨な「地上」戦である。ホバリングして上空から指示を与えるヘリコプター、負傷兵を搬送するヘリコプターの眼下に、無数の銃弾が飛び交う。
そしてヘリコプターは地対空ロケット砲(RPG)によって地表に引きずり下ろされ、そこに匿名の"skinnies"たる群衆が群がり、殺し、奪う。

上空から地面に引きずり下ろされたとき、アメリカは同じ目線の高さでフィジカルな敵と、そしてフィジカルな死と対峙することになる。

エンディングの語りは戦死した者へのトリビュートである。
「ソマリア人の死者1000名以上、アメリカ兵の死者19名」というエンド・クレジットの「量」に還元された数値そのものが、その数の非対称性や概数で表されるソマリア人死者数の曖昧さとともに、圧倒的な皮肉と目を覆わんばかりの不条理性を惹起する。

抽象的な「戦争」も、場としての戦場も、行為としての戦闘も、不条理である。条理などどこにもない。

『プライベート・ライアン』以来、戦争映画はどんどん「痛みの描写」がリアルになり、不条理性をそのような身体感覚で表現するようになっている。

そして戦争映画のつねとして、経験値の低い若者が戦場のヴェテランによって過酷な「現実」へと導かれる「イニシエーションの物語」がひとつのモチーフとなる。

「人を撃ったことのない」理想主義者のエヴァーズマンや、配属されたばかりの若い新兵の現場での「教育」である。

そしてこの映画ではイニシエーションの「失敗」が描かれる。

やる気満々の戦闘経験なき18歳の新兵は、戦闘に参加する直前にヘリコプターから「転落」して瀕死の重傷を負い、意識不明のまま基地に送り返される。

エヴァーズマンは一兵士としてもリーダーとしてもおのれの限界に直面して命からがら敗走し、戦闘を通じて「書生的」な理想を失う。
基地に走って逃げ帰ったあと、とって返すように戦場に再び向かうというフートにしか、彼はもはや戦場の現実に拮抗し得る「理想のかけら」を見出し得ない。

政治的なたわごとや国のためでもなく、「ただ仲間のために戦う」と言うハードボイルドな兵士フートをロール・モデルにすることは、エヴァーズマン自身がかつて「別に好きなわけではないが敬意を表する」と言っていた「スキニーズ」を、個性なき群衆として記号化することを意味する。

「イノセントで正義のアメリカ」を体現する若者が、上空からではなく地表で体験するリアルな痛みと、フィジカルな死と、タンジブルな不条理に放り込まれるのである。

しかし遅まきながら救出にやって来る国連軍の車両の前を横切る老人にも、その腕に抱かれた死んだ赤ん坊にも、戦争はなんの意味ももたらさない。

彼らはつねに地べたにいる人たちである。

◆◆『ウィンドトーカーズ』WINDTALKERS
d0016644_1431483.jpg2001年アメリカ
監督:ジョン・ウー
出演:ニコラス・ケイジ、アダム・ピーチ、ピーター・ストーメア、フランシス・オコナー、クリスチャン・スレーター
「ハズレなし」のはずのニコラス・ケイジに大ハズレしました。

監督はジョン・ウーなのにな。

『バンド・オブ・ブラザーズ』を観たあとだったから、ますます戦場の描写に嘘と粗雑さが見えて仕方がない。
もっとも『バンド・オブ・ブラザーズ』でも、相変わらずのドイツ兵がデクノボウのように描かれているのにはまいったが。

この映画でも日本兵の描き方が相も変わらず。
アメリカ兵のみ「人間」で敵兵はデクノボウ。やめてよ、もう。(もしかして中国人ジョン・ウーの日本に対するルサンチマンなの?)

フレンドリーで異文化コミュニケーションのできるヘンダーソン軍曹(クリスチャン・@『トゥルー・ロマンス』・スレーター)と、仲間を死なせてしまった(ばか野郎の)エンダース軍曹(ニコラス・ケイジ)それぞれの、ナバホ族の暗号要員との異文化交流譚。

何となく高校の教科学習向けみたいなとこのある映画なんですが。

◆◆◆『YAMAKASI~ヤマカシ~』YAMAKASI: LES SAMOURAIS DE TEMP MODERNES
d0016644_144182.jpg2001年フランス
原案/脚本:リュック・ベッソン
監督:アリエル・ゼトゥン
出演:Yamakasi 、マエル・カモウン、ブリュノ・フランデル、アフィダ・ターリ
よい映画である。

現代フランス版の「石川五右衛門&ロビン・フット」のお話。

カンフー・マスターか忍者のような身軽な身体運用で、街中の建物をブリコラージュ的に利用してひょいひょい飛び回っていく。

「現代のサムライ」というのが原題のサブタイトルだけれども、「現代のニンジャ」だろうね、ただしくは。

だってサムライは跳べないぜ。
あんな高いところをひょいひょい登れんぜ。
壁をつたったり飛び降りたりできんぜ。

警察権力を茶化すのがフランス流。
ハリウッド映画では「バカな刑事」が出てくるが、フランス映画では「刑事をバカにする」のだ。

ベッソンって本当に「権力嫌い」なんですね。
そんで「和もの好き」なんですね(『WASABI』でも製作と脚本だし)。

警察嫌いな和もの好きときたら、つぎはヤクザ映画を作るんだろうか。
そう言えば『レオン』のジャン・レノは高倉健を彷彿とさせたし。

リアリズムを追求するのではなく、急激な画面転換、カットイン、カットバックを多用し、「これは映画だ」ということを絶えず思い出させる演出である。

最後は、ヤマカシに憧憬のまなざしを送る心臓病の少年ジャメルに、ヤマカシのみんながメッセージを送る「ヴィデオ」で終わる。

すなわち『ヤマカシ』は病気のジャメルが観ているスーパー・ヒーロー映画なのである。

2004-12-05
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by mewspap | 2006-01-07 01:35 | シネつぶアーカイヴ