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レヴュー(1):映画『大統領の理髪師』 (Hiroko)

『大統領の理髪師』

2005年製作
監督:イム・チャンサン
出演:ソン・ガンホ(ソン・ハンモ役)、ムン・ソリ、リュ・スンス、イ・ジェウン
あらすじ:
1960年代の韓国。軍事クーデターを経て、新しい政権が誕生する。大統領官邸のお膝元の町で理髪店を営むソン・ハンモ(ソン・ガンホ)は、ある日、大統領の理髪師という大役を仰せつかる。緊張を強いられながらも誠実に務めを果たし、やがて、町でも一目置かれる存在になるが、北朝鮮武装ゲリラ侵入事件が起きて、状況は一変する。彼らが下痢をしていたため、同じ症状の国民は「マルクス病」とされ、スパイ容疑で次々と逮捕される破目に。運悪く、ハンモの長男・ナガン(イ・ジェウン)も下痢を訴えて…。 (goo映画:http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD6599/story.htmlより)

 ソン・ガンホが演じた「愚直なまでに家族を思う、愛すべき父親像」である、ソン・ハンモ。彼が家族を思う気持ちはこの映画のいたるところで強く伝わってくる。

 電気椅子の拷問により足が不自由となった息子の治療の為、息子を背負って全国を渡り歩く場面がある。様々な方法や医師を訪ねるが息子の足は一向に治らず、最後の手段として冬の山奥にいるどんな病でも治すという人物に会いに行く。その途中、ソン・ハンモは息子を背負って冬の川を裸足で渡る場面があるのだが、冬の川の水なんて想像しただけでも冷たくて痛いだろうと思う。それでも渡って行ったのは息子を拷問にあわせてしまった申し訳なさ以上に、彼の息子への愛情からなのだろうな、と感じた。

 大統領の理髪師となって12年の歳月が経っても、「大統領の髭を剃る前には必ず許可を得よ。」という決まりを守って、髭剃りの前に律儀に大統領に許可をえようとするソン・ハンモの真面目さは、大統領から誠実で謙虚だと褒められる。そのためか、長年仕えた大統領が暗殺された後、次期大統領の専属理髪師にも命じられる。一度はそれを断り、無理やり官邸に連れて行かれた彼が大統領を散髪しようとする時の一言にはすっきりした。次期大統領は頭髪が薄いので、彼は嫌味をこめて「大統領、髪が伸びた頃にまた来ます。」というのである。当然彼は袋叩きにされて追い出されるわけだが、ソン・ハンモがただの人の良いおじさんではなく、大統領という立場の人間にさえ屈しない強さも持った人物なのだと感じた。

 私は理想の父親像というものに特に思い入れもないけれど、この映画を観ていると、単純に家族を思い、家族を守ろうと懸命に生きる父親には何か心打たれるものがあると思った。ソン・ハンモの役が「母親」だったらまた違った作品に仕上がっているのだろうと思う。

 この映画は全編がコメディタッチで描かれているが、扱っている事柄は決して笑えないものばかりである。不正選挙、革命、クーデター、ヴェトナム派兵、北朝鮮ゲリラ事件、大統領暗殺などがそうである。拷問で息子が電気椅子にかけられるシーンも深刻には描かれていない。だからこそ、開放された息子が立てなくなったと分かる場面が現実を直視させるのである。シリアスに描かれていないからこそ出来事のひとつひとつが重く受け止められることもあると感じた。
 
 ところで、ソン・ハンモの父親像は『ライフ・イズ・ビューティフル』に出てくる父親と同じであるというようなことを何処かのサイトで見た。確かにそんな気もする。根本的なものは同じだろう。ただ、あの映画は家族三人のあり方に焦点があり、『大統領の理髪師』は息子の視点で語られる父親に焦点があてられている。『大統領の理髪師』では母親の存在は希薄である。ちょっと違うかもしれないが、先生の『父、帰る』のコメントで書かれているような構造がこっちにもある、ということなのかなと疑問に思った。映画で父親と母親の両方に焦点を当てて描くことはないのだろうか。「父親」と「母親」の役割が(それぞれがもしあるとしたら)、異質なものとして相容れないために、映画の趣旨を混乱させてしまうのだろうか。だから、どちらかが表に立つとき、もう片方は限りなく存在が希薄になるのだろうかと思った。
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by mewspap | 2005-08-31 23:59 | 2005年度ゼミ

研究ノート12(shin)

「キリマンジャロの雪」”The Snows of Kilimanjaro”――福田陸太郎訳

主な登場人物
ハリー:足に壊疽を負って、寝たきりである。身を持ち崩した小説家で、女のヒモとして生きている。病床で酒ばかり飲んでいる
女:金持ちで思慮深く、ハリーを心から愛している。
モロー:召使。従順な男

舞台:アフリカ

荒筋:ハリーは女とアフリカにサファリに来て、右足に壊疽をこしらえてしまい、寝たきりでいる。しかも彼らの乗っていたトラックは故障してしまい、身動きが取れないでいる。

ハリーは病床に身を横たえ、女のヒモに自分が成り下がる前に書こうとしていた小説作品の内容や、自身の人生を回想する。作品の内容は、ハリーがこれまで生きてきた間に出遭ってきた、さまざまな事柄のことである。

その回想から現実に戻るときのハリーは、かいがいしく自分の世話をしてくれる女に毒づくか、モローに酒を持ってこさせるか、のどちらかである。

ハリーはなおも考える――堕落した自分と、堕落する以前の生活を。書こうと思いながら何一つ手をつけなかった作品の材料を。外ではハイエナがうろつく。

なおもリーは考える――戦場で起こったこと、以前の恋人たちのことを。

女がハリーに、なにか食べないと、と言う。ハリーは、いやいやながらもスープを飲む。

ハリーは今度は、自分がパリで過ごした日々の回想を始める。そして、退屈な金持ち連中のことを。

夜がやってきている。ハイエナが外で音を立てる。ハリーは死の到来を、女と話しながら感じる。やがて、死がハリーにのしかかり、そして急にハリーは身軽になる。
朝であり、旧友のコンプトンがハリーを飛行機で迎えに来ている。コンプトンはハリーを飛行機に乗せ、燃料補給のためにアル―シャに寄らなくてはならないかも、と言う。

飛行機は、アル―シャへは向かわず、嵐の中に入っていく。コンプトンがハリーのほうへ向きかえり、にやりと笑い、指をさす。その先には、純白のキリマンジャロがあり、ハリーは、そこが自分の行くところであることを知る。

そのとき、女はハイエナの奇妙な鳴き声を聞いて起きあがり、ハリーの寝ているベッドに懐中電灯の光を当てる。そして息絶えたハリーを見つける。外ではハイエナが鳴きつづけているが、女は自分の胸の動悸のために、その声が耳に入らない。


感想:まず言うべきことは、傑作。夢にまで出てきた作品。文章の切れ味、説得力、構成までとてつもなくハイグレード。ハリーの回想の中身や、彼の人生に対する非情かつ的確なナレーションまで、言うこと無し。ハイエナのイメージも、べたではあるがやはり効果的。何回でも読める作品。


「世界の首都」“The Capital of the World”――福田陸太郎訳

主な登場人物
パコ:エストレマドゥーラ(スペインの西部、やや南よりの一地方)生れの少年。がっしりとした体つき、もろにラテンの血
二流どころの闘牛士たち:三人のマタドールと二人の優秀なピカドールと一人の優秀なバンデリロ
背の高い給仕(イグナシオ):政治活動に参加している。言うことだけが立派なタイプ
年上の給仕:心底からの労働者
パコの姉たち:一人はマタドールの誘いをける。もう一人は直接には登場しない
エンリーケ:皿洗いのボーイ。パコより三つ年上で、とても皮肉で辛らつな性格

舞台:マドリッド――スペイン

荒筋:パコは、姉たちの紹介で姉たちの勤める下宿屋ルアルカで給仕の見習をしている。
その下宿屋には、二流どころのマタドールたちと、優秀なピカドールたちが宿を取っている。ある夜、パコの姉は、その中の「臆病なマタドール」の部屋で誘いを受けるが、鼻であしらう。

そのころ、パコたちは階下にいて、夕食の後に食堂に残って酒を飲んでいる連中の給仕をしている。イグナシオは仕事を嫌がり、会合へ行きたがっている。愚痴をいうイグナシオに嫌気が差し、年上の給仕はイグナシオに「行け」という。

ピカドールが食堂の席を立ち、やがて食堂の最後の客だった僧侶たちも食堂から立ち去る。
パコたちはテーブルを片付け、酒瓶を洗い場へ運ぶ。洗い場にはエンリーケがいる。中年の給仕(=年上の給仕)はパコとエンリーケに酒を勧め、どこかへ行く。
パコはあたりにあったナプキンを取り、闘牛の真似事をする。それを見てエンリーケはパコをからかい、パコにもっと実践的な方法を教える。
それは、「肉きり包丁を椅子に括り付け、それを牛の頭に見たてて闘牛を演じる」というものである。しかしパコは怯まず、それをやろう、と言う。

そのころパコの姉たちは、「アンナ・クリスティー」に主演するグレタ・ガルボを見に映画館へ向かっている。闘牛士たちはカフェにいる。

パコとエンリーケは、ついに擬似闘牛を始める。エンリーケはやめておけ、と言うが、もはやお互い引っ込みがつかない。二度目のエンリーケの突進のときに、パコの腹に角役の包丁が突き刺さる。医者を呼びに飛び出していくエンリーケ。パコは死を覚悟して、神への懺悔を済まそうとするが、文句を言い終わる前に息絶える。

パコは、それから周囲になにがあったのかを知ることも無く、次の日、後々の日のことを知ることも無く死んだのである。
そして、締め。
「彼は、マドリッド全体を1週間にわたってがっかりさせつづけたガルボの映画にがっかりするひまさえ持たなかった。」


感想:言うことナシ!グレタ・ガルボの効果が素晴らしく、洒落ていてなおかつ非情なラストを印象強くしている。メインのストーリーの周りに、他のストーリーやエピソードをちりばめる手法はヘミングウェイの作品ではおなじみのものだが、この作品では特にそのバランスが良い、と思った。タイトルが意味深。
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by mewspap | 2005-08-31 02:07

研究ノート11(shin)

「フランシス・マコウマーの短い幸福な生涯」”Short Happy Life Of Francis Macomber”――福田陸太郎訳

主な登場人物
フランシス・マコウマー:アメリカ人、35歳、裕福で社会的地位もある美丈夫の男性。臆病な紳士
マコウマーの妻(マーガレット):アメリカ人。非常に美しく、金と社会的地位のためにマコウマーと結婚した。臆病な夫を軽蔑している。
ロバート・ウィルソン:腕利きのハンター。マコウマー夫妻のサファリ(遠征狩猟)生活のガイドをしている。

舞台:アフリカ

荒筋:マコウマー夫妻はアフリカにサファリをしに来ている。フランシス・マコウマーはライオン狩をしくじって、妻と同行者全員の前で失態をさらしていた。あれこれと失態の言い訳をするマコウマーにロバート・ウィルソンは腹を立て、マーガレットは夫のマコウマーを軽蔑してちくちくいじめる。その翌日は水牛を狩ることに話が決まり、めいめいは床につく。
そこでマコウマーは自分の犯した失態の一部始終を思い出す。ライオンを恐れ、止めを刺す前に一目散に逃亡した自分を。その回想の間、マーガレットはロバート・ウィルソンの寝室にもぐりこんでおり、朝の五時ごろにマコウマーの寝床に戻ってくる。非難するマコウマーを、マーガレットは臆病者とののしり、旅行は昨日で台無しになった、と言う。

翌朝、マコウマーは屈辱で逆上する。ともかく狩に出かける彼ら。車内でロバート・ウィルソンはマコウマーを「あわれな乞食野朗」だと思う。
水牛が見つかり、彼らは狩を始める。マコウマーはロバート・ウィルソンに対する憎悪以外の感情がなくなり、逆上のテンションで獲物をしとめる。マコウマーは真実、爽快になる。車に戻ったマコウマーは、マーガレットとロバート・ウィルソンに軽口をたたく。もはやマコウマーには、ライオンを恐れた気持ちは無くなっている。
マコウマーは自分が幸福になったことをロバート・ウィルソンに主張し、ロバート・ウィルソンも心底それを認める。

そのあと、マコウマーとロバート・ウィルソンはとどめを刺す前に逃げられた水牛にとどめを食らわすためにジャングルに入る。そこですでに水牛が死んでいると思い、安心していた彼らの前に、水牛が襲いかかる。応戦する二人。そこにマーガレットが加勢するが、彼女の弾丸はマコウマーの頭を吹き飛ばす。
マコウマーの死体を前にして、ロバート・ウィルソンはマーガレットに、「もちろん、事故ですよ」と言いつつも、彼女が故意にマコウマーを撃ったことをほのめかす。マーガレットは耐えられず、「おねがい、おねがいだからやめて」と言い、ロバート・ウィルソンは「おねがいという言葉をつけたほうがずっといい。じゃあ、やめますよ」と言う。


感想:マコウマーが、臆病な子供から勇敢な大人(もしくは青年)へと変身する物語、という感があった。その過程には、怒り、迅速な行動、恐怖の克服、がある。マコウマーは死んでしまうが、大人として生を全うした彼は幸福である、という考えからこのタイトルがつけられているのだろう。直接的に恐怖を克服するものが「逆上」であるところも説得力があり、面白い点である、と思う。


「ミシガンの北で」”Up in Michigan”――高梁正雄訳

主な登場人物
ジム・ギルモア:カナダからやってきた男。鍛冶屋の店を買い取り、馬蹄作りで生計をたてている。
リズ・コーツ:ジムの事が好きな娘。清潔な格好をしている
D・J・スミス:妻と共に一軒家に住む。リズはそこではたらいている

舞台:ホートンズ・ベイ(ミシガン州シャルルヴォアとボイン・シティーの間にある町《実在するかは不詳》)

荒筋:大通りにたった五軒しか家の無いホートンズ・ベイに、ジム・ギルモアがやってくる。先住のD・Jもそのかみさんもジムが気に入り、リズはジムを愛している。
ジムはリズを大して気にかけていないようだが、リズは熱を上げっぱなしである。

秋、ジムはD・Jたちと連れ立って鹿狩りにでかける。リズはジムの帰りを一日千秋の思いで待つ。やがて彼らはひげをぼうぼうにして帰ってくる――鹿を三頭、荷馬車の後ろに積んで。D・Jの家で彼らは酒盛りをして収穫を祝う。

酒盛りと食事の後で、リズはジムが自分の身体を求めてくることを確信しながら、ジムが来るのを待つ。はたして、やってきたジムはリズを求める。二人は家の外に行き、そこで交わる。ことが終わるとジムは寝てしまい、リズは惨めな気持ちになる。それでもリズはジムに自分の上衣をかけてやり、床につくために来た道を戻る。


感想:この作品が発表された当時、「エロ作品だ」と攻撃されたのではないだろうか。エロだなあ。それにしても、ヘミングウェイの作品にセックスが出てきた場合、あまり良いことにならない方が多いなあ、と思う。特に、した後に惨めになることが多い。「誰がために鐘は鳴る」のセックスは幸せそうなのに、どういうことだろう?まあ、あれは終わりがあれだからだろうか。
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by mewspap | 2005-08-31 02:04

シネマのつぶやき:『ゴシカ』――不条理の描出は条理にお任せ(Mew's Pap)

d0016644_21234012.jpg『ゴシカ』GOTHIKA
2003年アメリカ
監督:マシュー・カソビッツ
出演者:ハル・ベリー、ペネロペ・クルス、ロバート・ダウニー・Jr、チャールズ・S・ダットン
しばらく前に、変なタイトルだなあと思って借りて観たら、ハル・ベリーとペネロペ・クルスの共演なのでした。

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by mewspap | 2005-08-28 21:23 | シネマのつぶやき

シネマのつぶやき:『父、帰る』――父という名の「謎」なんだなこれが(Mew's Pap)

d0016644_11555821.jpg『父、帰る』VOZVRASHCHENIE
2003年ロシア
監督:アンドレイ・ズビャギンツェフ
出演:コンスタンチン・ラヴロネンコ、イワン・ドブロヌラヴォフ、ウラジーミル・ガーリン
「父帰る」話型というのがどうやらあるようだ。

「父」というのは現実原則、掟(code)、制度、秩序、ハイラーキー、社会なんかを表象し、場合によっては中心性、抑圧、支配、そして暴力を表すかもしれない。

「父帰る」の前提となるのは「父の不在」である(当たり前)。
父の不在によっても物語は生成・駆動されることは当然あるでしょう。

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by mewspap | 2005-08-27 12:03 | シネマのつぶやき

Re:告知(Mew's Pap)

誰かぜひShinくんのライヴを聴視して、批評性のあるレヴューを書いてください。

批評性のある文章を書くコツは、オーディエンスの視座とはひとつ審級が上の視点に自分を想像的に位置づけることです。
発信者がいて、受信者がいる。
この場合は受信者はオーディエンスですね。
その立場に限定していると良くも悪しくも「感想」の域を抜け出るのはむずかしい。

発信者と受信者の枠組み全体を捉えて、そのダイナミズムを視野におさめる「第三の視点」にポジショニングすれば、批評性はおのずと生まれてくる。
この第三の視点こそ、上位審級の謂いです。
結果としてそこから生まれる言説が的確か否かはもちろん別問題として(言うまでもなく批評性があれば「ただしい」見解となるわけではない)、批評性を担保する一番簡単な方法論です。

ほんじゃ、Shinくんがんばりだまえ。
誰かレヴューを書いてね。
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by mewspap | 2005-08-27 08:50 | Mew's Pap

告知(shin)

夏がもうすぐ終わります。むしろ終わって欲しいと思います。
生活や日常はいざ知らず、ロックンロールは高速増殖炉なみのハイテンションなわけでありまして、僕がやっているmono=echo;no sister というバンドがライヴをします。六月から、約三ヶ月ぶりなので、無駄なほどにテンションがあがっています。この告知をご覧になられている人がどれぐらい居られるかはわかりませんが、是非来ていただきたい、と思います。
前回のライヴにはCHIAKIさんが来てくださいましたが、あれから五段階はレヴェルがあがった、と断言できます。中途半端なことはしません。

日程は  9月2日(金) 難波ベア―ズ 開場18:30 スタート19:00
      9月11日(日)天王寺 不思議の国のアリス 開場16:30 スタート17:00 です。

それと、9月2日の難波ベアーズでのライブ終了後、鶴橋にあるバー へイズにて打ち上げを行ないます。勿論メンバーは全員参加します。ライブを観にきてくれた方との交流を目的とした集まりにしたいと思っていますが、打ち上げのみの参加もOKです!参加費用は一人千円~二千円程度。参加希望の方は当日でも構いませんが、出来るだけ事前に参加の旨伝えて下さい。ライブの前売りチケット予約と同じ様、メンバーに直接伝えるか掲示板へ書き込みをして下さい。掲示板は、mono=echoでネット検索してもらえれば一発でつながります。形態電話からでも飛べますので、一度覗いてみてください。


Bar Haze

営業時間 19:00~3:00

大阪市天王寺区筆ヶ崎町2の18タイセイ第二ビル1階

電話 06-6776-4677

※DJ急募※
打ち上げ時にゆる~い音楽を聴かせてくれるDJ等募集です。ギャラは出ませんが、食事と交通費位はなんとかします(笑)。我こそは!と言う人は9月1日迄に申し出て下さい。
というわけなので、DJ希望の人も待っています。

ともかく、ライヴに来れなくても、その後の馬鹿騒ぎに加わりたい、という人も待っています。
確実に面白い人間や出来事に出会えると思います。面白いことがないかなあ、と思っている人は是非どうぞ!

卒論の息抜きにもなりますよ・・・僕は抜きっぱなしですが。
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by mewspap | 2005-08-25 02:42

気まぐれレヴュー:『対岸の彼女』――コミュニティと「ディス=コミュニティ」(承前)(Mew's Pap)

他方、偶数章では高校時代の葵の物語が語られるが、そこに描かれる疎外、逃避行、そして喪失感は、小夜子の違和感などと比較にならないほど苛烈である。

高校生の葵は、第1章で小夜子が出会う磊落な女社長の葵のイメージとはほど遠いものである。

中学時代の激越ないじめ体験により不登校となった葵は、「この町にいるかぎりあたしはあたしのままなのだ」(p.28)と思い詰め、両親に頼んで横浜市から母親の実家のある群馬県の片田舎に住居を移し、そこで中学時代の知り合いがひとりもいない女子高に入学する。

葵はその女子校で、まったく邪気を感じさせない幼児のようなナナコという同級生と親しくなる。
何事も前向きに捉え、悪く考えず、人の悪口を言わないナナコは、「警戒心や猜疑心を抱くことを断固として許さないような」「悪意や疑念なんか七面倒なものはこれっぽっちも存在しない」と信じている、「取り繕うということをまったく知らない幼児」(pp.34, 35, 38)のように映る。

葵は自分と正反対の性格の彼女に惹かれつつもいぶかしがり、自分とちがってナナコは善意に囲まれ、自己肯定感のみを育まれて成長してきたのではないかと思う。

きっと、ナナコという子は、きれいなものばかりを見てきたんだろうと葵は思う。汚いこと、醜いこと、ひどいこと、傷つけられるようなことを、だれかが慎重に排した道をきっと歩いてきたんだろう、と。(p.64)

そして女子校でも、ちょっとしたきっかけからクラス内でいじめが始まり、標的を次々と変えながら断続的に続いて葵を戦々恐々とさせることになる。
幼稚園から中学時代まで続いたいじめ体験から、葵はうまく立ち回って内集団のなかでポジションを維持しようとする。
他方、ナナコはいずれのグループにも属さず、それでいてすべてのグループとノンシャラントにかかわって楽しく過ごしているように見える。

放課後は同級生の目の届かないところでナナコとふたりで過ごしつつも、学校でのナナコの振る舞いは早晩どのグループからも拒絶されて、いずれいじめの対象になると踏んだ葵は、卑怯と知りつつ学校ではナナコと付き合うことはしない。
葵は表裏ある自分の態度に自己嫌悪に陥るが、ナナコの方は気にする様子もない。

高校二年になるとクラス内に隠然とした「カースト制」が出来上がり、陰湿ないじめが続く。しかし「ナナコはカースト外で好きにふるまって」(p.114)いて、たとえいじめの対象になっても傷つくことはないと断言する。

だってあたしさ、ぜんぜんこわくないんだ、そんなの。無視もスカート切りも、悪口も上履き隠しも、ほんと、ぜーんぜんこわくないの。そんなとこにあたしの大切なものはないし。(p.79)

このナナコの強さを担保する「大切なもの」が何を指すのか明示されないが、その象徴的な空間が彼女の言う「とっておきの隠れ場所」である。葵を案内して連れて行くそこは、学校前のバス停からバスで10分ほど行った渡良瀬川のほとりにある。

土手があり、河川敷があり、その向こうにところどころ岩の突き出た川が流れている、どこにでもある川べりに葵には思えるのだが、けれどここがナナコの言う隠れ場所なのだった。ほかの学校の生徒がめったにこないし、人通りがなく、雨が降れば橋のたもとまでダッシュで三分、それに、ここから見える空が一番大きいのだと、はじめて葵を連れてきたときナナコは得意げに説明した。(p.60)

この平凡な川べりが、葵とナナコが放課後頻繁に通うアジールとなる。そして物語の終幕になって明らかになる、「対岸の彼女」のモチーフを提供することになる。

だが、この隠れ場所を中心とするふたりのコミュニティは、高校二年の夏休みに崩壊する。

夏休みのあいだ遠く伊豆のペンションで住み込みのアルバイトをすることに決めたふたりは、ペンションを経営する肝っ玉母さんのような亮子の下で熱心に働き、幸福な時間を過ごす。

ところが、夏休みも終わりが近づいて伊豆を離れる段になったとき、ナナコは唐突に「帰りたくない」と強い口吻で言い出すのである。
そのとき、つねにノンシャラントに振る舞い、同級生のいじめも相手にしない強靱さを見せていたその陰に、ナナコの暗い深淵がかいま見える。

大粒の涙をこぼし鼻水を垂らして泣いているナナコの顔には影が落ちていて、葵はふと、深い深い井戸の底をのぞいているような気分を味わう。真っ暗で、がらんどうで、その奥に何があるかもわからないような井戸の底。(p.124)

ナナコの性格は善意と幸福しか知らずに育ったためだろうと思っていた葵の想像は、ナナコの住む団地を訪れたときに打ち砕かれていた。
生活感のまったく感じられない荒涼とうち捨てられた部屋を見て、「なんてことだ。まったく正反対じゃないか。この子はだれにも守られず、見る必要のないものまできっと見て、ここでひとりで成長してきたのだ」(p.150)と葵は思う。

自宅に戻ることを強く拒むナナコを見て、葵は「うち捨てられたあの団地の一室」(p.153)のようなもの、「深い深い空洞こそ彼女なのではないか」(p.124)と考える。以来、葵はナナコに「空洞の存在」「深く暗い穴ぼこ」「ブラックホール」(p.153)「ぱっくりと口を開いた穴ぼこ」(p.161)をくり返し見るようになる。

ナナコとともに横浜に向かい、安宿を転々とし、荒んだ生活を続け、夏休みが終わってもふたりは家に帰ることなく放浪する。
しまいにはアルバイトで得た残り少ない金で泊まり歩くため、宿泊代が安いラブホテルを渡り歩くようになる。

ふたりの生活は現実感あるものからどんどん乖離してゆく。
葵は目の前の起きつつある「何もかもに現実感がなかった」(p.163)という感覚を深めていく。かつて葵が住んでいたマンションの屋上に上り、横浜の夜景を眺めても、「大きすぎて端のわからない落とし穴をのぞきこんでいるように」(p.167)葵には思える。こうしてナナコのもつ「深い深い空洞」が葵を、そしてふたりの現実を包み込んでいく。

「あたし、ナナコと一緒だとなんでもできるような気がする」「なんでもできるよ、あたしたち」(pp.153-154)とお互いに言い合う、社会の周縁に危うく維持されている刹那的な共同体は、「ずっと移動しているのに、どこにもいけないような気がするね」というナナコの一言で唐突に解体する。

 葵が思っていて言葉にできなかったまさにそのことをナナコは言った。
「うん」葵はうなずき、言った。「もっとずっと遠くにいきたいね」
「ずっと遠くにいきたい」
 無表情な声でナナコは葵の言葉をくりかえす。
「ここから、手をつないでいっせいのせで飛んでみようか」(p.168)

こうして、今ある自分自身からの逃亡と、ここではないどこかへの放浪は、自殺未遂に帰結する。
マンションの駐輪場のトタン屋根にバウンドし、柔らかい芝生の上に落ちたふたりは軽傷を負っただけで済むが、失敗に終わった「飛び降り心中」に帰結した放浪は、ラブホテルを泊まり歩いていたことと併せて、扇情主義的なイエロー・ジャーナリズムの恰好の餌食となる。

ナナコの消息も知らされないまま、葵は学校に復帰する。腫れ物に触れるように振る舞う両親の芝居がかった快活さと、クラスメイトのよそよそしい優しさに囲まれて、相変わらず彼女は非現実感をぬぐい去ることができない。
学校での日常は「透明の壁の向こうで行われているよう」で、クラスメイトの言葉も「透明の分厚い壁の向こうから響いてくるよう」(p.213)に感じられる。

父の配慮により、ようやく葵はナナコと「隠れ場所」の川べりで再会を果たす。
「どこへもいけなかった」「だけどあたしたち……どこへいこうとしてたんだろう」(p.223)と言葉を交わすふたりは、現実に有意な変化をもたらし得ず、自分自身から逃れることができないことを確認するだけである。
葵にとっては閉塞的な「いじめ共同体」、ナナコにとっては極貧の生活破綻が「私の現実」なのである。

都市における刹那主義的な彷徨は、ただ単に旧来の「私」がさらに消耗し、自分自身がしだいに損なわれていく過程にしかならない。
つまりふたりの現実からの脱却といやいやながらの回帰は、イニシエーションの旅とはならないのである。

第13章末尾で小夜子が発する「あのあと、どうなったの」(p.246)という質問によって、第14章では現在の葵の視点によるフラッシュバックが駆動される。

転居し、転校したナナコからの連絡は途絶えたまま、「すべてあいかわらず遠い壁の向こうで行われている」(p.248)ような葵の日常生活は続く。
希望する大学に進学後も、葵は誰に対しても「一定の距離」(p.250)を崩すことはできない。

そしてこの第14章では、ふたつのイニシエーションがいささか唐突に導入される。
ひとつは過去における「旅」、もうひとつは現在における「幼児返り」である。

大学二年のとき、葵は期限を定めずアジア各地を流浪するひとり旅に出る。
ラオスで現地の若者が、葵と同じように日本から旅してきたナナコという女性を知っていると言い、葵はあっさりと騙され金品を奪われる。

 信じられない、信じられない、信じられない。遮二無二歩きながら葵はつぶやいていた。……信じられない、もう一度吐き捨てるように言い、葵ははっとしてなんにもない赤土の道に立ちつくした。
 信じていたのだ。人は親切にしてくれるものだと、今の今まで信じていたのだ。それは葵にとって不可思議な、しかし唖然とするほどの発見だった。同じようにナナコがこの世界のどこかにいることもまた、露疑うことなく信じていたのだ。(p.254)

「ナナコ不在の世界」の絶望への覚知は、しかしながらもうひとつの跳躍を見せる。
見知らぬ異邦人の小型トラックが赤い土埃をあげながら近づいてきたとき、葵は逡巡の果てにもう一度信じることを意志的に決める。

 葵は大きく息を吸いこみ、動きを止めた手足に力をこめて車道に躍り出た。両手を大きく掲げ、トラックに向かってちぎれるくらいふりまわす。クラクションが響き、悲鳴に似た音をたてて、数メートル手前でトラックは停車した。湯気みたいな土埃が車体を隠す。トラックに向かって葵は勢いよく足を踏み出した。
 信じるんだ。今、そうだ、たった今私は決めた。
 ……
 信じるんだ。そう決めたんだ。だからもうこわくない。……ナナコがいないこの世界のほかに、見知らぬ人と笑いながら言葉を交わすナナコが存在する世界だってある。だったら私は後者を信じる。(p.256)

このように、葵のひとり旅はかつてのナナコとの彷徨を反復しつつ、その失敗した旅の「やり直し」の役割を果たす。
それはコミュニティへの不信と脱却、そして再びコミュニティへの参入の軌跡をなぞる。
大学卒業後、葵は旅行関係の会社を立ち上げるが、それは他者と共同のコミュニティを欲していたためだったことに、小夜子が去って初めて気づく。「高校生の自分が待ちこがれていた未来」は、「株式会社だの経営だのではなくて単純にこういうことだった」と。

 小夜子とは年齢と出身校以外、立場もものの見方も、持っているものもいないものも何もかも違った。……けれど自分たちは、おんなじ丘をあがっているような気がしてならなかった。まったくべつのルートから、がむしゃらに足を急がせたり、ときどき座って休んだり、歩くこと自体にうんざりしたりしながら、なだらかな傾斜をあがっている。立場も違う、ものの見方も、もっているものもいないものも違うが、いつか同じ丘の上で、着いた着いたと手を合わせ笑い合うような、そんな気がした。(pp.259-260)

「ナナコのいるはずの世界」への意志的な信念と、「同じ丘を別のルートからのぼる者たち」の共同体イメージが、葵がひとり旅とその後の会社経営を通じて培ってきたものだった。
しかし楽天的で磊落な葵の、「大学サークルのような」自由闊達だが放埒な会社経営に批判的な部下たちは、ほとんど背信行為のようなかたちで葵の下を去る。
経営縮小を迫られた葵は、小夜子に任せていた部門からの撤退を余儀なくされ、その決定を聞いた小夜子は自分も会社を辞めると葵に伝える。

小夜子が出て行った部屋で、ひとり残された葵は幼児への回帰を見せる。「葵は椅子に両膝を立て、顎を埋めて閉まったドアをみつめた。……その場に座りこんで顔を腿に伏せた」という描写は、明らかに幼児返りを示している。

 背をまるめ顔を両手で覆い、葵は泣こうとしてみる。出てこない涙を誘うように、うえーん、と子どものように声を出してみる。涙は一向に出てこない。(p.261)

幼児性への回帰という儀式めいた過程はすぐに終わり、葵は現在の現実に戻ってくる。
「ナナコ不在の世界」の新たな顕現は、赤土の埃が舞う一本道に立ちつくすかつての自分への同化を促すからである。

突っ伏し顔を覆った両手の隙間から、台所の床を眺める。通りかかったトラックを停めるために、赤土の道に躍り出て両手を大きくふったときのことを思い出す。陽射し、色合い、埃の匂い、恐怖が去らずふるえ続けていた膝。(p.261)

そして葵は「『やーめた』と大きく言って」もう一度「立ち上が」るのである。

このように本章では、海外放浪と幼児返りという、「分離と再統合」のふたつのイニシエーションが描かれている。いささか唐突感を否めず説得性も乏しく映るが、著者の意図は明らかだろう。

小夜子が勤務したのは、葵の旅行会社が新たに設立した派遣による清掃業務部門だった。
依頼を受けて他人の家に赴き、すさまじく汚れた室内の掃除を代行する業務である。

夫や義母の無理解やあからさまな揶揄にもかかわらず、小夜子はその仕事にやり甲斐と意義を見出し、カタルシスさえ覚えるようになってゆく。

言われるまま、力をこめずスポンジで円を幾つも描き続けていると、だんだん手元が軽くなっていくのがわかった。……そうするうち、汚れが完全にとれたという瞬間が、おもしろいようにわかってくる。油汚れの上で重苦しくまわるスポンジが、しだいに軽くなり、そしてふっと、摩擦がなんにもなくなる。まるでそこだけまるく空洞ができたみたいに。……
 汚れが落ちる瞬間がわかると、油まみれの台所の真ん中で、はいつくばって床や棚を磨き上げるのが、小夜子はとたんにおもしろくなった。洗剤をスポンジにしみこませ、床の一部にあてくるくるとただひたすら円を描き続ける。こびりついた油の層が薄くなるのに比例して、頭のなかがどんどん真っ白になっていく。くどくどと続いた義母の嫌みが消え、保育園の待機リストが消え、働くことが正解だったか否かの問いが消え、ただぽかんとした空白がひろがる。その空白が、いつまでも身を置いていたいような心地よいものに小夜子には感じられた。(pp.46-45)

葵の会社が清掃業務から撤退するのにともなって会社を辞めた小夜子は、勤めていたあいだほとんど手を入れられずに「ずいぶん汚れていた」(p.262)自宅の清掃に没頭する。
しかし、「ひとつひとつきれいにしていっても、磨き忘れたところがあるような気がして」(p.262)小夜子は落ち着かない。そして「雑巾を手にうろつきまわっても、磨き忘れたところは家のなかにあるのではない」(p.278)ことに気づく。
小夜子はやり残したことを継続するために、もう一度葵を訪ねてゆくことになる。

葵は小夜子と接していると「高校生のときの自分を思い出さずにはいられず」、そして「自分が記憶のなかのナナコを演じているような気分」(p.258)に襲われる。
事実、「あたし、ナナコと一緒だとなんでもできるような気がする」(p.153)というかつての葵の台詞を反復するように、小夜子は葵に「楢橋さんといっしょだと、なんだかなんでもできそうな気がする」(p.200)と言うのである。
ここには巧みな役割逆転による、失われたコミュニティの新たな生成可能性が示唆されている。
葵はかつてのナナコに自己同一視し、そして小夜子にかつての自分自身を投影しているのである。

葵のところを訪れた小夜子は、乱雑な部屋の掃除を始める。
そしてかつてナナコが葵に送った古い手紙を見つける。
プロットとしては多少人工的で月並みだが、過去のナナコが葵に送り、現在の小夜子が受け取る手紙という構想はすぐれたものだ。手紙を媒介にして、小夜子はナナコに呼びかけられた過去の葵の役割を担うことになるのである。

そして小夜子は高校時代の過去へと回帰し、川をあいだにはさんでこちら側にいる自分と、向こう側にいる葵とナナコという風景を幻視する。

 小夜子は手紙から顔を上げた。
 見たことのない景色が、実際の記憶のように色鮮やかに浮かんだ。
 川沿いの道。生い茂る夏草。制服の裾をひるがえし、陽の光に髪を輝かせ、何がおかしいのか腰を折って笑い転げながら、川向こうを歩いていく二人の高校生。彼女たちはふとこちらに気づき、対岸に立ちつくす高校生の小夜子に手をふる。ちぎれんばかりに手をふりながら、何か言っている。小夜子も手をふりかえす。何か言う。なーにー、聞こえなーい。二人は飛び跳ねながら少し先を指さす。指の先を目で追うと、川に架かる橋がある。二人の女子高生は小夜子に手招きし、橋に向かって走り出す。対岸の彼女たちを追うように、橋を目指し小夜子も制服の裾を踊らせて走る。(p.287)

この小説は、葵の想起する「別のルートからともに同じ丘をのぼる」女性同士の共感と共生、あるいは小夜子が幻視する「対岸の彼女」たちが「少し先」の橋で出会う、女性同士のコミュニティの生成可能性をめぐる物語と言っていい。

「いつか同じ丘の上で、着いた着いたと手を合わせ笑い合う」可能性、「少し先」の橋の上で邂逅する可能性は、「磨き忘れた」ものに丁寧に相対することに胚胎する。
そして異邦の地で土埃を上げるトラックに向けて葵が意志的にしたように、また小夜子が一瞬の幻視に見たように、他者に向けて「ちぎれんばかりに手をふる」挨拶を送ること。
小夜子がくり返す「なんのために私たちは歳を重ねるのか」という自問は、そこに逢着するのである。

あるいはこの小説は「女子同士のいじめ物語」集成である、と言ってもいいかもしれない。
『空中庭園』でも『学校の青空』でも、角田光代が書いているのは「女子内集団いじめ小説」なんである。

なんかよっぽど嫌な経験してるんだろうかね。
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by mewspap | 2005-08-23 17:02 | つれづれレヴュー

気まぐれレヴュー:『対岸の彼女』――コミュニティと「ディス=コミュニティ」(Mew's Pap)

d0016644_170692.jpg角田光代『対岸の彼女』(文藝春秋、2004年)

ちょっとおもしろい構成をもった小説なので、そのことだけご紹介しようと思ったのだけど、その構成が物語展開とどのような必然的つながりをもっているか示唆するために、多めの引用でストーリーを素描していたらなんかやたらと長くなってしまった。

「こんなこと」をして遊んでいる暇はほんとうはないはずなのだが、まいっか。
長いのでふたつに分けて投稿。


「負け犬」の女性と「勝ち犬」の女性には、はたして相互理解と友情など可能なのか、というような惹句で喧伝されているのが見られたが、そういうお話ではないのではないか。

端的に、これは女性の内集団の力学と「いじめ」のお話である。
女性同士のコミュニティの可能性と、その内集団における違和と疎外、つまり適切な言葉がないので便宜的に「ディス=コミュニティ(dis-community)」とでも名づけたいものをめぐる物語である。

全15章のうち、奇数章に専業主婦の田村小夜子、偶数章に起業家の女社長の楢橋葵が充てられ、ふたりが章ごとに交替で視点人物となる。

意表を衝くのはそれぞれの章の時間的な隔たりである。

小夜子の章の時間設定は現在に置かれる。
専業主婦の小夜子が一念発起し、葵の会社プラチナ・プラネットで職を得たことで始まるふたりの交流を描くのが、小夜子の章である。
ともに30代の小夜子と葵は、たまたま同い年であるばかりでなく、同じ大学を卒業している。
同齢で同じ大学の卒業生という共通点を前提にした両者の差異が際立つ。
そしてその差異を越えた共感を描くことこそ、この小説の主題であろう。

他方、葵の章の時間設定は、第14章を除いて過去に置かれ、彼女の高校時代が描かれる。
第14章はそれまでの葵の章の設定から逸脱し、現在の葵の視点となり、彼女が高校時代のことを回想するフラッシュバックで構成されている。
葵のフラッシュバックを促すのは、第13章で小夜子が放った質問である。小夜子がプラチナ・プラネットを辞め、葵と袂を分かつことになる本章で、小夜子は葵の高校時代の自殺未遂事件に言及し、それが次の第14章における葵の「現在」からの回想を導くことになる。

同じ時間設定のなかで別々の人物の視点から描くというのは月並みだが、こういう視点の転換に時間的ずれを持ち込むのはめずらしい。

小夜子の章が全8章、葵のそれが全7章であり、最初と最後が小夜子の章に充てられている。小夜子の章が現在に置かれていることと併せて、小夜子の視点が中心となり、より重点が置かれているのも小夜子の方だと言っていいだろう。

基本的に三人称語りの視点小説だが、日本の小説によく見られるように、地の文に視点人物の「私語り」がしばしば介在して、一人称語りの趣向を呈する。

第1章冒頭も小夜子の「私って、いったいいつまで私のまんまなんだろう」(p.3)という内面の語りで始まる。
ここでの自問は「私は何者なのだろうか」「あるべき理想の私はなんだろうか」という十代の少女的な「自分探し」の問いではない。
現在の小夜子は、理解のない夫、嫌みな義母、そして友だち作りが下手な幼い娘のいる平凡な専業主婦で、自身も公園で子連れの主婦グループの輪に溶け込めず、そういう自分を半ばあきらめとともに受け入れざるを得ないことも知っている。

しかし、周囲の多くの人々のように、人間関係の表層的なロール・プレーイング(夫に対する妻、義母に対する嫁、子育て中の母親コミュニティの一員)を通じた自己定義を受け入れることもできないでいる。

小夜子を「私って、いったいいつまで私のまんまなんだろう」と嘆息させるのは、反復される「ディス=コミュニティ」感覚である。

大学を出て就職した「上下関係に神経質ではない雰囲気」がある「自由な職場」を、結婚と同時に寿退社したのも、「数年過ごすにつれて、微妙な対立が見えてきた」ためであり、「女子社員と契約社員たちのあいだでくりひろげられる、なんとも馬鹿馬鹿しい応酬」に倦んだためだった。

コーヒーや麦茶の準備を巡って、退社時間を巡って、服装を巡って、女子トイレの私用化を巡って、そのひそやかな対立は終わることなく続いていた。どちらにもいい顔をしたり、どちらとも無視していたりすると、いつのまにか自分がやり玉にあげられたりする。双方から適当な距離を保つには努力を要した。(p.7)

子どもが生まれ、「乳幼児を持つ母親向けの雑誌を熟読し、その雑誌の指示通りの時間帯に、指示通りの格好をして」公園デビューに臨むが、

公園では微妙に派閥があることに小夜子は気づきはじめた。ボス的存在がいて、嫌われものとは言わないまでも、さりげなく避けられている母親がいる。

こうして小夜子は「A公園にしばらく通い、そこに集まる母親たちの関係性が見えてくるとB公園に移動」する「公園ジプシー」となる。(pp.4-5)

内集団に入り込めない小夜子の感覚は、第13章のフラッシュバックで語られる高校時代の体験に根ざしている。

中高一貫の女子校に通っていた小夜子は、高校二年のときに、中学時代から属していたグループの友人を一度に失う。
他の友人たちが推薦で短大か専門学校に進むことを決めているなかで、受験して都内の大学に進学するつもりの小夜子は、夏休みに遊ぶ誘いの電話を何度か断って集中講座に通う。

そして新学期、登校してみると、グループの女の子たちは口をきいてくれなくなっていた。お昼休みになると集団でどこかへ消え、放課後も小夜子に声をかけることなく教室からいなくなった。電話をかけても居留守をつかわれ、話しかけても無視された。……そして小夜子はじわじわと恐怖を感じ始めた。疎んじられていた部分はどんなところだろう。あたしの何がいけなかったのだろう。……小夜子は二学期から単独行動をする羽目になった。そうなってみると、学校はおそろしいくらい静かだった。クラスメイトたちの騒ぎも、下級生たちの笑い声も、みな隣家のブラウン管から聞こえてくるように感じられた。(pp.236-237)

高校三年になると予備校で友人ができるが、違う大学に進学したその友人に連絡してもなかなかつながらず、「決めてあった約束もみな反故」にされる。

電話が彼女とつながったのは、その年の夏になってからだった。ぜんぜん電話をくれないじゃないと小夜子がなじると、「忙しいんだけど」困ったように彼女は言った。「ひょっとしてまだ友達できないの?」声を潜めるようにして訊いた。(p.238)

このような過去の体験に根ざした感覚が、大学卒業後に勤めた会社でも、子連れの公園でも小夜子について回る。
さらに、仕事を辞めたあと、子どもを保育園に通わせることはできなくなるので、幼稚園児の母親たちとつき合ってみるが、そこでも同じ違和感を覚える。
「そろって専業主婦で、さらにそろって働く母親をよしと思っていない」幼稚園児の母親グループは、保育園から上がってきた子どもや働く母親へのバッシングに興じる。小夜子はそこに「既視感を覚える。既視感というよりも、それは記憶なのだ」と気づく。

いくつも年齢を重ねたのに、机をくっつけて弁当を食べていた高校生のころとまったくかわらない。架空の敵をつくりいっとき強く団結する。けれどその団結が、驚くほど脆いことも小夜子は知っている。……なんのために私たちは歳を重ねるだろう。(pp.271-272)

このように、小夜子は内集団から弾き出される恐怖を知悉していると同時に、内集団のなかでは違和感を消し去ることができない。孤高を貫く強さはなく、内集団の表層的な関係性から自分自身を定義することもできないのである。
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by mewspap | 2005-08-23 17:01 | つれづれレヴュー

シネマのつぶやき:『誰も知らない』――閉塞と転落(Mew's Pap)

d0016644_23364312.jpg『誰も知らない』
2004年日本
監督:是枝裕和
脚本:是枝裕和
出演:柳楽優弥、北浦愛、木村飛影、清水萌々子、韓英恵、YOU
映画館で観ようと思っていたが果たせず、3ヶ月ほど前にレンタル・ヴィデオ屋さんで借りて観た。

手持ちカメラを多用したドキュメンタリー風の映画で、ご承知のように主演の柳楽"目ぢから"優弥がカンヌ映画祭最優秀男優賞を受賞した。
「どんな名優も子どもと動物には勝てない」と言うが、演技力というより存在感と表情(と世界を貫きそうな「目」)で賞をかっさらっていった。

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by mewspap | 2005-08-19 15:27 | シネマのつぶやき