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研究ノート(2):映画における女性像の変遷(Hiroko)

前回の書き込みからけっこうな時間があいてしまいました。間隔があくと、書かなければならないことが多くなり、自分の首をしめているような感じです。書き込む習慣をつけないと、後々もっと大変なことになりそうです。気をつけます。

私の現時点でのテーマが「映画における女性像の変遷」とおおざっぱなので、資料となるような映画を探して観たいと思います。そこで、まず秋元先生が紹介なさっていた「ビデオで女性学」(井上輝子,木村栄,西山千恵子,福島瑞穂,細谷実/有斐閣)を参考にしました。この本では女性学に関係するような様々な映画を仕事、家庭、友情、老いといったいくつかの項目に分類して紹介してあります。「女性学」とひと括りにするのでなく分類されているので、どういった視点でその映画を捉えているのかが分かりやすいと思いました。非常に多くの映画が載っていますが、それらの中から英米製作のものに限って観ていこうと思います。それでも数がけっこうありますが、ひとつ観てはここに書き込む、といったようにしたほうがいいんでしょうか。また参考文献も紹介されており、それらも読もうと思います。

それから、「キューティー・ブロンド2」をみました。「ブリジット・ジョーンズの日記」と共に「キューティ・ブロンド」も取り上げると言っていながら、やっとこちらの2作目を観ることが出来ました。

そもそも「キューティ・ブロンド」は2001年公開された映画で(監督:ロバート・ルケティック、主演:リース・ウェザースプーン)、現在続編としての「キューティー・ブロンド2」まで出ています。全身ピンクのスーツを着るブロンドの女性、主人公エル・ウッズが周囲の圧力や偏見に負けずに頑張っていく、という話です。この映画では「ブロンド女性」に対して周囲の人々がどのような目で見ているかがよく表されている場面がいくつもあります。最も明確なのが、1作目の冒頭でエルの恋人が「議員の妻にふさわしいのは、ジャクリーン・ケネディでマリリン・モンローじゃない」という台詞とともに、エルをふるところだと思います。ブロンド女性に対して求められているのは知性的なものではない、と言い切っています。アメリカにおいてブロンドの女性へのイメージがマリリン・モンローに代表されるものだということなので、マリリン・モンローがアメリカのブロンドガールの世間的イメージを強力にしたであろう映画を調べ、観ていくつもりです。

「キューティー・ブロンド」自体に感じたことを具体的に書きたいのですが、鑑賞中にメモしていた内容を見返しても自分が何を思っていたのか分からない文章となっています。先生からも指摘を受けましたが、自分が何を思っていたかも書き記す必要がありますね。書くって重要な行為なんだと実感しています。
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by mewspap | 2005-05-31 22:48 | 2005年度ゼミ

そういうことです。(Mew's Pap)

まったくAkamatsuくんの言うとおりですので、拳拳服膺されたし。

ただし、「現段階で明確なテーマを持っている人はいない」というのは(驚くべきことに)的を射てはいないのである。すでにして明確なテーマでごりごり突き進んでいる人が複数いるのである(驚いたでしょ、Akamatsuくん)。

「です・ます」「だ・である」調については、実のところ研究ノートに関しては後者でやってほしいと思っている。
現時点から論文調の文体を体得するのによいであろう。しかし、ブログ投稿というものの要請で、なんとなくやりにくいのも了解できる。
「だ・である」調での投稿を求めると、研究ノートの寄稿はますますハードルの高いものに感じられるのが懸念される。

ある時点にいたったら「だ・である」体での投稿をmustにしようと考えていたが、現時点から可能な人はできるだけ試みてほしい。

それから私の雑文の文体を決して真似してはいけない。
「ああ、こんな感じで書けばいいんだ」と勘違いして、地獄に行った者が過去に実在するのである。
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by mewspap | 2005-05-30 07:51 | Mew's Pap

Yujiさんに返事(Akamatsu)

「金欠」のAkamatsuです(「金穴」だったら対蹠の意味になってしまうんですね。初めて知りました)。
Yujiさんの不安に、中核のテーマが見つからないまま、12月までゆらゆらと過ごしたわたくしがお答えしましょう。

畢竟いたしますと、その不安はおそらくゼミ生全員が抱えているものです。
現段階で明確なテーマを持っている人はいないと思いますし、肚の内を開示していないだけで、多寡はあれども皆が不安をおぼえているでしょう。
過度の不安はよろしくありませんが、適度な不安はモチベーションへと転換させちゃいましょう。

こんな表現をするのもアレですが、Yujiさんが不安を露呈してくれたことで、他のゼミ生さんは幾分気が楽になったところがあるかもしれませんね。

だいたい、こういう状況だとふたつのパターンにわかれますね。上の人を追いかけるのか、下の人にあわせるのか。
私なんかは下にあわせる怠惰な人間なのですが(そのせいで12月までてこずっていたわけです)、Yujiさんの視点は上を向いているようなので、あまり不安がらなくていいと思います。
テーマはネタを積み重ねていくうちにポッと浮き上がってくることもありますから。

前期中はテーマの方向性が定められればいいんじゃないか……と思ったりしますが、そこのところは先生のお言葉を三拝九拝しながら待つといたしましょう(お願いします)。

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せっかくなのでYujiさんの文章を俎上にあげて(ごめんなさい)、文章について縷々述べさせていただきます。

ですます体とである体との混在が読みにくいですね。叙述内容に応じて書き分けているのはわかりますけれど、ちょっと読みにくいかも。
(Yujiさんだけに言うわけじゃありませんが)ブログに書込むときは、卒論の助走段階であることを意識しながら作文してみたほうがいいですね。いい機会ですし。

論文中では疑問符・感嘆符のたぐいはめったに使わないと思いますが、使用の際は記号の後ろにスペースをひとつ空けなければいけません。
「こんな現状で大丈夫なのでしょうか? 不安が募るばかりです」
といった感じに。

一文は短くまとめたほうがいいので(個々の文章スタイルというものもありますが)、
「この映画は20世紀初頭のジョージア州が舞台であり、南部と言えば人種差別がひどい地域であるが、この映画は人種差別と言うよりも黒人間の女性差別にフォーカスしている」
この文章はふたつにわけたほうがいいですね。
「~~が」を用いた場合、その前後の文で意味が切れていることが多いので、意味の切れ目にあわせて句点を挟んでしまいましょう。
一文は意味単位で区切ったほうが読者も理解しやすいわけです(そうすれば自然と短文で構成されるようになる)。
「この映画は20世紀初頭のジョージア州が舞台である。南部は人種差別がひどい地域であるが、この映画は人種差別というよりも黒人間の女性差別にフォーカスしている」(ちょっと改変)
こんな感じですね。

チェックの厳しい人だったら、「南部は人種差別がひどい地域であるが」という文の内容があとにまったく続いていないので、無駄な叙述は削除してしまえ、というかもしれません。

作文って誰でもできるわりに奥が深いので(歌を唄うのと似ているかも)、今のうちに細部を意識して文章を書く癖をつけたほうがいいでしょうね(ゼミ生さん全員ね)。

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書きすぎてしまいました(今日は2限からだというのに……)。
みなさん、のんびりがんばってくださいねー。
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by mewspap | 2005-05-30 02:54 | Alumni

研究ノート(3):20世紀初頭の黒人(Yuji)

 28日の映画部に参加できなかったので、早めにアップしておきます。
 この一週間、あまり何も出来ず、探している「Do the right thing」も見つからずに終わりそうでしたが、スピルバーグの「The Color Purple」を観ました。
 この映画は20世紀初頭のジョージア州が舞台であり、南部と言えば人種差別がひどい地域であるが、この映画は人種差別と言うよりも黒人間の女性差別にフォーカスしている。主人公である少女セリーは父親から虐待という言葉では表しきれないような扱いを受けており、「自分」を殺して生活していた。そして、セリーはミスターという男に嫁ぐこととなり、彼のもとで奴隷のような生活を送ることとなる。しかし、セリーはシャグという憧れとも言うべき女性と出会い、本当の「自分」に目覚めることとなる。
 この作品からわかることは、白人>黒人男性>黒人女性という当時の支配関係である。しかし、イメージに基づく現在の上下関係は白人>黒人である。黒人に対するイメージでは男女差がないどころか、下手をすれば男性の方が悪いイメージを持たれている。下劣、性衝動が強い、野蛮などが主なイメージである。
 先日の研究ノートにも記述したように、なぜスパイク・リーがこの作品を評価しないのかという点については、未だにわかっていません。ですが、「スパイク・リーの軌跡」という、彼の日記を中心に構成された本を見つけたので、この中にその答えを垣間見ることが出来るのではと期待しています。
 最近ふと思ったのですが、僕は明確なテーマが全く決まっていません。こんな現状で大丈夫なのでしょうか?不安が募るばかりです。
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by mewspap | 2005-05-29 23:04 | 2005年度ゼミ

研究ノート(2):多様化する家族(YU)

書き込む癖をつけようと心に決めたのにも関わらず、遅くなってしまいすいません。
今回は、前回に引き続き、映画を二本見ました。「クレイマークレイマー」[KRAMER VS. KRAMER]と、「ミセスダウト」[MRS. DOUBTFIRE]です。

まず、クレイマクレイマーは、自立心に目覚めた妻が、結婚8年目を迎えた結婚生活に耐え切れず、家を飛び出し、仕事人間だった夫が幼い息子の面倒を見るはめになるところから始まります。離婚と養育権という、現代アメリカが避けて通れない社会問題を描き、子育てに翻弄しながら必死に息子への愛情を深める父親テッドを演じるダスティン・ホフマンと、息子への愛の執着を真に迫る演技で見せるメリル・ストリープを通して、この映画では女性の自立、離婚など、70年代後半のアメリカで表面化した社会問題を取り上げられています。
この映画を見ていて、私が思い浮かんだのが、去年話題となったドラマ『僕と彼女と彼女の生きる道』でした。これは、この映画を意識して作ったのでしょう。話の展開が本当に似ています。現在の日本の家族も、70年代のそれに通じるものがあるのでしょうか。これからの日本の家族が心配です。


また、ミセスダウトは、失業中の声優ダニエルが、デザイナーである妻ミランダと離婚をします。ダニエルは養育権を奪われ、週一度しか子どもたちと会えないことになってしまうのですが、メイクアップアーティストの兄の手を借りて、初老のイギリス婦人ミセス・ダウトに変身し、家政婦として子供達に会うことができるようになります。この映画では、両親の離婚によって板挟みになる子供達の心情をもうかがうことができました


現在の「家族」とは、結婚・離婚・再婚・養子・同性愛によって成立していると思います。しかし、アメリカ人が理想とする「家族」とは50年代のイメージであると教授からお聞きしました。原型とされた「家族」から、現在の多様化した「家族」にどう移っていったのでしょうか。今後はそこに焦点をあてて調べていきたいです。

次回までに、今度はその原型の家族を知るため、50年代の家族をあらわしたような、古い映画を探してみようと思います。何かいい映画があったらみなさん教えてください☆
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by mewspap | 2005-05-22 23:30 | 2005年度ゼミ

蕎麦香るシアワセ(Mew's Pap)

昨夜は「蕎麦通」のY本先生が主宰してくださった集まりで、南森町の「な○わ翁」で極うまの蕎麦をもりもり食べる。蕎麦焼酎の蕎麦湯割りをごくごく飲む。

うまひ。しあわせである。

疲れたときはガーリックの効いたパスタにフルボディの辛口ワインか、香り高い蕎麦に蕎麦焼酎が心身ともにたいへん効果がある。

Y本先生の「蕎麦好き浪速男」のコラムはこちら:
http://www.kansai-u.ac.jp/Fc_let/colomn/colomn21.htm

続けて二次会では懐かしくも陽気なニューオリンズ・ジャズを生演奏で、バンドから1メートルのところで聴いてさらにしあわせになる。

しあわせになったついでに、この宇宙に憤懣やるかたなしという風情の「酒豪女史」O村先生の「愚痴」を「ふんふん」と同意しながら数時間にわたって拝聴し、夜は深々と更けてゆく。

結局、研究室にお泊まりとなる。

やらなければならないことが山積し、締め切りも近づいているのにこんなことでいいのであろうか。

いいのである。

「ま、なんとかなるさ」という根拠なき信憑をはやくも念仏のごとく唱え始めるのであった。
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by mewspap | 2005-05-22 17:51 | Mew's Pap

PRSUserくんのコメント(Mew's Pap)

1時間半の授業時間中は、およそ37語くらいしかしゃべらないPRSUserくんであるが、文章を書くとちゃんと長いものを書けることがわかった。

文献をまとめるときは、「 」を使って直接引用をしながら的確に書くこと。
著者名、出版社、出版年を明示し、pp.○-○というかたちでページも明記すること。
書籍のタイトルは二重かぎ括弧で『 』を付すこと。

それから不適切な記号と文体は研究ノートを書く日頃から避ける「癖」をつけること。
「←こういうことが書いてありました。ほとんど抜き出しです。」というのはだめです。例えば、

・・・けどネオはわからない。
筆者は、以上のような議論をしています。

というようにしましょう。

「ほとんど抜き出しです。」というのは何?
「抜き書き」ならば、当該箇所は引用符を付けなければなりません。

「結局は僕らもマトリックスにいるのかも知れないという結論」なのですか。ずいぶん月並みな論文ですね。

「よく読むとこれを書いたデービッド・ミツオ・ニクソンは「マトリックスかも」説が意味を成すかという論点から筋道反れて、それを信じれるか信じれないかだけを考えて、結局何もわからないまま終わったような気がします。言い出したら限がありません。僕は実際はアメリカ人かもしれないし、Mew's Pap先生は脳みそだけかもしれませんよ。。。本当は地球が2mmかもしれないし。。。マトリックスの世界が現実の世界に限りなく似てないとこの映画おもしろくないですね。」

これは筆者のニクソンの論文を、きみが批評的に記述している点ですね。
なかなか批評的でよいと思いますが、「論点から筋道反れて」は表現も漢字も変です。
「。。。」というのを使うのが最近の流行ですが、みなさんは決して使わないようにしましょう。
末尾は「感想」でしょうが、おもしろいかおもしろくないか、というのは「論点」にはなりませんし、重要ではありません。

この調子で『マトリックスの哲学』所収の論文について次々ごりごりどんどん書いてごらん。
# by mewspap | 2005-05-21 14:50 | PRSuser
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by mewspap | 2005-05-22 17:36 | Mew's Pap

研究ノート(1)PRSuser

やっと「マトリックスの哲学」が届きました。43ページからの「マトリックスかも」をとりあえず読みました。

2種類の「知っている」ということが書いてありました。
信じていることが誤っている可能性があるなら、その信じていることは、本当に知っているとは言えなくなる。これがひとつです。
もうひとつは、現実の世界で、「知っている」という言葉を実際にどう使っているかを見れば、誤ったことを信じている可能性に気づくような状況はいくらでもある。しかし、それでもわれわれは、それを知っているとする。というのです。
第一の見方は、一種の超知識、誤る可能性がなくならないかぎりは、何かを「超」わかっているとは言えない、そんな知識のことで、第二の立場は、普通の知識を相手にしている。間違っていることもありうるという程度なら、何かを普通に知っていると言えるような知識です。

そして、ネオ(キアヌ)は本当に自分がマトリックスにいることを知っているのかということが書いてありました。
赤いピルを飲んでからの数日間の不可解な経験を信じることができるのか、今までの25年間(ネオが25歳だとしたら)の経験を捨てることができるのか、ってありました。
今までの経験を信じているから、これからの物事を信じることができるのに、今までの経験がすべてコンピューターによって送られたものなら、しかも悪意のあるコンピュータによって送られたとネオが信じてしまったら、今までの経験はすべて信じられないものになる。あたりまえがあたりまえでなくなる。たとえば、モーフィアスが英語に聞こえる音を立て始めたとすれば、ネオは習慣から、モーフィアスは英語を話していると考えてしまうだろう。ネオは、英語を話しているように見える人は、たいてい実際に英語を話しているような世界になじんでいるからだ。しかしそのことは、悪意あるコンピュータが生み出したことだと思っていたのでは、信用できない。ネオは、モーフィアスが実際に英語を話していると信じる根拠もなくなる。あるいは、モーフィアスが本当のことを言っていることや、モーフィアスが怒るとその頭がぽろりと落ちることはないことについても、信じる根拠がなくなる。そう信じて当然と思わせる根拠が、自分では信用できない経験に依拠しているからだ。観客はコンピュータのプログラムした世界と現実の世界が似ているのは知っているのでそんなことがないのは知っているけどネオはわからない。←こういうことが書いてありました。ほとんど抜き出しです。結局は僕らもマトリックスにいるのかも知れないという結論でした。

よく読むとこれを書いたデービッド・ミツオ・ニクソンは「マトリックスかも」説が意味を成すかという論点から筋道反れて、それを信じれるか信じれないかだけを考えて、結局何もわからないまま終わったような気がします。言い出したら限がありません。僕は実際はアメリカ人かもしれないし、Mew's Pap先生は脳みそだけかもしれませんよ。。。本当は地球が2mmかもしれないし。。。マトリックスの世界が現実の世界に限りなく似てないとこの映画おもしろくないですね。
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by mewspap | 2005-05-21 14:50 | 2005年度ゼミ

Akamatsuくん、ひさしぶり(Mew's Pap)

Akamatsuくん、ひさしぶり。

みなさん、漢字のことは3才から老荘を読んで育ったAkamatsuくんに訊くように。
ただし、もちろん「金穴」というのは「金欠」のことであろう。

みなさん、Akamatsuくんの間違いはせんせに訊くように。
漢字の正誤はともかく、「金欠」についてはせんせとしても人後に落ちない専門家であるので、これまたAkamatsuくんに訊いて分からないことはせんせに訊くように。

ちなみに、別のひとであるが、「夫婦感」というのはもちろん「夫婦観」のことであろう。

ことほどさように「世界は言葉で分節されている」というのはただしいのである。
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by mewspap | 2005-05-19 00:57 | Mew's Pap

お返事いたします(Akamatsu)

今年のゼミ生さんは活発ですね。
12月中旬に目的の本をようやく発見して、卒論提出までのひと月のあいだ、艱難の海を溺れそうになっていたダメ学生の私とはえらい違いです(見習ってはいけません)。

>> M2さん
『Shall we Dance?』の日米価値観の差については映画瓦版でもちょこっと言及されていました。
http://www.eiga-kawaraban.com/05/05022101.html
観にいく予定はないのにレビューだけ読んでおりましたので、一応お知らせしときます。

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>> Asukaさん
Wikipediaに「フランケンシュタイン」の項目がありますね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3
関連文献の欄なんかは参考になるかも……と思いましたが、うちの図書館に蔵されている本も多いようようなので、大半はチェックずみかも。

私は深夜枠で放送されていた「フランケンシュタイン」(Mary Shelly's Frankenstein) 1994年(米)(種類が多すぎるので確信はできませんが、たぶんこれです)を数年前に観ましたが、モンスターの悲哀が重点的に描かれていました。
ホラー映画とはちょっと違うかもしれませんね。

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>> Mew's Papさま
> "God help us."と"All hell breaks loose."
英語に対応する日本語訳を機械的に覚えているからなんでしょうね。
「なぜ?」という疑問は解消するまでにとかく時間がかかりますから、疑問を抱く回路そのものが排除されてしまっているのかもしれません。もったいない。
日本語でも「平気の平左」なんて、洒落たといいますか、面白い表現がありますよね。今どき使う人もいませんけれど。

言語への畏敬といえば、戦後、旧字体・旧仮名遣いを廃したのは、まさに日本語への冒涜行為なんでしょうね。
日本語を学ぶ中で「なぜ?」が生じても、旧仮名遣いでなければ説明できないこともあるそうです(1年以上も前の産経新聞コラムの受け売りなので、例を示して詳らかにできません。残念)。

「~にもかかわらず」という表現、「にも拘らず」という表記が正しいのですが、なぜ「関わらず」ではないのか考えてみるのも面白そうです(候文にも用いられていた表現なので、由来は古そうです)。

# 話が前後しますが、「閾値」の読みは「いきち」だけだと思っていました。
# それと、千里山のお店って「全国有名焼酎」なんて文言が看板に載せられている店ですか? 腹を空かせて自転車でふらふら走っていると、あの近辺のお店に吸い寄せられそうです。

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駅前のBOOK OFFで100円の本を物色するのが楽しみなわたくしですが、物書きに役立ちそうな本を発見しました。
尾川正二『原稿の書き方』と『文章の書き方』の2冊です(ともに講談社現代新書)。
どちらも20幾年も昔の本ではありますが、原稿用紙の使い方といった初歩の初歩から、いかなる心構えで筆を執るべきか、といったことまで論ぜられております(「~という」はひらがなで記す、といった表記上のルールって、けっこう知られていないものですよね)。

卒論を形にしていくのは当分先ではありましょうが、テーマ探しの片手間にこういったたぐいの本を読むのもいいでしょうね。
……とかいって、昨年度初頭、先生が本を薦めてくださいましたが、金穴で買いそびれておりました。ごめんなさい。
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by mewspap | 2005-05-18 01:02 | Alumni