カテゴリ:2009年度卒論( 13 )

manaino

Star Warsにおける英雄神話

目次
序論
第一章 セパレーション
 第一節 英雄の登場
 第二節 宿命の始まり
 第三節 旅立ち
第二章 イニシエーション
 第一節 英雄の通過儀礼
 第二節 超自然的な力との遭遇
 第三節 父
第三章 イニシエーション
 第一節 イニシエーションを経た帰還
 第二節 宿命の結末
結論

参考文献

序論
 神話とは、小説や伝説とは少し違う。小説とは娯楽のために、伝説とは社会的向上心を促進するために人がつくったものである。神話とは同じように人によってつくられたものではあるが、小説、伝説と違い人間の真理を示そうとしている。その一方で畏怖すべきもの、神聖なものとして考えられている。そして神話の中心となり、人として具現化しているのが英雄である。
 神話における「人間はどこから来たのか、何者なのか、そしてどこへ向かうのか」というテーマは現代においても、変わることなく人々の意識に根付いている。映画『スター・ウォーズ・エピソード4』、『スター・ウォーズ・エピソード5』、『スター・ウォーズ・エピソード6』の旧三部作(Star Wars Ⅳ,Ⅴ,Ⅵ,1978,1980,1983,)が世界各国で一躍有名となったのは、世界各国の人々に共通する神話の本質を織り込んだからである。『スター・ウォーズ』のストーリーの底流にあるものは、帝国軍と反乱軍の戦いではなく、一人の英雄の物語である。監督ジョージ・ルーカス(George Lucas)の脚本においてもっとも影響を与えている神話学が、ジョーゼフ・キャンベル(Joseph Campbell)の神話学である。ジョーゼフ・キャンベルは宗教における共通点も含めて世界中の神話を研究し、神話の持つ力を見出した神話学の権威である。
 ジョージ・ルーカスがジョーゼフ・キャンベルの神話学から取り入れたもっとも重要な英雄の要素は、第一に「セパレーション」、第二に「イニシエーション」、第三に「リターン」という基本構造である。本論文では『スター・ウォーズ』における、この英雄神話の基本構造についてジョーゼフ・キャンベルの著書『千の顔をもつ英雄』と比較し、考察する。
 第一章では『スター・ウォーズ・エピソード4』にみる英雄のセパレーションについて論じる。第二章では三部作を通してみられる英雄のイニシエーションについて考察する。第三章では『スター・ウォーズ・エピソード6』にみる英雄のリターンについて論じる。

結論
 本論文では『スター・ウォーズ』旧三部作の主人公ルーク・スカイウォーカーに焦点をあて、映画全体における神話的な要素を考察してきた。
 ジョーゼフ・キャンベルの『千の顔をもつ英雄』は世界各国の神話に共通する英雄の要素を分析している。神話の英雄は「旅立ち、成し遂げ、帰還する」のである。主人公ルークは何も知らない土地から戦いの場へ旅立ち、ひとりで内面の闇と戦い、戦いの場において人々を先導し父を救う。ルークは始めから宿命を背負っており、英雄として戦わねばならない。英雄であるための試練が絶え間なくルークを襲う。ジェダイは自分の内面の闇を克服することで力を得る。『スター・ウォーズ』の神秘的な要素を考察していくと、この物語は英雄の通過儀礼を描いたものだとわかる。ルークの内面との戦いが、結果的に人々を救う。
 神話は人間がどのようにあるべきなのかを伝えようとしている。ジョージ・ルーカスは英雄ルーク・スカイウォーカーを描くことで、神話を現代に再生したのである。


(1)ジョーゼフ・キャンベル(平田武靖/浅輪幸夫、監訳)『千の顔をもつ英雄』上(人文書院、1987)、p. 45. 以下この作品からの引用はこの版からとし、本文中にページ番号を( )で表記する。
(2)StarWars Ⅳ,Ⅴ,Ⅵ,(1978,1980,1983,Twentieth Century Fox Film Corporation) DVD Trilogy Box: Twentieth Century Fox Home Entertainment Japan, 2004. chapter2. 以下、本作品からの台詞引用はこのDVDからとし、本文中にエピソード数とチャプター番号を( )で表記する。
(3)ジョーゼフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ(飛田茂雄、訳)『神話の力』(早川書房、1992)、p. 20 .

参考文献
ジョーゼフ・キャンベル(平田武靖/浅輪幸夫、監訳)『千の顔をもつ英雄』上・下(人文書院、1987)
ジョーゼフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ(飛田茂雄、訳)『神話の力』(早川書房1992)
大林太良『神話学入門』(中公新書、1966)
《http://www.benedict.co.jp/Smalltalk/talk-6.htm》
《http://www.bookclubkai.jp/people/contents/people027.html》
《http://www.geocities.co.jp/Playtown/1971/index.html#top》
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by mewspap | 2010-03-27 16:00 | 2009年度卒論

あい

The Color Purpleにおけるセリーの人生

目次
序論
第一章 セリーの生き方
 第一節 男性観
 第二節 過去
第二章 セリーの自立
 第一節 シャグとの出会い・その影響
 第二節 ソフィアの影響
第三章 The Color Purpleの原作と映画の比較
 第一節 原作と映画のセリー
 第二節 エンディング
結論

参考文献

序論
 『カラーパープル』(The Color Purple, 1986)は、アリス・ウォーカー(Alice Walker)の同名小説をスティーブン・スピルバーグ(Steven Spielberg)監督により映画化されたものである。20世紀前半、アメリカ南部では、白人による黒人差別は言うまでもなく、黒人男性は黒人女性を奴隷のように扱っていた。主人公セリー(Celie)はその典型的女性として描かれている。
 セリーは、思春期に継父から虐待を受け、女性は男性から抑圧され、暴力を受けるのが当然だと考えている。望まない結婚、夫からの暴力、妹との生き別れなどの困難に耐えながら生きる彼女は、自分とは対照的な2人の女性、ソフィア(Sofia)とシャグ(Shug)に出会う。ソフィアからは、男性による暴力と闘う強さを知り、シャグからは人を愛することの美しさを知る。彼女達の生き方に影響されたセリーは、長年自分を束縛してきた夫アルバート(Albert)へ怒りをぶつけ、自立を決意する。女性として、人間として自立したセリーに待っていたのは最愛の妹との再会である。
 本論では、セリーが自立するまでの生き方と、彼女が2人の女性と出会い、どのように一個の人間として自立するに至ったかを中心に見ていく。また、映画と原作を比較すると、主人公のセリーの人間性がそれぞれ異なっている。また、セリーの自立として、彼女の食卓の自立宣言が強調されているが、原作では夫のアルバートとの和解がセリーの自立精神を目覚めさせる大きな要因となっている。その相違点についても映画と原作を比較する。
 第一章では、セリーが持つ男性観と、それを形成した過去を論じる。
 第二章では、ソフィアとシャグの人物像をそれぞれ論じ、彼女達がセリーに与えた影響と、セリーが自立を決意するまでを考察する。
 第三章では、原作と映画それぞれにおけるセリーの人間性と、彼女が自立に至る要因の違いについて論じる。

結論
 本論では、The Color Purpleに登場するセリーという一人の女性の人生と、彼女の自立に至るまでの過程を論じてきた。また、映画と原作を比較し、それぞれのセリーの描かれ方の相違点について考察した。
 映画The Color Purpleは、黒人が白人から差別される人種問題を前提に、主として黒人コミュニティにおける女性が男性から差別される世界がテーマである。セリーは、20世紀前半の典型的黒人女性として描かれているが、周囲の特異とも言えるソフィア、シャグ、ネティの3人の女性の存在により、セリー自身が異常なまでに弱い人間であるかのように見える。このことは、セリーが女性3人の影響を受けて、一人の人間として自立を果たすストーリー展開を際立たせる効果がある。そして、セリーが自立するという物語を通して、女性が男性からの抑圧と闘うことで生まれる、女性達の結束力の強さを示しているのである。


(1)The Color Purple (1985, Warner Bros. Pictures) DVD: Warner Bros. Entertainment Inc. 2003 以下、本作品からの台詞の引用はこのDVDからとし、本文中にチャプター番号を( )で表記する。
(2)岩本裕子『スクリーンに見る黒人女性』, p. 90.
(3)『朝日ジャーナル』28(38) (1986), p. 99
(4)岩本『スクリーンに見る黒人女性』, p. 90.
(5)『朝日ジャーナル』28(38) (1986), p. 99
(6)岩本『スクリーンに見る黒人女性』, p.96.
(7)Alice Walker, The Color Purple (POCKET BOOKS 1982), p.38. 以下、本作品からの引用はこの版からとし、本文中にページ番号を( )で表記する。
(8)『キネマ旬報』943 (1986), p89.

参考文献
アリス・ウォーカー著 柳沢由美子訳 『カラーパープル』(集英社 1986)
≪http://www.imdb.com/title/tt0088939/≫
≪http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD1948/index.html≫
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by mewspap | 2010-03-27 15:58 | 2009年度卒論

ユッコ

映画は回想する

目次
序論
第一章 古典的な回想映画
 第一節 古典的な回想をする映画
 第二節 古典的な回想による画面の切り替え方
 第三節 枠物語
第二章 回想映画の多様性
 第一節 多様な回想をする映画
 第二節 多様な回想による画面の切り替え方
 第三節 目のクロースアップ
第三章 特殊な回想
 第一節 回想物語の中の回想
 第二節 一種の回想法
結論

参考文献

序論
 人は何かを契機として、かつて経験したことや過去の出来事を回想する。映画の中でも登場人物が回想をし、過去を語る物語が多く見られる。歴史的な出来事を語るもの、恋人との出会いを振り返るもの、友人との過去を思い返すものなど、様々な回想をする作品が存在する。
 本論文では、回想を中心に物語が構成されている作品を分析することで、人が思い出すという行為に至るにはどのような契機を必要とするのか、観客に登場人物が回想をし、過去を語っているのだと分かりやすく表現するにはどのような手法を用いる必要があるのかを読み取る。時代を分けて見ていくことで、撮影の方法に技術的な違いはあっても、画面繋ぎに用いられる基本的な手法は同様であり、観客が回想の始まりを感じるのは、同じような手法が使われた作品を見てきたことで、無意識のうちに刷り込まれているためであると論じる。
 第一章では、1940年代から1950年代の作品を取り上げ、古典的な回想の方法と、その際に用いられている手法を考察する。
 第二章では、多様な回想をする作品を取り上げ、1940年代から1950年代の作品と撮影方法の技術的な違いはあるが、回想するにあたっての手法に違いはないことを考察する。
 第三章では、人物が回想するという具体的な映像が出てこなくとも、その人物の過去を彷彿させるものを観客に提示することで、過去が読み取れるということを考察する。

結論
 第一章で挙げた映画も、第二章で挙げた映画も、撮影の方法に技術的な違いはあるが、フェードインとフェードアウト、そしてこの二つの手法を同時に組み込んだオーバーラップを主に使うことで過去と現在のシーンとを分け、時間を区別させている。そこへ主人公や過去を知る人物のナレーターズコメントが入ることで、その話が回想物語であると観客に伝わる。
 このことから、回想の技法はパターン化されてきたと言えるであろう。観客はパターン化された回想映画を見てきているため、言わば刷り込みの作用から、フェードイン、フェードアウト、さらにオーバーラップやナレーターズコメントのあるシーンを見ると、無意識のうちに過去へと戻ることを予感するのである。
 第三章で取り挙げた一種の回想法は、写真がすでに過去を意味しているので、観客はそれを見た時点で過去だと理解できるため、上記の手法を使わずとも過去を認識させることができる。


(1)All About Eve(1950, Twentieth Century Fox Film Corporation)DVD:20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン株式会社, 2006, chapter 25. 以下、本作品からの台詞の引用はこのDVDからとし、略式記号をAAEとし、本文中に略式記号とチャプター番号を(   )で表記する。
(2)Little Big Man(1971, Paramount Pictures)DVD:パラマウント・ホーム・エンターテイメント・ジャパン, 2004, chapter 20. 
(3)Stand by Me(1986, Columbia Pictures)DVD:ソニー・ピクチャーズ・エンターテイメント, 2002, chapter 1. 以下、本作品からの台詞の引用はこのDVDからとし、略式記号をSBMとし、本文中に略式記号とチャプター番号を(   )で表記する。
(4)Saving Private Ryan(1998, Paramount Pictures)DVD:CICビクター・ビデオ, 2002, chapter 19. 
(5)Moulin Rouge(2001, Twentieth Century Fox Film Corporation)DVD:20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン株式会社, 2003, chapter 2. 以下、本作品からの台詞の引用はこのDVDからとし、略式記号をMRとし、本文中に略式記号とチャプター番号を(   )で表記する。
(6)Marnie Hughes-Warrington,History Goes to the Movies(Routledge, 2007), p.64. 以下、本作品からの引用はこの版からとし、本文中にページ番号を( )で表記する。
(7)M. Turim, Flashbacks in Film: Memory and History, New York: Routledge, 1989, p.1, quoted in Hughes-Warrington, p.64.

参考文献
Marnie Hughes-Warrington,History Goes to the Movies(Routledge, 2007).
ダニエル・アリホン著, 岩本憲児・出口丈人訳『映画の文法―実作品にみる撮影と編集の技法―』(紀伊國屋書店, 1980)
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by mewspap | 2010-03-27 15:54 | 2009年度卒論

takaco

ディズニーが作り上げたアメリカの民話と新しい時代のハッピーエンド

目次
序論
第1章 ディズニー映画におけるトリックや鉄則
 第1節 ウォルト・ディズニーが携わったプリンセス映画
 第2節 ウォルト・ディズニー没後以降のプリンセス映画
第2章 『魔法にかけられて』とプリンセス映画
 第1節 登場人物のキャラクター設定
 第2節 ディズニー初のセルフ・パロディと新しいハッピーエンド
結論

参考文献

序論
 夢と感動を多くの人に与えてきたディズニー・アニメーション。ディズニー映画の多くは古典童話や民話を基にして作られてきた。原作となった古典童話は、ディズニー・アニメーションのストーリーとは大きく異なり、残酷で暴力的であったり、猟奇的な表現も多く含まれている。もともと古典童話には、民衆が心の奥底に持っていた暗い情念が色濃く反映されている。ウォルト・ディズニー社(The Walt Disney Company)は、アニメーションというメディアでヨーロッパの古典童話を新しいアメリカの民話に作り変えた。今日ではディズニー映画の基となった古典童話の本来のストーリーを知らない人も多く存在する。
 本論ではディズニー・アニメーションと原作となった古典童話を比較しながら、ディズニーが時代に合わせてどのように作り変えていったのか、そして2007年に公開された『魔法にかけられて』を取り上げ、これまでのアニメーションとは違う、ディズニー社が新しい時代に贈るディズニー映画とはどのようなものなのかを論じていくことにする。
 第一章ではディズニーがどのようにしてヨーロッパの古典童話をアメリカの民話といわれるようになるまでに作り変えていったのかを、原作とディズニー映画を比較しながらみていくことにする。ウォルト・ディズニー(Walt Disney)が制作に携わったプリンセス映画と、彼の没後以降のディズニー・アニメーションについても触れることにする。
 第二章では21世紀という新しい時代に作られた『魔法にかけられて』のキャラクター設定や、ディズニー社のセルフ・パロディについて取り上げることにする。

結論
 本論文ではヨーロッパの古典童話がディズニーの手によってどのようにしてアメリカの民話に作り変えられていったかを、『白雪姫』『シンデレラ』『眠れる森の美女』『リトル・マーメイド』『美女と野獣』を取り上げ、原作と比較しながら述べてきた。ディズニーは常に時代に合わせてアニメーションを作っており、さらに21世紀に作られた『魔法にかけられて』を取り上げ、ディズニーが新しい時代に合わせて作ったハッピーエンドについても述べた。ディズニーは『魔法にかけられて』にこれまでのディズニーのプリンセス映画をパロディ化して取り入れることにより、これまでのディズニーが作り上げてきたものに対するアンチテーゼを生んだが、それさえも新しいディズニーのハッピーエンドの形として感動を生み出したのである。ディズニーは時代に合わせて話を作り変えることによって、複雑な現代を生き、夢を忘れがちな我々の心に響く作品を作り上げたのだろう。


(1)池内紀訳『グリム童話(下)』(ちくま文庫, 1989)pp. 55 
(2)この第二次世界大戦後の結婚難に関して論述するにあたっては、有馬哲夫『ディズニーの魔法』(新潮社, 2003), pp. 110を参照した。
(3)池内紀訳『グリム童話(上)』(ちくま文庫, 1989)pp. 170-172 
(4)同上, pp. 174-175.
(5)新倉朗子訳『完訳 ペロー童話集』(岩波文庫, 1982)
(6)このディズニーの制作力の低下に関して論述するにあたっては、有馬哲夫『ディズニーの魔法』pp. 175-176を参照した。
(7)秋山和夫訳『美女と野獣』(筑摩書房, 1991)
(8)有馬哲夫『ディズニーの魔法』pp. 214を参照した。
(9)Enchanted(2007, Disney)DVD:ウォルト ディズニー スタジオ ホーム エンターテイメント, 2008, chapter 1. 以下、本作品からの引用はこの版からとし、本文中にチャプター番号を()で標記する。
(10)「ディズニー新作映画&ゲーム『魔法にかけられて』リマ監督インタビュー」《http://game.goo.ne.jp/news/items/2008030710mahou.html》

参考文献
秋山和夫訳『美女と野獣』(筑摩書房, 1991)
有馬哲夫『ディズニーの魔法』(新潮社, 2003)
池内紀訳『グリム童話(上)』『グリム童話(下)』(ちくま文庫, 1989)
新倉朗子訳『完訳 ペロー童話集』(岩波文庫, 1982)
「ディズニー新作映画&ゲーム『魔法にかけられて』リマ監督インタビュー」
《http://game.goo.ne.jp/news/items/2008030710mahou.html》
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by mewspap | 2010-03-27 15:52 | 2009年度卒論

Terry

『エイリアン』シリーズにおける変遷――ジェンダーと悪の観点から――

目次
序論
第一章 ジェンダー
 第一節 『エイリアン』の女性と男性
 第二節 『エイリアン 2』の母親たち
 第三節 『エイリアン 3』の男性たち
 第四節 『エイリアン 4』の女性と男性の融合
 第五節 ジェンダーの変遷
第二章 悪
 第一節 変わる悪
 第二節 変わらない悪
結論

参考文献

序論
 シリーズもの、という言葉を我々は普段から何気なく使う。映画や小説などで、ストーリー上の繋がりがあったり、登場人物が共通する作品であったりと、一連の作品群をシリーズものと呼ぶ。シリーズものは、作品ごとに差異がなければならない。差異がなければ、ただの前作の焼き増しになる。差異とは例えば、登場人物の考え方が変化していたり、物事の描かれ方が変化していたりと様々である。そして、その差異や変遷するものが、作品ごとのテーマとなるのである。また、その変遷の中で変わらないものが、シリーズ全体のテーマとなるのである。
 本論文では、シリーズものの映画の中でもSF映画の傑作とされる『エイリアン』シリーズを取り上げる。『エイリアン』(1979)『エイリアン 2』(1986)『エイリアン 3』(1992)『エイリアン 4』(1997)(1)の四作品をそれぞれの作品ごとに、テーマ別に考察する。
 第一章では『エイリアン』シリーズにおけるジェンダーの変遷を論じる。四作品を通じて、どういったジェンダー観が変化するのか、またその変化の中で変化することなく保たれているのかを考察する。
 第二章では『エイリアン』シリーズにおける悪の変遷を論じる。ここでは悪を主人公に害や恐怖を与えるものと定義し、四作品を通して変化する悪と変化することのない悪を考察する。

結論
 シリーズものの映画や小説は全体を通して見ると、様々なかたちで変遷していることが分かる。その変遷しているものは、作品ごとのテーマである。そして、そのテーマの中で変遷しないものこそが、シリーズ全体のテーマなのである。
 本論文では、『エイリアン』シリーズの変遷をジェンダーと悪の観点から考察した。ジェンダーの観点から見ると『エイリアン』シリーズは、強い女性、母性、女性性の削除、男性性との融合という様々なアプローチでジェンダーを描いている。また、それらの変遷でもなお男性は女性の優位に立つことはないということを描いているのである。悪の観点から見ると、シリーズを追うごとにエイリアンの悪の要素は薄れていく。絶対的な悪であったエイリアンは人間と共通項を持つようになり、絶対的な悪ではなくなる。だが、私利私欲のために犠牲を払うことを厭わない悪を持った存在は、シリーズを通して変わることがない。そしてその悪は、エイリアンや弱いと思われがちの人物によって、排除されるのである。


(1)ALIEN (1979, Twentieth Century Fox Film Corporation) DVD: Twentieth Century Fox Home Entertainment LLC, 2006. ALIENS (1986, Times Newspaper Production Company Limited) DVD: Twentieth Century Fox Home Entertainment LLC, 2006. ALIEN³ (1992, Twentieth Century Fox Film Corporation) DVD: Twentieth Century Fox Home Entertainment, Inc, 2000. ALIEN RESURRECTION (1997, Twentieth Century Fox Film Corporation) DVD: Twentieth Century Fox Home Entertainment LLC, 2006. 以下、本作品からの引用はこの版とし、本文中にチャプター番号を( )で表記する。
(2)ALIEN (THE DIRECTOR’S CUT) (2003, Twentieth Century Fox Film Corporation) DVD: Twentieth Century Fox Home Entertainment LLC, 2006. 以下、本作品からの引用はこの版とし、本文中にチャプター番号を( )で表記する。
(3)内田樹「ジェンダー・ハイブリッド・モンスター-エイリアン・フェミニズム」、内田樹・松下正己編『新版 映画は死んだ』(いなほ書房、2003)、pp. 71.
(4)「日本語ジェンダー学会」
《http://wwwsoc.nii.ac.jp/gender/journal/no8/01_kitazawa.html》
(5)内田「ジェンダー・ハイブリッド・モンスター-エイリアン・フェミニズム」、pp. 71.
(6)同上、pp. 71.
(7)同上、pp. 76.
(8)同上、pp. 76.
(9)同上、pp. 76.
(10)「日本語ジェンダー学会」
《http://wwwsoc.nii.ac.jp/gender/journal/no8/01_kitazawa.html》
(11)若菜薫『エイリアン 恐怖のエクリチュール』(鳥影社、2001)、pp. 128.
(12)同上、pp. 129.
(13)内田「ジェンダー・ハイブリッド・モンスター-エイリアン・フェミニズム」、pp. 88.
(14)同上、pp. 89.
(15)同上、pp. 89.
(16)「エイリアンの生態」
   《http://homepage3.nifty.com/alien-ecology/newborn.htm》
(17)内田「ジェンダー・ハイブリッド・モンスター-エイリアン・フェミニズム」、pp. 71.
(18)“AFI'S 100 YEARS…100 HEROES AND VILLAINS”
《http://connect.afi.com/site/DocServer/handv100.pdf?docID=246》
   “American Film Institute” 《http://www.afi.com/default.aspx》より
(19) “Internet Movie Database” 《http://us.imdb.com/title/tt0090605/taglines》
(20)若菜、『エイリアン 恐怖のエクリチュール』、pp. 131.
(21)内田、「ジェンダー・ハイブリッド・モンスター-エイリアン・フェミニズム」、pp. 90-91.

参考文献
「シネマシティメールマガジン『SEEK』」《http://cinemacity.co.jp/seek/110-th.htm》
「猫のいる映画館」《http://www010.upp.so-net.ne.jp/iraija21/nekocinema/alien.html》
山崎浩一「『エイリアン2』」、『朝日ジャーナル』第28巻38号(朝日新聞社、1986)、p.34
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by mewspap | 2010-03-27 15:50 | 2009年度卒論

ぶぅ

『招かれざる客』における異人種間の結婚

目次
序論
第一章 ジョンとジョーイ
 第一節 ジョン
 第二節 ジョーイ
第二章 男性と女性
 第一節 男性
 第二節 女性
第三章 話し合い
 第一節 リビング
 第二節 庭
 第三節 書斎
第四章 『招かれざる恋人』
 第一節 相違点
 第二節 共通点
結論

参考文献

序論
 公民権運動の時代に、人種問題に踏み込んだ映画が公開される。映画『招かれざる客』(Guess Who’s Coming to Dinner, 1967) は、あり得ないこととされていた黒人と白人の結婚を描いたものである。さまざまな登場人物がこの結婚に関して賛成または反対の考えを述べ、対立する意見の登場人物と議論する。議論を繰り返し、皆が二人の結婚を認める結論に向かう。
 本論の第一章では、結婚をする黒人男性ジョン(John Prentice)と白人女性ジョーイ(Joey Drayton)に着目し、それぞれの結婚に対する考え方や行動の違いについて論じる。
 第二章では、登場人物それぞれのジョンとジョーイの結婚に対する考え方を性別という観点から考察する。さらに、男性、女性それぞれの視点から、同性間でのやり取りについても考察する。
 第三章では、ジョンとジョーイの結婚に関するドレイトン一家とプレンティス一家の話し合いについて論じる。この話し合いの場となるリビング、庭、書斎と言う三つの場所それぞれの特徴と相違点を論じる。
 第四章では、『招かれざる客』のリメイクとして公開された『招かれざる恋人』(Guess Who, 2005)について、原作と比較し、結婚に対する考え方の相違点を論じる。また、第三章で述べる原作における庭、書斎の特徴がリメイク版でも同じであることを論じる。

結論
 『招かれざる客』では、あり得ないものとされていた異人種間の結婚が実現する映画となっている。公民権運動の時代に、ジョンとジョーイ、二人の家族は一つ先の差別のない時代に足を踏み入れたのである。
 本論文では、映画『招かれざる客』における、黒人と白人の結婚に対する登場人物それぞれの考え方、登場人物間での議論の伯仲について性別、場所という観点から論じてきた。  人種問題を理解するジョンと理解していないジョーイの温度差は大きなものであった。この二人以外の登場人物はマットをはじめ、世間の目を気にする反対派の意見とクリスティーなど当人の幸せを重視する賛成派の意見が真正面から対立した。この対立は家族以外の人物をも巻き込んだ。深刻な問題であるが故に、それぞれがさまざまな考えを持っている。その考えはリビング、庭、書斎といった様々な場所で衝突した。
 リメイク作品『招かれざる恋人』には庭は女性の場、書斎は男性の場という共通点があるが、原作の約40年後に製作された映画ということもあり、異人種間の結婚に対しての考え方が異なることを論じた。


(1)Guess Who’s Coming to Dinner (1967, Columbia Pictures) DVD :ソニー・ピクチャーズ・エンターテイメント, 2006, chapter 1. 以下、本作品からの台詞の引用はこのDVDからとし、略式記号をGWCDとし、本文中にこの略式記号とチャプター番号を( )で表記する。
(2)Guess Who (2005, Columbia Pictures) DVD :20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント, 2008, chapter 2. 以下、本作品からの台詞の引用はこのDVDからとし、略式記号をGWとし、本文中にこの略式記号とチャプター番号を(  )で表記する。

参考文献
愛知松之助「映画に学ぶ社会と人生⑧」『人権と部落問題』(部落問題研究所,2003, 11月号), pp. 82-86.
本田創造『アメリカ社会と黒人―黒人問題の歴史的省察―』(大月書店, 1972).
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by mewspap | 2010-03-27 15:49 | 2009年度卒論

chung

歌劇『欲望という名の電車』におけるスタンリーの描かれ方――映画場と比較して――

目次
序論
第1章 ブランチとスタンリー
 第1節 初対面
 第2節 初対立
 第3節 ステラをめぐる対立
 第4節 ブランチの誕生日
 第5節 レイプ
第2章 エンディング
 第1節 映画版のエンディング
 第2節 歌劇版のエンディング
結論

参考文献

序論
 『欲望という名の電車』(A Streetcar Named Desire, 1947)は戦後のアメリカ演劇最高の傑作として名高い、テネシー・ウィリアムズ(Tennessee Williams)の戯曲である。また、この原作の初演から4年後には同じタイトルで、エリア・カザン(Elia Kazan)監督によって映画化されている。近年ではフィリップ・リテル(Philip Littell)の台本、アンドレ・プレヴィン(André Previn)作曲によって歌劇化されており、1998年に作曲者の指揮、サンフランシスコ・オペラ管弦楽団によって初演された。
 以上のように様々なメディアで再現されてきた『欲望という名の電車』であるが、メディアに違いはあるものの、基本的なストーリーは変わらない。しかし三者には注目すべき差異がある。その最たる違いはエンディングにあり、『欲望という名の電車』の見方や解釈に大きな影響を与える。お嬢様育ちで繊細なブランチ(Blanche DuBois)は義弟のスタンリー(Stanley Kowalski)にレイプされ、発狂し、精神病院へと搬送される悲劇のヒロインである。暴力によって義姉を犯したスタンリーの荒々しさが浮き彫りになるが、一方でスタンリーがそうせざるを得なかった理由や正当性が明確になり、彼に共感できるならば、ブランチは非難されるべき存在とも考えることができる。
 歌劇版の作曲者であるプレヴィンが「劇の本質を見失わないように細心の注意を払いました」(1)と語っているが、本論はスタンリーに共感できる可能性があるかという観点から、それぞれのメディアのエンディングを考察し、歌劇版が映画版に比べ、より忠実に原作を再現していることを論ずる。
 第1章では原作において、ブランチとの出会いから対立、レイプに至るまでを順に考察し、スタンリーに共感できる視点が与えられていることを論ずる。
 第2章では原作と映画版、歌劇版のエンディングを考察し、後者のほうがよりスタンリーに共感できることを論ずる。

結論
 本論では、原作においてブランチを非難すべき対象と見なすことができ、スタンリーにも共感できる見方があることを確認した上で、それぞれのメディアのエンディングを考察してきた。映画版でのスタンリーは、ブランチの排斥には成功するが、同時に妻子も失い、レイプがブランチを排斥する手段として間違っていたことが示されるため、スタンリーの粗暴さや残忍さが強く印象づけられ、彼に共感を覚えることは考え難い。しかし、歌劇版では、結末でブランチが非難されるべき存在であることが強調される。スタンリーはブランチを排斥し、元の生活を取り戻すことにも成功する。そこにはブランチを排斥し、生活を守るために、彼のレイプという行動はやむを得ないものだと共感することができる。その点で、歌劇版は映画版よりも原作に近い形で再現されているといえよう。


(1) 「アンドレ・プレヴィン(指揮/ピアノ)ディスコグラフィー」
《http://www.universal-music.co.jp/classics/release/artist/ha/andre_previn.html》
(2) Tennessee Williams, A Streetcar Named Desire (Penguin Modern Classics, 2009) 、p.3 以下原作の引用はこの本からとし、該当ページ番号を( )で表記する。
(3) 待井薫「ブルースの調べ-『欲望という名の電車』の幕切れにおける観客反応について-」、『神戸女子薬科大学人文研究』12(1985)、pp.7-8
(4) 近藤弘幸「“I don’t want REAL-ism”:『欲望という名の電車』における異性愛的な/という暴力」、『英学論考』32(2001)、p.25
(5) 同上、p.18
(6) 待井「ブルースの調べ-『欲望という名の電車』の幕切れにおける観客反応について-」、p.10
(7) 検閲の経緯についてはA Streetcar Named Desire (1951, Warner Bros. Pictures) DVD :ワーナー・ホーム・ビデオ、2006の「検閲と欲望」項を参照した。
(8) A Streetcar Named Desire (1951, Warner Bros. Pictures) DVD: ワーナー・ホーム・ビデオ、2006、chapter 27、以下映画版の引用はこのDVDからとし、該当チャプターを (movie,) で表記する。
(9) 「歌劇《欲望という名の電車》」(1998) CD: ユニバーサル・ミュージック、1999、ブックレット、p.12
(10) 石塚浩司『ウィリアムズ―暗がりの詩人―』(冬樹社, 1985)、p.32
(11)「歌劇《欲望という名の電車》」、ブックレット、p.12
(12) A Streetcar Named Desire (1998, Educational Broadcasting Corporation & San Francisco Opera Association) DVD :Image Entertainment、1998、chapter 4-20、以下歌劇版の引用はこのDVDからとし、該当チャプターを(opera,)で表記する。

参考文献
テネシー・ウィリアムズ、小田島恒志訳『欲望という名の電車』(慧文社, 2005)
テネシー・ウィリアムズ、浅田寛厚編注『欲望という名の電車』(金星堂, 1979)
浅里公三「作曲家プレヴィンの底知れぬ才能に脱帽―プレヴィン、自作の《欲望という名の電車》を含むオペラ三作を一挙リリース」、『レコード芸術』48(8)(1999.8)、pp.223-225
「ブランチは音楽で救われる」《http://www.geocities.jp/Lastnightconcert/040518.htm》
「Il quaderno d'Estate」《http://natsu.at.webry.info/200904/article_9.html》
「欲望という名の電車 パウロアカギカズヒコ」《http://www.bmp.jp/books/101.htm》
「東京室内歌劇場ホームページ」《http://www.chamber-opera.jp/》
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by mewspap | 2010-03-27 15:48 | 2009年度卒論

Michelle

孤児物語における孤児の役割と子供の成長

目次
序論
第一章 孤児物語
 第一節 孤児の役割とストーリー展開
 第二節 孤児物語での子供の成長
第二章 『奇跡のシンフォニー』における孤児の成長と奇跡
 第一節 目覚めるエヴァン
 第二節 出会い
 第三節 あふれる才能
第三章 『奇跡のシンフォニー』における音楽の役割
 第一節 音楽で繋がる人々
 第二節 音楽に対する思い
結論

参考文献

序論
 物語の中には、物語を動かすきっかけが存在する。孤児物語では、孤児であるという設定がきっかけとなり物語が展開していく。
 本論文では『奇跡のシンフォニー』(August Rush, 2007)を取り上げ、孤児になるという出来事がモチーフとなり、物語が進展していくことを論じる。主人公のエヴァン・テイラー(Evan Taylor)が、大人に言われるがまま生きていくのではなく、様々な失敗や試練を経験しながらも自分を奮い立たせてそれらを乗り越え、自分の人生を見つけていくことを考察する。
 第一章では、『奇跡のシンフォニー』の他に『MARCO 母をたずねて三千里』(1999)、『オリバー・ツイスト』(Oliver Twist, 2005)、『狼とアーロン少年』(Time Of The Wolf, 2002)、『ウォルター少年と、夏の休日』(Secondhand Lions, 2003)と『裸足の1500マイル』(Rabbit-Proof Fence, 2002)を取り上げ、孤児という設定が物語に与える影響と、子供の成長を論じる。さらに、孤児の人生の中で、親探しの旅、または新しい環境での成長が、孤児を自立させることを論じる。
 第二章では、『奇跡のシンフォニー』の主人公エヴァンが、孤児の養護施設を出て親探しの旅をする中で、人間関係を交え、たくさんの人々と出会い彼が成長していく過程を論じる。
 第三章では、『奇跡のシンフォニー』が孤児と音楽の二大テーマを持つ作品であることから、エヴァンと彼をとりまく音楽の関係を考察する。

結論
 本論文では、孤児物語において、孤児という設定が物語のモチーフとなっていることを論じた。孤児物語では、かわいそうな子供だと位置づけられることを掘り下げるのではなく、孤児が様々な人と出会い、成長し、自立していく姿を描く。その中で、自分に親切にしてくれる者、自分を利用しようとする者の二者が孤児の前に現れるが、様々な経験を通して自分自身で学び、自己判断が出来るようになる。
 『奇跡のシンフォニー』の主人公エヴァンは、絶対音感の才能を生かして、マンハッタンで親探しをする中で、両親へ届くようにと願いながら音楽を奏でる。音楽を通じて自己表現が出来るようになった結果、彼の思いは両親へ届くこととなる。それまでの過程には、エヴァンに音楽を教えるウィザードとの人間関係に亀裂が入り葛藤する場面もあるが、エヴァンの両親に対する真っすぐで純粋な思いが奇跡を起こしたと言えよう。


(1) August Rush (2007, Warner Bros.) DVD : ポニーキャニオン, 2008 , chapter 4. 以下、本作品からの引用はこの版からとし、本文中にチャプター番号を( )で表記する。
(2) MARCO 母をたずねて三千里(1999, 松竹) DVD : バンダイビジュアル, 1999 を参照した。
(3) Oliver Twist (2005, R.P. Productions) DVD : ポニーキャニオン, 2006 を参照した。
(4) Time Of The Wolf (2002, Animal Tales Productions Inc.) DVD : 有限会社フォワード, 2009 を参照した。
(5) Secondhand Lions (2003, New Line Cinema) DVD : 日本ヘラルド映画, 2004 を参照した。
(6) Rabbit-Proof Fence (2002, Rumbalara Films) DVD : ハピネット・ピクチャーズ, 2003 を参照した。

参考文献
チャールズ・ディケンズ著, 中村能三訳『オリバー・ツイスト(上)』(新潮社, 1955)
チャールズ・ディケンズ著, 中村能三訳『オリバー・ツイスト(下)』(新潮社, 1955)
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by mewspap | 2010-03-27 15:47 | 2009年度卒論

あー

『ショーシャンクの空に』における囚人の心理変化――希望とキリスト教の観点から――

目次
序論
第一章 絶望と希望
 第一節 アンディ
 第二節 脱獄
 第三節 レッド
第二章 キリスト教的要素
 第一節 償いと贖い
 第二節 復活
 第三節 聖書
結論
参考文献

序論
 『ショーシャンクの空に』(The Shawshank Redemption,1994)は、原作であるスティーヴン・キング(Stephen King)の『ゴールデンボーイ―恐怖の四季 春夏編―』(DIFFERENT SEASONS vol.Ⅱ,1982)に収められた、「刑務所のリタ・ヘイワース」(Rita Hayworth and Shawshank Redemption)を映画化したものである。
 主人公アンディ(Andy Dufresne)は、無実でありながら妻とその愛人を殺した容疑で終身刑を言い渡され、ショーシャンク刑務所に収容される。絶望的な状況の中、彼は常に何か目標を立て、それを実現しようとすることで前向きに生きていく。アンディの最大の目標は、独房の壁に掘った穴を貫通させることであり、毎日少しずつ掘り続けた結果、二十年後貫通させ脱獄を果たす。
 第一章では、アンディとアンディの親友レッド(Ellis Boyd “Red” Redding)に焦点を当てる。アンディが起こすさまざまな珍事を取り上げ、それらから読み取れる彼の前向きでひたむきな人間像を明らかにし、絶望的な状況の中、常に希望を捨てずにいたアンディが脱獄を成功させるまでの経緯を見ていく。レッドは、アンディが入所する何十年も前から服役している老人であるが、彼は刑務所に入ってから、刑務所の外に出て暮らしたいという希望を失っている。刑務所での生活に慣れてしまっているのである。しかし、アンディと共に過ごし、常に希望を捨てなかったために脱獄を果たすことができたアンディに感化されたレッドは、最終的に希望を見出すようになる。レッドの心の変化を論じると共に、生きるために必要なものは希望であるということを論じる。
 第二章では、この映画がキリスト教の考えに根ざしていることを、タイトルにもなっている“redemption”という単語の解釈や、映画中に多く使われる聖書の役割から論じる

結論
 アンディは、辛い獄中生活の中でも、常に希望に代わる目標を持ち続けたために、脱獄を果たし自由を手に入れた。そして希望を持てずに、仮釈放になっても刑務所の外の世界で生きて行くことに自信を持てなかったレッドは、アンディの希望を持ち続ける姿勢に影響され、希望を見出し、自ら命を絶つことを選ばずに、アンディのもとへ向かった。第一章で以上のことを通して論じてきたことは、生きるために必要なのは希望であるということである。
 第二章では、この映画がキリスト教的要素を多く含んでいることを、タイトルにもなっている“redemption”という単語の解釈と、映画中に多く出てくる聖書の使われ方から論じてきた。イエスが人々の罪を背負って命を落としたことが、人々の罪への贖いであると同様に、アンディの獄中での生活が、罪を犯した妻への贖いであるという解釈や、イエスの復活とアンディの脱獄を重ねて考えられるという解釈、出エジプト記の、エジプト軍と所長をはじめとする看守達、モーセとアンディ、ユダヤ人とレッドはそれぞれ重ねて考えられるという解釈から、この映画がキリスト教に深く根ざしていると言える。


(1)The Shawshank Redemption(1994,Castle Rock Entertainment)DVD:ワーナー・ホーム・ビデオ,2008,chapter 7. 以下、本作品からの台詞の引用はこのDVDからとし、本文中にチャプター番号を()で表記する。
(2)高橋いさを『オリジナル・パラダイス―原作小説の映画館』(論創社,2006),p.164
(3)山野上純夫『入門キリスト教の歴史』(朱鷺書房,1999),pp.83‐85.
(4)同上,p.85.
(5)同上,pp. 21‐24.

参考文献
(1)「尾崎神父の「カトリックの教え」」
《http://www1.cncm.ne.jp/~toguchi/ozaki_catholic/00.htm》
(2)高橋いさを『オリジナル・パラダイス―原作小説の映画館』(論創社,2006)
(3)山野上純夫『入門キリスト教の歴史』(朱鷺書房,1999)
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by mewspap | 2010-03-27 15:46 | 2009年度卒論

こーた

バットマン映画から読み取る正義と悪

目次
序論
第一章 バットマンのキャラクター分析
 第一節 バットマンの誕生
 第二節 バットマンの葛藤
 第三節 バットマンは正義なのか、悪なのか
第二章 バットマンで描かれる悪
 第一節 デュカード
 第二節 ジョーカー
 第三節 トゥーフェイス
第三章 大人の正義と子どもの正義
 第一節 大人にとっての正義と悪
 第二節 子どもにとっての正義と悪
結論

参考文献

序論
 近年のヒーロー映画の代表作として『バットマン・ビギンズ』(Batman Begins, 2005)、『ダークナイト』(The Dark Knight, 2008)という二つの作品がある。これらの映画を手がかりに、現在のアメリカでは正義と悪が複雑なものになっているということを論じる。
1960年代以前のアメリカでは正義と悪は明確に区別されており、単純な正義が単純な悪に制裁を下すというものであったが、現在では正義か悪かという判断が非常にあいまいになっているのである。また悪の複雑化に伴い、正義も複雑化しているのである。これら二つの映画には複雑な正義と複雑な悪の両方が登場する。
 第一章では、バットマンのキャラクター分析をすることで、バットマンが単なる正義のヒーローではなく、正義か悪かという判断を容易にすることができない複雑な正義であるということを論じる。
 第二章では、デュカード、ジョーカー、そしてデントといったバットマンの敵役のキャラクター分析をすることで、正義を複雑化させるに要因となった複雑化した悪を論じる。
 第三章では、市民が考える正義と悪について取り上げ、自らの判断基準によって正義か悪かを判断していることを論じる。

結論
 本論文では『バットマン・ビギンズ』、『ダークナイト』の登場人物を分析することで、正義と悪がどのように描写されているかということを読み取り、それを足がかりに現在のアメリカでは正義と悪が複雑なものに変化したことを考察してきた。
 アメリカの1960年代以前の正義と悪の関係性は、単純な正義によって、単純な悪に制裁が下されるというものであった。しかし悪の複雑化に伴い、それまでの単純な正義では悪に勝てなくなったため、正義もまた複雑化せざるを得なくなったのである。複雑化した正義は正義と悪の判断を容易にすることができないため、市民的正義によって、悪としても判断されるのである。正義の複雑化により正義のヒーローであっても、自身の存在根拠に疑問を抱かざるを得なくなったのであり、それほどにも正義と悪の関係性はあいまいになり複雑化したのである。正義は悪に必ず勝利するという1960年代以前の正義と悪の関係性は、現在ではもはや幻想でしかないのである。


(1)Batman Begins(Warner Bros. Pictures, 2005), DVD: Warner Bros. Entertainment Inc, 2005, Chapter 2. 以下、本作品からの引用はこの版からとし、本文中にチャプター番号を(BB, )で表記する。
(2)The Dark Knight(Warner Bros. Pictures, 2008), DVD: Warner Bros. Entertainment Inc, 2009, Chapter 10. 以下、本作品からの引用はこの版からとし、本文中にチャプター番号を(TDK, )で表記する。
(3) フランツ・M・ヴケティツ著, 入江重吉・寺井俊正訳『人はなぜ悪にひかれるのか―悪の本性とモラルの幻想』(新思索社, 2002), pp. 52‐53.
(4) この市民的正義による義務に関して論述するにあたっては、同上, pp43‐44を参照した。

参考文献
“rogerebert.com”《http://rogerebert.suntimes.com/apps/pbcs.dll/article?AID=/20050613/REVIEWS/50     525003/1023》
《http://rogerebert.suntimes.com/apps/pbcs.dll/article?AID=/20080716/REVIEWS/55996637/1023》
フランツ・M・ヴケティツ著, 入江重吉・寺井俊正訳『人はなぜ悪にひかれるのか―悪の本性とモラルの幻想』(新思索社, 2002)
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by mewspap | 2010-03-27 15:45 | 2009年度卒論