カテゴリ:2008年度卒論( 12 )

silver

夢オチ映画――夢に見た別の人生について――

目次
序論
第一章 『25時』
 第一節 疑念
 第二節 和解
 第三節 夢
第二章 夢オチ映画
 第一節 『ステイ』
 第二節 『未来世紀ブラジル』
 第三節 『マルホランド・ドライブ』
結論

参考文献

序論
 映画に限らず物語は導入、展開、終結の三部で構成されるが、その中で製作者の手腕が最も注目されるのは終結である。映画の宣伝にラストを「予想もつかない」、「大ドンデン返し」などと表現したものが多く見られるが、それほど観客はラストに期待しているのである。
 本論文では、多数の映画作品のラストで見られる「夢オチ」について論述する。「夢オチ」とは、ラストに起こった出来事、または劇中起こった出来事を登場人物の見た夢や妄想であったとする手法である。「夢オチ」の手法は作者の手抜きであるなどと評されることが多いが (1) 映画の終わらせ方の一つの手法として本論では一定の評価を与えつつ、さまざまな作品についての考察を行う。
 本論文で中心的に扱う作品『25時』(25th Hour, 2002)、比較対象となる『ステイ』(Stay, 2005)、『未来世紀ブラジル』(Brazil,1985)、『マルホランド・ドライブ』(Mulholland Dr., 2001)は全て「夢オチ」の手法を用いた作品である。これらの作品に共通するのは、主人公が自分の夢を実現することができないという点、現実から逃避するために夢を見るという点、人間の極限状態における心理状態を描写している点、自らの人生を後悔している点が共通している。それぞれの作品の登場人物が何を求め、何を失い、なぜ「夢」を見たのかを考察する。
 第一章では『25時』の主人公と彼の見た夢について考察する。麻薬密売の容疑で七年の刑を受けた主人公がラストで夢を見ることとなった経緯を探り、夢を見る結果となったのは自らの人生の後悔にあることを論証する。
 第二章では『ステイ』、『未来世紀ブラジル』、『マルホランド・ドライブ』を比較対象として『夢オチ』映画に共通して見られる点を考察する。それぞれの作品も『25時』と同様に主人公の人生の後悔が作品の重要な要素となっていることを論証する。

結論
 本論文では、夢オチの手法を用いた映画に共通する現実から逃避するために夢を見るという点、人間の極限状態における心理状態を描写している点、自らの人生を後悔している点を考察した。第一章では『25時』を扱い、主人公モンティが刑務所に収監されるまでの最後の一日に恋人、親友、父親との関係を修復するも、それらを全て失ってしまったために自分の人生を後悔し、ラストで夢を見たことを論証した。第二章では同様の夢オチ作品である『ステイ』、『未来世紀ブラジル』、『マルホランド・ドライブ』を扱いそれぞれの作品が『25時』と同様に主人公の人生の後悔が作品の重要な要素になっていることを論証した。全ての作品が夢オチの手法を用いることで、主人公の後悔の深さを描くことに成功しているのである。


(1)夢オチ批判については以下のウェブサイトを参照した。
《http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2004/12/post_17.html》 
《http://okapi.at.webry.info/200603/article_3.html》
《http://www.manga-hihyo.com/essay4.htm》
(2)25th Hour (2002, Touchstone Pictures) DVD: Asmik Ace Entertainment, Inc., Japan 2004, chapter 7. 以下本作品からの台詞の引用はこのDVDからとし、本文中にチャプター番号を ( ) で表記する。
(3)『X-メン』(X-men, 2000) に登場する登場人物、キティ・プライド(Kitty Pryde)が壁をすり抜ける特殊な能力を持つ。
(4)『暴力脱獄』(Cool Hand Luke,1967)
《http://www.imdb.com/title/tt0061512/》
(5)Stay (2005, Twentieth Century Fox Film Corporation) DVD: Twentieth Century Fox Home Entertainment LLC, 2006, chapter 3. 以下本作品からの台詞の引用はこのDVDからとし、本文中にチャプター番号を ( ) で表記する。
(6)Brazil (1985, Embassy International Pictures) DVD: Geneon Entertainment Inc., Japan, 2003, chapter 8. 以下本作品からの台詞の引用はこのDVDからとし、本文中にチャプター番号を ( ) で表記する。

参考文献
河合隼雄著 『無意識の構造』(中央公論社, 1977)
河合隼雄編 『無意識の世界』(日本評論社, 1997)
「胡蝶の夢」
《http://homepage1.nifty.com/kjf/China-koji/P-128.htm》
クリス・ロドリー編 廣木明子、菊池淳子訳『映画作家が自らを語る デイヴィッド・リンチ』(フィルムアート社, 2007)
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by mewspap | 2009-02-22 14:12 | 2008年度卒論

うめ

書簡体映画とは――映画における「手紙」の役割――

目次
序論
第一章 古典ハリウッド映画『忘れじの面影』
 第一節 差出人
 第二節 再会
 第三節 死と決闘
第二章 近年の書簡体映画
 第一節 『ニライカナイからの手紙』
 第二節 『イルマーレ』
結論

参考文献

序論
 登場人物の手紙を連ねることによってストーリーが展開する小説を「書簡体小説」(epistolary novel)という。本論文では、登場人物が書いた手紙を中心にストーリーが展開していく映画を「書簡体映画」とし、作品中における手紙の役割を考察する。言うまでもなく、手紙は書き手と特定の読み手の間にある空間的な距離を埋める手段として使われるのが普通である。しかし興味深いのは、書簡体映画においては、手紙を書いている時点と手紙を受け取り読んでいる時点で両者の間に時間のずれが生じ、その時間的な距離を埋める手段として手紙が使われている点である。
 本論文の第一章では、書簡体映画の原点とも言える古典ハリウッド映画『忘れじの面影』(Letter From An Unknown Woman, 1948)を取り上げ、時間軸という観点から死者から届く手紙の特徴と、時間というモチーフにともなう記憶や回想という観点から手紙の役割について論じる。
 第二章では、近年の書簡体映画として、邦画『ニライカナイからの手紙』(2005)やアメリカ映画『イルマーレ』(The Lake House, 2005)を取り上げる。時間軸という観点から、『ニライカナイからの手紙』では『忘れじの面影』と同じように過去から未来へ死者から手紙が届くという点での共通点、『イルマーレ』では過去から未来へだけでなく、未来から過去へも手紙が送られる点で前述の二作品との相違点を論じる。

結論
 本論文では『忘れじの面影』『ニライカナイからの手紙』『イルマーレ』の三作品を取り上げ、それぞれの作品中における手紙の役割について論じてきた。三作品を通して共通して言えることは、書き手と読み手の間には必ず時間的なずれが生じていることである。書き手が手紙を書く時点は読み手にとって過去、読み手が手紙を読む時点が書き手にとって未来になる。手紙の文面に注目しても、過去形、現在形、未来形と動詞が使い分けられている箇所が見られるため、書き手が自然と時間の経過を意識していることがわかる。手紙は現在普及しているリアルタイムを特徴とするチャットやメールとは違い、読み手に届くまでに時間がかかるため、時間のずれが顕著に表れるのである。
 手紙は時間のずれを生むことによって、書き手と読み手の「回想」「記憶」「忘却」に強く訴えかけることができる。過去からの手紙によって、読み手は過去を「回想」し、「忘却」していた「記憶」を呼び起こすことができるのだ。手紙は単に空間的な距離を埋めるだけの手段ではなく、時間的な距離も埋めることを可能にしているのである。
 

(1)Letter From An Unknown Woman (1948,東宝) DVD:㈱ファーストトレーディング(2006)以下本作品からの台詞の引用はこのDVDからとし、第一章での本文中にチャプター番号を( )で表記する。
(2)The Lake House (2005,ワーナー・ブラザーズ) DVD:ワーナー・ホーム・ビデオ(2007)以下本作品からの台詞の引用はこのDVDからとし、第三章での本文中にチャプター番号を( )で表記する。

参考文献
アリ・アン・ドーン著(松田英男監訳)『欲望への欲望:1940年代の女性映画』(勁草書房,1994)
“filmsite”《http://www.filmsite.org/lettf.html》
“Channel 4 Film”
《http://www.channel4.com/film/reviews/film.jsp?id=105286§ion=review》
“TV guide”《http://movies.tvguide.com/letter-unknown-woman/review/104194》
“Joey’s Film Blog”
《http://joeysfilmblog.wordpress.com/2007/05/20/great-movies-letter-from-an-unknown-woman/》
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by mewspap | 2009-02-22 14:11 | 2008年度卒論

えりんこ

フォレストの人生にみる人との関わり

目次
序論
第一章 フォレスト
 第一節 走ること
 第二節 語ること
第二章 喪失感
 第一節 親友ババの死と新しい親友ダン中尉
 第二節 母親の死
 第三節 愛する妻ジェニーの死
第三章 未来
 第一節 子供の誕生
 第二節 フォレストの自立
結論

参考文献

序論
 『フォレスト・ガンプ 一期一会』(Forrest Gump, 1994)は、1950年代から1980年代に至るアメリカの激動の時代 (1) を背景に、知能指数が通常より劣るがゆえに無垢な精神をもつ主人公フォレスト・ガンプ(Forrest Gump)の半生を描いた物語である。子供から大人になってもフォレストは無垢なままに変わりはないが、登場人物との関わりを通じて、以前とはあきらかに異なる部分が出てくる。
 フォレストは、幼馴染の愛するジェニー(Jenny)のもとへ向かうためにバスを待っている。これは現在であり、ベンチに座ったまま、同じようにバスを待つ見知らぬ人に話しかけ、自分の過去を語り始める。この時からフォレストの回想が始まり、物語が展開していく。
 彼の人生の大きな出来事は、大学でのアメリカン・フットボールの試合、卒業後の進路として提案されたベトナムでの軍隊生活、ジェニーがいなくなった喪失感から走り出したアメリカ横断である。このような経験をしてもフォレストの心はいつまでも無垢であり少しも変わらない。やがては愛するジェニーと結ばれ、二人の間に子ども(Little Forrest)が誕生し、フォレストは未来そのものを手に入れる。しかし幸せは長くは続かず、ジェニーは病死してしまう。
 フォレストは、親友ババ(Bubba)の死、良き理解者であった母親(Mama)の死、そしてジェニーの死を経験して、死という運命を受け入れたくないと思うようになる。大切な人が次々と亡くなり、自分の人生は自分で決めなければならなくなるフォレストには子どもとの二人きりの未来が待ち構える。
 本論では、フォレストと関わることにより他の登場人物がどのような影響を受けるか、逆に、フォレストが他の人物からどのような影響を受けるかを論じる。さらに、それぞれが違う人生を歩もうともフォレストに関わる人が最終的に辿り着くのは家であるということや、家や家族を大切に思い彼自身が自立する過程を論じる。
 第一章では、フォレストの走ることや語ることができるようになるきっかけを、他の人物との関わりとともに論じる。
 第二章では、親友ババ、母親、ジェニーの死から、喪失感を経験するたびに変化する死に対するフォレストの気持ちと、ベトナムでフォレストが配属される部隊を率いるダン中尉(Lieutenant Dan)が経験する喪失感や幸福感、フォレストとこの四人にとって家がどういうものであるのかを論じる。
 第三章では、家や家族の大切さに気がついたフォレストが、新しく自分の家族となったジェニーと子どもを大切に思い、生前の母親の言葉や我が子の子育てをきっかけに自立する様子を論じる。

結論
 本論文では、『フォレスト・ガンプ 一期一会』における主人公フォレストと関わることにより、他の登場人物がどのような影響を受けるか、逆に、フォレストが他の人物からどのような影響を受けるかということに焦点を当て、それぞれが互いの影響から得たものやフォレストが完全に自立するまでの過程を論じてきた。フォレストの自立を促すきっかけは、彼にとって大切な存在である周りの人物の死や、それを通じて覚えた喪失感、子どもの誕生であると論じてきた。
 それぞれが違う人生を歩もうとも、フォレストに関わる人が最終的に家に辿り着いたのは、彼自身が幼い頃から自分の家や母親のことを大切に思っていたからである。またフォレストが子育てを通じて、ジェニーと子どもや、家を大切に思う気持ちが強まったのは、身近な人物が家や家族に思い入れを抱いたままこの世を後にする様子を見送ってきたからなのである。多岐にわたる様々な経験をしたフォレストだからこそ、このような考えを持ち自立することができたと言える。


(1)ウィンストン・グルーム著,小川敏子訳『フォレスト・ガンプ』(株式会社講談社,1994),p. 298. 「一九五〇年代からのおよそ三十年間にわたる時代は、アメリカのベビーブーマーたちがそうであったように、彼にとっても息をつく間もないほど激しく、混乱と興奮にみちた季節だった。」という部分を参照した。 以下、本作品からの引用はこの版からとし、本文中にページ番号を( )で表記する。
(2) Forrest Gump (Paramount Pictures, 1994), DVD: Paramount Japan, 2006, chapter 3. 以下、本作品からの引用はこの版からとし、本文中にチャプター番号を( )で表記する。
(3) ウィンストン・グルーム著『フォレスト・ガンプ』,p. 300.
(4)V・シュローデト、P・ブラウン著,松村佐知子訳『伝記 世界を変えた人々② キング牧師』(偕成社,1991),pp. 131-134. 「リンカーン記念堂」という名前を調べ、引用した。

参考文献
V・シュローデト、P・ブラウン著,松村佐知子訳『伝記 世界を変えた人々② キング牧師』(偕成社,1991)
石川好著『60年代って何?』(岩波書店,2006)
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by mewspap | 2009-02-22 14:08 | 2008年度卒論

みきてぃ

『シークレット・ウィンドウ』にみる分身

目次
序論
第1章 映画版『シークレット・ウィンドウ』の分身
 第1節 モート・レイニーの人物像
 第2節 ジョン・シューター
 第3節 変身
第2章 映画と原作
 第1節 分身の描かれ方の相違
 第2節 原因の相違
第3章 分身の描かれ方
 第1節 分身
 第2節 鏡
 第3節 鏡の中の世界
結論

参考文献

序論
 スティーヴン・キングの中編小説を映画化した『シークレット・ウィンドウ』(Secret Window, 2004)は「分身テーマ」を主題としている。分身は姿かたちが分身を呼び込んだ本人とそっくりであるとは限らない。本作品には、主人公とは似ても似つかない分身が登場する。
 主人公モート・レイニー(Mort Rainey)は愛する妻エイミー(Amy)に裏切られる。彼女は不倫をしていたのである。モートはエイミーに殺意を抱くようになる。しかしその一方、まだ彼女を愛してもいる。この葛藤が限界を超えたとき、モートは彼の分身ジョン・シューター(John shooter)を呼び込むこととなったのである。モートはエイミーに愛を、シューターは彼女に殺意を抱くことで、モートは葛藤から逃れるのである。本論ではモートの人物像、映画と原作『秘密の窓、秘密の庭』(Secret Window, Secret Garden, 1990)の違い、そして分身の描かれ方について述べていく。
 まず第1章では、モートの人物像に焦点を当てる。モートは想像上の人物になりきることができるうえ、彼には声だけの別人格が存在している。これらの特徴を持つがゆえに、葛藤が限界を超えたとき、彼は分身シューターを呼び込むのである。しかし葛藤から逃れたからと言って、モートのエイミーに対する殺意は消えたわけではない。分身シューターはエイミーを殺すため、暴走を始めてしまうのである。
 映画のラストでモートの人格は分身シューターに乗っ取られ、彼の生活は一変する。今まで寝てばかりの生活だったが、髪をきちんと整え、明るい色の服を着るようになり、外出もするのである。そのモートの変わりようについても考察する。
 第2章では、映画と原作の違いについて言及する。映画ではシューターはモートにしか見えず、むろん実在しない。だが原作ではシューターはモート以外の人物に目撃されたり、エイミーにメモを残したりする。また映画ではシューターを呼び込んだ原因はエイミーの不倫だが、原作ではそれだけではない。モートが小説家として成功する前に、後輩の小説を盗作した事実が深く関わっている。モートは盗作したことに罪悪感を抱き、苦しめられる。そんなとき、エイミーの不倫が発覚し、モートは人格崩壊を起こすのである。
 第3章では分身の描かれ方について考察する。まず他の作品を例に挙げながら分身の描かれ方について述べていく。次に映画の中で重要な役割を果たす鏡について言及する。独特の鏡のモチーフにより、シューターがモートの分身であることを浮き彫りにしたり、モートの中に存在する内なる声が彼に背を向けたことを描いたりしている。また実はこの映画の大半が鏡の中の世界を描いていることについても考察する。

結論
 『シークレット・ウィンドウ』における分身に焦点を当て、主人公モート・レイニーが分身を呼び込んだことには彼の人物像が影響していること、また鏡の独特のモチーフを用いた分身の描かれ方、そして映画と原作の違いについて考察してきた。
 本作品が他の分身譚と大きく異なるのは、単に主人公の分身が現れる物語ではないということである。モートの分身シューターは、モートの幻覚なのである。彼は妻エイミーに裏切られ、彼女を殺したいと願望を抱くが、彼はまだエイミーを愛していた。相反する感情の葛藤に苦しみ、モートは狂い、分裂する。そしてモートのもう一つの人格が、彼と似ても似つかない姿のシューターとなって現れたのである。エイミーに殺意を抱くモートの狂気は進行し、もう一つの人格であるシューターが暴走を始めるのである。
 また本作品の特殊な点は、映画の大半が鏡の中の出来事を描いていることである。鏡の中の出来事は現実に起こっていることではなく、モートの空想である。つまり映画の大半がモートの空想を描いているのである。
 このように、モートの分身シューターが、モートの幻覚であるうえ、映画の大半が彼の空想であることは、良い意味で観客の期待を裏切るものであると言える。


(1)Secret Window (2004, Columbia Pictures) DVD: ソニー・ピクチャーズ・エンターテイメント, 2005, chapter 2. 以下、本作品からの引用はこの版からとし、本文中にチャプター番号を( )で表記する。
(2)"Secret Window"特典映像 メイキングドキュメンタリー集「秘密の窓からの眺め」を参照した・。
(3)同上.
(4)"Secret Window"特典映像 メイキングドキュメンタリー集「明かされた秘密」を参照した。
(5)"Secret Window"特典映像 メイキングドキュメンタリー集「秘密の窓からの眺め」を参照した。
(6)Stephen King "Secret Window, Secret Garden" in Four Past Midnight (New American Library, 1990), p. 380. 以下、本作品からの引用はこの版からとし、本文中にページ番号を( )で表記する。
(7)杉山洋子「分身物語考―『ジキル博士とハイド氏』再読―」『人文論究』第42巻第4号(1993), p. 33.
(8)エドガー・アラン・ポー「ウィリアム・ウィルスン」,『黒猫・黄金虫』佐々木直次郎訳(新潮社, 1951), p. 79.
(9)諫早勇一「ナボコフのロシア語作品と分身テーマ」『言語文化』第2巻第4号(2000),
p. 534.
(10)杉山「分身物語考―『ジキル博士とハイド氏』再読―」,p. 31.
(11)同上, p. 34.
(12)同上, p. 35.
(13)竹内啓子「視線のシャワー」『FB』第4号(1995),pp. 262-263.
(14)Secret Window特典映像 「デビット・コープ監督による音声解説」を参照した。
(15)Secret Window特典映像メイキングドキュメンタリー集「秘密の窓からの眺め」
(16)竹内「視線のシャワー」,pp. 262-263.
(17)“Film-Critiques”《http://www.film-critiques.com/Secretwindow1J.html》

参考文献
諫早勇一「ナボコフのロシア語作品と分身テーマ」『言語文化』第2巻第4号(2000), pp. 533-546.
エドガー・アラン・ポー「ウィリアム・ウィルスン」,『黒猫・黄金虫』佐々木直次郎訳(新潮社, 1951),pp.60-95.
杉山洋子「分身物語考―『ジキル博士とハイド氏』再読―」『人文論究』第42巻第4号(1993), pp. 29-43.
スティーヴンスン『ジーキル博士とハイド氏』海保眞夫訳(岩波書店, 1994)
竹内啓子「視線のシャワー」『FB』第4号(1995),pp.261-270.
種村季弘「分身殺し」『ユリイカ』第34巻第12号(2002),pp.28-35.
“Film-Critiques”《http://www.film-critiques.com/Secretwindow1J.html》
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by mewspap | 2009-02-22 14:05 | 2008年度卒論

justice

Edgar Allan Poeの描く暴力と夢の世界

目次
序論
第一章 女性と暴力
 第一節 暴力を受ける女性
 第二節 言葉の暴力
 第三節 天の邪鬼の精神
第二章 ポーの描く夢の世界
 第一節 魂の再生
 第二節 死
結論

参考文献

序論
 エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)の生涯は、愛する者の死であふれている。幼少期に母を亡くすとその後も彼の前からあこがれの女性、妻といったように愛する者を次々と失っていく。このように実生活では、苦悩と死への恐怖の連続であったが、一方で自らの愛する者の死や病気によって衰弱する姿を目の当たりにすることが、彼の作品の中に色濃く反映されている。また、彼自身もこのような環境の中で精神不安定になり、かつ過度の飲酒と相まって彼の幻想的で恐怖の世界が描かれるきっかけになっていることは間違いない。
 ポーの描く女性は、何者かによって暴力を受ける。彼女たちが暴力を受けるのは、彼らに恐怖を与えるからである。その恐怖は彼らにとって精神的に苦しいものである。彼らはその恐怖を克服し、心の安らぎや暴力的欲求を満たすために暴力をふるうのである。
 しかし、彼らは単に暴力をあたえるだけでなく精神が異常ではないのかと感じさせるほど冷酷な姿を表している。ポーは、人間の心の底にある暴力的欲求を描き、それを彼らの行動で示している。つまり、人間がいかに暴力的であるかを彼女たちに暴力をふるう形で見事に表しているとともに、その暴力性を危惧しているのである。
 ポーの作品を語るにおいて死や恐怖は欠かせないテーマである。なぜなら、死の恐怖と闘い、苦闘する姿こそが彼にとっての美を表している。彼女たちは、恐怖を与えるだけの存在ではなく、死という形で作品の中に永遠化される。それは、ポーが実生活では得ることのできないものである。また、ポーの作品の中で死んだと思われる女性が再度、姿を現すのは恐怖を与えるというより、もう一度愛する人に会いたいというポーの願望を表現するためである。
 本論文では、第1章で暴力と女性の関係、第2章で魂の再生と死について主に考察する。

結論
 ポーが暴力を表現するのは、天の邪鬼の精神のような人間の心に内在する暴力的欲求を危惧しているからであろう。もちろん、ポー自身も同様の狂気が宿っており、それを作品で表している。ポーの作品が興味深いのは、登場人物が複数の役割をもっていることである。『黒猫』に登場する黒猫が主人である夫になつく一方で彼に恐怖をあたえる存在でもあるように複数の存在として描かれている。そして、天の邪鬼の精神によって罪を犯した人物は必ずといっていいほど苦しみ、やがて殺された人物の魂とでもいおうか、それにより復讐されるのである。
 『モレラ』のような魂の再生の話は、ポーの天上世界へのあこがれが表れている。ポーは現実世界をあきらめ、天上の世界へ救いを求めているように感じられる。そういう意味では、どこか子供っぽいというか、精神的に弱い人間だったのではないかという疑念が作品を通じて読み取れる。


(1)小川高義訳『黒猫/モルグ街の殺人』を参照とする。尚、指定があるまで本論文で紹介する作品は全てこの書を参考とする。
(2)河野一郎訳『ポオ小説全集』を参照とする。

参考文献
板橋好枝、野口啓子編『E.A.ポーの短編を読む』(勁草書房, 1999)
野口啓子著『後ろから読むエドガー・アラン・ポー』(彩流社, 2007)
山本常正著『エドガー・ポオ 存在論的ヴィジョン』(英宝社, 1999)
アン・ルーエリン・バーストウ著、黒川正剛訳『魔女狩りという狂気』(創元社, 2001)
Wikipedia エドガー・アラン・ポー
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by mewspap | 2009-02-22 14:00 | 2008年度卒論

なっつん

Stand by Meにおける子どもの成長――「主人公としての語り手」ゴーディ――

目次
序論
第1章 ゴーディ
 第1節 ゴーディと家族
 第2節 死体探しの旅
第2章 ゴーディとクリス
 第1節 クリス
 第2節 ゴーディにとってのクリス
第3章 原作"The Body"
 第1節 原作と映画の相違点
 第2節 「主人公としての語り手」ゴーディ
結論

参考文献

序論
 映画『スタンド・バイ・ミー』(Stand By Me, 1986)は、スティーヴン・キング(Stephen King)の短編集『恐怖の四季』(Different Seasons, 1982)に収められた、秋の物語"The Body"を原作としている。この映画は4人の少年の成長物語であり、特に語り手であり主人公であるゴーディ(Gordie Lachance)、そして彼の親友であるクリス(Chris Chambers)の苦悩、葛藤、そして成長を描いた物語である。
 ゴーディ、クリス、テディ(Teddy Dechamp)の3人がツリーハウスで過ごしているとバーン(Vern Tessio)がやってくる。バーンは3人に、死体を見たくないかと話を持ちかける。彼は兄の話を盗み聞きし、自分たちと同年代のレイ・ブラワー(Ray Brower) 少年の死体が森の中にあるということを知ったのである。4人は、死体を発見することで英雄になれるかもしれないという期待、また死体を見てみたいという好奇心から死体探しの旅に行くことにする。ゴーディ、クリス、テディ、バーンの4人は死体探しを目的に、線路沿いを歩いて冒険旅行に出掛けるが、旅の途中には町はずれの大鉄橋、夜の森、沼地など、様々な障害が待ち受けている。彼らはその障害を仲間たちとともに乗り越えていく。死体探しの旅での経験を経て、彼らは子どもから大人へと成長していくのである。物語は、大人になり小説家となったゴーディが、不慮の事故でクリスが死んだのを知ったことをきっかけに、子ども時代を振り返り、思い出を語っていくという形で進められる。
 本論では、主として映画『スタンド・バイ・ミー』を対象に、死体探しの旅を経験して、子ども時代のゴーディがどのように成長したのかを見ていく。そして最終的に、映画と原作の違いにふれながら、映画、原作ともに、「語り手」であるゴーディが「主人公」であるということを考察する。映画では、語り手であるゴーディが主人公として描かれている。一方、原作"The Body"はというと、作者のスティーヴン・キング自身が「ゴーディをナレーターだととらえていた」「クリスが悲劇の主人公だと考えていた」と、語っている。しかし、果たして本当に原作の主人公はクリスなのだろうか。実際は、原作においても、語り手であるゴーディがクリスたちとの思い出を語ることで、自分自身の成長物語を書いているのではないか。ゴーディと彼の親友クリスに注目し、映画、原作ともにゴーディが「主人公としての語り手」であることを論じる。
 第1章では、語り手であるゴーディに着目する。ゴーディが自信をなくす原因となっている彼の家庭環境、そして自信を取り戻すきっかけとなった死体探しの旅で様々な障害を乗り越えていく経緯を見ていく。
 第2章では、ゴーディの親友であるクリスの存在に注目し、クリスの存在が、ゴーディにとって欠けていた父親という存在を補っているということを論じる。
 第3章では、第1章、第2章をふまえて、映画と原作の違いにふれながら、映画、原作ともにゴーディが「主人公としての語り手」であるということを論じる。

結論
 本論文では、主として映画『スタンド・バイ・ミー』を対象に、語り手であり主人公でもあるゴーディに焦点を当て、彼が死体探しの旅での経験を経て成長していく経緯を見てきた。そして、最終的に、映画だけでなく、原作"The Body"においても、ゴーディが「主人公としての語り手」であるということを論じた。
 ゴーディは、両親から"the invisible boy"として扱われてきたことが原因で、自分の存在理由に疑問を持ち、自信を無くしていた。しかし、ゴーディは、死体探しの旅に出て、様々な障害を仲間とともに乗り越えることで、自信を取り戻す。
 子どもの頃のゴーディにとって、親友であるクリスは大きな存在であった。クリスは、自分と同じく父親からの愛情を十分に受けてこなかったゴーディの悩みをよく理解し、作家になるべきだとゴーディを諭す。クリスは、兄デニーが亡くなったことでゴーディにとって欠けていた父親的存在を補っているのである。そんなクリスの存在があったからこそ、ゴーディは死体探しでの様々な障害を乗り越え、自分自身の苦悩、葛藤を克服し、成長することができたのである。
 映画『スタンド・バイ・ミー』、原作"The Body"両作品において、大人になり、小説家になるという夢を実現したゴーディが、子ども時代、彼にとって大きな存在だったクリスとの思い出を文章に綴ることで、自分自身の子ども時代の苦悩、葛藤、そして成長の物語を描いている。したがって、映画『スタンド・バイ・ミー』、原作"The Body"はともに、死体探しの旅での経験を経て成長したゴーディの子ども時代の思い出を、小説家になったゴーディ自身が「主人公としての語り手」として描いている物語なのである。


(1)Stand by Me (1986, Columbia Pictures) DVD :ソニー・ピクチャーズ・エンターテイメント, 2002, chapter 6. 以下、本作品からの台詞の引用はこのDVDからとし、本文中にチャプター番号を( )で表記する。
(2)吉田文「おとなになるということ―社会化と通過儀礼―」, 山中速人編『ビデオで社会学しませんか』(有斐閣, 1993), p. 65. 「ゴーディにとって、優しい兄の死自体もショックだったが、自分が両親からまったく期待されていないことを知って深く傷ついたのである」を参照にした。
(3)中谷安男「スタンド・バイ・ミー」, 八尋春海編『映画で楽しむアメリカ文学』(金星堂, 1999), p.179.
(4)高田賢一『アメリカ文学の中の子どもたち』(ミネルヴァ書房, 2004),p. 19.
(5)同上, p.30.
(6)同上, p.31.
(7)吉田「おとなになるということ―社会化と通過儀礼―」, p. 63.
(8)高田『アメリカ文学の中の子どもたち』, p. 41.
(9)吉田「おとなになるということ―社会化と通過儀礼―」, p.65.
(10)高田『アメリカ文学の中の子どもたち』, p. 42.
(11)本多和子「悲しき通過儀礼―関門の彼方」,『映像の子どもたち―ビデオという覗き窓』(人文書院, 1995), p. 122
(12) 吉田「おとなになるということ―社会化と通過儀礼―」, p.65. 「少年たちが育ったオレゴン州の田舎町が小さく見えたということは。彼らがこの冒険を通して大きくなった、つまりは1つ大人になったということである」を参照した。
(13) Stephen King, "The body" in Different Seasons (Signet , 1983), p.327. 以下、本作品からの引用はこの版からとし、本文中にページ番号を( )で表記する。
(14) "Stand by Me", メイキング・ドキュメンタリー:「あの夏の想いで」のStephen Kingのインタヴューから引用した。
(15)多田敏男「主人公としての語り手――J. コンラッドとF. スコット・フィツゼラルド――」, 『英文学論集第23号』 (関西大学英文学会, 1983), p. 1. を参考にした。
(16)同上, p. 12.
(17)同上, p. 2.「Guerardによれば、『闇の奥』の主題は、クルツに関するものでも、またベルギー政府の残虐さに関するものでもなく、その「語り手」であるマーロウに関するものである」を参照した。
(18)同上, p. 2. 「マーロウは単に「語り手」であるばかりでなく実は作品の主人公でもあるということである」を参照した。
(19)同上, p. 1.

参考文献
Walter Goodman, "Rob Reiner's 'Stand by Me,'" New York Times (August 8, 1986)
高田賢一『アメリカ文学の中の子どもたち』(ミネルヴァ書房, 2004)
多田敏男「主人公としての語り手――J・コンラッドとF・スコット・フィツゼラルド――」, 『英文学論集』第23号 (関西大学英文学会, 1983), pp.1-21
中谷安男「スタンド・バイ・ミー」, 野口健司監修, 八尋春海編『映画で楽しむアメリカ文学』(金星堂, 1999), pp.176-179
本多和子「悲しき通過儀礼―関門の彼方」,『映像の子どもたち―ビデオという覗き窓』(人文書院, 1995), pp.113-126
吉田文「おとなになるということ―社会化と通過儀礼―」,山中速人編『ビデオで社会学しませんか』(有斐閣, 1993), pp.60-82
『キネマ旬報』957 (1987), pp.67-70
《http://members.cox.net/ronfleischer/sbm/index.html》
《http://popmatters.com/film/reviews/s/stand-by-me-deluxe-dvd.shtml》
《http://www.chucksconnection.com/standby.html》
《http://www.dvdtown.com/review/standbymedeluxeedition/15260/2770/》
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by mewspap | 2009-02-22 12:36 | 2008年度卒論

hyde

Pearl Harborから読み取るアメリカン・ヒーローの示すエートス

目次
序論
第1章 各登場人物の示すエートス
 第1節 主人公レイフの示すエートス
 第2節 ダニーの示すエートス
 第3節 黒人コックミラーの示すエートス
第2章 アメリカの目覚め
 第1節 眠れるアメリカ
 第2節 目覚めるアメリカ
結論

参考文献

序論
 アメリカ人にとって「パールハーバー」という言葉は特別な意味を持つ。この言葉の背景にある歴史観、意味は個人により様々であるが、2001年9月11日に起こるアメリカ同時多発テロの際、大統領ジョージ・W・ブッシュは彼の演説の中に「パールハーバー」という言葉を用いて多くのアメリカ国民から戦争を行うことの賛同を得た。「パールハーバー」という言葉はアメリカ人にとって特別な意味を持つのである。つまり「最終的な勝利」を連想させることや、アメリカが「眠っていた」というイコンとして機能する言葉なのである。
 イコンとしてアメリカ人の中に生き続ける「パールハーバー」を映画化したともいえる作品が同年の12月7日、ちょうど旧日本軍による真珠湾攻撃から60周年にあたる日に公開された。それが映画『パールハーバー』(Peal Harbor、2001)である。この映画は勇気あるアメリカ軍人たちによる戦いの始まりを描いた作品であり、ヒロイックに描かれる各登場人物からは国家への忠誠や友情、アメリカン・ヒーローの持つべき恋愛や結婚に対する価値観がうかがえる。そして物語後半は、アメリカは奇襲される前までは油断していたとし、「最終的な勝利」に向け登場人物達が目覚める様子が描かれている。
 本論では各登場人物の示す友情、国家への忠誠や使命感などアメリカン・ヒーローの持つべきエートスをセリフや行動から個別に考察する。また作中に描かれる恋愛観からもヒーロー的要素を探る。そして本作の日本領土へ攻撃を仕掛ける最終シーンからは、映画『トラトラトラ!』の中でも日本海軍山本五十六提督の台詞にある、アメリカは「眠っていた」とするテーマについても触れる。
 本論の第1章では、日本軍の奇襲を受ける前から奇襲を受けているシーンに現れている各登場人物の示すアメリカン・ヒーローとしてのエートスつまり国家への忠誠や友情といった称賛すべき気風や精神を行動や台詞から読み解き論じる。
 第2章では、「パールハーバー」という言葉に内包されている、眠っていたというテーマをこの映画から読み解く。そして日本による奇襲後、そのテーマに続く「目覚め」について論じる。

結論
 本論では以上のように『パールハーバー』に描かれる人物から、それぞれが示すエートスについて考察し、彼らをアメリカン・ヒーローであると結論づけてきた。レイフは幼少の頃からパイロットになるという夢を抱き、様々なシーンでその夢に対する想いの強さを示してきた。念願叶ってパイロットになった後も、彼は自らの腕を磨くことに力を注ぎ、親友のダニーや恋人のイヴリンと離れることを顧みずイギリスへ行ってドイツ軍と戦うことに志願する。そして日本による奇襲が始まると、彼は周囲の同僚を導き日本に反撃する機会を作り出す。
レイフの親友ダニーは常にレイフの身を案じ、軍人として戦うことより「友情」を重んじる人物として描かれている。また彼もレイフ同様優秀なパイロットとしてハワイに配属された同僚の中ではリーダーにあたる人物であり、レイフと共に日本軍に反撃する中心人物となる。そして彼はレイフ以外の人物にも思いやりをもって接する。彼は「社会的受容性」のある人物であり単独行動が目立つレイフとは対照的に協調性のあるタイプのアメリカン・ヒーローなのである。
 黒人軍人であるミラーは「尊敬」というエートスを示す人物であり、上官や自分の目標である「尊敬を集める軍人になる」という目標に対してひたむきな想いを示す。その目標のために彼は尊敬を集める唯一の手段であるボクシングで勝ち続け、奇襲が始まると見事一機の零戦を打ち落とし、彼は海軍殊勲賞を授与された始めての黒人軍人としてアメリカン・ヒーローの仲間入りを果たす。
 第2章では「パールハーバー」という言葉に内包される、アメリカは「眠っていた」というテーマに焦点を当て、エミリー・S・ローゼンバーグの論じた記述を元に、この映画からうかがえる「眠っていた」アメリカを論じてきた。そして奇襲後は「眠っていた」というテーマの後に必ず続く、アメリカの「目覚め」について論じてきた。アメリカは奇襲によって勝利することに目覚め、レイフたちアメリカ軍は奇襲前とは一転して「軍事的に成熟した男らしさ」を示すのである。


(1)O・E・クラップ著,仲村祥一・飯田義清訳『英雄・悪漢・馬鹿』(新泉社,1977),pp.44.
(2)Pearl Harbor(2001,Touchstone Pictures)DVD:ブエナビスタホームエンターテイメント,2004,chapter 1,以下、本作品からの引用は版とし、本文中にチャプター番号を()で標記する。
(3)亀井俊介著『アメリカン・ヒーローの系譜』(研究社出版,1994),pp.25.
(4)クラップ『英雄・悪漢・馬鹿』,pp.61.
(5)同上,pp.64.
(6)亀井『アメリカン・ヒーローの系譜』,pp.33.
(7)クラップ『英雄・悪漢・馬鹿』,pp.70.
(8)同上,pp.65.
(9)エミリー・S・ローゼンバーグ著,飯倉章訳『アメリカ人は忘れない―記憶のなかのパー
ルハーバー』(法政大学出版局,2007),pp.26.
(10)同上,pp.27.
(11)同上,pp.26-27.
(12)同上,pp.28.

参考文献
エミリー・S・ローゼンバーグ著,飯倉章訳『アメリカ人は忘れない―記憶のなかのパールハーバー―』(法政大学出版局,2007)
O・E・クラップ著,仲村祥一・飯田義清訳『英雄・悪漢・馬鹿』(新泉社,1977)
亀井俊介著『アメリカン・ヒーローの系譜』(研究社出版,1994)
佐藤忠男著『映画で読み解く「世界の戦争」―昂揚、反戦から和解への道―』(ベスト新書,2001)
「大統領ルーズベルト演説:「真珠湾攻撃を国民に告げる」」
《ttp://yantake-web.hp.infoseek.co.jp/page8-2.html》
ベス・ミルステイン・カバ,ジーン・ボーディン著,宮城正枝・石田美栄訳『われらアリカの女たち―ドキュメント・アメリカ女性史―』(共栄書房,1992)
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by mewspap | 2009-02-22 12:31 | 2008年度卒論

オレンジ

『ティファニーで朝食を』におけるイノセンス――ありのままの人間を肯定したトルーマン・カポーティ――

目次
序論
第1章 イノセンス
 第一節 アメリカ文学におけるイノセンスの位置づけ
 第二節 原作におけるイノセンスの位置づけ
 第三節 作中における動物を用いた表現
第2章 ホリーとカポーティ、「僕」と物語の展開
 第一節 ホリーとカポーティ
 第二節 「僕」と物語の展開
第3章 映画『ティファニーで朝食を』
 第一節 原作との相違点
 第二節 エンディング
結論

参考文献

序論
 大都市ニューヨークで自由奔放に生きる女性ホリー・ゴライトリー(Holly Golightly)と、彼女と偶然知り合うこととなった作家志望の「僕」との間に起こった出来事を描いた『ティファニーで朝食を』 (Breakfast at Tiffany’s, 1958)は、作家トルーマン・カポーティ(Truman Capote)の地位を揺ぎ無いものとした作品である。
 この作品における最大の魅力といえば、やはりホリーのキャラクターということになるだろう。確かに社会性に欠け自己中心的とも言えるホリーの生き方については批判も少なくないが、作品発表当時から今日に至るまで数多くの人々の関心を集めてきたのも事実である。多少常識から逸脱していても、自らの思いに忠実であるホリーの姿に人々は共感や憧れを抱くのである。ホリーがそういった風に生きているのは、カポーティが彼女を無垢な存在として描いているからであり、つまるところ、彼女の持つイノセンスが我々にとって極めて魅力的に映るのである。そしてそれは、彼女を暖かく見守る「僕」にとっても同様であり、さらに、彼女に感化されていくことによって、「僕」も次第に自己を確立していくのである。
 本論文では『ティファニーで朝食を』とそれを原作として製作された映画(1961)を取り上げる。その中で描かれているイノセンスについて考察することを主眼とする。
 第1章では、作中におけるイノセンスがどのように表象され、また読者にどういった印象を与えているかを考察する。
 第2章では、作中の主要登場人物であるホリーとカポーティとの関係、および「僕」とカポーティとの関係を考察する。
 第3章では、原作と映画版とのと相違点について取り上げる。とりわけ、両者のホリーや「僕」の相違点について、また両者のエンディングの違いについて考察する。

結論
 本論では『ティファニーで朝食を』における主要な登場人物であるホリーと「僕」に焦点をあて、彼らが物語の進行とともにどのように変化していくかを考察してきた。
また、原作と映画版との相違点を比較することによって、本作において、いかに読者が物語に介入していくことが重要であるかについても考察してきた。
 ホリーに感化されることによって、語り手である「僕」は次第に自己を確立していく。その過程を通じ、読者もホリーや「僕」に対して共感を覚えていくのである。それは、イノセンスを肯定的に捉えるということであり、ホリーに自己を投影した作者カポーティの思いであるともいえる。
 イノセンスを肯定するということは、ありのままの人間を肯定することであり、カポーティは読者にそれを望んだ。そして自らも読者を信じた。その結果、このような作品に対して読者の想像力が介入を拒むことのない作品が生まれたのである。


(1) Truman Capote, Breakfast at Tiffany’s (Penguin Books, 1961) 以下、本作品からの引用はこの版からとし、本文中にページ番号を ( ) で表記する。尚、日本語訳の部分は、トルーマン・カポーティ、村上春樹訳『ティファニーで朝食を』 (新潮社, 2008) を参照した。
(2) 板橋好枝、高田賢一 『はじめて学ぶアメリカ文学史』(ミネルヴァ書房, 1991) , p.2
(3) 同上 , p.2
(4) イーハブ・ハッサン、岩本巌訳『根源的な無垢』 (新潮社, 1972) , p.254
(5) 同上 , p.254
(6) 同上 , p.255
(7) トルーマン・カポーティ、川本三郎訳『夜の樹』 (新潮社, 1994 ) , p.287
(8) ピーター・ミルワード、中山理訳『聖書の動物事典』 (大修館書店, 1992) , p.16
(9) 同上 , p.16
(10) 内田豊 『トルーマン・カポーティ作品論集――「グロテスクなもの」との出遭い――』(開拓社, 2006) , p.103
(11) 板橋、高田『はじめて学ぶアメリカ文学史』 , p.229
(12) 村上 『ティファニーで朝食を』 , p.214-215
(13) トルーマン・カポーティ、龍口直太郎訳 『ティファニーで朝食を』(新潮社 , 1968) , p.254
(14) 同上 , p.259
(15) 村上『ティファニーで朝食を』 , p.211
(16) 同上 , p.212
(17) カポーティ、龍口 『ティファニーで朝食を』 , p.259
(18) 村上 『ティファニーで朝食を』 , p.212

参考文献
トルーマン・カポーティ、村上春樹訳『ティファニーで朝食を』 (新潮社, 2008)
板橋好枝、高田賢一 『はじめて学ぶアメリカ文学史』(ミネルヴァ書房, 1991)
イーハブ・ハッサン、岩本巌訳『根源的な無垢』 (新潮社, 1972)
トルーマン・カポーティ、川本三郎訳『夜の樹』(新潮社, 1994)
ピーター・ミルワード、中山理訳『聖書の動物事典』 (大修館書店, 1992)
内田豊 『トルーマン・カポーティ作品論集――「グロテスクなもの」との出遭い――』 (開拓社, 2006)
トルーマン・カポーティ、龍口直太郎訳 『ティファニーで朝食を』(新潮社, 1968)
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by mewspap | 2009-02-22 12:28 | 2008年度卒論

あっち

アメリカ映画における恐るべき子供について

目次
序論
第一章 子供らしくない子供
 第一節 子供と暴力
 第二節 子供と性
 第三節 子供の残酷性
第二章 子供による殺人
 第一節 ローダの場合
 第二節 リンの場合
 第三節 ジョシュアの場合
結論
参考文献

序論
 子供の考えていることが手に取るようにすべてわかる人はいないだろう。子供には純粋無垢で無邪気な一面がある。しかし彼らは大人の作ったモラルを知らず、欲望のままに動いてしまうので、時に大人には理解できないような行動をとることもある。
 子供は純粋無垢で無邪気であるというイメージを持たれがちである。そして大人は彼らがそうであることを望んでいる。しかし子供はそんなイメージに当てはまらない性質も持っている。本論文ではそんな子供を、子供らしくない子供と呼び、アメリカ映画における子供らしくない子供について論じる。
 第一章では、『悪い種子』(The Bad Seed, 1956)、『白い家の少女』(The Little Girl Who Lives Down the Lane, 1976)、『ジョシュア 悪を呼ぶ少年』(Joshua, 2007)の三作品を取り上げ、それぞれの作品の中で描かれている子供がなぜ子供らしくないのか論じる。
 子供らしくない子供を表現するときに、彼らが殺人を犯すことが多い。殺人は最大のタブーである。第二章では、上記三作品を考察し、子供らしくない子供たちがその重大なタブーを軽々と犯していくことで、観客に彼らを恐るべき存在として表現していることを論証していく。

結論
 本論文では、子供らしくない子供をテーマに、『悪い種子』のローダ、『白い家の少女』のリン、『ジョシュア 悪を呼ぶ少年』のジョシュアを取り上げ、それぞれが子供らしくない子供である所以や、それぞれが犯した殺人の動機について論じてきた。
 内田樹が「内田樹の研究室」《http://blog.tatsuru.com/2008/11/13_2111.php》の中で述べているように、子供と大人の間には乗り越えがたい段差があり、その段差を越えるときに、子供の持っている最良のものは剥奪して、もう二度と取り戻せない。その最良のものとは、イノセントであることだ。子供は何も知らないから、イノセントでいられるのだ。 ローダやリン、ジョシュアのように、暴力や性、死を知ってしまった彼らは、もう子供の持つ最良のものを失ってしまっているのである。
 しかし大人は、彼らのかわいらしい外見から、彼らを子供であると判断する。そして彼らに大人の抱く子供のイメージを押し付ける。外見は子供であっても、子供の持つ最良のものを失ってしまった彼らは、もう大人の思うような子供ではない。しかし、大人のようにモラルを知っていて、他人を思いやることが出来るわけでもない。性を利用することがあれば、暴力を振るうこともあるし、残酷なこともする。そこで、大人の認識と、実際の彼らとの間にギャップが発生し、彼らは大人からみると、子供なのに子供らしくない、恐るべき子供となるのである。
 子供らしくない子供を表現するときに、殺人と結び付けられることが多いのは、そんなギャップを観客にわかりやすく表現するために、彼らに最大のタブーである殺人を犯させることで、彼らのイメージには当てはまらない部分を際立たせることができるからである。

参考文献
高田賢一『アメリカ文学のなかの子どもたち』(ミネルヴァ書房,2004)
内田樹「内田樹の研究室」《http://blog.tatsuru.com/2008/11/13_2111.php》
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by mewspap | 2009-02-21 10:58 | 2008年度卒論

エミ

ライトの人種的劣等感との争いと克服――『アメリカの息子』から――

目次
序論
第一章 ビッガー・トマス
 第一節 憎悪
 第二節 恐怖
 第三節 殺害
第二章 心理変化
 第一節 逃走
 第二節 裁判
 第三節 運命
第三章 「孤独と悲劇の作家」リチャード・ライト
 第一節 1930年代
 第二節 環境と主要作品
 第三節 描写法
結論

参考文献

序論
 黒人小説家リチャード・ライト(Richard Wright, 1908‐1960)が書いた『アメリカの息子(Native Son)は、1940年に発表された小説である。
 小説は三部構成となっており、それぞれのセクションは“Fear”,“Flight”,“Fate”とFで始まる表題が付けられている。『アメリカの息子』を一言でいうならば、主人公ビッガー・トマスという黒人青年の行動をドキュメンタリー風に追い、アメリカにおいて生活する黒人の運命を暴いたのであるが、それとともに、社会の外にあるもの、すなわちアウトサイダーの心理を追ったという点で、社会小説とも心理小説ともいえる。恐怖・憎悪・恥辱という心理をアメリカ社会と結びつけて、黒人というアウトサイダーを選び出して追求したものである。また、この小説はライトの経験を基にしながら書かれているところが多数あるため、ライトとビッガーとの共通点が多く存在している。
 著者であるライトは人種問題、階級闘争といった社会問題もさることながら、こうした問題が一人の人間の内面に及ぼす心理的な影響を通して、現代人の問題を追及した。
 第一章では、主人公ビッガーの性格描写と、どんなに親切にされても白人を恐怖と憎悪の対象でしか見られないビッガーの持つ白人への偏見や、白人=悪という固定観念を論じる。
 第二章では、殺人を犯してから生き甲斐を得たビッガー、白人弁護士マックスの弁論によって変わる白人への視点、死刑を宣告されてからのビッガーの心理状況を彼の台詞とともに論じる。
 第三章では、作家リチャード・ライトと、彼の生きた時代を見ていく。また、この小説がただの抗議小説ではないことを検証していく。

結論
 白人支配のアメリカでまともな職にもつけない黒人青年が、裕福な不動産会社の社長の運転手に雇われ思いやりある待遇からしばし訪れた幸福を味わうが、社長の娘の誘惑から本能として持ち合わせている白人の恐怖と憎悪にかき立てられ思わぬ殺人を犯し、処刑される。題名Native Sonが示すように、主人公ビッガーは、人種差別問題を深く宿したアメリカ社会の産んだ息子である。白人は黒人への恐怖から、黒人は白人への憎悪と防衛から殺人を犯すのである。そして彼は殺人を犯したことにより初めて生きた実感を持ち、自身の気持ちを聞いてくれたマックスという一人の白人共産党員によって白人にも心を開き、初めて白人という人間について考えるようになる。
 そして思想的にも小説第三部で、白人女性を殺し裁判を受けるビッガーに、彼が犯した罪は彼個人の責任ではなく、白人社会の責任であるとするマックスの弁護を拒否させて、彼自身主体性をもった一人の人間として自分が犯した罪の責任を自ら取り、社会に責任を転嫁せず運命を受け入れて、処刑される。
 確かにある面では、彼も白人アメリカ社会の黒人に対する差別を告発・抗議している。しかし、彼は人種問題というアメリカ社会に特有な問題にとどまらず、黒人によって象徴される普遍的な人間の問題を追及している。
 ここには黒人のアメリカ社会への烈しい抗議の声が聞かれ、黒人の側から人種問題をとりあげ、黒人の手によって完成された最初の黒人文学としてこの作品の価値は不滅である。
 きっと著者であるライトも、黒人の現状を抗議したいだけではなく、本当は白人と黒人の壁がなくなって欲しいと願い、その気持ちを当時のアメリカ国民に訴えたかったのではないだろうか。また、この作品はライトが共産党入党中であるから、共産党については善の存在として書かれており、共産党についても人々に知って欲しいというプロバカンダ的な意図もあったのではないだろうか。
 高度に発達した資本主義国アメリカにおいて、前近代的とも言える黒人差別が今日なお存在している。しかし、黒人初の大統領オバマ氏が誕生し、アメリカの歴史は変化しつつあるのだ。


(1)Richard Wright, Native Son (HAPPER & ROW,PUBLISHERS,1940)p.14. 以下、本作品からの引用はこの版からとし、本文中にページ番号を( )で表記する。
(2)佐々木みよ子編 加藤万な子『ヒーローから読み直すアメリカ文学』(勁草書房、2001)pp.131-146

参考文献
有賀夏紀 油井大三郎『アメリカの歴史』(有斐閣、2003)pp.120-pp.140
池上日出夫 伊藤堅二 須田稔 田中礼『アメリカ黒人の解放と文学』(新日本出版社、1979)pp.95-pp.99
岩元巌 徳永陽三『アメリカ文学思潮史』、(沖積舎、1999)pp.377-381
大内義一『アメリカ黒人文学』(評論社、1977)pp.97-pp.105
尾形敏彦 浜本武雄『アメリカ文学の新展開、小説』(山田書店、1983)pp,185-pp.202
加藤恒彦 北島義信 山本伸『世界の黒人文学―アフリカ・カリブ・アメリカ』(鷹書房弓、2000)pp.180 pp.182
亀井俊介 『アメリカ文学史Ⅲ』(南雲堂、2000)pp.49-pp.57
関口功『アメリカ黒人の文学』(南雲堂、2001)pp.109-pp.155
田島俊雄 中島斎 松本唯史 原雅久『アメリカ文学案内 世界文学シリーズ』(朝日出版社、1977)pp.82-83pp.213
西山恵美『もうひとつのアメリカ像を求めてーライト、ドライサー、ヘミングウェイ、モリスンを読むー』(英宝社、2003)pp.5~pp.71
日本アメリカ文学・文化研究所『論文・レポートを書くためのアメリカ文学ガイド』(荒地出版社、1996)pp.114-pp.119
渡辺利雄『講義 アメリカ文学史〔全3巻』第Ⅱ巻』(研究社、2007)pp.349-pp.361.
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by mewspap | 2009-02-21 10:56 | 2008年度卒論