カテゴリ:つれづれレヴュー( 38 )

世界を作る人(大人)、世界の裏をかく人(子ども)、それを俯瞰する人を見返す人(秘密の共有者)

朝、電車のなかで新聞を拡げたら、こんなんがあった。
『朝日新聞 be on Saturday』(2010年5月8日)の第1面。
経済産業省の元モーレツ官僚にして現横浜市副市長。男性キャリア官僚で初の育児休暇取得者。
育児支援行政に力を注いでいる。
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キャプションには「放課後の小学校を視察。『えらい人』のオーラはなく、背後に忍び寄る児童が……」とある。
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by mewspap | 2010-05-11 09:44 | つれづれレヴュー

現在形で終わる物語(Mew's Pap)

『1Q84』Book 3の最終章を支配するのは、圧倒的な、ほとんど「歯に衣着せぬ」までの現在形の奔流である。

ふかえりも、蝶を愛でる老婦人もタマルも、牛河も、編集者の小松も、田村看護婦や大村看護婦、そして安達クミ(おそらく天吾の殺害された母親の代理表象)ら心優しき看護婦たちも、月が二つある世界に残して、少年と少女はしっかり手を握ってまた別のパラレル・ワールドへと去る。

1Q84年の世界、あるいは猫の町に入り込んでしまったもう一人の秘密の共有者である牛河は、想像を絶する苦しい死を死んで、その邪な生と凄絶な死は月が二つある世界におけるリトル・ピープルの苗床となるのを強いられる。

『1Q84』は青豆やふかえり、そして天吾にもまして、牛河という特異なキャラクターで記憶される物語となるでしょう。

案に相違して、読者の代理人たる牛河は謎の解明にいたらず、謎に近づきすぎたがゆえに非業の死を遂げる。

「謎解き」に汲々とした読者も気を付けるべきでしょう。
論理の助けだけで「分かりすぎて」はいけないということです。

さて、書物の末尾には、
(BOOK3 終わり)
とある。

え、『1Q84』の終わり、ではないの?
まさかまだ続編があるわけじゃないよね。

月が二つある世界からの「移動」を青豆と天吾は成功裡に終える。
でも青豆はふと違和を覚える。
 ここに来るのはこれでもう三度目だ。目の前にはいつものエッソの大きな看板がある。タイガーをあなたの車に。同じコピー、同じ虎。彼女は裸足のまま、言葉もなくそこにただ立ちすくむ。そして排気ガスの充満する夜の空気を胸に大きく吸い込む。それは彼女にはどんな空気よりすがすがしく感じられる。戻ってきたのだ、と青豆は思う。私たちはここに戻ってきた。
 ……
 そこで青豆ははっと気づく。何かが前とは違っていることに。何がどう違っているのか、しばらくわからない。彼女は目を細め、意識をひとつの集中する。それから思い当たる。看板の虎は左側の横顔をこちらに向けている。しかし彼女が記憶している虎は、たしか右側の横顔を世界に向けていた。虎の姿は反転している。
ほとんど邪悪なまでに意地悪な村上春樹は、最後にいたるまで謎かけをする。

d0016644_22132277.jpgエッソのタイガーをキャラとする看板がどんなものだったのか私は覚えていない。

そんなものがあったのかどうか(あったような気もする)も記憶にない。私が見つけた近似値の図柄はこのようなものだ。

私たちが私たちの世界と認識するところでは、エッソのタイガーは確かに右側の横顔をこちらに向けているようである。

青豆の認識では、彼らは月が二つある世界からエッソの虎が反転した世界へと移動したようである。
しかしその移動には大事なものが携帯されている。

『空気さなぎ』の小説は月が二つある世界の属性であり、それはしかるべき世界に置き去られてきた。
しかし、天吾は新たな世界(エッソの虎が左側の横側を向けている世界)にその執筆中の長編小説のマニュスクリプトを後生大事に抱えてやってきた。

その長編小説は「『空気さなぎ』に書かれている世界をそのまま引き継いだもの」であり、「その空には大小二つの月が並んで浮かんで」いるものだ。

その未完の小説にはまだ題名が付けられていない。
でももちろん、われわれはそれにどのような書名が付けられることになっているかよく知っているのである。
やがて「この世界」で完成を見た暁に、二つの月のある世界を描いたその小説は、『1Q84』と呼ばれることになる。

エッソの虎がそこでどっち側を向いていようとも、それは間違いない。
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by mewspap | 2010-04-20 21:57 | つれづれレヴュー

『1Q84』:「秘密の共有」と「明晰な意思」(Mew's Pap)

1年次生向けのリレー講義で先週出した課題が昨日〆切だったので、オンライン投稿された課題のコメントをさくさく読む。
ふむふむ、おもしろい。
おもしろいけど、受講生数が多いので、これを分析・分類し、講義でリスポンスするためにとりまとめる作業に思いの外時間がかかる。

半日かけてようやく終えて、ソファに寝転んで『1Q84 』の続きを読む。

牛河の章である19章で、驚くべき覚知が訪れる。
 やがて牛河は息を呑んだ。そのまましばらく呼吸することさえ忘れてしまった。雲が切れたとき、そのいつもの月から少し離れたところに、もうひとつの月が浮かんでいることに気づいたからだ。それは昔ながらの月よりはずっと小さく、苔が生えたような緑色で、かたちはいびつだった。でも間違いなく月だ。そんな大きな星はどこにも存在しない。人工衛星でもない。それはひとつの場所にじっと留まっている。
 牛河はいったん目を閉じ、数秒間を置いて再び目を開けた。何かの錯覚に違いない。そんなものがそこにあるわけがないのだ。しかし何度目を閉じてまた目を開いても、新しい小振りな月はやはりそこに浮かんでいた。雲がやってくるとその背後に隠されたが、通り過ぎるとまた同じ場所に現れた。
 これが天吾の眺めていたものなのだ、と牛河は思った。……ここはいったいどういう世界なんだ、と牛河は自らに問いかけた。俺はどのような仕組みの世界に入り込んでしまったのだ? 答えはどこからもやってこない。無数の雲が風に吹き流され、大小二つの月が謎かけのように空に浮かんでいるだけだ。
謎を追い一つひとつのピースをつなぎ合わせて秘密の開示へと向かっていた牛河は、それまで知らなかった謎の核に触れる。
青豆、天吾、牛河、そして読者は秘密の共有者となる。
彼はその特異な風貌と同じく特異な能力を駆使して、物語世界で読者の代わりに謎を追い詰めてゆく代理人というだけでなく、読者と同じ地平に立ってこの世界への畏怖と驚異の念を共有する者となるのである。
このとき牛河は、青豆と天吾と寄り添っていたわれわれ読者の、同伴者となる。
別の言い方をすれば、青豆と天吾の視点から「牛河のような不気味な人間が跳梁跋扈する世界」を見ていた「物語論的に安全な立場」を奪われ、薄気味悪い牛河の「飛び出したような目」を我がものとすることを強いられるのである。
もはや牛河は私の「代理人」ではない。
私が、ずんぐりした体躯の、今にもくっつきそうな両のげじげじ眉毛をもった、いびつで異様に大きな頭をもった、世界から忌み嫌われる牛河なのだ。

20章の青豆の章で、今度は彼女が追跡者となる。
呆然と二つの月を眺めていた牛河に気づき、その跡を追う。
行き先は天吾の住むアパートである。
青豆はタマルに電話して善後策を依頼する。
そして付け加える。
「もうひとつあなたにお願いしたいことがある」と青豆は言う。
「言ってみてくれ」
「もしそこにいるのが本当に川奈天吾だとしたら、彼にどんな危害も及ばないようにしてもらいたいの。もしどうしても誰かに危害が及ばなくてならないのだとしたら、私が進んで彼の代わりになる」
単純で、明晰な、うむを言わせぬ意思である。青豆にとってそれは素朴な真実以外の何ものでもない。
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by mewspap | 2010-04-19 18:28 | つれづれレヴュー

『1Q84』と2週間目のミッション・コンプリートでようやく復調(Mew's Pap)

ちょうど授業も2巡して、体調も昨日あたりからようやく復調。
ゼミは休んじゃったけどね。ははは。

今日は1、2限だけで、12時ちょうどに2限も終わったのでそのままA棟のラウンジを覗いてみる。
しめしめ、まだがらがらなのでお昼ご飯を食べることにする。

ここでは開店当時からラーメンしか食べてなかったんだけど(なかなかシンプルでおいしかった)、最近は「日替わりラーメン」とか称していて行くたびになぜか「本日はとんこつ醤油スープ」という貼り紙がある。
あんまり好きではない。
以前の厳然たるシンプル・ラーメンがよかったんだけどな。

そぉっと見てみると、やっぱり今日もとんこつ醤油スープとのこと。

ううむ。自販機に前でしばし沈思黙考し、カツ丼にする(270円也)。
ついでに味噌汁も追加。なんと30円!

研究室に持ち帰って食べようと思ったけれど、味噌汁(しつこいが30円だぜ)をこぼさずに運搬するのが至難の業であることが判明し、そのままラウンジのテーブルについて食べることにする。
まだがらがらだし。

カツ丼は今ひとつだけど(まあ270円でこれならがんばっていると思う)、30円の味噌汁がありがたいです。
締めて300円の昼食は、遙か昔(前世紀)の学食と値段にして変わりない。
ずっとおいしいし。
テーブルとチェアもずっといいし。
研究棟に近いし。

やれうれし。

と思ってぱくぱく食べているうちに、気がつくと周りはあっというまに学生でいっぱいになっている。

10分の差は大きい。ううむ。毎週、2限目は授業終了より10分早い12時に終えてラウンジに駆けつける誘惑に駆られる。いかんいかん。

d0016644_22174830.jpg予約注文していた本が昨夜届く。

菊正宗のぬる燗を飲みながらベッドで読み始め、今日の通勤電車で半分ほどまで読む。

Book 1やBook 2のような独特の比喩表現が少ないような気がする。
なぜだろう。

とにもかくにも、いつものように比喩表現がこれでもかと前景化して立ち上がってこないような気がする。

Book 1やBook 2以上に、各章に割り当てられた視点人物の内省に寄り添った語りなので、その内省に「特異な比喩表現」が介入するのは人物の造形に違和感をもたらすからかもしれない。

あるいは、あの独特の蠱惑的な比喩が「何かに喩えて物事へのアクセシビリティをつり上げる」ためでなく「世界をズラす」ために用いられているのなら、月が二つある「1Q84」はすでにズラされた世界なので、もうその必要もないのかとも思う。
天吾が若い看護婦にハシッシを勧められて、こんなことを思う場面がある。
 天吾はハシッシにはそれほど興味は惹かれなかった。彼は正気の頭を抱えて、月が二つある世界を生きている。これ以上世界を歪ませる必要がどこにあるだろう。
あの独特で自在の比喩表現はハシッシのようだ。
すでにそこに描かれているのが「月が二つある世界」ならば、それをことさらにズラすためにこれ以上のハシッシはもう要らない。

天吾、青豆に加えて牛河がBook 3の視点人物になる。そして章ごとに3人が入れ替わる。

牛河が主要な役割を担うのはただしい。

彼は「読者の代理人」であり、Book 1とBook 2に散りばめられたさまざまな謎を拾い集め、鈍牛のごとく倦まず弛まずそのピースをつなぎ合わせる謎解き役である。
たぶん「謎解き」(月が二つある世界なりの謎解きだが)こそ、Book 3の真骨頂なのだから(まだ読み終わっていないけど)。

そして読者の代理人たる視点人物が、おおかたの読者が距離を感じる気味の悪い人物であるところがよい。

同時に、すでに中盤にして、実は牛河は天吾や青豆とその幼少時の体験において共通性をもつということが明示される。

あの不気味な牛河へと、読者をいかに感情移入させていくか。
それがこの先の物語の骨法なんじゃないかな(わかんないけど)。

見栄えも性格も不気味な視点人物へ読者の共感を組織し(そして最後にはおそらく裏切る)というのが、この先の要点であろうと期待しながら、明日は日曜日だな、へっへっへと思う。
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by mewspap | 2010-04-17 22:24 | つれづれレヴュー

『20世紀少年<最終章>』は終わったあとから物語が始まる

d0016644_20133366.jpg『20世紀少年<最終章>ぼくらの旗』

今月初め、公開から2、3日後に近所のシネコンで見たんだけど、まだまだ上映中なんですね。
ヒットしてよかったね、唐沢くん。
ところが先日になって、とある上映館のホームページに、次のような注意書きが登場しているのを見つけて「え?」となる。
『20世紀少年<最終章>ぼくらの旗』は、エンドロール終了後もストーリーが継続いたします。
場内が明るくなるまで、お席を立たずにご鑑賞くださいませ。
はははははは。

ヒットしたということは、もちろん観客の分母が増大したことなので、「映画の見方を知らない」気の短い観客という分子も相対的に増大したのでしょう。

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by mewspap | 2009-09-28 20:25 | つれづれレヴュー

『扉を叩く人』と『セントアンナの奇跡』

火、水曜と二日間、朝から研究室にこもって春学期の成績評価に没頭していた。
何年か前から、学期末試験を主とした「結果評価」から、主としてe-Learningを用いた「プロセス評価」にシフトしたのだけど、学期末に積み上がったその「プロセス」を再読し素点を積み上げてゆく作業がほんとにたいへんなのである。

へとへとになって帰宅し、ベッドに横臥してTVをつけるとちょうど古館くんの報道ステーションが映り、ぼうっと見ていて気づいたら午前3時過ぎになっていた。
テレビの音がうるさいなあと目が覚めたのである。
いつの間にか/あっと言う間に熟睡していたようである。
TVのスイッチを切って再び奈落の底へ落ちてゆくような眠りに入りながら、そうだ今日は映画を見に行こうと思う。
たぶん、にんまり笑っていたと思う。

d0016644_21474949.jpgd0016644_2148414.jpgということで映画館をはしごして『扉を叩く人』と『セントアンナの奇跡』を見てきましたが、とにかく真夏の大阪は暑い。
この二つの映画は「暑かった」という印象と生涯結びついているであろう。
私はあまり汗をかかない体質なので、炎天下をてくてく歩いて映画館はしごはよけいしんどい気がする。
着替用のTシャツと映画見ているときの防寒用(!)のシャツをバッグに詰めて、ひーひー言いながらひたすら歩く。

『扉を叩く人』は原題をThe Visitorという。
不思議ですね。
主人公ウォルターは妻を亡くし、コネチカットで一人暮らしの孤独な大学教授で、教育も研究も情熱を失って久しい(ね、物語は「欠落」から始まるでしょ)。
ある日、ニューヨークにある別宅のアパートに行ったら、そこに不法入国者の若いカップルが暮らしていてびっくらこくというところから物語は動き出す。

何が不思議って、勝手に自分のアパートに住んでいる不法入国者のカップルが表題の人たちなら、タイトルは複数形でThe Visitorsになるはずでしょ。
タイトルが指さしているのは、だからこのカップルではないんですよ。さまざまに役割交換して、主として主人公が"the visitor"になるお話なのである。

『セントアンナの奇跡』の原題はMiracle at St. Annaである。直訳の邦題である。
この映画は(無数の)十字架で始まり、(無数の)十字架(と敬虔なる熱情に彩られた合唱)で終わる。
監督のスパイク・リーは、そんなに宗教的な(それもキリスト教という個別宗教の)人だったのだろうか。ど真ん中にChristianiyがあるのは分かるけど、そういう個別宗教性の「奇跡」が軸なのだろうか(少年が数々見せるような奇跡はそれとは違うのではないか)。

『扉を叩く人』で、東海岸の大学の経済学を専門とする老大学教授が、ニューヨークの地下鉄の駅で叩くジャンベという打楽器のミスマッチな組み合わせで物語は終わる。
「優しく叩く」よう教わったジャンベを、怒りの表現手段とする。
たいへん説得力のある終わり方である。

『セントアンナの奇跡』のエンディングは、観客はもう知っているのだから、そんな情緒的なBGMで説明的なメロドラマにする必要はないではないか。
皮肉屋のリアリストでエッジのきいたスパイク・リーという(ちょっと恐い)イメージを払拭できて、私としてはちょっとほっとした。
殺害された少年が現れ、生き残ったアンジェロに「よく見て憶えておいて。これが僕らの少年時代だったんだよ」と言う。そのモチーフが、物語の真ん真ん中にあるんだと思うんだけれど。
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by mewspap | 2009-08-13 22:14 | つれづれレヴュー

2009年のピンホール

先般、村上春樹が多用する不可思議な比喩表現について『1Q84』から一例を引きました。

一見したところどっか余所の世界から持ってきて取って付けたようなもので、それは対象を「喩えて分かりやすくする」というより、対象の「リアリティをズラす」効果があるのではないか。

そこで引いたのは以下のような比喩です。
中年の運転手は、まるで舳先にたって不吉な潮目を読む老練な漁師のように、前方に途切れなく並んだ車の列を、ただ口を閉ざして見つめていた。
タクシーが高速道路の渋滞に巻き込まれてスタックしている状況で、客席にいる主人公の視点に立って、語り手が運転手を上のように描写するわけです。

学生のレポートなら当然ペケでしょうね。

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by mewspap | 2009-07-31 16:55 | つれづれレヴュー

西川美和監督の『ディア・ドクター』

すばらしいです。
物語映画として実によくできています。

物語の構想がよく、脚本がよく、台詞がよく、美しい風景とショットの構成とカメラワークがよく、役者の演技と台詞回しと沈黙(「間」)がよい。
「ついでに」言えば、無医村を初めとする医療問題という今日性のある主題への視線がよい。

笑福亭鶴瓶演じる主役の伊野の表象は、言うまでもなくまず白衣ですね。
それから注目すべきはペンライト、かなぶん、そして背中。

鶴瓶の背中はまるまっこい(「まるまっちい」と言うよりこっちの方が合ってる気がする)。
彼は全部がまるまっこい印象がありますね。頭も身体も目も眼鏡も。

その「まるまっこい背中」が屈託を抱え込んでいる。

抽象的な表現を与えるならば、伊野とはまず何よりも「屈託」であろう。

村の中心と物語の中心である伊野は最初から空虚です。
したがってこの物語は一言にして「中心の空虚の屈託」となる。

伊野だけでなく、他の人物も背中の演技がよいです。

これから見る機会がある人、こういったところが注目です(ばしばし予断を与えてしまうのである)。
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by mewspap | 2009-07-26 14:09 | つれづれレヴュー

月がふたつある世界を生み出す比喩

d0016644_2355515.jpg私も多くの読書人と同じく村上春樹の小説は読んできたが、村上春樹について書かれた文章はほとんど知らない。
今さらながらに私が村上春樹について云々してもたぶん屋上屋を架すだけだろうし、その文体の固有性をあれこれ言っても熱烈なファンは鼻で笑うだけだろう。でも長年あの独特で蠱惑的な比喩表現が不思議でならなかった。

文章を書くときには取って付けたような比喩はNGであるを学生時代に教わった。

学部も卒業年次の終わりのころ、友人が彼のゼミの女子学生の卒論原稿に触れて、その「自分勝手で読み手に共有されない比喩」の多用について苦笑していた。どんな比喩を使うんだいと尋ねると、一瞬の間をおいてから、「まるでゴミ箱に打ち捨てられた一輪の薔薇のように」みたいなのを脈絡なく書き付けるんだと言っていた。

今思うと、その女子学生は初期からの村上春樹ファンだったのかもしれない。
彼女の比喩を評した友人はGeorge Orwellの1984について卒論を書いていた。遠い昔、1984年のことである。

村上春樹の比喩表現は、絶対にレイモンド・チャンドラーの影響だと私は思っていたので(誰もそのことに触れないのか、当たり前の前提になっているのか知らないが)、彼が『ロング・グッドバイ』と『さよなら、愛しい人』を新たに翻訳すると知ったときにはやっぱりそうだよなと思った。

『1Q84』も村上節の比喩が満載でとても愉しい。

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by mewspap | 2009-07-22 18:33 | つれづれレヴュー

今が通りすぎていった後に

d0016644_9385796.jpg一仕事終わったし久しぶりに映画見よっとお出かけし、車内で一昨日の朝日新聞を拡げたら、土曜おまけの『be on Saturday』がはさまっていた。

連載の特集記事「うたの旅人」は、今回、往年のスカイラインCMソング「ケンとメリー~愛と風のように~」を取り上げている。

うむ。懐かしいですね。
日産スカイラインは、1970年代初めにこの「ケンメリ」のCMで大ブレークしたのである。途切れそうでいて伸びのある高音で歌う謎めいたデュオBUZZ(当時フォークシンガーとかロックバンドってテレビに出なかったんです)の曲も一世を風靡した。

わんぱく小僧であった猫元少年も、「スカイライン的なるもの」への憧憬を抱いたものである(ミニカーも買った)。丸形のテールランプは独特で、ほとんどジープのヘッドライトみたいだった(かっくいい)。

その後、ときおり街中でスカイラインを見かけたが、ドライバーズ・シートの年長のにーちゃんたちはケンとはほど遠く、助手席のねーちゃんたちもメリーとは似ても似つかぬおかめ面・・・いや、もとい、CMで生成された幻想を叩き壊すのに十分であった。

そりゃそうだわな。ケンメリと比べてはかわいそうである。

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by mewspap | 2009-07-21 09:51 | つれづれレヴュー