カテゴリ:2006年度卒論( 15 )

Maiko「Shrekからみる21世紀の “true love story”」

目次
序論
第1章 ディズニー映画におけるプリンセス像の変化
 第1節 1960年以前の作品『白雪姫』『シンデレラ』『眠れる森の美女』
 第2節 1960年以降の作品『リトル・マーメイド』『美女と野獣』『アラジン』
第2章 ドリームワークス映画『シュレック』
 第1節 登場人物のキャラクター設定
 第2節 ディズニーのパロディー化
 第3節 意外な結末
第3章 続編『シュレック2』
結論

参考文献

序論
 現在まで世界中の人々に夢と希望を与えてきた数あるアニメーション映画の中で、男女の恋愛物語を描いた作品は数多く存在する。その中でもディズニーが描く『白雪姫』『シンデレラ』『眠れる森の美女』『リトル・マーメイド』『美女と野獣』『アラジン』の計6作品にはプリンセスとよばれる美しい女性とそんな彼女と恋に落ちるハンサムな男性との “true love story”が描かれており、これらは長い間、子供から大人まで楽しめる映画として世界中の人々に愛されてきた。
 そんな中、ドリームワークスでは新たなアニメーション映画として、2001年に『シュレック』という新世代の “true love story”を作り出した。『シュレック』の製作総指揮を手掛けたジェフリー・カッツェンバーグ(Jeffry Katzenberg)は以前、ディズニーのアニメ部門の責任者であった。先程紹介した『リトル・マーメイド』『美女と野獣』『アラジン』も彼によって生み出された作品である。しかし現在のディズニー社代表のマイケル・アイズナー(Michael Eisner)との馬が合わず、彼はディズニーをくびになり、1994年にスティーブン・スピルバーグ(Steven Spielberg)とデービッド・ゲフィン(David Geffen)と共にドリームワークスを設立し、今日に至る。そんなジェフリー・カッツェンバーグはアニメーション映画の製作にあたってウォルト・ディズニー(Walt Disney)が言った「映画を作るのは子供のためだ。そして大人の中にある子供の部分に対して作るんだ。」という言葉に対して「我々は映画を大人のために作り、子供の中にある大人の部分に向けて作るんだ。」と述べている。(1)さらに『シュレック』公開時においては、「ウォルト・ディズニーが映画に携わっていた60年前というのは、社会も違い、子供達もあまり情報をもっていませんでした。現代の子供は非常に多くのことを知っていて、ませています。『シュレック』は大人のために作っていますが、子供たちも自分たちのために作られた映画だと十分理解できるのです。」と述べている。(2)そのため、『シュレック』では子供には少しわかりにくいと思われるディズニー映画をパロディー化した演出や子供が見るアニメーション映画としてはあまり好まれないであろう少々下品な表現も使っている。しかしそれでも子供たちはこの映画を理解し世の中にも受け入れられると彼が断言するのは、時代と共に子供たちも社会も変化しているという確信があるからである。
 そこで本論では時代の流れによってアニメーション映画における “true love story”がどのように変化しているかをみることにする。それに際し、1937年公開の『白雪姫』から1992年公開の『アラジン』までのディズニー映画6作品を公開年代順に考察し、さらに21世紀という新しい時代に公開された『シュレック』を加えることで、今まで公開されたディズニーのプリンセス映画と新しい社会に受け入れられた『シュレック』との間にどのような違いがあるかについて論じる。美男美女のハッピーエンドで幕を閉じる『白雪姫』『シンデレラ』『眠れる森の美女』『リトル・マメイド』『美女と野獣』『アラジン』のディズニー映画に対して、醜い怪物同士のハッピーエンドである『シュレック』の結末が意図するもの、またジェフリー・カッツェンバーグがドリームワークスで表現したかった『シュレック』での “true love story”とはどのようなものだったのかについても論じる。
 さらに2003年に公開された『シュレック2』では、『シュレック』をただのハッピーエンドのおとぎ話では終わらせたくないというジェフリー・カッツェンバーグの強い思いが見られる。このようにドリームワークスでは今までディズニー作品が描いてきた “true love story”との差別化をはかるために『シュレック』という新世代のアニメーション映画を制作し、今の時代に生きる人々の心に響く新しい “true love story” を創り出したのである。

結論
 これまで時代の流れによってアニメーション映画における “true love story”がどのように変化してきたのかを『白雪姫』『シンデレラ』『眠れる森の美女』『リトル・マーメイド』『美女と野獣』『アラジン』のディズニー映画を例に挙げて論証してきた。さらに、21世紀にドリームワークスが大人のために作った “true love story”である『シュレック』を加え、今までのディズニー映画における “true love story”との違いについても述べた。そしてその差異を明らかにするために『シュレック』が用いた、ディズニー映画をパロディー化するという手法により、登場するキャラクターたちが次々に予定調和を裏切り、今までのディズニー映画にはないリアリティーを生んだのだ。
 また『シュレック』やその続編である『シュレック2』は単なる緑色の怪物同士の恋愛物語ではなく、シュレックとフィオナ姫が夢と現実のギャップに悩む様子を描くことで新しい時代を生きる我々の心に響く作品となったのであろう。


(1)《http://unzip.jp/review/0112/shrek_report.html》のインタビューより
(2)《http://www.toyspress.co.jp/cinefex/meet/shrek/shrek3.html》のインタビューより
(3)『白雪姫』DVD(Peanut 1937)chapter1より
(4)『シンデレラ』DVD(Peanut 1950)chapter1より
(5)『眠れる森の美女』DVD(ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント1958)chapter3より
(6)『リトル・マーメイド ――スペシャル・エディション――』DVD(ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント1989)chapter7より
(7)『美女と野獣 ――スペシャル・リミテッド・エディション――』DVD(ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント1991)chapter2より
(8)『アラジン』DVD(ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント1992)chapter17より
(9)『シュレック』DVD(角川エンタテインメント 2001)chapter9、以下本作品からの台詞の引用は、本文中にDVD内で区切られたチャプター数で表記する。
(10)『シンデレラ』DVD chapter1
(11)『シンデレラ』DVD chapter6
(12)『シュレック2』DVD(角川エンタテインメント 2004 )chapter1、以下本作品からの台詞の引用は、本文中にDVD内で区切られたチャプター数で表記する。

参考文献
エレン・ワイス(酒井紀子訳)『シュレック』(竹書房文庫、2001)
若桑みどり『お姫様とジェンダー ――アニメで学ぶ男と女のジェンダー学入門(ちくま新書、2003)
William Steig SHREK(Sunburst, 1990)
キネマ旬報(2001.12.15 p.143-148)(2002.2.1 p.102)
Stephan Littger編The Director's Cut: Picturing Hollywood in the 21st Century(Continuum Intl Pub Group, 2006)
「『シュレック』監督アンドリュー・アダムソン、製作ジェフリー・カッツェンバーグ来日記者会見レポート!」《http://unzip.jp/review/0112/shrek_report.html》
“CINEFEXONLINE-SHREK3"《http://www.toyspress.co.jp/cinefex/meet/shrek/shrek3.html》
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by mewspap | 2007-02-17 23:31 | 2006年度卒論

YOKO「アメリカ映画で見るファッションの役割」

目次
序章
第一章 ファッションと個人
 第一節 『キューティ・ブロンド』のエル
 第二節 『メリンダとメリンダ』のメリンダ
第二章 ファッションと他者
 第一節 『シーズ・オール・ザット』のレイニー
 第二節 『ステップフォード・ワイフ』のジョアンナ
第三章 ファッションと集団
 第一節 50年代という時代
 第二節 50年代が舞台の映画
 第三節 『ステップフォード・ワイフ』のステップフォードの妻たち
結論

参考文献

序論
 「衣服はときに言語以上の言葉を発する」(1)

 衣服や装いに関わるものは全て、身体と空間的に一番近いところにある物である。そのため、身体の延長、または一部とみなされやすい。よって、しばしばその人物と一体視されて、その人物の生来的な属性や社会的な属性を表示する媒体として用いられる。服飾の色彩や形態は、その人物が男か女か、成人か未成年か、既婚か未婚か、ステータスの上下、職業の種類、国籍、信仰する宗教など、実にさまざまな情報を、文字や言葉と同じように発信する。また、抽象的な観念や感情のように目には見えないものを、服飾の形態や色によって簡単に可視化することができる。知らないもの同士が、相手がどういう人間かを知ろうとするとき、第一情報としての衣服を手がかりに推測し判断を下すことも少なくない。
 本論文の目的は、映画に登場する衣服からのメッセージを読み解くことである。第一章では、ファッションと個人という観点から、『キューティ・ブロンド』と『メリンダとメリンダ』の二作品を扱う。『キューティ・ブロンド』では、主人公エルの衣装からいかに彼女のキャラクターや内面の感情がそこに表れているかを、そして『メリンダとメリンダ』に登場する衣装からはいかに性格と服装とが深く関わっているかを考察する。
 第二章ではファッションと他者という観点から、『シーズ・オール・ザット』と『ステップフォード・ワイフ』の二作品を扱い、ファッションが相手を判断する基準として重要な役割を担っている様子を見ていく。
 そして第三章ではファッションと集団という観点から、衣服の発するファッションのユニホーム性について、「順応の時代」と呼ばれる50年代を舞台とした映画と、現代を舞台とする映画に分けて論じる。50年代を舞台とする映画として、『エデンより彼方に』『めぐりあう時間たち』『モナリザ・スマイル』を取り上げる。現代が舞台の映画としては二章で扱う『ステップフォード・ワイフ』を再度取り上げる。

結論
 本論文では、映画に登場するファッションに注目し、その衣服が発するメッセージを読み解いてきた。『キューティ・ブロンド』のエルの派手な衣装は彼女の性格を顕著に表しており、衣装の変化から彼女の内面の感情を読み取ることができた。『メリンダとメリンダ』の衣装も、悲劇中のメリンダと喜劇中のメリンダ、それぞれの性格を顕著に表したものであった。この二作品において衣装は、登場人物の性格を表すものとして使用されていた。         
 『シーズ・オール・ザット』のレイニーと『ステップフォード・ワイフ』のジョアンナの衣装は物語の展開と共に変化し、それによってこの二人は他者からの見る目を変えた。この二作品において衣装は、他者からの見る目を左右するものとして、物語の展開に強く影響していた。
 また、『エデンより彼方に』のキャシー、『めぐりあう時間たち』のローラ、『モナリザ・スマイル』の女子学生たちがまとう50年代のファッションと、『ステップフォード・ワイフ』のステップフォードの妻たちの衣装には共通性があり、そこからはファッションのユニホーム性が読み取れた。
 映画に登場するファッションは、絶えず観る者にメッセージを発信しており、様々な情報を提供している。ときには登場人物の性格や感情、社会的役割を伝え、ときには登場人物と他者との関係を伝えるものとして、大きな役割を担っていると言える。


(1)『服飾表現の位相』(昭和堂,1992)を参照した。
(2)『被服心理学』(日本繊維機会学会,1998)pp.47-48
(3)同上,pp.42-43
(4)バービー人形は、マテル社の創業者であるルース・ハンドラー(Ruth Handler)がヨーロッパ旅行の際に、娘へのお土産に購入したドイツ人形リリ(Lilli)を基に作ったもの。リリ人形はプロポーションが抜群であり、当初大人の男性向けに作られたものであったが、流行の先端をいくファッションが当時の女の子にも受け、デザインを変えてバービー人形として売り出された。
(5)『キューティ・ブロンド』DVD(20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパ,2002)プロダクションノートを参照。
(6)『被服心理学』(日本繊維機会学会,1998)p.34
(7)同上,pp.96-100を参照。
(8)『ステップフォード・ワイフ』DVD(角川エンタティンメント,2005)Chapter6
(9)「『ステップフォード・ワイフ』オフィシャルサイト」プロダクションノートを参照した。《http://www.stepfordwife.jp/》
(10)ベス・ミルスティン・カバ/ジーン・ボーディン著,宮城正枝/石田美栄訳『われらアメリカの女たち/ドキュメント・アメリカ女性史』(花伝社,1992)pp.218-242を参照した。
(11)千村典生『増補戦後ファッションストーリー1945-2000』(平凡社,2001)pp.52-61を参照。
(12)同上,p.54
(13)「『エデンより彼方に』オフィシャルサイト」《http://www.gaga.ne.jp/eden/》
(14)千村典生『増補戦後ファッションストーリー1945-2000』(平凡社,2001)p.40

参考文献
『被服心理学』(日本繊維機会学会,1998)
『服飾表現の位相』(昭和堂,1992)
千村典生『増補戦後ファッションストーリー1945-2000』(平凡社,2001)
ティナ・サットン/ブライド・M・フェーラン『配色見本帖/イメージ別に見つかる配色コレクション』(ピエ・ブックス,2004)
成美弘至編『問いかけるファッション/身体・イメージ・日本』(せりか書房,2001)
パール・バインダー著,杉野目康子訳『ドレスアップ・ドレスダウン/人は何のために服を着るのか』(岩波者店,1988)
日置久子『女性の服飾文化史/新しい美と機能性を求めて』(西村書店,2006)
ベス・ミルスティン・カバ/ジーン・ボーディン著,宮城正枝/石田美栄訳『われらアメリカの女たち/ドキュメント・アメリカ女性史』(花伝社,1992)
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by mewspap | 2007-02-17 22:38 | 2006年度卒論

NaO「英語で描く「日本」――Lafcadio Hearnが日本に求めたもの――」

目次
序論
第1章 小泉八雲とその人生
第一節 幼少期
第二節 新聞記者ラフカディオ・ハーン
第三節 日本上陸
第2章 英語で描かれる「日本」
 第一節 The Story of Mimi-Nashi-Hôïchiにおける日本の音
 第二節 On a Bridgeにおける恩義
 第三節 The Red Bridal における心中
 第四節 Yuki-onnaにおける家庭観
第3章 セツの重要性
 第一節 八雲に日本の話をした女性
 第二節 小泉節子『思ひ出の記』
結論

参考文献

序論
 明治23年、維新を終えて急速に近代化の進む日本に一人のギリシャ人が降り立った。名はラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)、のちに帰化し小泉八雲と名乗る人物である。
 彼の肩書きを語るのは難しい。来日した時点では出版社の特派員であり、その後中学や師範学校で英語教師として勤めながら、作家として今日に残るさまざまな書物を書き上げている。またそれらの書物の内容でさえ紀行文から日本古来の怪談などを再編した再話物語に至るまで多岐にわたっている。
 ジャンルは多方面にわたっているにも関わらず、ハーンが書く作品にはどれも日本への愛情があふれており、そこに描かれる日本は一貫されている。つまり西洋人にはない魅力的な習慣等があることを、再和物語を含めた自信の作品の中に投影しているのだ。例えば「西洋人にとって理解不能」 な「微笑み」を挙げると、ハーンは、微笑みとは決して嘲笑や曖昧なぼかし方ではなく、周囲の人にむやみに心配をかけさせるものではないという心であることを理解し、「積極的な道徳観の表れである」 とはっきり述べている。
 幼い頃に両親と離別したハーンは上記のごとき日本的な優しさに惹かれ続けるが、ではなぜその優しさがハーンにとって魅力的だったのであろうか。本論文は、ハーンの作品を分析し、セツ夫人を含めた彼の人生をたどって、ハーンが見た当時の日本の姿、あるいは彼が日本に求めていたものとは何であったのかを追求しようというものである。
 第一章では、ハーンの人生を大きく三期に分け、どのようにして作家小泉八雲が、あるいは日本人小泉八雲が誕生したのかを考察する。
 第二章では、ハーンが残した多くの作品の中から再話物語と呼ばれるジャンルのものを四作取り上げ、それぞれの特徴を考察しながら、ハーンの見た「日本」に迫る。
 第三章では、作家としてのラフカディオ・ハーンが誕生するにあたり不可欠な存在であった、妻セツについて、またセツ夫人から見た夫ハーンについて考察する。

結論
 第二次大戦後は女性の「人権」が声高に叫ばれたので、江戸時代や明治時代の女性はひどい取り扱いを受けていたのだ、という議論が支配的である。しかし、その時代の個々の女性達は本当に不幸だったと単純に決め付けてよいのだろうか。第三章で述べたように、おそらく彼女たちは現代の私たちでは持ち得ないたくましさを備えており、したたかに暮らしていたのであろう。セツを初め明治に生きる女性たちは社会的地位こそ恵まれていなかったものの、芯が強く、自分の立場をわきまえた上で幸せに生きる術を心得ていたのであろう。
 そして幼い頃に家庭を失っているハーンにとって、当時の日本女性が持っていた安心感や優しさというものの価値は計りしれなく、知らぬ間に多くの作品に投影されている。ハーンの日本に対する思いがこめられた作品の数々は、エッセイはもちろん、再話物語のひとつひとつもハーンの人生そのものであったといえる。時にそれは好奇心の象徴であり、嘆きであり、戒めである。そしてそれらの作品の根底に一貫して流れているものは日本への愛情であり、つまりそれは無意識にハーンが求めていた「母親」への愛情であり、「母親」からの愛情なのである。


1 平川祐弘監修『小泉八雲事典』(恒文社,2000)p.442
2 同上 p.443
3 同上 p.371
4 同上 p.497
5 平川祐弘編『怪談・奇談』(講談社学術文庫,1990)p.59
6 佐伯彰一,松本健一監修『作家の自伝』(日本図書センター, 1999)p.248
7 キャメロン・マクワーター編,高橋経訳『『怪談』以前の怪談』(同時代社,2004)p.8
8 同上 p.3
9 平川『小泉八雲事典』 p.430
10 平川『怪談・奇談』 p.17
11 平川祐弘編『神々の国の首都』(講談社学術文庫,1990)p.135
12 同上 p.26
13 平井呈一訳『日本雑記』(恒文社, 1986)p.252
14 平川祐弘編『日本の心』(講談社学術文庫,1990)p.64
15 同上 p.92
16 同上 p.93
17 平川『怪談・奇談』 p.81
18 同上 p.81
19 同上 p.84
20 同上 p.85
21 平川『日本の心』 p.36
22 小泉節子『思ひ出の記』(恒文社,1976)p.22
23 平川『怪談・奇談』 p.183
24 小泉節子『思ひ出の記』 p.22
25 同上 pp.38-39

参考文献
平川祐弘監修『小泉八雲事典』(恒文社,2000)
平川祐弘編『怪談・奇談』(講談社学術文庫,1990)
平川祐弘編『日本の心』(講談社学術文庫,1990)
平川祐弘編『神々の国の首都』(講談社学術文庫,1990)
長谷川洋二『小泉八雲の妻』(今井書店,1988)
池田雅之 訳『日本の面影』(角川書店,2000)
田部隆次編『小泉八雲全集 10巻 書簡集2』(第一書房,1926)
池橋達雄編『西田千太郎日記』(島根県資料刊行会,1976)
佐伯彰一, 松本健一監修『作家の自伝 82』(日本図書センター, 1999)
小泉一雄著『父小泉八雲』(小山書店, 1950)
小泉節子,小泉一雄著『小泉八雲』(恒文社, 1976)
キャメロン・マクワーター編,高橋経訳『『怪談』以前の怪談』(同時代社,2004)
内藤高『明治の音 西洋人が聴いた近代日本』(中央公論新社, 2005)
亀井俊介『西洋が見えてきた頃』(南雲堂,1988)
小泉八雲『霊の日本』(チャールズ・イ・タトル出版,2005)
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by mewspap | 2007-02-17 21:44 | 2006年度卒論

COG「日米比較文化論―STAR WARSにみる武士道―」

目次
序論
第一章 定義
 第一節 徳目
 第二節 死
 第三節 刀
第二章 STAR WARS
 第一節 「ジェダイ精神」にみる武士道
 第二節 ジェダイの「死」
 第三節 師弟関係
 第四節 刀とライトセーバー
第三章 アナキン・スカイウォーカー
 第一節 Episode Ⅰ
 第二節 Episode Ⅱ
 第三節 Episode Ⅲ
結論

参考文献

序論
 今日、日本では欧米化やグローバル化が急速に進んでいるが、このような日本の動きの中で本来の日本文化を見直し、取り戻そうという動きもまた見られている。さまざまな日本の文化や歴史を見直す本が多く出版されている。その多くの本の中の一冊に藤原正彦著『国家の品格』という本がある。その中で筆者は、日本は国柄を失い、国家の品格を失っており、今こそ国家の品格を取り戻すべきである。また、人間にとっての座標軸は、行動基準、判断基準となる精神の形、つまり道徳であり、美的感受性や日本的情緒を育む精神の形として鎌倉時代以降多くの日本人の行動基準、道徳基準として機能してきた武士道を復活すべきであると『国家の品格』の「『武士道精神』の復活を」という章で主張している。藤原正彦はその章の中で新渡戸稲造の『武士道』を紐解きながら武士道の大切さを論じている。本論文では、多くのアメリカ映画が公開される中で、超大作として有名であろう映画STAR WARSを題材とし、武士道をもとにさまざまな角度からアメリカ映画にみる日本の文化について考察していく。STAR WARSの監督であるジョージルーカスはこの映画を製作するに当たって日本の文化や風習を参考にしており、エピソードⅠからエピソードⅥの全編にわたって日本、特に武士道を連想させるシーンをいくつも登場させている。この映画作品は、エピソードⅠからⅥまで順に公開したのではなく、旧三部作、新三部作というような言われ方もする。1977年、1980年、1983年とエピソードⅣからⅥまで公開し、その後1999年、2002年、2005年とエピソードⅠからⅢが公開されている。
 本論文では、アナキン・スカイウォーカーの成長、ダークサイドの転落とともにジェダイについても武士道を連想させる新三部作、つまりエピソードⅠからⅢに焦点をあてるものとする。特にジェダイの騎士、ジェダイの精神、ジェダイの武器であるライトセーバー、師弟関係、ダークサイドへと転落するアナキン・スカイウォーカーに焦点を当て、詳しく考察することにしたい。

結論
 本論文では、映画STAR WARSのジェダイにおける武士道、アナキン・スカイウォーカーに焦点をあて、論じてきた。ジェダイの中には多くの武士道精神が存在している。「選ばれし者」や「フォースにバランスをもたらす者」としての役割を果たしたアナキン・スカイウォーカーはダークサイドに一度は落ちたものの、息子であるルーク・スカイウォーカーによって目覚めるこことなる。やはり、アナキン・スカイウォーカーもジェダイの騎士の一人であるといえるであろう。


(1)新渡戸稲造著 岬龍一郎『武士道―いま、拠って立つべき“日本の精神”』(PHP研究所 2005)p.16
(2)同上 p.18
(3)同上 p.124
(4)同上 p.143
(5)同上 p.144
(6)同上 p.142
(7)同上 p.103
映画DVDからのシナリオ引用に関しては、その都度引用末尾にかっこ内にてエピソードとチャプター数を表記。

参考文献
・藤原正彦著『国家の品格』(2005 新潮社)
・新渡戸稲造著 岬龍一郎『武士道―いま、拠って立つべき“日本の精神”』(PHP研究所 2005)
・小澤富夫著『歴史としての武士道』(2005 ぺりかん社)
・歴史思想研究会編著『新渡戸「武士道」が本当によくわかる本』(2004 東邦出版)
・アンドレア・ホプキンズ著 松田英、都留久夫、山口恵里子訳『西洋騎士道大全』(2005 東洋書林)
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by mewspap | 2007-02-17 20:57 | 2006年度卒論

hiro「チャップリンの食へのこだわり」

目次
序論
第一章 全体を構成する食事のシーン
 第一節 『黄金狂時代』における食
 第二節 『モダン・タイムズ』における食
第二章 食事おけるユーモアとその意味
 第一節  チャップリンのユーモア
 第二節 『チャップリンの冒険』におけるアイスクリーム
 第三節 『黄金狂時代』におけるドタ靴
第三章 自伝的作品での食事
結論

参考文献

序論
 食べるという行為は人間にとって不可欠な行為である。映画の中においても食べるという行為は必ずといっていいほど登場する。映画は、画面にその国の人、その国の土地、そこに生きる人たちの生活を描くので、食べるシーンは必然的に付随してくる。映画の食べる風景を見ることによって、登場人物の置かれている環境や、生活水準、心情を知ることができる。また、映画の中で食べるという行為は、ただ食べるだけの風景だけではなく、その食べることが映画の脚本、演出の中でたくみに利用されている。
 映画監督で食べることに最も執着し、食べることで様々なメッセージを発してきたのが「喜劇王」の異名をもちチャーリーとの愛称で親しまれているチャールズ・チャップリン(Charles Chaplin)である。チャップリンの映画では必ず何かを食べるシーンが登場する。そこには、チャップリン独特の表現法で、食、あるいは食事という行為が意味する以上の超えたメッセージ性が隠されている。
 本論文では、チャップリンの食事のシーンに注目し、チャップリンが食をいかにして表現するか、また、そこに何を見出しているのかを探りたい。
 第一章では、『黄金狂時代』と『モダン・タイムズ』の二つの映画を取り上げ、食事のシーンが、ストーリーを展開する上で非常に重要な要素であり、作品のテーマとの密接に結びつきを論じていく。
 第二章では、『チャップリンの冒険』と『黄金狂時代』のニ作品を取り上げ、チャップリンのユーモアを概観しながら、そのユーモアが食とそのシーンにおいてどのような効果を持つのかを考察したい。
 第三章では、自伝的作品である『キッド』と『犬の生活』から、どうしてチャップリンが食事に執着したのか考察したい。

結論
 人間は生きている限り、何かを食べなければならない。人々の生活を映し出す映画においても食事のシーンは欠かすことはできない。映画内に描かれている食事を見るだけで、そこに描かれている人間の生活を知ることができる。豪華な晩餐やパン一切れとスープの貧しさ極まった生き抜くための食事はその典型である。
 本論文ではチャップリンの映画における食に注目し、チャップリンの食へのこだわりについて見てきた。チャップリンの映画には頻繁に食事のシーンが登場する。食のシーンがストーリーに深く結びつき、チャップリンの価値の転倒のユーモアによって、弱者からの視点の笑いとともに描かれていた。チャップリンが、自身の映画内で頻繁に食のシーンを用いたのは、チャップリンが、極貧の環境に育ったという境遇もあり、こうした歴史環境の中での生涯を通じ、貧しき者の目で見つめ、貧しき者への共感を貫いたからだといえる。食べることは人間の根本であり、誰も軽蔑することはできない。だからこそ、チャップリンは映画の中で、多くの食のシーンを映し出したのではないだろうか。


(1)21世紀研究会/編 『食の世界地図』(文芸春秋, 2004), p.240
(2)デイヴィッド・ロビンソン著、宮本高晴、高田恵子訳『チャップリン上』(文芸春秋, 1993), p.154
(3)チャ-ルズ・チャップリン、中野好夫訳『チャップリン自伝 若き日々』(新潮文庫, 1981), pp.63-64
(4) 大野裕之『チャップリン再入門』(生活人新書, 2005), p.24
(5) 同上, p.157
(6) 同上, p.156
(7) デイヴィッド・ロビンソン著、宮本高晴、高田恵子訳『チャップリン上』(文芸春秋, 1993), pp.257-258
(8) 喜劇辞典《http://www.kigeki-eikenn.com/kigeki-jiten1/6_ha_gyo.html》
(9) 増成隆士、川端晶子共編著『美味学』(建帛社, 1997), p.56
(10) チャ-ルズ・チャップリン、中野好夫訳『チャップリン自伝 若き日々』(新潮文庫, 1981), p.352
(11) 江藤文夫『チャップリンの仕事』(みすず書房, 1989), p.172

参考文献
江藤文夫『チャップリンの仕事』(みすず書房, 1989)
大野裕之『チャップリン再入門』(生活人新書, 2005)
デイヴィッド・ロビンソン著、宮本高晴、高田恵子訳『チャップリン上』(文芸春秋, 1993)
デイヴィッド・ロビンソン著、宮本高晴、高田恵子訳『チャップリン下』(文芸春秋, 1993)
チャ-ルズ・チャップリン、中野好夫訳『チャップリン自伝 若き日々』(新潮文庫, 1981)
ジョルジュ・サドゥール著、鈴木力衛・清水馨訳『チャップリン 増補版』(岩波書店, 1982)
ピーター・コーツ、セルマ・ニクロース共著、岩崎昶訳『チャーリー・チャップリン』(中央文論社, 1957)
増成隆士、川端晶子共編著『美味学』(建帛社, 1997)
21世紀研究会/編 『食の世界地図』(文藝春秋, 2004)
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by mewspap | 2007-02-17 19:04 | 2006年度卒論

T.Koujirou「戦争映画に見られる他者との出会い―戦闘時と戦争終了前後における他者との出会いの違い―」

目次
序論
第一章 心理学における人間関係の作り方
 第一節 自己開示と4つの領域
 第二節 親密な関係を築くための条件
第二章 戦闘中における他者との出会い
 第一節 国によって与えられた他者のイメージによる自己の自動化
 第二節 兵器の進歩による自己の自動化
 第三節 『西部戦線異状なし』に見られる例外
第三章 戦争終了前後における他者との出会い
 第一節 『ジャスティス』における他者との出会い
 第二節 『スリー・キングス』における他者との出会い
結論
注、図版出典
参考文献

序論
 人間は、他者となんらかの関係を持ちながら、人間関係を構築していくものである。人間関係を構築するうえで、人と人が出会うという最初の段階を経て、そこからさらに関係を深くめていくのであり、それは人種、信条、性別を問うものではない。
 しかし、この人間関係の構築を不可能とする状況が存在する。それが戦争である。戦闘時には、人間関係の構築は消え、自己が自動化する。自己の自動化とは、人間が機械のように機能する状態のことをいう。自動化した人間は、他者を人間と見なす感覚を喪失し、殺傷に無感覚となり、殺人機械と化す。戦闘時において、人間関係の構築はあり得ないが、戦闘時と戦争終了前後では、状況が異なる。なぜなら、戦闘時では人と人とが向き合う段階、つまり最初の出会いで、お互い生死を決するのに対し、戦争終了前後では、最初の出会いが必ずしも生死を決する状況ではないのだ。本論では戦闘時と戦争終了前後における他者との出会いの違いを考察する。
 第一章では、非戦闘中において、人間と人間がどのようにして人間関係を構築していくのかを、心理学的に分析する。
 第二章では、戦闘時に上述のような人間関係の構築が不可能となる原因を、国によって与えられる他者のイメージと兵機の進歩について考察することで、自動化した自己が他者と不幸な出会いを見せることを明らかにする。
 第三章では、戦争が終わる前後に焦点を当て、そのときの他者がどのような相貌を持って現前しているのかを、映画『ジャスティス』と『スリー・キングス』を題材に考察する。本章では、この2つの映画の考察を通じて、いかに自動化した人間が本来の自己へと回帰し、他者と新たな出会いを見せるかを明らかにする。
 他者との人間関係の構築を心理学的に分析し、戦闘時において人間がなぜ自動化するのか、また戦争終了前後では自動化した人間が本来の自己へとどのように回帰していくのかを考察することで、戦闘時における他者との出会いと戦争終了前後における他者との出会いがどのように違うのかが、明らかになるだろう。

結論
 以上述べたように、戦闘時と戦争終了前後では、他者との出会いに違いがある。戦闘時には出会いが無い。戦闘時では、自動化した自己が他者と出会うからだ。国によって、あるいは自分自身で戦闘行為を正当化することで、自己は人間性を無くし、殺人機械と化して殺戮を繰り返す。他者の感情を考えることは無くなる。それに対し、戦争終了前後では、他者と出会ってすぐに命が奪われる状況ではない場合がある。出会うはずのない異質な人間同士が命のやりとりが行なわれない状況で遭遇することで、他者と言葉を交わし、近接性や類似性を見出し、自己開示をしていくことで、相手を理解することに繋がる。相手のことを考えられるようになれば、もはや殺人機械ではないのだ。他者との距離を縮めることが可能となることによって、自動化した自己を本来の自己へと回帰させることができる場合がある。


(1)植村勝彦・松本青也・藤井正志『コミュニケーション学入門』(ナカニシヤ出版、2000),p.18.
(2)自己開示についての考えは、松田英子『図解 心理学が見る見るわかる』(サンマーク出版、2003),pp.92-93.を参照した。
(3)植村勝彦・松本青也・藤井正志『コミュニケーション学入門』,pp.19-20.
(4)同上,p.28.
(5)松田英子『図解 心理学が見る見るわかる』,p.94.
(6)斉藤勇『イラストレート 人間関係の心理学』(誠信書房、2000),p.58.
(7)類似性について論述するにあたっては、下斗米淳「親しくなる」,松井豊編『対人心理学の最前線』(サイエンス社、1992),pp.36-38.を参照した。
(8)サム・キーン(佐藤卓己,佐藤八寿子訳)『敵の顔――憎悪と戦争の心理学――』 (柏書房株式会社、1994), p.32.
(9)戦闘行為の正当化については、同上,pp.20-22. を参照した。
(10)敵のイメージ化にいては、同上,p.31.を参照した。
(11)同上,p.32.
(12)「プロパガンダ-Wikipedia」≪http://ja.wikipedia.org/wiki/プロパガンダ≫
(13)サム・キ-ン『敵の顔』,p.32.
(14)プロパガンダの技術を用いて、他者を人間以下に見ること、ユダヤ人をイメージ化し、収容所で殺すのを可能にしたことについては、同上,p.70.を参照した。
(15)同上,p.70.
(16)同上,pp.36-37.
(17)アンクル・サムについては、≪http://ja.wikipedia.org/wiki/アンクル・サム≫を参照した。
(18)“American Rhetoric : Franklin Delano Roosevelt-Pearl Harbor Address to the Nation(12-08-41)”≪http//www.americanrhetoric.com/speeches/fdrpearlharbor.htm≫
(19)サム・キーン『敵の顔』,p.32.
(20)同上,p.87.
(21)ヴィルヘルム・ライヒ(Wilhelm Reich、1897年3月24日 - 1957年11月3日)精神分析家
(22)ダニエル・ピック(小澤正人訳)『戦争の機械――近代における殺戮の合理化――』(法政大学出版局、1998),p.276に引用されているヴィルヘルム・ライヒの文章を引用した。
(23)ダニエル・ピック(小澤正人訳)『戦争の機械――近代における殺戮の合理化――』(法政大学出版局、1998),p.274.
(24)サム・キーン『敵の顔』,p.90.
(25)DVDルイス・マイルストーン(Lewis Milestone)『西部戦線異状なし』(All Quiet On The Western Front)(ユニヴァーサル社、1930), WF, chapter. 12以下、本作品からのセリフの引用はこのDVDからとする。他作品と区別するために、本文中にチャプター番号を(WF)で表記する。
(26)サム・キーン『敵の顔』,p.34.
(27)DVDグレゴリー・ホブリット(Gregory Hoblit) DVDデラックス版『ジャスティス』(Hart’s War)(ギャガ・ヒューマックス、2002), HW, chapter. 18以下、本作品からのセリフの引用はこのDVDからとする。他作品と区別するために、本文中にチャプター番号を(HW)で表記する。
(28)『ジャスティス』のDVDに収録されたインタビューで、ビッサー役のマーセル・ユーレス自身が語っている。
(29)DVDデイヴィット・O・ラッセル(Daivid O Russell)『スリー・キングス』(Three Kings)(ワーナー・ホームビデオ、1999), TK,chapter.19以下、本作品からのセリフの引用はこのDVDからとする。他作品と区別するために、本文中にチャプター番号を(TK)で表記する。
(30)『スリー・キングス』のDVDに収録された、監督デイビッド・O・ラッセルによる音声解説から引用した。
図版出典
(図1) サム・キーン『敵の顔――憎悪と戦争の心理学――』佐藤卓己, 佐藤八寿子訳(柏書房株式会社,1994)より引用。
(図2)同上より引用。
(図3)同上より引用。
(図4)同上より引用。
(図5)同上より引用。
(図6) 「戦争プロパガンダと反日感情:第二次世界大戦時の米国ポスター」≪http://www.geocities.jp/torikai007/pic-Ajapan.html≫

参考文献
ダニエル・ピック『戦争の機械――近代における殺戮の合理化――』小澤正人訳(財団法人法政大学出版局,1998)
下斗米淳「親しくなる」松井豊編『対人心理学の最前線』(サイエンス社,1992),pp.30-38
松田英子『図解 心理学が見る見るわかる』(株式会社サンマーク出版,2003)
斉藤勇『イラストレート 人間関係の心理学』(誠信書房,2000)
サム・キーン『敵の顔――憎悪と戦争の心理学――』佐藤卓己, 佐藤八寿子訳(柏書房株式会社,1994)
植村勝彦・松本青也・藤井正志『コミュニケーション学入門』(株式会社ナカニシヤ出版,2000)
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by mewspap | 2007-02-17 18:09 | 2006年度卒論

rin「悪魔の存在を信じさせるメカニズム――Scott Derrickson, THE EXORCISM OF EMILY ROSE――」

目次
序論
第一章 闇の攻撃
 第一節 悪魔に取り憑かれたエミリー
 第二節 闇の攻撃を受けるムーア神父
 第三節 闇の攻撃を受ける弁護人エリン
 第四節 午前三時の意味
 第五節 金のロケット
第二章 法廷での悪魔の存在をめぐる戦い
 第一節 悪魔祓いと科学者
 第二節 検察官トマスの徹底的な攻撃
第三章 物語の流れ
 第一節 二つの物語
 第二節 エミリーの手紙
結論

参考文献

序論
 1973年、ウイリアム・フリードキン監督(William Friedkin)の『エクソシスト』(THE EXORCIST)が全米で公開されると、その作品は空前の大ヒットを記録し、ハリウッドに悪魔祓いをテーマとしたオカルト映画ブームを巻き起こした。この作品は、人間に取り憑いた悪魔とそれを追い祓おうとするエクソシストの戦いを軸に描かれた映画である。この作品を観ていると私たちは、映画に描かれる悪魔憑きの恐怖や悪魔が起こす超自然現象の数々によって、知らぬ間に悪魔の存在を信じ、その邪悪な力に恐怖するようになる。
 『エクソシスト』の公開から20年以上経った2005年、『エミリー・ローズ』(THE EXORCISM OF EMILY ROSE)というオカルト映画が公開された。この作品も『エクソシスト』と同様に悪魔祓いを題材とした作品であるが、この作品にはもう一つの題材がある。それは裁判である。『エミリー・ローズ』はオカルト・ホラー映画であると同時に法廷映画でもあるのだ。これにより『エミリー・ローズ』は『エクソシスト』よりも現実味を増し、宗教的な色を濃くし、私たちに悪魔の存在を信じさせるだけでなく、考えさせる作品となっている。
 本論では『エミリー・ローズ』について、この作品がどのようにして私たち映画を観る側の人間に悪魔の存在を信じさせていくのかを、悪魔の攻撃の描き方や裁判の内容、物語の流れを通じて論証していく。

結論
 本論文では、私たちが『エミリー・ローズ』を観る中で、悪魔の存在をどのように信じていくのかを、闇の攻撃の描き方や登場人物について、エミリーの死をめぐる裁判の内容や物語の流れを通して論じてきた。
 まず闇の攻撃に関しては、悪魔によって攻撃されたのはエミリーだけではなく、悪魔祓いをしたムーア神父と神父を弁護したエリンの二人も攻撃を受けたことを述べ、悪魔に取り憑かれた少女エミリー、信仰の篤いムーア神父、懐疑的な姿勢を持つエリンの三人には、私たちに悪魔を信じさせるそれぞれの効果があることを論じた。また午前三時という特定の時刻や金のロケットという特定の物が霊の戦いを暗示するものであり、より一層私たちに悪魔の存在を信じさせる効果があることも論じた。
 次にエミリーの死をめぐる裁判に関しては、悪魔祓いを否定する科学者たちの見解が私たちに悪魔の存在と力について信じさせるだけでなく、考えさせる効果があることを論じた。また検察官トマスについても論じ、私たちが作品を観るうちに悪魔についての考え方を変化させていることにも気付くことができた。
 そして時間の流れに関しては、最後にエミリーの手紙を取り上げ、その手紙が持つ効果と意味について論じた。
 このように『エミリー・ローズ』には、オカルト・ホラー映画として、私たちに悪魔の存在を信じさせ、その邪悪さや闇の力によって私たちを恐怖に陥れているメカニズムがあることが言える。またこの作品は、法廷映画として、私たちに益々悪魔の存在を信じさせるとともに、その悪魔や邪悪なものについて私たちに考えさせるメカニズムも持っていると言える。


 (1)浜本隆志、伊藤誠宏編『色彩の魔力』(明石書店 2005)p.31
 (2)同上 p.32
 (3)ジョルジュ・ミノワ著 平野隆文訳『悪魔の文化史』(白水社 2004)p.178
 (4)宇田進 鈴木昌 蔦田公義 鍋谷堯爾 橋本龍三 山口昇編『新キリスト教辞典』(いのちのことば社 1991)p.1169
 (5)同上 p.1169
 (6)永田よしのり編『カルト映画館ホラー』(社会思想社 1995)p.54

参考文献
ジョルジュ・ミノワ著 平野隆文訳『悪魔の文化史』(白水社 2004)
学校法人上智学院新カトリック大辞典編纂委員会編『新カトリック大辞典 第一巻』(研究社 1996)
永田よしのり編『カルト映画館ホラー』(社会思想社 1995)
久野尚美 フォルムス・色彩情報研究所著『カラーインスピレーション』(講談社 1992)
宇田進 鈴木昌 蔦田公義 鍋谷堯爾 橋本龍三 山口昇編『新キリスト教辞典』(いのちのことば社 1991)
服部弘一郎編『シネマの宗教美学』(フィルムアート社 2003)
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by mewspap | 2007-02-17 17:15 | 2006年度卒論

ryoko「小学校における英語教育について」

目次
序章
第一章 小学校への英語学習の導入
 第一節 導入に至るまでの主要事項   
 第二節 導入における問題点
第ニ章 推進論と慎重論
 第一節 推進論
 第二節 慎重論
第三章 小学校における英語学習のこれからの展望
 第一節 一貫性のある英語教育という考え方 
 第二節 地域による特色のある英語教育という考え方
 第三節 外部の教育力を生かすという考え方
結論

参考文献

序論
 近年、公立小学校への英語教育導入が話題になっている。
 まず、明確にしておかなければならないことは「小学校への英語教育の導入」が何を意味するかという点である。小学校の新しい学習指導要領により、「総合的な学習の時間」における「国際理解教育」の一環として、各学校が創意工夫した結果、「自ら学び、自ら考える力を育成」し、「生きる力を培う」ために「英会話」などを導入することもありうる、ということである。
 本論では、なぜこんなにも英語導入論は急激に浮上してきたにも関わらず、中途半端な位置で足踏みしているのか、その理由を明らかにすると同時に、今後どうなっていくと予想されているのかを論じたい。
 まず第一章で「総合的な学習の時間」のなかで、「国際理解教育の一環」としての導入となるまでに至る経緯を追う。今現在も小学校において英語は「教科」扱いではないのである。問題として出てくるのは、(1)小学校と中学校での意識・レベルの違いの問題、(2)英語優越主義問題、(3)学力低下問題、(4)指導者不足問題などである。
 第二章では第一章を受けて、小学校への英語教育の導入の是非を論ずる。推進論としては、やはりこれからの社会に向けた準備としてコミュニケーションを養うにあたって、小学校から導入するのが条件としてよいという意見である。慎重論としては、学校教育に新たに組み込むことへの懸念がある。
 第三章では、第一章、第二章を受け、これからの英語教育に必要なものとして、(1)一貫性のある英語教育という考え方、(2)地域による特色のある英語教育という考え方、(3)外部の教育力を生かすという考え方の3つを提示したい。

結論
 本論では、小学校への英語の導入に至るまでの経緯を述べてきた。導入論は急激に浮上したように見えたが、実はずっと昔からそのような動きがあった。それが1990年代に現れてきたのである。
 順調に導入に至らないのは、小学校段階でゆがめられた英語の知識や技能が身についた場合を懸念している点、英語優越主義、学力低下問題、指導者不足問題が原因である。
そこで推進論と慎重論が論じられるが、どちらの主張も説得力に欠けるため、いくら議論しても解決せず、導入問題が進行しないのである。
 英語教育に対するこれからの施策の背後にある教育政策の流れを見ると、規制緩和が進み、国から地方へ、官から民へという動きがある。教育改革は画一化から差異化へと変化してきている。市民が本当に望む教育を自治体が責任を持って行うことが、本来の「公立学校」のあるべき姿である。そして小・中学校が一貫性のある英語教育を行い、地域による特色のある英語教育をまじえながら、外部の教育力を生かすことも合わせて検討し、より良い小学校への英語教育の導入を進めようとしている。


(1) 文部科学省のホームページより〈〈http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301/03122601.htm〉〉
(2) 文部省 『小学校学習指導要領解説 総則編』 (東京書籍 1999)
(3) 文部科学省のホームページより〈〈http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/026/shiryou/04111901/003/002.htm〉〉
(4) 松川禮子著 『明日の小学校英語を拓く』 (アプリコット 2004) pp.26-28
(5) 同上pp.30-31

参考文献
・文部省 『小学校学習指導要領解説 総則編』 (東京書籍 1999)
・松川禮子著 『明日の小学校英語を拓く』 (アプリコット 2004) 
・大津由紀雄、鳥飼玖美子著 『小学校でなぜ英語?』 (岩波書店 2002)
・樋口忠彦著 『小学校からの外国語教育』 (研究社出版 1997)
・小学校英語「東書プラン」作成委員会 『小学校英語「英語活動」のカリキュラム・プランニング』(東京書籍 2001)
・〈〈http://hello.benesse.co.jp/trend/index.html〉〉
・〈〈http://www.urban.ne.jp/home/bisa/children/elementary1.htm〉〉
・〈〈http://www.e-jes.org/〉〉
・〈〈http://www.mext.go.jp/〉〉
・〈〈http://www.npo-homepage.go.jp/〉〉
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by mewspap | 2007-02-17 16:01 | 2006年度卒論

taka「アメリカ映画における父子関係」

目次
序論
第一章 発達心理学における父親の役割
 第一節 乳児期、幼児期
 第二節 児童期
 第三節 青年期
第二章 父子関係の理想像と絆
 第一節 伝統的父子映画『リバー・ランズスルー・イット』
 第二節 現代父子映画『海辺の家』
第三章 擬似父子関係
 第一節 『グッド・ウィル・ハンティング』
 第二節 『ロード・トゥ・パーデション』
結論

参考文献

序論
 家族形態の多様化と同時に、現在のアメリカにはいろいろな種類の父親がいる。離婚し子どもを引き取って育てているシングルファーザー、子連れの女性と結婚した義理の父親、さらにはホモの男性の父親までもいる。この父親たちは、伝統的な家族形態が崩れて家族のあり方、男性の役割が多様化し、同性愛も含めて性の自由化が進んだアメリカ社会の様相を反映している。ここ20数年以来、父親についての心理学研究はアメリカを中心に、爆発的といってよいほど盛んに行われてきている。
本論文では、多様化してきた現代アメリカの父親と子どもの関係性について論じていく。とくに、 男の子との関係に着眼していきたい。これは父親が男の子の性役割のモデルで、同一化の対象であるためである。
 第一章では、子どもの発達段階における特徴と父親の役割を発達心理学の観点から考察していく。これは次章以降取り上げていく映画での父子関係において、どのように反映されているのかを考察するための手助けとなる。
 第二章では、父子関係にテーマに掲げた現代アメリカ映画、『リバー・ランズスルー・イット』と『海辺の家』について、考察する。アメリカで理想とされてきた伝統的な父親像と新しい父親の理想像の違いに着眼する。その際、父子関係を結んでいる絆についても併せて考察していく。
第三章では、擬似父子関係を描いた映画『グッド・ウィル・ハンティング』と『ロード・トゥ・パーデション』を取り上げる。擬似父子関係の成立や、影響について考察していく。

結論
 本論文では時代を映し出す鏡であるアメリカ映画を通して、父子関係について論じてきた。アメリカの理想の父親像は時代とともに変化してきている。『リバー・ランズスルー・イット』で見てきたように、昔は道徳の教師であり、家計の稼ぎ手として、強く威厳のある伝統的な父親が理想とされてきた。そして、男の子はそんな強い父親を尊敬し、憧れとして同一化していった。それが、女性の社会進出とともに、現代の理想とされる父親像は家庭に時間を注ぎ、子どもとよく遊ぶ、優しい父親になってきているといえる。それだけでなく、現代のアメリカには擬似父子関係に代表されるようにさまざまな父子関係が認められてきている。児童期や青年期の男の子が成長し、自立していくにあたって、父親は母親とは違った大きな影響を与える存在になっているといえよう。


(1)堂野佐俊、堂野恵子『発達理解の心理学』(ブレーン出版,2000),p1
(2)高野陽、小宮山要、窪龍子、小宮山要『父性の発達―新しい家族づくり―』(家政教育社,1994),p102
(3)同上,pp120-121
(4)岡宏子、小倉清、上出弘之、福田垂穂『親子関係の理論1―成立と発達―』(岩崎学術出版社,1984),p134
(5)高野『父性の発達』,p127
(6)同上,p140
(7)同上,pp151-152
(8)柏木恵子『父親の発達心理学―父性の現在とその周辺―』(川島書店,1993),pp.179-182
(9)A River Runs Through It, DVD(ジュネオンエンタテイメント株式会社、1992)、以下本作品からの台詞の引用は、本文中にDVD内で区切られたチャプター数で表記する。
(10)柏木『父親の発達心理学』,p253
(11)高野『父性の発達』,pp.168-169
(12)A Life as A House, DVD(ニューラインホームエンタテイメント株式会社、2002),chapter21からの引用
(13)堂野『発達理解の心理学』,pp54-55
(14)Road to Perdition, DVD(フォックスホームエンタテイメント株式会社、2003),chapter9からの引用

参考文献
岡宏子、小倉清、上出弘之、福田垂穂『親子関係の理論1―成立と発達―』(岩崎学術出版社,1984)
柏木恵子『父親の発達心理学―父性の現在とその周辺―』(川島書店,1993)
高野陽、小宮山要、窪龍子、小宮山要『父性の発達―新しい家族づくり―』(家政教育社,1994)
堂野佐俊、堂野恵子『発達理解の心理学』(ブレーン出版,2000)
『海辺の家』(A Life as A House, 2001)
『グッド・ウィル・ハンティング』(Good Will Hunting、1997)
『リバー・ランズスルー・イット』(A River Runs Through It, 1992)
『ロード・トゥ・パーディション』(Road to Perdition,2002)
《http://www.edagawakoichi.com/ART/ar-eizononakano.html》
《http://www.njjp.net/home.html》
《http://www.toyama-cmt.ac.jp/~kanagawa/cinema/america.html》
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by mewspap | 2007-02-17 15:57 | 2006年度卒論

choko「In Her Shoesに見る姉妹と家族――困難との対峙による自己解放――」

目次
序論
第一章 対照的なマギーとローズ
 第一節 姉妹であり親友
 第二節 ローズの義務
 第三節 喧嘩
第二章 マギーの成長
 第一節 詩の朗読
 第二節 特技を活かした仕事
第三章 エラの葛藤
 第一節 キャロラインの母親
 第二節 マギーに対する態度の変化
 第三節 マイケルとの和解とアイラへの隠し事
結論

参考文献

序論
 家族や親子、兄弟をテーマにした映画は数多く公開されている。『イン・ハー・シューズ』(In Her Shoes,2005)は特に姉妹、親子でも娘と母と祖母という三世代の女性たちを中心に描かれている。
 主人公のマギーとローズの姉妹は、幼い頃に母親を亡くした二人姉妹である。弁護士をしている姉のローズは、外見にコンプレックスを持っている。そんな姉とは対照的に妹のマギーが人に誇れるものはその美貌だけだ。彼女は難読症を患っていることから自信が持てず、30歳を目前にしてもなお無職である。このように対照的な2人であるが、互いのことを親友と呼び合う仲の良い姉妹である。そして周りに依存ばかりしているわがままなマギーも、ようやく自立の道を探し始める。その過程でただ一人の理解者であったローズにも見捨てられ、マギーは20年以上存在さえ知らなかった祖母のエラのいるフロリダに行く。夫のアイラに先立たれ、悠々自適の引退生活を送るエラも、実は娘のキャロラインの死に対する自責の念に囚われた孤独な人物である。キャロラインは精神の病気を患っていた。キャロラインの夫であるマイケルとエラはキャロラインの病気への対応で意見がぶつかっていた。そしてマイケルはキャロラインの死後はエラを家族から遠ざけ、家族は離れ離れになっていた。エラはマギーと再会し、長年遠ざかっていた家族と向き合う。マギーはフロリダで仕事を通して誰かに必要とされる喜びに目覚め、自分に自信を持つようになる。またローズも仕事だけに没頭する生活をやめて自分の幸せを考えるようになり、新しい恋人のサイモンと婚約する。エラはローズもフロリダに呼び寄せ、エラとマギーとローズの3人はキャロラインの話をする。ローズとマギーは仲直りすることができ、エラはマイケルと仲直りする。
 この作品では姉妹や家族の問題を解決していくと同時に、心に傷を負った登場人物たちがそれぞれの困難と向き合い、傷つきながらも本当の自分を発見していくのである。
 本論ではマギーとローズ、エラの3人に焦点を当て、自己を解放していく登場人物を論じる。第一章ではマギーとローズの姉妹の関係を考える。第一節では、対照的な姉妹が互いに親友とみなす所以について論じる。第二節では姉のローズについて述べる。母親が病気だったために幼い頃からローズに課せられた義務について論じる。第三節では、姉妹が決裂する喧嘩を分析する。第二章は妹マギーの成長を考える。仕事を通してのマギーの自信の獲得と新しい自分自身の発見に至るまでを論じる。第三章ではエラを中心に家族を考察する。第一節ではキャロラインに対するエラを振り返り、母親としての視点から正しい愛し方を考える。第二節ではマギーと再会して、エラ自身がどのように変わっていったのかを論じる。第三節では家族の中の男性、マイケルとアイラについて考える。

結論
 本論文では『イン・ハー・シューズ』を取り上げ、家族それぞれが抱える問題に向き合い、変化する登場人物を考察してきた。
 マギーとローズは正反対に見えるが、相手にない部分をもう一人が補う一心同体の関係である。マギーは過去の時間をやり直すことで自信を付けたこと、人に必要とされることで自分の価値を見出すことで自立できた。ローズは仕事に没頭するのではなく、自分自身を大切に考えるようになったこと、またマギーが自立することで幸せを手に入れた。別々の道を進むことで本当の自分を理解することができたのである。エラはキャロラインの死への自責の念から開放されること、キャロラインに託された孫たちが幸せでいることで、新しい一歩を踏み出す。エラとの和解でマイケルも自信を回復し、シデルと対等な夫婦になることができた。家族をばらばらにしたのはキャロラインの病気や死ではなく、その問題に家族全員で向き合うことをしなかった家族全員である。逃げていた問題に向き合うことで過去の悲劇を乗り越え、家族は再生することができたのである。
 個人や家族が抱える問題は人それぞれあるものだ。家族構成や環境など様々な要因で、抱える問題も家族の数だけあると言える。昨今は家庭内で起こる事件が話題になっているが、当事者以外の家族も問題から目を背けることなく真剣に向き合うことが求められているのではないだろうか。


(1)秋山さと子 『「家族」という名の幻想』(双葉社、1998)p.160 以下本作品からの引用はこの版とし、本文中に( )でページ数を示す。
(2)In Her Shoes(2005,Twentieth Century Fox Film Corporation)DVD: Twenties Century Fox Home Entertainment Japan,2005. 以下本作品からの台詞の引用はこのDVDからとし、本文中にチャプター番号を( )で表記する。
(3)「難読症と言語理解の諸問題」 
《http://home.hiroshima-u.ac.jp/forum/27-5/open_scholarship.html》より。
(4)「ウィキペディア フリー百科事典」
《http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%82%A2》より。
(5)小此木啓吾・著『ドゥーイング・ファミリー 家族愛をどう取り戻すか』(PHP研究所,2002)p. 134
(6)同上、p.138
(7)同上、p.138

参考文献
E・A・カプラン著、水野紀勢子訳『母性を読む―メロドラマと大衆文化に見る母親像―』
秋山さと子『「家族」という名の幻想』(双葉社,1998)
依田明、福島章編『二人っ子家族の親離れ・子離れ』(有斐閣,1981)
小此木啓吾『ドゥーイング・ファミリー 家族愛をどう取り戻すか』(PHP研究所,2002)
総合研究開発機構編『現代アメリカの家族問題』(出光書店,1984)
“External reviews for In Her Shoes”
《http://www.imdb.com/title/tt0388125/externalreviews》
“In Her Shoes”《http://www.foxjapan.com/movies/inhershoes/》
「ウィキペディア フリー百科事典」
《http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%82%A2》
「難読症と言語理解の諸問題」 
《http://home.hiroshima-u.ac.jp/forum/27-5/open_scholarship.html》
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by mewspap | 2007-02-17 14:05 | 2006年度卒論