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シネマのつぶやきアーカイヴ:THE TABLE OF CONTENTS

■シネマ◆
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■つぶ■■ ◆ ◆THE TABLE OF CONTENTS
■■■やき ■ ■ ◆ ■
◆◆■◆■■◆アーカイヴ ■◆ ■ ◆2002-08-02~2004-12-31

=長さの関係上前半・後半と別記事となっている号があります=

「シネマのつぶやき」は、2002年8月から2004年末までの約2年半、少人数のインナー・サークルをお相手にメール配信していた身辺雑記付きの映画評です。その後、N島先生のホームページに転載していただきました。その辺りの経緯を記した文章を目次のあとに再録しています。


「シネマのつぶやき」目次

その1
『小説家を見つけたら』Finding Forrester 2000年アメリカ
『私が愛したギャングスター』Ordinary Decent Criminal 1999年イギリス
『キス・オブ・ザ・ドラゴン』Kiss of the Dragon 2001年アメリカ/フランス
『ファイナル・ファンタジー』Final Fantasy: The Spirits Within  2001年アメリカ

その2
『あの頃ペニー・レインと』Almost Famous 2000年アメリカ
『15ミニッツ』Fifteen Minutes 2001年アメリカ
『グリーンフィンガーズ』Greenfingers 2000年イギリス

その3
『シビル・アクション』A Civil Action 1999年アメリカ
『天使のくれた時間』The Family Man 2000年アメリカ
『理由』Just Cause 1995年アメリカ

その4
『アミスタッド』Amistad 1997年アメリカ

その5
『お早う』 1959年日本
『萌の朱雀』 1997年日本
『シュリ』Shuri 1999年韓国

その6
『ロスト・チルドレン』La Cite des Enfants Perdus 1995年フランス
『晩春』 1949年日本
『トゥーム・レイダー』Tomb Raider 2001年アメリカ
『わが青春に悔なし』 1946年日本

その7
『マッド・シティ』Mad City 1997年アメリカ
『ティファニーで朝食を』Breakfast at Tiffany's 1961年アメリカ
『麦秋』 1951年日本
『コン・エアー』Con Air 1997年アメリカ
『デッドロック』Race Against Time 2000年アメリカ(TV)

その8
『ルール2』Urban Legends Final Cut 2001年アメリカ
『デンジャラス・ウーマン』Corruption Empire 1999年アメリカ
『スクリーム 3』Scream 3 2000年アメリカ
『グリーン・デスティニー』Crouching Tiger, Hidden Dragon 2000年中国
『トゥルー・クライム』True Crime 1999年アメリカ

その9
『ディアボロス』Devil's Advocate 1997年アメリカ

その10
『マーシャル・ロー』The Siege 1998年アメリカ
『武器よさらば』A Farewell to Arms 1932年アメリカ
『裏切り者』The Yards 2000年アメリカ
『仁義なき戦い』 1973年日本
『最終絶叫映画』Scary Movie 2000
『アメリカン・ナイトメア』The American Nightmare 2000年アメリカ/イギリス

その11
『仁義なき戦い・広島死闘篇』 1973年日本
『仁義なき戦い・代理戦争』1973年日本
『ルール』Urban Legend 1998年アメリカ

番外編

その12
『処刑人』The Boondock Saints 1999年アメリカ/カナダ

その13
『悪魔を憐れむ歌』Fallen 1997年アメリカ

その14
『ブレイド』Blade 1998年アメリカ
『クリムゾン・リバー』Les Rivieres Pourpres 2000年フランス
『仁義なき戦い・頂上作戦』1974年日本
『チャイルド・コレクター:溺死体』The Spreading Groud 2000年アメリカ

その15
『偶然の恋人』Bounce 2000年アメリカ
『人狼』 2000年日本
『ソードフィッシュ』Swordfish 2001年アメリカ
『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』インターナショナル・ヴァージョン 1995年日本
『ユージュアル・サスペクツ』The Usual Suspects 1995年アメリカ
『シリアル・ママ』Serial Mom 1994年アメリカ
『どら平太』 1999年日本

その16
『パンサー 黒豹の銃弾』Panther 1995年アメリカ
『リプレイスメント』The Replacements 2000年アメリカ
『ニュー・ジャック・シティ』New Jack City 1991年アメリカ
『ミラーズ・クロッシング』Miller's Crossing 1990年アメリカ
『サザン・コンフォート:ブラボー小隊 恐怖の脱出』Southern Comfort 1981年アメリカ
『ホワイトハウスの陰謀』Murder at 1600 1997年アメリカ

その17
『ベオウルフ』Beowulf 1999年アメリカ
『あの子を探して』一個都不能少 1999年中国
『追跡者』U.S.Marshals 1998年アメリカ
『メメント』Memento 2000年アメリカ

その18
『スリー・キングス』Three Kings 1999年アメリカ

その19
『ブロウ』Blow 2001年アメリカ
『スコア』The Score 2001年アメリカ
『ロミオ・マスト・ダイ』Romeo Must Die 2000年アメリカ

その20
『N.Y.P.D.15分署』The Corruptor 1999年アメリカ
『ザ・ディレクター「市民ケーン」の真実 』RKO 281  1999年アメリカ
『リベラ・メ』Libera Me 2001年韓国
『真実の行方』Primal Fear 1996年アメリカ

その21
『レザボア・ドッグス:仁義なき男たち』Reservoir Dogs 1991年アメリカ
『救命士』Bringing Out the Dead 1999年アメリカ
『ギルバート・グレイプ』What's Eating Gilbert Grape 1993年アメリカ

その22
『ワイルド・アット・ハート』Wild at Heart 1990年アメリカ
『トゥルー・ロマンス』True Romance 1993年アメリカ
『エボリューション』Evolution 2001年アメリカ

その23
『ゴースト&ダークネス』The Ghost and the Darkness 1996年アメリカ
『スター・トレック:ファースト・コンタクト』Star Trek: First Contact 1996年アメリカ
『フロム・ダスク・ティル・ドーン』From Dusk till Dawn 1996年アメリカ
『シャドウ・オブ・ヴァンパイア』SHadow of the Vampire 2000年アメリカ
『ホタル』 2001年日本
『アステロイド:最終衝撃 ロングバージョン』Asteroid 1997年アメリカ

その24
『フロム・ダスク・ティル・ドーン3』From Dusk till Dawn3 2000年アメリカ
『ザ・ダイバー』Men of Honor 2000年アメリカ
『スティル・クレイジー』Still Crazy 1998年イギリス
『ナチュラル・ボーン・キラーズ』Natural Born Killers 1994年アメリカ

その25
『パール・ハーバー』Pearl Harbor 2001年アメリカ
『トレーニング・デイ』Training Day 2001年アメリカ
『タイタンA.E.』Titan A.E. 2000年アメリカ

その26
『スタートレック:叛乱』Star Trek: Insurrection 1998年アメリカ
『ハムナプトラ2:黄金のピラミッド』The Mummy Returns 2001年アメリカ
『ドラキュリア』Dracula 2000 2000年アメリカ
『ザ・メキシカン』The Mexican 2001年アメリカ
『バトル・ロワイヤル』 2000年日本

その27
『ラッシュアワー2』Rush Hour 2 2001年アメリカ
『バンディッツ』Bandits 2001年アメリカ

その28
『シッピング・ニュース』The Shipping News 2001年アメリカ

その29
『EXIT-イグジット-』Exit 2000年フランス
『バニラ・スカイ』Vanilla Sky 2001年アメリカ

その30
『アメリ』Le Fabuleux Destin D'Amelie Poulain 2001年フランス
『レプリカント』Replicant 2001年アメリカ

その31
『チェーン・リアクション』Chain Reaction 1996年アメリカ

その32
『ラブ・オブ・ザ・ゲーム』For Love of the Game 1999年アメリカ

その33
『ウエディング・プランナー』The Wedding Planner 2001年アメリカ
『ヴィドック』Vidocq 2001年フランス
『ジェヴォーダンの獣』Le Pacte des Loups 2001年フランス

その34
『ソラリス』Solaris 2003年アメリカ

その35
『彼女を見ればわかること』Things You Can Tell Just by Looking at Her 1999年アメリカ
『ザ・コア』The Core 2002年アメリカ
『悪魔のいけにえ 2 』The Texas Chainsaw Massacre Part 2 1986年アメリカ
『CUBE2』Cube 2: Hypercube 2002年アメリカ

その36
『ビッグ・フィッシュ』Big Fish 2003年アメリカ

その37
『おばあちゃんの家』The Way Home 집으로 2002年韓国

その38
『ウォルター少年と、夏の休日』Secondhand Lions 2003年アメリカ

その39
『ミスティック・リバー』Mystic River 2003年アメリカ
『コール』Trapped 2002年アメリカ
『ザ・リング』The Ring 2002年アメリカ

その号外の埋め草

その40
『ヴァン・ヘルシング』Van Helsing 2004年アメリカ
『ヴィレッジ』Village 2004年アメリカ

その41
『デッドコースター/ファイナル・デスティネーション2 』Final Destination 2 2003年アメリカ
『ワニ&ジュナ~揺れる想い~』Wanee & Junah 2001年韓国
『2010年』2010 1984年アメリカ

その42
『息子のまなざし』Le Fils 2002年ベルギー
『ロゼッタ』Rosett 1999年ベルギー/フランス
『ナビィの恋』 1999年日本

その43
『モンスター』Monster 2003年アメリカ
『パニック・ルーム』The Panic Room 2002年アメリカ
『オーシャンズ11』Ocean's Eleven 2001年アメリカ
『ローラーボール』ROLLERBALL 2002年アメリカ

その44
『シークレット・ウインドウ』Secret Window 2004年アメリカ
『ホワイトアウト』 2000年日本
『グラスハウス』The Glass House 2001年アメリカ
『ジーパーズ・クリーパーズ~暗黒の都市伝説~』Jeepers Creepers 2001年アメリカ

その45
『ブラック・ホーク・ダウン』Black Hawk Down 2001年アメリカ
『ウィンドトーカーズ』Windtalkers 2001年アメリカ
『YAMAKASI~ヤマカシ~』Yamakasi: Les Samourais de Temp Modernes 2001年フランス

その46
『父と暮らせば』 2004年日本
『スパイダーマン』Spider Man 2002年アメリカ

その年の瀬雑記


以上のように番外編を除き46号まで、130本ほどの映画について思いつきのでたらめを書いている。
テキストファイルでおよそ1メガ。ずいぶんと書き散らしたものだ。

ほとんど一筆書きで勝手なことを書き飛ばし、配信したらすぐに忘れる、というスタイルだったけれど、たくさん書いているとおのずと量が質的な変化を遂げるものです。書いた対象の映画が100を超えたあたりから、この雑多なテキストも私にとってひとつのリソースになるかもしれないなと思い始めました。

今となっては何でこんなことを書いたのか、この人の頭のなかはどうなっているのかまったくの謎で気が知れんというのが多々ありますが、「お、なかなか気の利いたことを言うではないか」という箇所も(若干)あるではないか。

この間、N島先生のホームページALL ABOUT CRICKET'S LIFEに間借りさせていただき、「シネマのつぶやきのヤドカリ」として部分的に掲載させてもらっていました。
あらためてN島先生に感謝。

この「ヤドカリ店子版」の表紙ページに、以下のような借家人のご挨拶を記しています。
執筆スタイルと趣旨の要約になっていますので、cricket先生を顕彰しつつここに再録しておきたいと思います。


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■■◆■■■のヤドカリ ◆
朋友cricketせんせからHPの片隅に間借りさせてあげようというお誘いを受け、メルマガ「シネマのつぶやき」を再録させてもらうことになりました。

ヤドカリ店子版です。

このメルマガは、2年ほど前から、ゼミの学生を中心としたキャプティヴ・オーディエンスをお相手に、「ほっこりまったりインハウス」で始めたものです。

新旧かかわりなくほとんど無作為に選んだ映画について、わたくしが思いつきの三百代言をつぶやく、という笑止の至りこそその趣旨としております。

したがって、ここに書かれたテクストは専門的なフィルム・スタディーズとは縁もゆかりもなく、テクストのアドレッシー(受信者)として想定されているのも、わたくしの暴論を「ま、いっか」と苦笑交じりに黙過して甘やかしてくれる寛容な人、ということですので、そこんとこ、どぞ、よろしく。

しかし、映画について語るというのは、結構むずかしい。
文字テクストについて書く場合は、言葉が言葉を紡ぎ出すかたちになるけれども、映画の場合は通常の意味においてまだ「言語化されていないもの」について語ることになりますから。

視覚と聴覚を強烈に刺激することによる「ムーヴィ・ハイ」のなせるわざなのでしょう、映画館を出たあと駅に向かう道すがら、わいわいと観たばかりの映画について「解釈」を声高にしゃべっている人たちが必ずいるけれど、わたくしはどうも「あれ」が苦手である。

映画を観たあとは、オープンで爽やかな明るいパステル調のお店で「わいわい」ではなく、彩度を落とした暗めの照明の喫茶店で濃くて熱いコーヒーをすすりながら、断片的に「と思うんだけど、ちがうだろうか」とぼそぼそとつぶやく、という「あの感じ」がよいと思う。

ぼそぼそ。

ふむふむ。

という「あの感じ」でどうぞお読みください。

実際、激越な口吻で一刀両断という話法による映画評は苦手です(こわいし)。
難解な批評タームに彩られた映画論も苦手である(よくわかんないし)。

映画というメディアの特質と一世紀以上にわたる映画的記憶のしからしむところなのでしょうが、まことに門外漢が映画について語るのはむずかしい。

このメルマガ「シネマのつぶやき」では、「アキモトせんせ」という「ちょっとおバカな」ヴァーチャル・キャラクターを捏造し(実物は「かなりおバカ」であるやに側聞する)、「彼」に語らせるという隘路を戦略的に選択しております。

だからわたくしは一切責任を負わないのである。「あの映画評はおかしいのではないか」と現物のわたくしをつかまえて、「>○」ということのなきよう(ちょと古いけど角でワだから「驚かす」の意@庄司薫)、ここに伏してお願いします。

たとえ絶叫調の決めつけを避けたとしても、いたずらに難解な「批評」か、私的趣味の吐露たる「感想」へと二分する傾向が映画評にはあるようです。
目指すところはそのあわいだけれども、「アキモトせんせ」がその性格上往々にして後者に傾くのは致し方ないところとご容赦いただきたい。

各号の巻頭には、そこはかとなく書きつくるよしなしごとを付しています。
映画とは関係のない極私的な前説ですのでご笑覧のうえご放念ください。

ほんでは、四畳半一間ほどを間借りして、店子版「シネマのつぶやき」を順次アップしていきます。

宿主cricketせんせ、ありがとね。
お家賃は毎月ビール一杯でよいと言ってくださるとは、なんて寛大なるオッファーなんでしょう(言ってなかったっけ?)。

借家人拝

And after all the Jacks are in their boxes,
And the clowns have all gone to bed.
You can hear the happiness staggering on downstream,
Footprints dressed in red.
And the cinema whispers . . . .
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by mewspap | 2006-01-07 07:00 | シネつぶアーカイヴ

シネマのつぶやき(その年の瀬雑記:後)

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■つぶ■■ ◆ その年の瀬雑記(後)
■■■やき ■ ■ ◆ 2004-12-31

◇◇◇━━━
アキレスと亀
━━━━━━
なんでだか忘れたが、授業中にとつぜん有名なパラドクスの「アキレスと亀」の話になった。

驚いたことにこのパラドクスをまったく知らないという受講生がいて(ほんと驚いてはらりとテキストを取り落とす)、聞いたことはあるがその理路がよくわからないという者、さらに独自の解釈で説明を試みる者が混在して何がなにやらわからなくなる。

簡単に言うとこんな話である。

とっても足の速いアキレスと鈍足の(言うまでもなく)亀が競争することになった(理由は知らない)。
ただし、それではあんまりな話なのでハンディをつけ、アキレスが0地点から出発し、亀はアキレスよりも先のA地点からスタートすることになる。

するとあら不思議、アキレスは決して亀に追いつくことができないのである。
別に亀をなめきったアキレスが昼寝をかましていたわけではない(あっちのコンペで亀とかけっこしたのはアキレスではなく兎さん)。

アキレスが亀のいたA地点に到着するときには、いかに鈍足とはいえ亀さんも前進してB地点にいる。
そしてB地点にアキレスがいたったときには亀はC地点にいる(以下同じ)。

したがってアキレスは決して亀に勝つことができないのである。

古代ギリシアの哲学者ゼノンがそう言っているのだからそうなのであろう。

数学的に立証したり反証したりする人がおられるであろうが、かねてよりご案内のようにわたくしは算数が嫌いである。

だから数学者の説明を聞いたりしたら、1分以内に気絶するであろう。

別にムッシュ・ゼノンに異論をはさむつもりはないのだけれど、思うにこのパラドクスは、空間と時間の混在により、あるいは距離上のディスタンスと時間上のタイムスパンのすり替えによって起こる。

空間の話をしていたのに時間の話にすり替え、時間のことかと思ったら空間のことにすり替えられてしまうのである。

亀の「いた」地点をつねに定点として、その定点にアキレスが追いついた「とき」には、亀はさらにその先のところに「いる」というように。

言うまでもなく、洋の東西を問わず人間は時間軸を空間座標に置き換えることによって認識する(時間「軸」と言った瞬間にもうそうである)。

「長い/短い」期間とか。
「遠い」過去とか「近い」将来とか。
空間を計測する度量衡で時間を捉えますよね。

long, short, far (distant), nearは当たり前すぎてちょっと幼稚なので、授業でよく言及するのが"immediate"という単語である。
この単語は「直の」「接した」と「即座の」「直近の」という空間と時間の両者を表します。

仕方ないのである。時間というのは捉えがたいものなのだから。

要するにアキレスと亀のパラドクスは、時空認識の陥穽そのものに由来するのである。
亀がスタートしたA地点にアキレスが到達したとき、たとえわずかなりとも亀の方は前進してB地点に達している。アキレスがB地点にいたれば、亀はC地点に進んでいる。

このお話はつねに亀が「いた」場所を定点とし、アキレスはそれを目標としているので、亀が今「いる」場所に対して永遠に「遅れをとる」ことは必定である。
これではアキレスは亀に決して追いつくことはできない。

ということを授業でわいわい言っていると、そもそも当初はこのパラドクス自体知らなかったある学生が、「アキレスは過去の亀の影を追いかけている」という慧眼を示してくれた。

若いっていいね。

そうなのである。

距離の話をしているようで、実はこれは時間の話になっているのである。
アキレスはつねに「過去の亀」を追いかけるから、「現在の亀」に原理的に追いつけるわけがない。
哀れアキレスは構造的に負け続けるべく宿命づけられたランナーなのである。

もっと言えば、このパラドクスは「アキレスは現在の亀に追いつけない」というワーディングで「現在性」の共有を強調しているが、実のところつねに亀を未来に投企しつつ、アキレスを過去へと追いやっているのである。

可哀想な話ではあるが、時間と空間をめぐるゼノンの奸策に気づかない限り、アキレスは未来永劫走り続け、亀ごときの後塵を拝して惜敗の涙を流し続けることになる。

別にそんな賢しらな理屈を並べなくてもこのパラドクスはもう解決済みだよと思われるかもしれない。

まあ、そう言ってくれるな。

アキモトせんせだってたまにはインテリぽく見られたいこともあんの。

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ひさしぶりに『北の国から』のつぶやき
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ずいぶんひさしぶりですが、名作TVドラマ『北の国から』について。

振り返ってみると『北のに国から』のつぶやきは「シネつぶ」その19以来で、すでにさんざん書いたはずがまだ言い足りないのである。

それで続きは他日を期すつもりが、すっかり忘れていた(よくあることである)。

N島先生のHPにバックナンバーを載せてもらっていて、「そうそう」と思い出した。純と蛍の兄妹について書いていたのでした。

思うに『北の国から』の物語には、「蛍的存在様式」と「純的存在様式」と呼ぶべき「子どもの類型」が認められるような気がする。

以前書いたように、蛍は「決して語らない、言い訳しない、説明しない」人です。端的に言って、蛍というのは「……」という存在なのである。

なぜ蛍は語らないか。

語って、言い訳して、説明しても、世界は改変し得ないと蛍は知っているからである。世界は変えられない、自分はそこに有意な影響を行使し得ないという認識は、まさしく「子ども」の本能的な諦観である。

他方、ひたすらしゃべる純は世界変革の可能性を信じる人である(失敗を運命づけられた言葉による永久革命家であろう)。
彼は言葉による分節で、自分に都合のいい世界が現出すると信じている。

純が「子供らしくなく」「生意気」に見えるのは、言葉による世界への影響力を持ち得ると思っているように見えるからだ。
そして「しゃべり続け言い訳し続ける」純は、変革可能性を(もちろん)否定され、「自分に都合のいい」言葉を生産したという部分だけあげつらわれて、あとあとまで罪悪感を抱かされる。

あわれ。

おしゃべりの純に対して、蛍は「語らない人」だけれども、それだけではない。
蛍的存在様式の基幹は、「子ども界の人」のもうひとつ重要なカテゴリーである、「見る人」というところにある。

「見る人」としての蛍にとって、母の令子の浮気現場を目撃してしまったことが原風景をなす。そして蛍はそのことを誰にも語らない。

第17話で、五郎にも純にも内緒で母の乗った列車をひとり追っかける。

第20話で、父の五郎がこごみと仲良くしている現場を目撃してしまう。
こごみと五郎が丸太小屋作りの現場にいて、蛍は初めて自分で作ったお手製弁当を持参して息せき切って走っていき、二人の楽しそうな姿を見てしまう。

蛍はUFOも見る。そして純にそれを語り伝え、当然のことながら信じてもらえない。

無口で「見る人」蛍は、世界を変えるべく「語る人」になったとき、ことごとく失敗して理不尽な痛手を受ける。「おにいちゃん、私見た」と語ったとき、蛍は「語らない見る人」から足を踏み出す。

他方、五郎とこごみのことを、見てもいない純は語ってみせる。「蛍が何もしゃべらなかったら、そんな事件のことは知らなかった」と。

純の語りで繰り返される「そんなことはぜんぜん知らなかった」という文体に特徴的に表れているように、純は「見ていない」ことでも「語る」人だ。

「見てもいない」ことを「語る」純は、UFOの一件を新聞記者に話してしまう。

それがテレビ局の知るところとなり、蛍への取材の申し込みがある。
「語らない人」蛍は嫌がっていたが、自分がTV出演するところを母が見たら状況が変わり、五郎とこごみの「再婚」を阻むことができるかもしれないと思い直す。

意を決してテレビ取材を受けてUFO目撃談を語り、そしてそのヴァラエティ番組のなかで蛍の話は「子どもの空想」と嘲弄される。

「さっき出てきた女の子、とくとくとしゃべってたわよね」とコメンテーターが言う。「それでみなさん気づいてたかどうか、あの子の話、ちゃんとストーリーができている気がするのね。ってことはもう何人か、ずいぶんの人におそらくこの話をしたと思うし、話って、ほら、何度も繰り返してるうちに自分でもリアリティもってきちゃうでしょう。……あの子、なかなか美人だったじゃない。きれいな女の子ってそういうとこあるのよね。とにかく周囲を惹きつけておきたい――」。

語り始めた蛍の「言葉」はことごとく否定されるのである。

かくのごとくテレビ番組で愚弄され、「見たモン……。見たモン、蛍。ウソじゃないもン」とつぶやいて、蛍は涙ながらに走り去る。

多くを語らない稚拙なこの話法「わたしは見た。嘘ではない」そのものに、蛍の在り方がある。

「見る人」で「語れない人」なんである、蛍は。

テレビ出演によって、蛍は「語る人」であることに失敗する。
そしてもちろん、「見られる人」であることにも失敗する。
むろん蛍に責はないんだけれど、大人の世界が蛍に「語る人」であることを禁止し、かつ蛍が「見られる人」となるとき、それは「邪視」の対象としてでしかない。

「見る者-見られる者」とは権力関係である。
だが蛍は「見る人」の立ち位置から権力を得ることがない。
蛍は見る「べきではなかった」ものを見てしまうのであり、それゆえ権力化を阻まれている(しようと思えばできるのけれど、「見ること」=「知ること」によって一番傷ついているのが蛍だから、見たことを権力として濫用しないのである)。
つまり蛍にとって「見たもの」とは、子供の特性である「見てしまったもの」なのである。そして見ることによって、大人に対する負債感をまたひとつ増やしてしまう。

ついでに言えば蛍は「足が速い人」である。

原型は第17話の「東京に帰る母の列車を黙ったまま涙ぽろぽろで川岸で追っかけ」シーンであろう。
五郎とこごみのツー・ショットを目撃して走って去る。
テレビ番組で嘲弄されて走り去る。

その走り方にはまったく変化が見られない。
顎は引きぎみで、ひじを張った腕を大きく振り、「全力疾走」でものすごいスピードで走る。
そこに一切の「余念がない」走り方である。そのとき蛍は、「走る」という動作に憑依し、「駆ける」という動詞化している。

結論。蛍は「しゃべらない人」であり、「見る人」であり、「走るのが速い人」である(我ながらばかな結論である)。

しかし、単に蛍が受動で純が能動というわけではない。
蛍には「内面」がある。大人が、あるいは「おにいちゃん」の純が、「見ていない」ときの、われわれ視聴者だけが見ている蛍の「表情」がそれを表現している。

別に純に内面がないというのではないのだけれど、純の内面など透明なのだ。丸見えである。
外から丸見えの透明な「内面」など、言葉の定義への背馳である。
彼が往々にして抱く「秘密」は「子供の秘密」である。大人には見え見えだ。
他方、蛍の秘密は大人の秘密であり、それを隠す彼女の内面は堅牢である。
したがって、決して蛍に内面の語りなどさせてはいけなかったのである。

『'89帰郷』で、初めて蛍の内心の声が発せられる。
恋する乙女の蛍が勇次(緒方直人)と会話を交わしたとき、「やったァ」というシリーズ初めての内心の声がヴォイスオーヴァーとしてかぶさる。

このとき、堅牢なる「内面」を秘めた少女の蛍が失われるのである。
決して語られず、つまびらかにされないされない秘密であることによって、蛍の「内面」の重力と深甚は担保されていた。
実際に内心の声がつぶやかれてみると、それはきわめて単純なものであったことが露呈する。

純がすでに東京に出ていて不在なので、脚本上、蛍を語り手として引っ張り出さざるを得なかったことはわかる。
しかし、この特別篇で蛍がもはや子供でなくなって「語り始めた」とき、「蛍的存在様式」も終わりを告げたのである。

その後、蛍は五郎という係累を捨て、仕事を辞め、不倫をし、駆け落ちをし、不倫相手の子どもを宿したまま正吉と結婚することになるでしょう。

純は10代で馬鹿をやり、蛍は20代で切れてはじけてしまう。

蛍は母を見送り、雪子おばさんを見送り、純を見送り、そして初恋の勇次を見送ることになる。
そして一切の泣き言を口にしなかった。
子どものときから蛍は「定点」であり続け、「母なる大地」であり続けた。
こりゃどう見ても間尺に合わない。

その後の蛍はひたすら「蛍的存在様式」の埋め合わせに邁進することになる。

『'89帰郷』に始まる語り手としての蛍を見て、やっぱ純の語りの天才ぶりがよくわかった。
シリーズ最終回の『遺言』でも蛍は語り手だったが、いまいちである。ここで蛍はかつての「蛍的存在様式」の恨みを晴らすかのように、「批判し主張する女」になる。

気の毒だけれど、ほんといまいちなんだよな。

純の語りの意味とは何であるか、もう一度考えてみなければならない。

というわけで、この項続く(たぶん)。


さて、ほんとに2004年もさよならです。
いろんな点でたいへん疲れる一年であった。
そろそろ辛抱が切れるかもしれない。アキモトせんせがどっかで暴れ出すのを目にしたら、どうぞ理を唱えて「つまらないからやめておけ」と羽交い締めにしてください。

みなさんにとって2005年がごろごろ幸のころがったよい年であることを祈り上げます。
特にゼミ生諸君には、最後の孤独な戦いを心おきなく戦うことを祈る(骨は拾ってあげる)。

どうぞよいお年を。

2004-12-31
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by mewspap | 2006-01-07 02:00 | シネつぶアーカイヴ

シネマのつぶやき(その年の瀬雑記:前)

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■つぶ■■ ◆ その年の瀬雑記(前)
■■■やき ■ ■ ◆ 2004-12-31

やっほ。

いよいよ2004年の師走も大詰めである(なんか変な言い方だな)。
しんしんと暮れゆく年の瀬は、しんしんと降り積もる雪に覆われて、我が寓居も雪に包まれている。
今年の師走は忙しく、映画を観るひまもなかった。

ということで、2004年最後の「シネつぶ」は、映画抜きのあたふた身辺雑記でごめんね。

しかし、どんなにあたふたしようとも、おせち料理の用意だけはする。
わたくしが担当するのは、数の子とごまめとお雑煮だけなのだが。
だって好きなんだもん。

以前、史学・地理学専修のF田先生が文学部HPで「お雑煮文化論」と題したコラムを書いておられたが、我が家のお雑煮はいたってシンプルな醤油だてのおすましである。
昆布と鰹節とその他混合節で気合いの入ったお出汁は用意するが、あとは薄口醤油とお酒で味付けし、大根、人参、椎茸、鶏肉を入れ、三つ葉を散らして柚子を添えるだけ。
関東出身なのでおもちは四角餅が好みなのだが、こちらでいただくのは丸餅ばかりである。

四角かろうと丸かろうと餅は餅なので気にしない。

それよりも酉年なのにいきなり鶏の殺生をしてしまっていいのだろうか。

いいのである。おいしいから。

あと残った仕事は年越しそばの準備である。
こちらも気合いを入れて出汁をとり、でかい海老の天ぷらを揚げてトッピングとするのが倣い。

今年は何年かぶりに部屋の大掃除までしてしまった。
というかほとんど部屋の改造で、まだその過程なんですね。部屋のなかぐちゃぐちゃである。

なんやかやとあわただしいなか、書斎とリビングに本棚を作り付けたためです。

いかにも「昔気質の職人」という感じで口べたの建具屋さんに来てもらって、我が家の書斎とリビングに作り付けの本棚を設置してもらいました。

その片づけがまだ終わらない。このまま年越しとなりそうである。

でも天井までいたる作り付けの本棚って、年来のあこがれだったんですよね。

なんか「学者」とか「読書家」みたいじゃない。

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「化粧の文化史」公開授業無事終了
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「化粧文化の新しい広がり――福祉場面における化粧の効能~タミー木村先生によるデモンストレーション・トーク~」と題した総合講座「日本学Ⅰ:化粧の文化史」の公開授業が無事終了。

吹田ケーブルテレビも取材に来ていました。

メイクアップ・アーティストのタミー先生は、高齢者施設で入居者に化粧を施す福祉活動にも従事されている。
その写真やヴィデオ映像を見せてもらったのだが、化粧前と化粧後では本当におばあちゃんたちの表情ががらりと変わる。
無表情だった方がにっこり笑い、無口の方が滔々としゃべり出し、歌を歌い出す人もいる。
不思議な魔法を見ているようである。

トミー先生はとってもいい方でした。
内側から「明るいエネルギー」をぴかぴかと放射している感じで、そばでお話をしているだけで元気をもらえるような人である。
おそらく福祉現場では、化粧をすることと同時に、このような人がそばにいることそのものが「エンパワーメント」効果をもたらすのでしょう。

化粧のデモンストレーションでは、受講生のなかから50代の現役の学生M原さんにメイクモデルになっていただいた。
当初、実演でモデルになっていただけませんかと声をかけたとき、「高齢者への化粧の効果」という趣旨なので失礼に当たるのではないかとちょっと気が引けたのであるが、たいへん「のりのり」の方で大いに楽しんでおられた。

喜んでもらえてわたくしとしても胸をなで下ろす。

実は二人目のメイクモデルには文学部事務室のU野さんにお願いしていたのだが、授業手順の都合でおひとりしか実演に時間を充てられず残念。
一部でよく知られているように、U野さんもたいへん「のりのり」系のお方で、「きれーにしてくれるんでしょ? あら、楽しみやわ!」と期待してくださっていたのに申し訳ない。

文学部執行部の先生も顔を出してくださった。
文学部長を初め、メイクモデルが現役学生であることにびっくりされていたN澤先生、かぶりつきでご覧になっていたO村先生、どうもありがとうございました。

公開授業なので学外の一般の方々にもご参加いただいたが、隅の方にちょこんと座ったちっちゃなおばあちゃんがいたのが嬉しかった。

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「長期週一回型」学校インターンシップ報告会
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過日、学校インターンシップの事後報告会が開催されました。

今年度は延べにして約300名の学生が高校、中学校、小学校等に派遣されたが、冒頭の挨拶で文学部長は、この報告会は「経験の共有の場」であると話されていた。

インターンシップで様々な経験を積んだ学生は、「言語化」を通じて初めて自己の経験を我がものとし、かつ他の人と共有することができる。

そして言語化にはふたつ大事な点があると述べていた。
ひとつは「ストーリー化」であり、もうひとつは「キーワード抽出」である。

ストーリー化によってみずからの経験を自覚化し、かつ経験にキーワードないしポイントを付与することによって適切にレジスターされる、という趣旨であろう。

犀利で高度な論理性をもって鳴り、その浩瀚な「整理整頓された数多くの引き出し」からどんな問題にでもレファレンスをもっている部長ならではの「知的コツ」である。

なるほどいいことを教えてもらった。

ただ、「物語(ストーリー)」には、もうひとつ重要な役割があると思う。
キーワードでは括りきれず、ポイントというものでは表象し得ない何かが、「物語」の隅っこには潜むのではないか。

たぶんわれわれが飽きもせず物語を語る、物語を聴く(読む)ことの理由もそこにある。
キーワードやポイントの「提示」ではなく、「物語」を語ることの意義もそのあたりにありそうである。

さらに、言いよどむ、ためらう、口ごもる、適切に言語化し得ずキーワードを探しあぐねるというのも、黙過してはならない知的プロセスであると思う。

キーワードへと還元し得ないと感じる何かをその片隅に宿らせるため、その隙間に滑り込ませるため、あるいはこぼれ落ちそうな何かを危うくすくい上げるために、物語がある。

論理的で理路整然とクリアカットな物語ではなく、行きつ戻りつする「どもりがちの物語」からわれわれは語り始めるべきであろう。

整序された物語はその語る意味内容は伝わりやすいだろうが、つねにそこには何か取りこぼしがあるような、言い足りない何かがあるように感じるものでもある。

報告された6人の学生さんたちはみな堂々たるものであった(わたくしには真似できない)。

みなさん異口同音に「教えることのむずかしさ」について実感こもったお話をされた。

教えることが大好きで、教員たるを天職と考えている先生は世に多いが、わたくしには想像の外である。
どうもわたくしは「教えること」も「教えられる」ことも嫌いなようである(子どものときっから)。
「教育」というものにも違和を感じる。

それはもう小学校のころからなので、致し方ない。
学校という空間はそれこそ小学校のころから好きだったのだけれど、そこに「教育」というものが入り込むとどうも馴染めない(それじゃ学校にならんか)。
偏屈な奴ですまないと思う。

かくのごとく"teaching"ということには違和感を覚えるのだが、"learning"というものの価値を認むるに人後に落ちないつもりである。

そしてわたくしはheuristic(発見的認識)という言葉が好きである。
"learning"の本旨はそこにある。
それは、「教える/教えられる」対象としての知識がそこにあって、「教える者」と「教えられる者」のあいだに授受がおこなわれる、というのとは異なる。
教師が語る言葉から、彼が教えていないことを学ぶ、というのが理想である。

なるほど雲を掴むような理想なので、わたくしの話は自然と回りくどく、およそ「解答」のない話し方になる。
そしてしばしば破綻する(涙)。
過剰に語り、そして言い足りないと思うのが常だ。

わたくしが学校インターンシップの研修風景を見学に行った学生もひとり報告のため登壇したが、「教える/教えられる」関係のコミュニケーションについて触れていた。

彼女が言っていたように、このコミュニケーションは双方向性である。
「教える側」と「教えられる側」の立場は与件ではないし、確定的に定まったリジッドなものでもない。
わたくしが子どものときから苦手なのは、おそらく「教える者」→「教える内容」→「教えられる者」というコミュニケーション図式なのだと思う。

「教える/教えられる」関係性がリジッドなものでないのはもちろん、「教える内容」も所与のものではなくて、コミュニケーションの隘路からheuristicに立ち上がってくるというのがいいと思うんだけどね。

文学部のホームページに今回掲載されたコラムで、教育学専修のK崎先生が「私の専門は心理学である。けれども、『心のケア』という言葉には、どうしてもなじめない。なにかしら違和感を感じてしまう自分がいる」と書いておられて、門外漢ながらわたくしもたいへん共感を覚えた。

K崎先生は「心のケア」というものについて、こんな風に述べている。
 「心のケア」という言葉を使うとき、「それが必要」か「必要でない」かで、人を見てはいないだろうか。あるいは、「私はケアする人」「あなたはケアされる人」という関係になりはしないか。そこには、どうしても線引きの発想が入り込んでくる。「虐待」という言葉も同様だ。人が「虐待」と口にするとき、暗黙のうちに、「私は虐待をしない人」になっている。言葉の影響力は大きい。

 人は、支えると同時に支えられる存在である。だから、ケアするときもあれば、ケアされるときもある。それが、本来のありかただろう。けれども、「心のケア」という言葉は、どうしても一方的な響きがある。こう感じるのは、私だけかもしれないが。
(http://www.kansai-u.ac.jp/Fc_let/index.htm)

「心のケアをする人」「心のケアをされる人」「心のケア内容」の3点構図からなるコミュニケーションというのは、上の「教える者」「教えられる者」「教える内容」の関係性と類比的に思える。

関係ないよと怒られるかもしれないけど。

いずれにしても、われわれはみな一様に、小学校以来「教育」現場で長らく過ごしてきた。
大学4年を終えたら16年間である。

異様なほど長い。
学生さんたちにとっては、「人生のほとんど」である(そのまま大学に残ったわたくしにいたってはどうなるのか)。

しかしながら、それだけ長く「教育」空間に浸ってきたにもかかわらず、われわれは「教育」というものについてあまり知らない。
いや、あまりに「自然化」してしまっているのだろう。

研修に参加した学生さんたちは、「現場を直接体験する」ことと同時に、「教育」というものを対象化して見る視座を得たのではないだろうか。

留学生への日本語教育補助にあたった研修生が、報告のなかで異文化理解の機会を持つことができたと言っていた。
教育現場というのはわれわれが「一番よく知っている異世界」である。
そのような意味で、学校インターンシップは「自文化理解」の場でもあるのだろう。

研修生たちの報告後、フロアからある校長先生からひとつの異論が出された。
インターンシップに参加されたのは、いたって真摯で真面目な学生さんたちばかりである。
しかし、「教育」への情熱を秘めた「教員志望」の学生が、将来教壇に立つための準備や、あるいは「教育実習」の予行演習のために学校インターンシップに参加するというのは少し趣旨が違うのではないか、というものであった。

研修生たちが異口同音に語るきわめて良心的な「物語」の文法、そしてその拠って来たる心性に、一抹の疑念を抱いておられているとわたくしは解釈した(違っているかもしれないけど)。

傾聴に値する意見だと思う。

また、この校長先生は「教員志望」の学生こそ企業に就職すべきであり、企業に就職しようと思っている学生こそ教員になってもらいたいとも述べておられた。

かつて大江健三郎が、作家志望の若者には、まず就職して社会を見て、30歳を過ぎたあたりから小説を書き始めた方がいいとアドバイスすると書いていた。
自身は大学在学中に作家デビューし、卒業と同時に職業作家となってしまったために、自分には何かが欠けているとつねづね後悔の念を抱いてきたと。

インターンシップに参加する学生にこのような視座を求めるのは酷だと思うけれど、「教育」をめぐって個人的な違和感を拭いきれぬまま馬齢を重ねてきたわたくしとしては(そして「教育」が苦手なのに大学院を出てすぐ「教える側」になってしまった大馬鹿者として)、かの校長先生が開陳していたご意見には思わずうんうんと頷いてしまった。

うんうん(首肯)。

(以下その年の瀬雑記後半に続く)
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by mewspap | 2006-01-07 01:50 | シネつぶアーカイヴ

シネマのつぶやき(その46:前)

■シネマ◆
■の■■■
■つぶ■■ ◆ その46(前)
■■■やき ■ ■ ◆ 2004-12-17

やっほ。

だんだん寒くなってきたので、朝起きるやいなや「よっしゃ今晩は鍋にするぞ」と心に誓い、早くもうきうきする。われながら脳天気な人である。
でもなんか妙に暖かい一日だったりして困る。
夕方になるころ、ううーんどうしようかと頭を悩ます。ほんと脳天気な人である。
でもやっぱり晩ごはんは鍋なのです(おいしかった)。

本年の世相を表す漢字は「災」に決定したのだそうです。
例によって清水寺のお坊さんが黒々と大書していた(坊主が災いで「坊災」か、記念日みたいでへんなの)。
でも今年もいろいろあったからね。

いや、ほんと。

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へんな言葉たち
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なんでだかよくわからないが、最近へんてこな言葉が流通している。

若い人たちが頻用する「なにげに」とか「さりげに」とか。
これは「なんとなく」「しらっと」というイメージで使われているようだ。

もちろん「なにげなく」「さりげなく」がただしい。

「なにげない」「さりげない」の「ない」という否定をはしょってしまうとは相当に大胆である。
否定を取ったら反対の意味になってしまうと思うのだが。

「なにげ」というのは「何気」であり、「気」というのは意識的な意図を表す。
「なにげない」は「何ら意識的な意図のない」ということである。
だから否定をはしょってしまって、例えば「なにげに言う」なんて表現は、「何か意図」(たいていは悪意)があって「意識的に言う」という意味になる。

「さりげに」も同様である。

「さりげなく」は漢字で表すと「然り気なく」となり、「然る」とは「そのような」という謂いである。
したがって「さりげなく」というのは、「そのような意図を感じさせずに」の意味となる。
だから「さりげにする」というのは、「そのような意図」(たいていは底意)をもって「意識的にする」という意味にならざるを得ない。

どうもなにげに(=悪意をもって)言ったり、さりげに(底意をもって)したり、相手を怒らせるきわめて攻撃的な身振りが巷間流行しているようである。世相かな。「災」。

しかしそれなら「大人気なく」「味気なく」「悪気なく」「危なげなく」はどうなるのか。
「おとなげに」「あじけに」「わるぎに」「あぶなげに」と言うのであろうか。

「何となく」が「何とに」とは一体何なのか。

「愛想なくすみません」は「愛想にすみません」か。
「紛れもない事実」は「紛れな事実」でしょうか。
「造作なくこなす」は「造作にこなす」かい。

「いぎたなく寝る」は「いぎたに寝る」、「もれなく当たる」は「もれに当たる」、「あどけない笑顔」は「あどけな笑顔」、「あられもない姿」は「あられもな姿」、「気ぜわしなく働く」は「きぜわしに働く」となるであろう。
「かたじけないでござる」は「かたじけでござる」、「まもなくいらっしゃいます」は「まもに来るぜ」、「いたいけない子ども」は「いたいけなガキんちょ」、「こよなく愛する」は「こよに惚れとるよん」となるとおっしゃるのか。

「いたたまれない気持ち」「覚束ない手際」「いかんなく発揮する」「心おきなく活躍する」は……もういい。

それから「きもい」とか「きしょい」というのもある。
むろん「気持ち悪い」「気色悪い」がただしい。
「悪い」というきわめてネガティヴなコノテーションをまるっと脱落させてしまっている。
これでは逆にポジティヴな含意となってしまうと思うんだけれど。

へんなの。

「意地悪い」は「いじい」(なんか年寄りくさい)であり、「気味悪い」は「きみい」(玉子かい)となることは避けがたいであろう。
むろん「身持ちが悪い人」のことは「みもちい人」と呼ばねばならない(なんか可愛らしい人みたい)。

だが、こういうものもいずれは「元来は誤用だが」という注釈つきで、辞書にもレジスターされてしまうのだろう。

世の中そういうものである。

例えば古典的な事例では、「見損なう」というのがありますね。
この言葉は「やなやろーだ」というニュアンスで使われているように思える。「そんなこと言うなんて、お前見損なったよ」というふうに。
元来「見損なう」というのは「評価を誤る」の意である。
だから「いい人(あるいは悪い人)だと誤解していた(けど違うんだ)」という趣旨で、「お前のこと見損なっていたよ」という言い方になるわけですね、本来は。

とはいえわたくしも他人のことはとやかく言えない。忸怩たる思いの間違いを数多重ねてきました。

例えばこの「忸怩たる思い」。
今でもときどき「悔しい」「情けない」「腹立つ」という含意で使っている人がいるけれど(わたくしもそう思っていた)、「忸怩たる思い」というのは「顔から火が出るほど恥ずかしい」という意味です、ほんとうは。

だから「私は内心忸怩たる思いを禁じ得ないのだ!」なんて怒鳴る人がいるけど、そういう怒り方自体、いささか忸怩たる思いを抱いていただかねばならない。

それから新聞記事なんかでときおり目にする表現で、青少年の犯罪者が「取り調べに対して悪びれた色もなく」なんていうのもしかり。
「悪びれる」というのは、「あー、オレっち人をぶっ殺してやったよ。それがなんか悪いんかい、けっ」みたいな態度のことだと思っていました(そりゃ「悪ぶる」でしょうね)。
「悪びれる」というのは「自信なげにおどおどした様子」の意味です、ただしくは。

だから人を殺めて捕まった少年犯罪者が「悪びれる風もなく事情聴取に応じている」なんていう報道は、恐い警察のおじさんの取り調べを受けても平然として淡々たる態度をとっているということです。
そして含意は、「われわれ常識人から見て、当然期待される子どもらしい態度をとらないような奇妙な若者が、またまた理解を越えた事件を起こした(やんなっちゃうね)」というものとなる。

古典的なところで他にも「棹さす」というのがある。
元来「時流に乗る」の意だったのが、「時勢に逆らう」と反対の意味になってしまったようです。
何を隠そう、それどころかわたくしは、『草枕』にある「情に棹させば流される」というのは、「強い流れで棹が流されてしまって困る」と解釈し、「下手に手を出すと自分に害が及ぶ」という意味だと誤解していた。

とっても忸怩たる思いを禁じ得ない。

じくじじくじ。

英語にも意味が逆転してしまった言い回しがあります。

有名どころでは"A rolling stone gathers no moss."というのがありますね。
高校のときに「このことわざはイギリスとアメリカでは意味が正反対になる」と教わりました。

"A sound mind in a sound body."は「健全な肉体に健全な精神が宿る」と解釈されるけれど、本来は"Let a sound body have a sound mind."という「祈願文」であり、「ご存じのように健康的な肉体にはなかなか健全なる精神というのが宿らないのが世の常ですけれど、ま、そこんとこがんばって肉体的には健康で精神的にも健全というほとんど不可能なアクロバットを遂行しましょうね」の謂いなのである。

端的に、このことわざは「健全な肉体に健全な精神は宿りません!」と宣言しているのである。

そう言えば、わたくしが若いころ「えびぞる」という造語が流行ったことを思い出した。
「海老」のように「反る」わけですから、「のけぞる」「おったまげる」「呆れかえる」といった意味で使われてていたように記憶している。

そしてこの言葉を典型例として、「最近の若者言葉は……」と眉をひそめる世の知識人たちがいましたが、かの井上ひさしがひとり反論を呈していたのを覚えています。
言葉のうつろいゆくは理の自然であると。
日本語はそのようなフレキシビリティが構造化されていると。

井上ひさしによれば、中世の坊主は「聖」(ひじり)と呼ばれていましたが、それをもじって「聖(ひじ)る」という言葉が民間流布したそうです。
「聖る」という動詞は「(坊主のように)ぶらぶらしてなんにもせずにのらりくらいと暮らしてゆく」といった意味だと説明されていた(やに記憶する)。
かくのごとく日本語はきわめて柔軟であって、現在の若者言葉にかぎらずご先祖さまも新造語の発明にご熱心であったと井上ひさしは言っていた。

読み間違いというのも多々ありますな。

たいへんな読書家であるにもかかわらず、なぜか井伏鱒二を「いじょうたるじ」だと思い込んでいた人をわたくしは知っている(ただしくは「いぶせますじ」ですね、もちろん)。

それからわたくしが学生時代に、「誤謬」を必ず「ごびょう」と読む先生がいました。なんか画鋲みたいですね(ただしくは「ごびゅう」です、むろんのこと)。
同じくこの先生は"determine"を必ず「ディターマイン」と発音されていました。過去形だと「ディターマインド」となるわけです。
かの先生は日本語は言うに及ばず英語もたいへん堪能でらっしゃったので、もしそれらが単なる思い込みでないとしたら、お育ちになった地方の方言か(「びゅう」と「びょう」の区別のない地域)、留学された英国の方言(コックニー訛りではもしかして「ディターマイン」なのかな)だったのかもしれません。

日本語であると英語であるとにかかわらず、教室で学生がトンデモな読み間違いをするという風景はしょっちゅうであるし、わたくしは吹き出しそうになるのをこらえながらあまり苛めないように心がけています。
わたくしは概して「読み間違い」には寛容です(自分でもよくやらかすから)。

例えば「馴致」。
わたくしは長らく「くんち」だと思い込んでいました(ただしくは「じゅんち」)。何となく「訓練」の「訓」に似てるし意味も近いので思い違いをしていた。

漱石の小説にしょっちゅう出てくる「兎に角」という言葉を見て、「うさぎにつの」って何だろうと深く思い悩んだこともありました(「とにかく」が正解)。

また漱石にはこんな会話もあって、目が点になったこともあります。

「無闇にお金をぱっぱっと遣う様にでも思っていらっしゃるのよ。屹度そうよ」
「うんこの前京都へ行ったときにも何だかそんな事を云ってたじゃないか」

「うんこの前」って一体、漱石ともあろう方が……。

しかし、学生諸君の場合、「思い込み」ではなく「ぜんぜん知らずに初めて見た」という語彙で言い間違えることが多いようです。
英和辞典をひいて、そこに書かれた日本語を適切に読めない。これはちょっと由々しきことである。

そういえば、近年のへんてこなものの筆頭に「ていうかぁ」話法があります。

そのことを朋友cricketことN島せんせがHPのダイアリーに次のように書いていました。
最近の私の口ぐせは、「ちゃうねん、ちゃうねん」である。
これは、スピリッツという雑誌の『ポンず百景』という漫画にでてくる「おかん」の口癖である。
しゃべり始めるときに、「ちゃうねん、ちゃうねん」から入る。
自分の前にある発話を全部リセットするのである。
これは、若者言葉の「っていうか」に似ている。
私はこれを研究対象としたわけではないので、粗雑な考察であるが、「っていうか」も、前の発話に賛意を示すでもないのみならず、反意を示すのですらない。
無視、なのである。
あんたのいうことはどうでもええけど、私的には。。。という意味である。
つまり、自分の土俵に入ってこい、という傲慢な態度である。
一人がこれをやって、みんなが私の土俵に入ってきてくれればいい。
しかし、これをみんながやり出すと、大変空虚な会話になる。いわゆる孤独な群衆というやつである。
People are just talking without communicating.
ということで、他人の発話に耳を傾けるようにせねばと自戒するcricket であった。
っていうか、「っていうか」って死語?っていうか、関西では使わないのかな?
(http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~english/diary.htm)

cricketせんせ、遺憾ながらこれは「まだ」死語ではないし、むろん関西でもよく耳にしますよ。
飛ぶ鳥落とす勢いの斎藤孝が「ていうか症候群」と呼んでいますね(『コミュニケーション力』岩波新書)。
ていうか、政治家やテロリストの密かな常套句として、これはきわめて国際的汎用性の高い話法と言っても過言ではないでしょう。
「相手の言い分まるっとリセット」の話法こそ、あらゆる紛争の淵源なのじゃないかな。

「わたし的には」で始まる文言も、「一切の反論を許さない」とデクレアーしているように聞こえる。
だって「わたし的には……と思うんですよね」というのに対してこちらの「意見」など表明しようがない。
「わたし」が「思う」というのは、たとえその内容がいかに狂ったものであれ、他者が介入し得ない不動の事実だから。
他人は「あなたが思う」という事実に決して参与できない。

だから論文では、「私を殺せ」「思うんじゃない」と繰り返し申しているのである。
「私」はなし。
「思う」こと禁止。

相手の言葉に対して「ほんま!?」と言うか「うそー!?」と応えるかも、コミュニケーションの立ち上げにおいてけっこう大事な岐路であるように思う。
考えたら「うそー!?」というのはあんまりな表現である。"You're a lier!"なんだから。

大阪弁(河内弁?)というのも不思議な言葉である。
初め「せやせや」という「諾」「了」"Yes" "Yeah"の肯定の表明が、わたくしには何のことかさっぱり解せなかった。
第一「せっせっ」と聞こえるんですよね。
せっせと何言っているんだろうって。
承認よりもむしろ反対言明、了解よりもむしろ攻撃のニュアンスが感じられた。

あまり知られていないことであるが、「これチャウチャウ犬とちゃう?」という大阪弁ジョークは20年前にわたくしが創始したものである。
今では巷間流布しているようでちょっとくやしい(みんな同じこと考えるんだね)。

「これチャウチャウ犬とちゃう?」(これはチャウチャウ犬じゃないですか?)
「ちゃうちゃう」(チャウチャウ犬とは異なりますよ)
「ちゃうちゃうちゃうわ」(異なりますよというのは誤りである)
「ちゃうちゃうちゃうちゃうわ」(異なりますよというのは誤りであるというのは間違いじゃこら)
「ちゃうちゃうちゃうちゃうちゃうわ」(てめー、このやろー、逆らうなっつーの)

以後、殴り合いによる決着を見るまで無限に続く。

わんわん。

要するに「言は剣より暴力的」ということである。

だから「挨拶」というのはけっこう重要である。

「やっほ」とか。

でも学生さんたちにはつねづね注意しているように、「こんにちわ」というのは誤表記である。
もちろん「こんにちは」がただしい。

◇◇━━━━━━━━━━━━━━
「ゆっくりルーティン主義」@『AERA』
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前回、『AERA』の「わるくち」を書いた手前気恥ずかしいのだけれど、12月13日号に我が意を得たりという記事を見つけた(まだ買い続けています、でへ)。

久しぶりに「そうだよね、まったく」と(帰りの電車のなかで)思わず嘆息するものでした。

毎日同じ時間に起きる。決まったルーティンをもっていてそれを遵守する。パターンとリズムとアクセントを変更しない。生活そのものを楽しむ、日常の些事をおろそかにせずに魂を込める。予定変更を求める外部的な介入には、静かに眉をひそめる。

村上春樹の主人公たちのように、料理をし、丁寧に洗濯をしてアイロンをかけ、掃除をして、好みのビールの銘柄を変えずに、飲む場所と時間にこだわり、慎重に聴く音楽を選ぶ。そしてそのプロセスそのもののもたらす「小確幸」をかみしめるように楽しむ。

こういうのが「ナウく」て「クール」で「おっしゃれー」で「いかす」な「かっくいい」ものなのである(ほぼ死語を列挙)。

「ま、もうあたふたしてもしかたないか」的に脱力した諦念の境地にぴったりの「人生の習慣」(@大江健三郎)ではないか。

だいたいわたくしは子どものころから「ひとりで何かする」のが好きでした。
「ひとりが充実している人」だと奥さんにもよく言われます。

有為転変が嫌い。
多忙がいや。
自分のなかのルーティンを定めて粛々とことを進める。

アポで空白を埋め尽くさないと気が済まない「スケジュール帳空白シンドローム」の人がわたくしには理解できない。

手帳の空白はわたくしにとって黄金の輝きに映る。

永劫回帰、円環、ルーティンが大好きで、一度決めたことを守って繰り返すことに至上の喜びを覚える。
別にいろいろハプニングがあるわけではないが、わたくしは「退屈」というのをしたことがない(電車で読み物持参するのを忘れたときや、仕事で有無を言わせずある一定時間拘束されるときを除き)。

日用品も決まったものを繰り返し買う。
料理の素材でも料理のプロセスでも、食事に行く店でも注文するものもたいてい一度決めたら変えない。
ワンパターン大好きである。

簡単なことと思われるかもしれないが、それは短見であろう。
時間がきわめてスピーディに流れる現代において、これはなまなかにできることではない。
だって、お気に入りの商品がすぐにモデルチェンジとなったり改良版となったりリメイクされたり生産中止になったり売ってるお店がつぶれたりするんだから。

我が家では、わたくしの「お気に入り」は店頭から消えるというジンクスがある。

歯ブラシ、コーヒー・ミル、コロン、料理用具、シャンプー、パソコンのキーボード、ボールペン、のど飴、スニーカー、ボタンダウン、マグカップ、編みタイ、タイトフィット・テイパードのジーンズ、コールテンのジャケット、手帳、メモ帳、ノート、シャープペン、ディバック、ウエストポーチ、セーター、財布……。要するに何でもかでもである。

あたかもわたくしが「気に入った」瞬間、その商品に刑が宣告され寿命が定まるかのようである(わたくしに愛用されることはメーカーが恐れおののく現象であろう)。

何も人気のなさそうなものを選択的に愛好する「自己成就的予言」の類ではない。むしろこれは一種の「マーフィーの法則」である。
わたくしが気に入った「から」消えるのではなく、長く使い続けているので消滅する商品と出会う確率が相対的に高くなるのである。そして「ほら、やっぱりね」と記憶に深く刻まれる。

何にせよ『AERA』の記事に登場する「堅固な脱力主義」とでも呼びたい女性たちに、わたくしは心から共感する。

彼女たちはもはや「均等法の波乗りサーファーのつもりがふと気づくと梯子を外され下の世代からも総スカン喰らう孤独なキャリア・ウーマン」とも「マンション買い急ぐ女たち」とも「パラサイト・シングル」とも「ブランド品買い漁り症候群」とも「勝ち犬/負け犬」とも「自分探し症候群」とも「カリスマ専業主婦への憧憬」とも無縁な方たちである。

おそらくは「韓流」なども一顧だにされないであろう。

ただし、記事にご登場の「ルーティン主義」を貫徹するこれら女性たちは、判で押したように一定以上の収入のある、そして深夜0時まで残業があるわけでもない、「独身女性」だった。

上に掲げた条件(安定収入、時間コントロール、そしてシングル・ウーマン)は偶然ではない。

フリーターやリストラ族はもちろん、低収入や激務を強いられている方々、営業職など時間管理が「他人次第」で日替わりになるような方々には無理な相談である。

何よりもドライな事実は、みな一様に「未婚」であること(同居人がいたらルーティン主義の貫徹はそれだけでむずかしい)。

そして「子なし」であること。

子どもというのは、こちらが疲れて寝ようとすると夜泣きをし、明日の仕事の準備をしているとゲロを吐き、忙しくなって目が回りそうなときに発熱するものなのである。

子どもとは世界最強のルーティン・デストロイヤーである。

ルーティン主義の教祖である村上春樹は、そしてその主人公たちも、みんな「子なし」である。
その村上春樹を若い女性たちが範としている現状には、ちょっと考え込まざるを得ないところがある。

と言ってみただけで、別に何も考えんけど。

(以下その46後半に続く)
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by mewspap | 2006-01-07 01:40 | シネつぶアーカイヴ

シネマのつぶやき(その45:後)

■シネマ◆
■の■■■
■つぶ■■ ◆ その45(後)
■■■やき ■ ■ ◆ 2004-12-05

◆『ブラック・ホーク・ダウン』BLACK HAWK DOWN
d0016644_1424783.jpg2001年アメリカ
監督:リドリー・スコット
出演:ジョシュ・ハートネット、ユアン・マクレガー、トム・サイズモア、エリック・バナ、ジェイソン・アイザックス、サム・シェパード、ロン・エルダート、ユエン・ブレンナー、ウィリアム・フィッチナー、ブレンダン・セクストン・III、オーランド・ブルーム
ツタヤの惹句によれば次のようである。
1993年10月3日。ソマリアの首都モガディシュのダウンタウンに、100名の米軍特殊部隊の兵士たちが舞い降りた。彼らの任務は、現地の独裁者アイディド将軍の副官2名を捕らえること。当初、作戦は1時間たらずで終了するはずだった。しかし、2機のブラックホーク・ヘリが撃墜されたことで、兵士たちの運命は一変。仲間の救出にあたる彼らは、地獄絵図の真っ只中に取り残されることに…。

1993年 ソマリア。アメリカ兵士の15時間に及ぶ壮絶な市街戦の模様を生々しい体感映像で再現した戦争アクション。『アルマゲドン』『パール・ハーバー』の製作者ジェリー・ブラッカイマーとリドリー・スコット監督が手を組んだ衝撃の戦争大作。

わかりやすく明快な文章である。アキモトせんせとしてはこのショート・レポートに「優」を進呈したい。

なるほど「事実に基づく」映画の話法どおり、冒頭には背景説明のキャプションが流れる。

印象的なアラブ音楽をBGMに冒頭のキャプションが語るのは、ソマリアで血みどろの部族間紛争が続き、それにより30万人の餓死者が出た事態である。
国際世論の後押しでアメリカ海兵隊2万人が出動して紛争は一時沈静化したが、アイディド将軍率いる最大部族が国連平和維持軍に宣戦布告し、アメリカ軍も攻撃対象となる。

そして上空のヘリコプター(チョッパー)からの視点。
眼下に見えるのは荒涼とした大地に群れる人々、そしてアイディド将軍の民兵が国際赤十字の食料援助物資を掠奪独占している風景である。

「つねにただしい」アメリカのデルタ・フォースは、「悪しき」アイディド将軍の民兵が無辜の民を犠牲に供しているにもかかわらず、人命救助の介入が許されない。
国連規定の足枷ため、「正義」の行使がかなわず歯がゆい思いを強いられている。

「イノセントで正義のアメリカ」の苦渋というのが、冒頭で強調される物語である。

ヴェトナム、カンボジア、南米、中東いずこでも、野蛮で残虐な「非文明国」に対しアメリカが正義の刃を振るうという構図がア・プリオリに措定され、それが阻まれるのは許すまじき倫理規定違反であると観念されるようである。

多くの人物が登場してあたかも群衆劇の様相を呈するが、ソマリア人がほとんど文字通り「群衆」(rabble)として一括りにされるのに対して、「こちら側」のアメリカ兵の側は個性が埋没することはない。
一人ひとりの個性がくっきりと描出される。

出演はジョシュ・@『パール・ハーバー』・ハートネット、ユアン・@『スターウォーズ』『ビッグ・フィッシュ』・マクレガー、トム・@『救命士』『トゥルー・ロマンス』『ナチュラル・ボーン・キラーズ』『パール・ハーバー』・サイズモアらと多彩。
トム・サイズモアがいつものように「いい味」を出している。
将軍という意表を衝く役(!)のサム・シェパードもよい。
エリック・バナって人もクールでタフな戦場のヴェテラン、フート役で味を出す(戦争映画の類型的な人物像だけど)。

加藤幹郎先生の『映画ジャンル論』によれば、ヴェトナム戦争以降、ヘリコプターは戦争映画の顕著なイコンとなっている。
『M★A★S★H』『グリーン・ベレー』を初め、『地獄の黙示録』『プラトーン』『7月4日に生まれて』『カジュアリティーズ』『ハンバーガー・ヒル』。
そしてもちろんメグ・ライアンとデンゼル・ワシントンの湾岸戦争映画『戦火の勇気』でも。

ブラック・ホークというのは強襲用ヘリコプターであり、当然のことながらこの映画の中心的なイコンもヘリコプターである。
冒頭はヘリコプターから見た眼下の情景だし、映画の半ばで編隊を組んで海岸線沿いに飛行するシーンは『地獄の黙示録』からの引用かと思わせる。

がんがんかかるロック音楽も、戦場のアメリカ軍のもうひとつの「イコン」であろう(「図像」というよりオーディブルな「聴像」であり「聴覚イメージ」だけど)。

ブラック・ホークが出撃するとき、ジミヘンの「ブードゥー・チャイル」が鳴り響く。
『地獄の黙示録』における「パープル・ヘイズ」やドアーズの「ジ・エンド」、あの時代からアメリカ兵の嗜好に変化が見られないとは考えにくいが、リドリー・スコット監督はフランシス・F・コッポラやオリヴァー・ストーンと戦場の形象化において、同じイメージを投影していることが見て取れる。
(あ、デイヴィッド・O・ラッセル 監督の『スリー・キングス』ではラップ音楽だったっけ?)

イコンと言えば、湾岸戦争以来、砂塵のなかの戦車の白いボディや兵士の白いヘルメットに青々と書かれた「UN」の文字も、新たな戦場のイコンとなっている。

アメリカが「他国の紛争」に「介入」するという図は、どうしてもヴェトナムのデジャ・ヴュなので比較したくなるのであるが、両者には「イメージ上」の大きな懸隔も確かにある。

ヴェトナム戦争ではジャングルが戦場であり、敵兵は密林に潜んだヴェトコンだった。
今では「戦場」と呼ぶのがためらわれるような煤けた家並みが連なる街中が舞台となり、民間人がぞろぞろ登場して兵士との見分けも困難となる。
イエメンの街中を舞台とする『英雄の条件』は、まさしく戦場と非戦闘地帯の差異が消失し、兵士と民間人との識別が曖昧になるという点をモチーフにしたものであった。

この映画では最後の撤退シーンで、救出に来た国連軍の車両の前を、赤ん坊の遺体を抱いた老人が横切るスローモーションの絵柄が印象的であった。

つけ加えれば、この映画独自のイコンとして膨大な量の薬きょうがある。ヘリコプターに装備されたミニガンを乱射し、地上に雨あられと降り注ぐ薬きょうや、市街戦で重機関銃やライフルからはじけ飛ぶ薬きょう。
後半の山場でも、スローモーションで薬きょうがばらばらと降り注ぐショットが反復される。

上空から降り注ぐこれら多量の薬きょうが誇示するのは、アメリカという「圧倒的な火力と物量による正義」である。

他方、それらが遮蔽幕となって覆い隠すのは、薬きょうの大量放出にともなう結果であろう。

上空のヘリコプターから降り注ぐ薬きょうの「量」に観客は驚倒するが、そのひとつひとつに人間の死がともなうことを忘失しても倫理的痛みは感じない。

個性的なアメリカ兵に比して、"skinnies"(がりがり野郎ども)と蔑称で一括りにされる「敵」はわけの分からない影の群れであり、わらわらと襲い来る無数の「ゾンビ」のように見える。その死は個別識別されることなく、「大量の薬きょう」に対置された記号と化する。

アメリカのヘリコプターは手の届かない「上空」からミニガンを乱射し、「地べた」を徘徊する顔なき敵の死は薬きょうと等価の「量」に還元される。

街のあちこちから沸いて出て、墜落したヘリコプターを目指して蝟集し、そして次々と木偶人形のように撃たれて倒死する群衆の図像は、どう見てもゾンビ映画なのだ。

理想主義者の主人公エヴァーズマンは出撃前に、美しいビーチ、美しい太陽のこの土地は観光にこそ適しており、自分たちアメリカ兵がいるべき場所じゃないのではないかとつぶやく。
それに対し戦闘ヴェテランのフートは、「どう考えるかなんてどうでもよい。最初の一発が頭をかすめたとき、政治のたわごとなどどうでもよくなる」と応じる。

フートの経験主義的な「リアリズム」はエヴァーズマンの観念的な机上の「アイディアリズム」と対置されるが、フートが言うのもあくまで「わたしの頭」であり、銃弾がかすめたときの「わたしの政治的たわごと」の雲散霧消なのである。

だが、戦争映画の「視点」はあからさまに「政治的」なものである。
人間の生と死を一方の側から描き、敵側にはタンジブルな生も死もない。『コンバット』の時代から変わらぬ語法である。

こちら側の死はきわめてフィジカルである。
取り残された部隊の救出命令が出されるが、将軍の「ひとりも残すな」という言葉が繰り返される。
「死体でも、身体の断片だけでも」と。

こちら側にはさまざまなバックグラウンドをもった個性的な「人間」がおり、血にまみれたリアルな銃痕と死があり、対して向こう側には顔の見えない記号化された「悪しき敵」がいて、記号化された死を迎えるのをただ待っている。

降り注ぐ薬きょうは大量に映し出されるが、それが幕となって大量に発射される弾丸の行方を覆い隠す。

だからブラック・ホーク・「ダウン」なのであろう。
この映画で多くを占めるのは凄惨な「地上」戦である。ホバリングして上空から指示を与えるヘリコプター、負傷兵を搬送するヘリコプターの眼下に、無数の銃弾が飛び交う。
そしてヘリコプターは地対空ロケット砲(RPG)によって地表に引きずり下ろされ、そこに匿名の"skinnies"たる群衆が群がり、殺し、奪う。

上空から地面に引きずり下ろされたとき、アメリカは同じ目線の高さでフィジカルな敵と、そしてフィジカルな死と対峙することになる。

エンディングの語りは戦死した者へのトリビュートである。
「ソマリア人の死者1000名以上、アメリカ兵の死者19名」というエンド・クレジットの「量」に還元された数値そのものが、その数の非対称性や概数で表されるソマリア人死者数の曖昧さとともに、圧倒的な皮肉と目を覆わんばかりの不条理性を惹起する。

抽象的な「戦争」も、場としての戦場も、行為としての戦闘も、不条理である。条理などどこにもない。

『プライベート・ライアン』以来、戦争映画はどんどん「痛みの描写」がリアルになり、不条理性をそのような身体感覚で表現するようになっている。

そして戦争映画のつねとして、経験値の低い若者が戦場のヴェテランによって過酷な「現実」へと導かれる「イニシエーションの物語」がひとつのモチーフとなる。

「人を撃ったことのない」理想主義者のエヴァーズマンや、配属されたばかりの若い新兵の現場での「教育」である。

そしてこの映画ではイニシエーションの「失敗」が描かれる。

やる気満々の戦闘経験なき18歳の新兵は、戦闘に参加する直前にヘリコプターから「転落」して瀕死の重傷を負い、意識不明のまま基地に送り返される。

エヴァーズマンは一兵士としてもリーダーとしてもおのれの限界に直面して命からがら敗走し、戦闘を通じて「書生的」な理想を失う。
基地に走って逃げ帰ったあと、とって返すように戦場に再び向かうというフートにしか、彼はもはや戦場の現実に拮抗し得る「理想のかけら」を見出し得ない。

政治的なたわごとや国のためでもなく、「ただ仲間のために戦う」と言うハードボイルドな兵士フートをロール・モデルにすることは、エヴァーズマン自身がかつて「別に好きなわけではないが敬意を表する」と言っていた「スキニーズ」を、個性なき群衆として記号化することを意味する。

「イノセントで正義のアメリカ」を体現する若者が、上空からではなく地表で体験するリアルな痛みと、フィジカルな死と、タンジブルな不条理に放り込まれるのである。

しかし遅まきながら救出にやって来る国連軍の車両の前を横切る老人にも、その腕に抱かれた死んだ赤ん坊にも、戦争はなんの意味ももたらさない。

彼らはつねに地べたにいる人たちである。

◆◆『ウィンドトーカーズ』WINDTALKERS
d0016644_1431483.jpg2001年アメリカ
監督:ジョン・ウー
出演:ニコラス・ケイジ、アダム・ピーチ、ピーター・ストーメア、フランシス・オコナー、クリスチャン・スレーター
「ハズレなし」のはずのニコラス・ケイジに大ハズレしました。

監督はジョン・ウーなのにな。

『バンド・オブ・ブラザーズ』を観たあとだったから、ますます戦場の描写に嘘と粗雑さが見えて仕方がない。
もっとも『バンド・オブ・ブラザーズ』でも、相変わらずのドイツ兵がデクノボウのように描かれているのにはまいったが。

この映画でも日本兵の描き方が相も変わらず。
アメリカ兵のみ「人間」で敵兵はデクノボウ。やめてよ、もう。(もしかして中国人ジョン・ウーの日本に対するルサンチマンなの?)

フレンドリーで異文化コミュニケーションのできるヘンダーソン軍曹(クリスチャン・@『トゥルー・ロマンス』・スレーター)と、仲間を死なせてしまった(ばか野郎の)エンダース軍曹(ニコラス・ケイジ)それぞれの、ナバホ族の暗号要員との異文化交流譚。

何となく高校の教科学習向けみたいなとこのある映画なんですが。

◆◆◆『YAMAKASI~ヤマカシ~』YAMAKASI: LES SAMOURAIS DE TEMP MODERNES
d0016644_144182.jpg2001年フランス
原案/脚本:リュック・ベッソン
監督:アリエル・ゼトゥン
出演:Yamakasi 、マエル・カモウン、ブリュノ・フランデル、アフィダ・ターリ
よい映画である。

現代フランス版の「石川五右衛門&ロビン・フット」のお話。

カンフー・マスターか忍者のような身軽な身体運用で、街中の建物をブリコラージュ的に利用してひょいひょい飛び回っていく。

「現代のサムライ」というのが原題のサブタイトルだけれども、「現代のニンジャ」だろうね、ただしくは。

だってサムライは跳べないぜ。
あんな高いところをひょいひょい登れんぜ。
壁をつたったり飛び降りたりできんぜ。

警察権力を茶化すのがフランス流。
ハリウッド映画では「バカな刑事」が出てくるが、フランス映画では「刑事をバカにする」のだ。

ベッソンって本当に「権力嫌い」なんですね。
そんで「和もの好き」なんですね(『WASABI』でも製作と脚本だし)。

警察嫌いな和もの好きときたら、つぎはヤクザ映画を作るんだろうか。
そう言えば『レオン』のジャン・レノは高倉健を彷彿とさせたし。

リアリズムを追求するのではなく、急激な画面転換、カットイン、カットバックを多用し、「これは映画だ」ということを絶えず思い出させる演出である。

最後は、ヤマカシに憧憬のまなざしを送る心臓病の少年ジャメルに、ヤマカシのみんながメッセージを送る「ヴィデオ」で終わる。

すなわち『ヤマカシ』は病気のジャメルが観ているスーパー・ヒーロー映画なのである。

2004-12-05
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by mewspap | 2006-01-07 01:35 | シネつぶアーカイヴ

シネマのつぶやき(その45:前)

■シネマ◆
■の■■■
■つぶ■■ ◆ その45(前)
■■■やき ■ ■ ◆ 2004-12-05

やっほ。

毎年この時期、4回生は卒論のため塗炭の苦しみに身をやつし、七転八倒に輾転反側の日々の「はず」なのであるが、今年度のゼミ生は例年になく「呑気」のように見える。

うむむ、これはちとまずいのではないかとそこはかとなく思う(あくまでも「そこはかとなく」だけど)。

昨年のゼミでワークシート方式を発案し、週に一度フォームに記入して提出を求めるやり方を導入したのだが、今年も(昨年同様)へろへろへろ~と曖昧に消え去っていった。

そこで急に思い付いて(いつものことである)、ゼミの授業以外にメールによる「ほぼ毎日研究日誌」の提出を求めたが、これまたどうもあまり芳しい効果が見受けられない。

そこで急に思い付いて(例によって)、巷間流行のブログによる研究日誌投稿を先般導入した。
わたくしにはよくわからないのであるが、幸いITに知悉したゼミ生がいたのでIT担当に勅命し、管理運営一切を押し付けることにした(A松くん、卒論なんか来年でも再来年でも書けるからブログの方をよろしく頼む)。

ゼミでは研究ノートを作成するよう毎年言っている。

頭でなく身体が考え、文章を書く「習慣」を刷り込むためなのだが、なかなかうまくいかない。
日々これ書くことを習慣にしていると、ある日「頭で考える」以前に「手が勝手に考えてふと気づいたらタイプしている」という境地が訪れるんだけどね。

そうなったら「たかが400字詰め原稿用紙50枚」なんて朝飯前のお茶の子さいさいのピース・オブ・ケーキなんである。

ワークシート方式もメール日誌もブログもそのための仕掛けにすぎない。

新規導入のブログ方式が期待される効果をいかんなく発揮するか、はたまた「忘れられたパイオニア」ワークシート先輩やメール日誌先輩と同じ道を歩んでゴミ箱行きとなるか、今後の行く末を刮目して待つべし(ってもう残すところ一ヶ月しかないんだけれど)。

全員が卒論未提出で落第などという事態に至ったら、アキモトせんせが馘首のうえ「ゴミ箱行き」になるであろう。

◇━━━━━━━━━━━
福原愛は「赤ちゃん」である
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先日、神戸で開催された卓球世界ジュニアで、女子団体決勝が中国に完敗しました。

記者会見で「中国選手に対して苦手意識を持っているのか」と意地悪な質問を受けた福原愛は、らしくない気色ばんだ顔つきで「答えなければなりませんか」と二度繰り返していた。
その「解答の仕方」そのものが雄弁な解答になっていることは言をまたない。
やっぱりこの「若さ」が可愛らしいのである。

朝日新聞の記事(12月2日)では、「中国選手へのトラウマ」を乗り越えられるかとまで書かれていた。
「トラウマ」とはあんまりだと思うけれど、「わたしを構成し、かつわたしがみずからの言葉によって言表し得ない外傷的経験」をトラウマと呼ぶならば、「答えなければなりませんか」と(愛ちゃんなりに)語気を強める姿勢は、まさしく「トラウマ的外傷」を露出させて余りあるものであろう。

だが3日の混合ダブルスでは中国勢を下して溜飲を下げ、女子シングルスでも3位に終わったものの準々決勝で中国を破り、対中国25連敗にストップをかけた。
愛ちゃんがよろしく「トラウマ」を解消されんことを祈る。

この夏のアテネ・オリンピックでも福原愛が注目を集めました。
わたくしは特に卓球に興味はないんだけれど、彼女の試合は見ていて飽きることがない。

なぜなんだろうと考えて、福原愛は「赤ちゃん」なのだとわかった。

今にも泣き出しそうな表情。
決めたときの「さーっ」という声(「よっしゃーっ」から来てるのかね)。赤ん坊の「にゃああぁ」という鳴き声にも聞こえる。
同時に遠慮がちのガッツポーズのごとく握りしめられた左手。頬に手をやって小首をかしげているみたい。

あの図像は明らかに「赤ちゃん」である。

いかなるスポーツも巧緻なくして勝利はないが、巧緻と言うよりもうほとんど「意地の悪さ」というものを要するスポーツなら、卓球とバトミントンに指を屈するであろう。

卓球はあまりのスピードで少々老眼が入ってきたアキモトせんせとしては目が追いつかないのだが、バトミントンの試合を観戦していると、選手たちはほとんど性格上どっか問題があるのではないか、と思えるほどの「意地悪さ」である。
あれは試合と言うより「イジメ合戦」と呼ぶに相応しい。
したがってバトミントンほど試合に負けて悔しいスポーツもないであろう。
そしてたとえ一敗地にまみれたとしても、「イジメ合戦」においては敗者の方がむしろ「人格的には上」であることを証明しているのではないか、なんてこと言ったらもちろん叱られるだろうけど。

とにかく、福原愛の試合は、悪しき大人がその巧緻と奸計と意地悪さを総動員してイジメるのに対し、赤ちゃんが必死に抗しているというイメージなのである。

がんばれ赤ちゃん……じゃなかった愛ちゃん。
ずるい大人に負けちゃだめだよ。

他方、みずからの不明を恥じたうえで言えば、今年は日本のスポーツ選手が意外に(ごめん)「立派な大人」であることを証明した年だった。
ヤクルトの古田敦也選手はもちろん、「脳味噌の主成分が筋肉であろう」と思われていた(ごめん)レスリングや柔道の選手たちが、アテネ・オリンピックで活躍しあるいは敗退したときに見せた姿勢には「大人」の品位が感じられた。

要するにスポーツは「赤ちゃん」と「大人」がすべきものなのである。

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そろそろ『AERA』ともさよならか
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一抹の恥ずかしさを覚えながら告白すれば、わたくしは朝日新聞社発行の雑誌『AERA』のファンである。
ファンであったと言う方が正しいかもしれない。

仕事帰りに車内で読むのにちょうどよい雑誌なんだよね。
満員電車で片手でつり革につかまっていると、新聞は拡げられないし文庫本でもページを繰るのがちょっとしんどい。

軽くてぴらぴらの『AERA』は通勤電車向きなのであった。
発行日の月曜の夕方、帰りの電車で隣の「キャリア・ウーマン風」の女性が同じ表紙の『AERA』を拡げているのがちょっと恥ずかしかったけど。

30代の女性(大卒、均等法世代のキャリア組、多岐にわたる文化表象の消費に旺盛で政治経済にもアンテナを張っている)をメインのターゲットにしている(と思う)この雑誌は、わたくしも共感するところが少なくなかった。

職場のハイラーキーにおける位置づけ(「旧弊な組織メンタリティ」の「上」の世代と「トンデモな言動」を見せる「下」の世代との板挟み)、社会のなかでの立ち位置(団塊と団塊ジュニアの「狭間の世代」)において共有するところ多としたのである。
さらに社会的階梯への新規参入者としての女性に対し、「路地裏からの成り上がり者」としてのわたくしは篤い同志愛を禁じ得なかったのである(「いらん」と言われるかもしれないが)。

かくのごとく「30代女性」の問題関心への親近感を覚えていたのであるが、最近はどうも違和を感じることが多くなった。

決定的だったのは最近の「勝ち犬/負け犬」論争と「韓流」特集である。
この二大潮流は、おそらくわたくしのような「隠れ『AERA』ファン男」を駆逐するに足るものだった。

しかし、編集方針に著しい転換があったということではないのかもしれない。
自然のなせるわざで、わたくしの方が雑誌のターゲットとする区域から外れてきたのであろう。

村上春樹がどこかで「35歳成人説」を唱えていた(ように思う)。
平均寿命が格段に延び、同時に教育サービスを受ける期間が延長された現代では、20歳で成人というのよりも35歳くらいでようやく大人になると考えた方が、社会的によほど妥当であると言うのである。

おそらく『AERA』とは、大人となりつつある人、大人になったばかりであたふたしている人を対象にした雑誌なのである。
どうもわたくしが抱く違和感は、「もうあたふたしてもしかたないや」という諦念のよって来たるところなのかもしれない。

だが、『AERA』とさよならしたら、わたくしは40分に及ぶJRでの帰途をどうやり過ごしたらいいのか。

ただじっと目的駅につくまで何もせずに忍従している乗客を見かけるが、わたくしにはとてもそのようなアクロバットは不可能である。何も読むものなしに電車に乗るなどと考えることもできない。
車内でバッグを覗いて読み物を忘れたことに気づいたときなど、あまりの絶望と虚脱感にこのまま死んでしまうのではないかと思う。

『週刊朝日』とか『週間文春』とか『サンデー毎日』とかの「おやじ雑誌」を買う気にもなれないし。
誰か「ちょっと知的で文化的な、諦観の境地にある40代女性」をターゲットにした新たな雑誌を創刊してくれないだろうか。

毎週買うのに。

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「天下○品」の「こっさりラーメン」
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京都を本店とするラーメン店「天下○品」が正門前に開店してもう10年くらいになるだろうか。

この店の売りは2種類のスープがオプションで選べるところにある。
一方はさらさらした「あっさり」スープ、他方は濃い「こってり」(と言うかほとんど「どろどろ」)スープである。

わたくしとしてはその「中間」がいいんだけれど。

別に「黄金の中庸」とか「折衝主義」とか「そんじゃ双方のご意見の真ん中をとって落とし所にしましょう」原理で動いているわけではないが、天下○品のラーメンは「こってり」と「あっさり」の中間がよろしいかと思う(「まったり」と呼びたい)。

ところがそんなものは店のメニューにないのである。

わたくしの寓居のある兵庫県三○市に「天下○品」が開店したとき、かねてよりの願望を成就すべく、同道していた運転手兼秘書兼奥さんと「あっさり」と「こってり」を一品ずつ注文し、スープを半分ずつ「分け分け」して交ぜて、憧れの「まったり」ラーメンを自主作成したものです。

そのうまさに落涙を禁じ得なかったことは言うまでもありません。

以来、そのお店には必ずペアで行って、「あっさり」と「こってり」のスープを「仲良く分け分けして交ぜ交ぜ」して涙を流しながら食べるという奇習を鋭意敢行してまいりました。

よかったね。

ところが、どうやら私どもの奇怪な行動を厨房からスパイしていたのであろう、店長の発案で三○市の「天下○品」には「三○スペシャル」なるものが登場を見たのである。

これがまた私どもの行動を凌駕する奇怪な代物で、「8」の字を描いた横長の特製ラーメン鉢の左右に「あっさり」と「こってり」の両者がそれぞれ別に入っているものなのである。

一杯で二度おいしいという商品コンセプトと容易に推察し得るが、店長は何か誤解されているのではないだろうか。

「二度おいしい」ってのじゃなくて、「あっさり」+「こってり」÷2の「交ぜ交ぜ」が食べたいのっ。

なるほどかねてよりの技法を援用し、8の字型のラーメン鉢で分かたれた左右のスープを半分ずつ「入れ替え戦」することができないわけではないが、特殊なラーメン鉢の形状ゆえにたいへん面倒である。

ある冬の日、確か入試期間中だったと思うが、I坂先生やN島先生と正門前の「天下○品」を訪れたとき、そのおじいちゃん店長に三○店における「三○スペシャル」の存在と、巷間人気が出ること間違いなしとアキモトせんせが太鼓判を押す「交ぜ交ぜスープ」への要望をお伝えしたところ、「それは気がつかなかった」とたいそう感に入った風情で、メニューに加えていただく旨確約を得たのであった。

同席していたI坂せんせやN島せんせは「7:3スープも!」とか「6:4スープなんかどう?」などと茶々を入れ、あまつさえ「いっそのこと客が好き勝手に混合割合を選べるスープを用意せよ!」などと暴言を吐かれていたが、むろんのこと却下である。
「まったり」スープはただしく「5:5」というのがすでに確立されし黄金律なのであり、それが「筋目を通す」ということであろう。

後日、正門前の「天下○品」を再訪すると、メニューには「こっさり」というものが加えられていた。
注文を取りに来たバイトのにいちゃんに、この「こっさり」について「あ、これは……」と言及せんとすると、「これはですね、あっさりとこってりを合わせたスープで云々」と得々と講釈を始めた。みなまで言うな。他でもなくわたくしの発案によるものなのである。

世間知らずのバイトにいちゃんへの教育的配慮から、「これは実のところわたくしが店長に進言してメニューに載せるよう勧奨したものであって云々」と長講釈を始めんとすると、「へーい、こっさり一丁!」と曖昧に笑ってさっさと厨房へと消えていった。

信じてないな。

変な客だと思ってるな。

いいもん。

別にパテント寄こせと申しているのではない。わたくしの望みは「まったり」(「こっさり」などと勝手に名前を付けおって)スープのラーメンが食べたいだけである。ふんだ。

ということでみなさん、正門前の「天下○品」ではおいしい「まったり」ラーメンをご注文されることをお勧めします。

ただし、「こっさり」という世を忍ぶ別名で出ていますのでご注意を。

(以下その45後半に続く)
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by mewspap | 2006-01-07 01:30 | シネつぶアーカイヴ

シネマのつぶやき(その44:後)

■シネマ◆
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■つぶ■■ ◆ その44(後)
■■■やき ■ ■ ◆ 2004-12-01

◆◆『ホワイトアウト』
d0016644_9311425.jpg2000年日本
監督:若松節朗
出演:織田裕二、松嶋菜々子、佐藤浩市、石黒賢、吹越満、中村嘉葎雄、平田満
2年前になんとなく借りてきて観た映画です。

うむ。

もし固定ファンの女の子たちだけを相手にするつもりでないならば、織田裕二くんは「織田裕二くんを演じる」のをぜひともやめるように。
自意識をシュレッダーにかけ、「織田裕二ブランド」をゴミ箱に捨てて、空っぽになることを勧奨したい。

その点、『ホワイトアウト』の直後に観た『ルール3』の主人公サマンサ(アレクサンドラ・ホールデン)は、ほんとに「からっぽ」な卓抜な演技だった。(ほんとに頭わるそうでなんも考えてないって感じ。)

◆◆◆『グラスハウス』THE GLASS HOUSE
d0016644_93206.jpg2001年アメリカ
監督:ダニエル・サックヘイム
出演:リーリー・ソビースキー、ダイアン・レイン、ステラン・スカルスゲールド
◆◆◆◆『ジーパーズ・クリーパーズ~暗黒の都市伝説~』JEEPERS d0016644_9322287.jpgCREEPERS
2001年アメリカ
製作総指揮:フランシス・F・コッポラ
脚本/監督:ヴィクター・サルヴァ
出演:ジーナ・フィリップス、ジャスティン・ロング、アイリーン・ブレナン、パトリシア・ベルチャー
同じ2001年の『グラスハウス』と『ジーパーズ・クリーパーズ』は、アメリカン・ホラーに新しい観点をふたつ付け加えた。

「ホラー映画を観る女の子」と「姉弟」である。

従来、女性があまり観ないジャンルがあると言われてきた。任侠映画(やくざ映画)、ハードボイルドのフィルム・ノワール、SF映画、西部劇、戦争映画、そしてホラー映画。

若い娘が理不尽に追いつめられ殺害されることを定型とするアメリカン・ホラーというのも、マーケットにしてターゲットは男性であって、若い女性は観ないとされていたのである。

しかし、それはどうも違うのじゃないか。

『ルール2』(@「シネつぶ」その8)では映画学科の女子大生が卒業制作にホラー映画を撮っていました。

『グラスハウス』は高校生の女の子たちが映画館で徹底しておばかなホラー映画を観ているシーンから始まります。

『ジーパーズ・クリーパーズ』では、姉がぼんくらの弟に「馬鹿な真似はやめなさい。ホラー映画で必ず馬鹿をやる奴がいて、いらいらさせられるじゃない。そんなことやめときなさい」と言って、ホラー映画の定石に言及するシーンがあります。

アメリカのうら若き女性は「若い娘が理不尽に追いつめられ殺害されるアメリカン・ホラー」の話型が実は大好きであることがわかった。

でも、それっていったいどういう心理作用なのだろう。
なんだかよくわからない。

男性諸賢が「若い娘が理不尽に追いつめられ殺害されるアメリカン・ホラー」話型をとりわけひいきにする理由は、諸説あるんだけれど。

それから『グラスハウス』と『ジーパーズ・クリーパーズ』にもうひとつ共通するのが、姉と弟のコンビという点である。
かつて、ホラー映画の古典『悪魔のはらわた』でも、ヒッピーの姉ちゃんと車椅子の弟というコンビが登場したが、いよいよ「姉弟」がホラーの話型としてその地位を要求する時代が到来したのである。

考えてみると、姉弟の情動というのはなかなかおもしろい物語素材となり得る。

たとえばハイティーンの姉とローティーンの弟。
姉はもちろん弟の年代の「ガキ」が嫌いだ。
弟の方は、色気付いて外づらがよく、家では粗暴で口が悪くて自分を迫害する姉という存在が嫌いだ。たいてい姉の方が弁が立って、理屈で負けるし。

姉は社会性を身につけつつあるが、同時に社会的に無力であることを自覚している。
いざというとき自分も弟も「護る」だけの力には当然欠けるが、社会的制度を脅かすティーンズの狡知は身につけているかもしれない。

弟もまだ「男性性」にともなう暴力スキル、権力操作いずれにも欠けるが、「子ども」であるがゆえに、社会化しつつある姉にはもうない掟破りのトリックスター性をもつかもしれない。

これはおもしろいコンビである。互いに相手を護るだけの力はないが、それゆえ弱点がそのまま相手を補う相補的なものとなり得る。

その点、兄妹ではだめであろう。ぜったいに兄が男性性を発揮して「無力な」妹を護るという構図になる(そしてだいたい兄が殺されて妹が生き残るってことに)。

兄弟もだめ。両者の結びつきが弱すぎる。権力関係や上下関係のみが際立ってしまうだろう。
姉妹では逆に結びつきが強すぎる。

とはいえ、わたくしには姉というのがいないし、もちろんわたくしは姉というのになったこともないので、果たして姉-弟関係がどんな感じなのかは想像の域を出ない。

弟をおもちのお姉さん、姉をおもちの弟くん、どうなんですかね?


『グラスハウス』の姉弟はルビーとレット。
事故死した両親の葬儀のあとで叔父さんが、「かつて仲良かった姉弟も、大人になるとだんだん離れていくものだ。君たちはまだ仲良いだろう?」と尋ねるシーンがある。それに対して姉は「まさか」と応えるけれど、このように「姉弟物語」が強調されている。

映画の冒頭には、絶叫をあげて必死に逃げる若い娘(やっぱり)がいきなり登場する。
そんで追いつめるのは(やっぱり)不気味なレザー・フェイスの男。ぎらつく長刀をしゃきぃぃんと抜いて娘に迫る。
そんで(やっぱり)これは映画館で上映中の映画という設定で、主人公のルビーとその女友達の4人が観ているということが明らかになる。
スクリーン上のホラー映画のシーンはもはや引用ではない。ホラーの定型である。それも「絵に描いたような」常套ホラーである。

ルビーを初めとする女子高生4人組は「悪い子たち」である。
親の言うことを聞かないし、ママがせっかく作ってくれたお弁当はゴミ箱にポイだし、門限守らずに夜遊びするし、たばこは吸うし、嘘ついて外泊するし、無茶な車の運転はするし。

だから天罰が下るのである。

つねづね申し上げているように、アメリカン・ホラー・ムーヴィというのはきわめて倫理的なのである。
大人をなめきって、社会規範からちょっと逸脱して遊んでいる「子ども」(たいていは若い娘)は、抑圧されたイドのごときほんとうの「反社会的」な情念を体現せし極悪非道くんに、家父長的社会規範たる男性性のなんたるかを暴力的に訓示さるるべく制裁を受けるのである。

お馬鹿な若い娘たちと対照的に、ルビーの両親は愛し合い、理解があってきちんとした(珍しい)父母である。
ふたりは結婚20周年をレストランで祝ったあと、交通事故で死ぬ。

遺言により、両親の信頼が篤かったかつての隣人グラス夫妻(妻役はダイアン・レイン)がルビーとレット姉弟の後見人となる。

ダイアン・レインってとっても「いい人」ぽいですし。

それから夫(どんな役者だったか忘れた)も、葬儀のスピーチでとっても「いい人」ぽいところを見せる。

それでルビーとレットは、後見人のグラス夫妻の家にあずけられることになる。

その最初の晩、ダイアン・レインはイカ料理、キノコのリゾット、サラダの手料理を振る舞う。
垂涎ものの料理だけど、くそガキのルビーとレットは「こんなのいやだ」と手を付けない。
「不慮の事故」で両親を亡くしたかわいそうな子供たちに、ちゃんとした家庭的な雰囲気を与えているのに(実はいんちきなんだけど)、姉弟は拒否的な態度に出るのである(だから罰せられる)。

現代っ子のご多分に漏れず味覚破壊された姉弟は、缶詰や宅配のピザしか食べようとしないのである(あ、『おばあちゃんの家』@「シネつぶ」その37のサンウだ)。

だが、グラス夫妻と生活をともにするうちに、彼らが「怪しい奴ら」であることがじわじわとわかってくる。

現実か妄想かの識別がし難くなってルビーとレットがだんだん追いつめられてゆく、というホラー話型の構想が弱いのがちょい残念。なんだかあんまり恐くない。

もっとも、そんなホラー話型よりもなんと言ってもこの映画のポイントはカー・クラッシュでしょう。

ジャガー、ボルボ、カウンタックと高級車がばんばん登場する。そしてぐしゃぐしゃに破壊される。
ダイアン・レインのギャランティと潰した車で制作費の半分は費やしてますね。

16歳のルビーは高校で車の運転を習い始めたところである。それで女友達といっしょに無茶な運転をする。
上述のように、両親は交通事故で死亡している。
その挙げ句に高級車を惜しげもなくぶっ壊してゆく。

つまりこの映画のテーマは「車の運転にはちうい」ということであろう。

もうひとつテーマを探すならば、「食べ物は大事にしましょう」だろうか。
お手製弁当をゴミ箱に放り捨て、手料理のイタリアン・ディナーを「べー」とやって宅配ピザを貪り食うようなガキは罰せられる。

あ、「とってもいい人」であるルビーたちの両親は、レストランでお食事したあと「交通事故」で死ぬんだ。

ということは「外食禁止」が隠されたテーマであろうか。

さらに深読みすれば、実はルビーとレットのようなどうしようもない「味覚破壊ガキ」を生み出したのはこの両親なんだから、「食べ物の味がわからないような子どもの育て方をした親は交通事故で死ぬ」ということに主題的に照準した、世にも恐ろしい戦慄のホラーなのだろうか。

「風が吹くと桶屋が儲かる」とか「北京で蝶が羽ばたくとニューヨークで嵐が起こる」とか「アメリカがくしゃみをすると日本が風邪をひく」とかって言うし。

ジャンク好きのお子様をおもちの親御さん、車の運転には注意しましょうね。


一方『ジーパーズ・クリーパーズ』の姉弟トリッシュとダリーは二十歳前後の大学生という設定。
お互いに牽制し合いながらも、からかい合ってゲームに興じる。もうかつての「姉弟」反目は薄れつつある年代かもしれない。

この映画は先行作品をいっぱいパクって……もとい、引用してますね。『ルール』『鳥』『トワイライト・ゾーン』『激突』『ザ・カー』。
後半は……。モンスター・スラップスティック・コメディでしょうか。笑えます。

新旧入り乱れて、引用がいっぱい。ホラー映画って進化しましたね。

先に引いたように、トリッシュがダニーに「ホラー映画で必ず馬鹿をやる奴がいて、いらいらさせられるじゃない。そんなことやめときなさい」という、「自己言及」的な台詞を吐くシーンまである。

ホラー映画の登場人物が、ホラー映画を参照枠にしてみずからの行動を律している。
ホラー映画を規定する原理はホラー映画なのだ。

『グラスハウス』の冒頭でホラー映画の定型(レザー・フェイスが若い娘を理不尽に殺戮する)が引用されていたように、トリッシュが言及しているのもホラー映画の定型的パターン(恐いもの知らずの愚かな若い男が馬鹿なことやってみずから窮地を呼び込む)である。

しかし、このような「ホラー映画への言及」によってこれらの映画が暗に言わんとするところは、ホラー映画の登場人物とホラー映画を観ている観客との交換可能性であり、映画と現実との往還である。

したがって「ホラー映画の文法」についてこのように云々することは厳に慎まなければならない。

なぜって「ホラー映画には必ずこういうパターンがあるじゃん」とメタ的な言及をした瞬間に、スクリーンの向こうからモンスターの長刀がびゅんと飛んでくるんだから。
映画と現実とが自由往来しているわけである。

ん。なんだか今背中の方がぞわぞわしてきた。
わたくしの背後でレザー・フェイスが長刀を振り上げてらっしゃるようなので、この辺で失礼する。

『ジーパーズ・クリーパーズ』のヴィデオの表紙には、タイトルの上にでかでかとコッポラの名前が掲げられていたけれど、なんだ監督じゃなくって製作総指揮なのか。

それっていささかやり方があざといのでは。

監督の名よりも大きく刻印されたコッポラの名は、鬼面人を驚かすレザー・フェイスの仮面にすぎない。

ずるいよ。

それから邦題のサブタイトル「暗黒の都市伝説」なんだけど、この映画は終始一貫して田舎が舞台です。

2004-12-01
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by mewspap | 2006-01-07 01:25 | シネつぶアーカイヴ

シネマのつぶやき(その44:前)

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■つぶ■■ ◆ その44(前)
■■■やき ■ ■ ◆ 2004-12-01

やっほ。

文学部総合講座「日本学Ⅰ:化粧の文化史」では、12月16日(木)に公開講座のかたちでデモンストレーション・トークをおこないます。

お題は「化粧文化の新しい広がり――福祉場面における化粧の効能」。

メイクアップ・アーティストとしてご活躍のタミー木村さんをゲストにお招きし、年長の女性をメイクモデルに実演をしていただきます。

化粧というのはただひたすら美観の「お化粧」のことだと思っているひと、それは短見というものでしょう。
今日では化粧による心理学的効果が臨床現場でも明らかとなり、福祉や介護にも有効に使われつつあるんですね。


さて、本日は先だって予告した「ただしいきつねうどん」の作り方を伝授いたしましょう。

◇━━━━━━━━━━━━
ただしいきつねうどんの作り方
━━━━━━━━━━━━━
寒くなってくると、休日の昼ごはんは麺類にかぎります。

作るのも食べるのも早いし。
洗い物は楽だし。
おいしいし。

学祭のとき出店で買い求めたワカメうどんと味噌煮込みうどんに、アキモトせんせとしては眉間のしわが深くなってしまうような哀しい思いをしたので(@「シネつぶ」その42)、これはぜひともただしいうどんの作り方を巷間流布せねばならないと思い定めたのであった。

しかし、学生の作るうどんのみならず、プロの料理研究家が書いていることにもけっこうトンデモなものがある。

手許のある料理本には、「関東風きつねうどん」と「関西風きつねうどん」の料理法の違いが書かれている。

それがすげえ馬鹿なの。

その本によれば、われわれに馴染みのいわゆるきつねうどんは「関東風」だそうである。

「関西風」なるものは、油揚げを刻んでうどん出汁に投入し、ネギと一緒に2、3分煮てそのままうどんにかけるんですと。

それって関西では「きざみうどん」って言うんですよ、お馬鹿さん。

この料理研究家はおそらく関西の世情に疎い関東人で、フィールドワークもせずに思い込みと風聞に頼って書を著してしまったのであろう。

かくのごとく、東京という「中心性」を帯びたまなざしの誤読から、「奇怪なる異世界の関西」神話は再生産されてゆく。

このような由々しき事態に抗すべく、わたくしが一肌脱いで簡単かつ「ただしい」きつねうどん(関西風)の作り方を伝授してしんぜよう。

1.ただしい出汁の引き方りかた
大鍋にたっぷりの水を入れて昆布(日高、羅臼、利尻いずれでもできれば上物を使いたい)を投入し、中火でゆっくり沸騰直前まで煮出す(17分くらい)。

沸騰すると昆布のヌメリが出て扱いにくくなるので、沸騰直前に上げる。

「業務用だし」(サバ節、ムロアジ節、イワシ煮干しの混合節)をふたつかみ分くらい投入する。
これはどこのスーパーにも売っている。暴力的なまでの旨味を引き出せるお勧め品である。

大量に発生するアクを丁寧にすくいながら3分ほど出汁を引いて、火を止めて1カップ分くらいの水を差して温度を若干下げてから、おもむろにカツオ節(わたくしのご贔屓にしているのは「鹿児島産・味立て上手」というもの)をわさわさと入れて(これまたふたつかみ分くらい)再度火をつける。

このあとはあまりいじってはいけない。そおっと扱うべし。
カツオ節からさらに出る若干のアクを取ったら、再沸騰する前に火を止める。
カツオ節を入れたらもうあっと言う間である。およそ30秒くらい。「煮出す」ような扱いはいけない。

キッチンペーパーを敷いたザルで漉したら「一番出汁」の完成。
さっきの半分くらいの水を鍋に入れて、二番出汁をとりましょう(お味噌汁用にぴったり)。

さらに、この一番出汁を用いて、さっき使った昆布を刻み、水で戻した干し椎茸と一緒に昆布の自家製佃煮を作るのもよい(面倒なら昆布は捨てちゃう)。

ところでみなさんご存じであろうか。
「旨味」というのは要するにアミノ酸のなせるわざであり、したがって「旨い」もの喰ってれば必須アミノ酸サプリメントなど服用に及ばないのである。

魚や肉類、それを加工したカツオ節(やら煮干しやらアンチョビーやら)やソーセージ(やらハムやらベーコンやらサラミやら)、すなわち「どうぶつ系」はイノシン酸の旨味である。

そして昆布はグルタミン酸。これを大正期の何とか博士が化学的に抽出したのが「味の素」なのだ。いわゆる「旨味調味料」ですね。

イノシン酸かグルタミン酸のいずれかでも十分においしいとされているが、それを足し算するとあれ不思議、1+1が2ではなく、人間の舌が感じる「旨味」は5にも6にもなるのだそうだ。

だから、「カツオ節+昆布」という出汁の引き方はたいへん「ただしい」のである。

ところで植物のなかで例外的にトマトはグルタミン酸が豊富である。
それを聞いて「あ、そうか」と膝を打って得心したきみ、そのとおりである。

日本人が「イタめし」好きなのには理由があるのだ。

トマトソースにベーコンでもハムでもソーセージでも、はたまた魚介類を投入すると、グルタミン酸+イノシン酸というただしい「和食の出汁」になる。

さらに魚にはドコサヘキサエン酸(DHA)が含まれているので、おりこうさんになるっていうおまけ付き。
さらにアサリやホタテの貝柱にはコハク酸もたっぷりで、これまたうまひ。

旨いトマソの料理喰って身を震わすようなヨロコビを感じるのは、別にイタメシ通の証左なのではない。
我らが土着文化による刷り込みの発露なのである。

グルタミン酸+イノシン酸という数式は、中華料理でも使われている。
ご存じのように中華の基本はチキンストックであり、これはイノシン酸のカタマリですね。
ところが中華料理は昆布ともトマトとも原則的に無縁である。どうやって1+1=5(以上)というアクロバットを演ずるか。

巷の中華料理店では、大量の「旨味調味料」を使うのである。
そして化学的産物である純正グルタミン酸の大量摂取は、ときにより胸焼けや不快感をもたらす。
中華料理を馬鹿食いしたあとに訪れる、いわゆる「チャイニーズ・シック」はこのせいなのである。

近代に開発された「味の素」と、同じころに数多く日本に移り住んだ華僑との運命的な出会いは、人工的な「安くて旨い」庶民の味を生み出した。

これは料理史における秘話であり悲話である。

中華料理の本を見て悲しくなるのは、たとえレシピに鶏ガラで丁寧にチキンストックを作ってベースにするプロセスから記述されていても、あとの方にかならず「旨味調味料を少々加える」という手続きがあることだ。

2.ただしいきつねの作り方
お母さん狐とお父さん狐が結婚し……じゃなかった、薄揚げは熱湯をかけて(あるいはちょっと茹でて)油抜きして三角形に切り、鍋底に敷く(長方形の薄揚げ4枚分、きつね計16枚分くらい)。

ひたひたの一番出汁、砂糖(できたらザラメ)大さじ3、みりん大さじ2、薄口醤油大さじ1.5、濃い口醤油大さじ2を入れて、落としぶた(キッチンペーパーを使うとよい)をし、ふたをしてコトコトと20分くらい。

ときおりきつねくんたちを裏返すとともに、上下を移動させてみなさん平等かつフェアに出汁が煮含まれるようにしましょう。

出汁が少なくなってきたら完成。あんま~いきつねの出来上がり。おいしいよ。

3.ここが肝心プロ級うどん出汁の作り方
一人前につき一番出汁2カップに、薄口醤油大さじ2が基本。
砂糖(できたらザラメ)少々、みりん少々、酒少々でアルコールが飛んだら、薄口醤油を入れる。
醤油を入れたらあまり触らないこと(醤油を入れたあとせかせかとかき混ぜるとうどん出汁が「醤油臭くなる」と達人に教わった)。弱火で2分ほど煮いて、「泡飛ばし」(細かいアクが出るので丁寧にそっとすくい取る)をする。

最後に味見をして、味が足りない分は醤油でなく塩(単なるナトリウム99.9%の「あじ塩」など使わぬように、沖縄産の粗塩がお勧め)をひとつまみかそこら入れて確かめましょう。

「旨味」たっぷりのうどん出汁の出来上がり。

4.こうして「ただしい」きつねうどん(関西風)は完成を見た
奴ネギの小口切りか斜め切り(包丁はつねによく研いでおくように)を用意し、先ほどのきつねを2枚くらい載せたいところである。あとはワカメ、かまぼこ、ゆで卵、おぼろ昆布、天かす等お好みをトッピングする。

わたくしの好みはきつね、天かす、ワカメ、おぼろ昆布、大量のそぎ切りネギである。

特に、近くの阪急オ○シスの天ぷら屋の天かす(50円也)を必ずがさごそと入れる。
この天ぷら屋の天ぷらはあまりおいしくないので買う気になれないんだけれど、天かすだけは絶品である。いずれ店主にそうお伝えしてあげようと思う。きっと泣いて喜ばれるであろう。

あとはお好みで七味か一味(最近では山椒もお気に入りである)を用意する。

こうして「ただしい」きつねうどん(関西風)は完成を見たのである。

あ、うどん茹でるの忘れた。(アイゴー)

◆『シークレット・ウインドウ』SECRET WINDOW
d0016644_9263760.jpg2004年アメリカ
原作:スティーヴン・キング
監督/脚本:デイヴィッド・コープ
出演:ジョニー・デップ、ジョン・タトゥーロ、マリア・ベロ、ティモシー・ハットン、チャールズ・S・ダットン
例によってウィークデイのオフの日の午前中に、近場のシネコンで観る。入りは総勢7人。
別に入りの悪そうな映画を選択的に観に行っているわけではないが、毎度のことながらちょっと心配になる(シネコンの経営がね)。

『シャイニング』『ミザリー』に続くスティーヴン・キングの「作家もの」シリーズ最新作である。
そういえば『スタンド・バイ・ミー』の主人公=語り手も長じて作家になり、少年時代を回想して物語る形式だった。

『シークレット・ウインドウ』は「一人称映画」であり、そのことがこの映画の秘密と深く関係する。

鍵となるのはジョニー・デップ演ずる作家モート・レイニーのクロースアップ、内的独白、独り言、そして異様な睡魔と爆睡である。

ジョーニー・デップが髪の毛ぼさぼさで、ぼろぼろのガウンを羽織り、ジャンクばっか喰っている実に不潔感漂うおんぼろ作家を怪演している。

その彼のクロースアップがやたらと多い。

ひとり郊外の別荘で無聊をかこち、小説の執筆は遅々として進まず、孤絶感と閉塞感(そして不潔感)に囚われた「彼の世界」に、クロースアップのカメラは否が応もなく観客を引きづり込む。

付けては外す眼鏡が鬱陶しい。そういう体感を覚えさせる「近さ」である。

デイヴィッド・フィンチャー監督の『パニック・ルーム』(@「シネつぶ」その43)でも不可思議なカメラワークが見られたが、その脚本を書いていたデイヴィッド・コープ監督である。
プロローグのあとの導入では、『パニック・ルーム』を思い出させる「覗き見」的なカメラワークで閉塞的なクロースアップの世界に導く。

クレーンカメラを使ったというだけでは説明できない動きで、戸外から別荘を映すショットから二階の窓をくぐり抜け、寝室を通って階段の踊り場を利用した書斎に入り、モートが執筆途中の作品を机上のコンピュータ画面で瞥見し、ぐるっと巡って階段を下りてゆき、一階のリビング・ルームのソファに眠るジョニー・デップのクロースアップにいたる。

プロローグでも運転席のモートの無表情な顔のクロースアップで、彼の内的独白を聞かされる。
「やめておけ。あそこに戻っては行けない。そのまま帰るんだ」

内的葛藤に満ちた「自分に言い聞かせる」インターナル・モノローグに対し、身体は相反する行動に出る。
あのときモートは「分裂」するのであろう。

独り言も多く、ほとんど「目の見えない」飼い犬の老犬に語りかけるパターンが繰り返される。

そして異様によく眠る。意識を失うかのように眠りこけ、そしてはっと目覚めるパターンを反復する。

さらに極めつけは、謎のストレンジャー、ジョン・シューターが登場したあと、彼がドアの陰に潜んでいると思い込み、火かき棒で殴りかかるシーンである。それが「鏡」にすぎず、モートは自分の「影」を叩き割ることになる。

モートが鏡を割ったとき、わたくしは金田一耕助探偵の邪魔ばっかするお馬鹿警部の加藤武のごとく、「よし、わかった!」と思わず手を打ち鳴らし、客席の他6名の方々の顰蹙を買った。

でも、やっぱりね。

どういうことかご説明しよう。

"My beautiful wife. My beautiful house."をモートは失う。
妻エイミーの浮気現場を目撃するプロローグは唐突に終わるが、そのときモートはすでに別世界に「いっちゃって」いるのである。

エイミーの浮気と「殺害」が彼の世界観の歯車を狂わせる。

モートはエイミーの浮気現場を押さえることを望み/浮気現場を目撃することを望まない。
エイミーの殺害を欲望し/欲望しない。
彼は「やめておけ」と殺意を抑圧し/ピストルの引き金を引いて殺意を成就する。
エイミーの殺害に復讐の達成感を覚え/エイミーの不在に深い喪失感を覚える。

内的葛藤を極限に押し進めたことによって分裂した自我は、別の「物語」に代償を求める。それが、彼がかつて書いた小説「シークレット・ウインドウ」のエンディングの改編を求めるストレンジャー、ジョン・シューターを召喚する。
現実を改編し得ないモートは、フィクションの改竄による辻褄合わせで葛藤を解消しようとするのである。

分裂した自我は分裂した欲望を牽引し続ける。
相棒の老犬を愛し/殺害する。
用心棒のケンを頼り/邪魔者として殺害する。
トムの証言によって分身シューターの存在が明かになることを求め/秘密の開示を恐れてトムを殺害する。

そして深く眠る。みずから認めることを拒絶する、しかし抑えがたい欲望を、すべてシューターに担わせるのである。そのあいだ「モート・レイニー」は「眠って」いる。

さて、こういう解釈はどうであろうか。

クライマックスにおける、別荘のバックヤードでのエイミーとその恋人テッドの殺害シーンは、「現実に起きたこと」ではない。
エイミーとテッドはすでにプロローグのモーテルで殺されているんだから。
あれはモートの「狂った頭のなか」の出来事であり、それによって自作の小説「シークレット・ウインドウ」の末尾改竄を迂回的に成し遂げるのである。

とんでもな感がなきにしもあらずだが、そういう解釈も「あり」であろう。

だってほら、最後にジョン・シューターではなく、ジョニー・デップ自身が演ずる「本物の分身」が登場しますよね。
あの場面は鏡の使い方が実に独特だったでしょ。モートが鏡に近づいていくと、そこには彼の正面の姿でなく背中が映し出される。
そこにエイミーが車で到着する音が聞こえ、カメラは「鏡のなか」に入ってゆき、部屋を横切って窓を通り抜け、車とエイミーに近づいていきます。

あれは「鏡のなか」の世界です。
カメラは「鏡に映じた」鏡像の室内を横切り、窓を抜け、外にいるエイミーに近づいていくんですよ。
だからあれは「現実」の出来事ではなく、「もうひとつの世界」で起きた物語なのである。

そしてエイミーとテッドを殺害して、かつて書いた短篇小説「シークレット・ウインドウ」の「結末の改訂」に成功しますね。
あれってまるっとモートが投影する「狂気の世界」なのである。

モートの分身が彼を追及して言うように、事実は6ヶ月前に浮気現場へ乗り込んだとき、すでにエイミーとテディを射殺していたんですね。

それ以後の物語はすべて(つまり映画の物語全部)、彼が構築した妄想世界である。

最後に老保安官がモートの別荘にやってきて、いずれ遺体を発見してお前を逮捕すると言いますが、彼が言及しているのは6ヶ月前にモーテルで殺害されたエイミーとテディの一件であって、斧で殺害された黒人ボディガードのケンや、ねじ回しをこめかみにぶっ刺されて殺されたトムのことでもない。

ケンもトムもモートが生み出した妄想世界の住人であって、ジョン・シューターと同じく実在しないのである。

こういう「すべては妄想でした」というのは、「夢オチ」ならぬ「幻視オチ」「狂気オチ」と呼ぶべきものであろう(『ビューティフル・マインド』もそうである)。

というのはまるでわたくしの思い込みにすぎず、もしかしたらまるっとアキモトせんせのでたらめな「幻覚」かもしれない。

DVDが出たらもう一度観て確かめてみよう。

アラバマの農夫ジョン・シューターは、東部の作家モート・レイニーとはもっとも異質な人物像である(おそらくニュー・イングランドのホラー作家キングがもっとも嫌いなアメリカ人類型だと思う)。
したがって分裂したモートのネガティヴな半身、負の側面を全面的に体現しているのでしょう。
もちろん最初からジョニー・デップ演ずる分身が「まんま」で登場しちゃったら、すぐ「あ、狂気と分身モチーフだ」とネタバレになっちゃうからもあるけれど。

それにしてもキングは言葉遊びが好きですね。
 『シャイニング』の"REDRUM"もそうだし(これまた「鏡」に映った"MURDER"の鏡文字)。

今回は謎の人物シューター(Shooter)の"Shoot 'er"ときた。

ジョン・シューターの名前としては、分身らしく主人公のファースト・ネームを取って「モート・シューター」とすることもあり得たけれど、それじゃやっぱりすぐ分身だってわかってしまうかもしれない。
セカンド・ネームを取って「ジョン・レイニー」という名にしても事情は同じ。第一それだと「彼女を撃て」の言葉遊びができなくなる。

いっそのことふたりとも「ジョン」とするのも一興であろう。
「ジョン」ならばありふれたファースト・ネームで違和感がないので、主人公もモート・レイニーではなくジョン・レイニーにしてしまうのである。
主人公ジョン・レイニーと分身ジョン・シューター。

ジョン・レイニーの前に分身であるジョン・シューターが登場し、「ジョン、彼女を撃て」("John, Shoot 'er")という命令を発するわけである。

だめかな。

それとも、プロローグで「実はもう殺しちゃっている」のであるから、この際アイヴ・ショッターという分身名なんかもご提案したいところである。

Ive Shoter=I've shot 'erというわけ。

だめ?

(以下その44後半に続く)
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by mewspap | 2006-01-07 01:20 | シネつぶアーカイヴ

シネマのつぶやき(その43:後)

■シネマ◆
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■つぶ■■ ◆ その43(後)
■■■やき ■ ■ ◆ 2004-11-26

◆◆『パニック・ルーム』THE PANIC ROOM
d0016644_943713.jpg2002年アメリカ
監督:デイヴィッド・フィンチャー
出演:ジョディ・フォスター、フォレスト・ウィテカー、ジャレッド・レト、クリスティン・ステュワート
2年くらい前に観た映画。
『エイリアン3』『ファイト・クラブ』『セブン』『ゲーム』のデイヴィッド・フィンチャー監督です。

主演はジョディ・フォスター。彼女の子音の発音が昔から好きなんですよね。

ジョディ・フォスターの娘役の女の子(クリスティン・ステュワート)がなかなか名演である。
閉所恐怖症の傷痕をもち、糖尿病の持病をもつという役柄。低血糖を起こして苦しむ顔のメーキャップは、ワイアット・アープものの『トゥームストン』で肺病のドク・ホリデー役をやったヴァル・キルマーばりである。
クリスティンちゃんの今後に大いに期待したい。

ジョディ・フォスターとクリスティンちゃんは親子ふたりの母子家庭である。
そして19世紀に建てられたマンハッタンの高級ブロック・ハウスに引っ越してくる。この建物がハイソな感じではなく、ゴシックな雰囲気なのがよい。『ヘルハウス』みたい。

そしてお引っ越し早々、夜中に悪い人たち3人が忍び込みます。

ひとりはぽっちゃり系の黒人俳優フォレスト・『スモーク』・ウィテカー、いい役者ですね。
悪人になりきれず、最後に捕まる危険を冒してまでもう一度戻ってくるとこを除けば、気弱で「優しい」犯罪者っていう人物像は結構リアリティあるのかも。

それからジャレッド・『ルール』・レト。
もうひとりは典型的な「ぶち切れサイコ野郎」(名前知らない、ラウールって名前でご登場)。

登場人物が少ない室内劇である。
こういうある限定された所与の条件の下で物語が展開する室内劇って好きなんですよ。
クラシックな重低音の音楽もよい。

ドアにいくつもの鍵をかけ、「閉じこもる」ことによって安全を担保しようというアメリカはニューヨーク流のおうちを逆立ちさせました。

「閉じこもる」安全の裏返しで「閉ざされる」とういモチーフにしよう、という脚本家の発想と監督との会話が聞こえてきます。

「知性派のジョディ・フォスターが乗ってくれるようなシナリオを書かないといけない」
「となるとサブプロットに母子の和解の物語を布置するなんてどう?」
「なら娘をもっとハイティーンにした方がいいね」
「いや、その母親役って言ったらおばさんになっちゃうじゃん。ジョディはまだ子供産んだばっかりなのに(実生活)、嫌だって言うよ」
「では娘は微妙な年齢で12歳くらいでと、そうだ娘は糖尿病って設定にしよう。閉じこもってたら安全ってことにならないように」
「犯人の方が閉じこもるって逆転もやろう、動きが少ないしね」
「ピストルもたせればいいやん」

ベタなストーリーである。
したがって成否はフィンチャー監督の撮影・演出の魔術にかかっている。

ということで脚本家と監督の会話は続く。

「4階というのを活かして、横の動きと縦の動きで空間感覚をフルに活かそう。部屋の間取りがそのままサスペンスを生み出すように」
「じゃカメラワークがんばらなくちゃね。ドアを巧く使って、鏡も巧く使って、横と縦は階段の吹き抜けを利用して」
「もちろんCGも使うんでしょ?」
「ときどきは透明図法もいいんじゃない」
「最後はセントラルパークの広々としたシーンで開放感とカタルシス、ということで」
「よいね。ほとんど全部家のなかだし、そのうえパニックルームの狭い空間だからな」

確かにカメラワークがおもしろい。
家のなかをワンショットで自在に動き、「あり得ない」狭い空間をすり抜けかいくぐっていくカメラワークである。

これはヒッチコック流なのだろうか。
蓮見重彦の『映画の神話学』にこんな一節があった。

閉ざされているはずの窓や扉をまるで嘘のように通過して、カメラまでがあっけらかんと室内に進入してしまう。『海外特派員』の飛行機に入り込むカメラ、『サイコ』冒頭で隣のビルの屋根から情事が演じられるベッドのかたわらまで、『間違われた男』でカメラが通りからアパートの内部まで滑り込んでいく。

うーむ。なるほど。

そういえばサム・ライミのとってもグロくてゾンビなホラー映画『死霊のはらわた』のエンディングでも、森のなかをローアングルの「悪魔の視点」が走り抜け、山小屋の裏のドアからすべり込み、部屋のドアを通り抜け、最後に玄関のドアをくぐり抜けて、玄関先に立っている唯一の生き残りのにいちゃんに襲いかかかるシーンがあった。

ヒッチコックとサム・ライミとデイヴィッド・フィンチャー。
並べたらどちらさんもお怒りになるかもしれないが。

ともあれ『パニック・ルーム』では、確かに当初は「閉所恐怖」というモチーフを考えておられたようだけれど、途中から「子を持つ母は強し」というお話になってしまった。

最後は身の丈に合った部屋に引っ越そうと母娘が相談しておしまい。贅沢や虚飾はイケナイということだね。

ということでこの映画の隠されたモチーフは「吾唯足知(われただたるをしる)」であると見た。

◆◆◆『オーシャンズ11』OCEAN'S ELEVEN
d0016644_951064.jpg2001年アメリカ
監督:スティーブン・ソダーバーグ
出演:ジョージ・クルーニー、マット・デイモン、ブラッド・ピット、ジュリア・ロバーツ、アンディ・ガルシア、ケイシー・アフレック、ドン・チードル、エリオット・グールド、エディー・ジェミソン、バーニー・マック、カール・ライナー、スコット・カーン
これまた2年ほど前に観た映画。

異能の男たちが集合し、ホモ・ソーシャルな集団を形成する。
それぞれの特技と個性を結集させて大泥棒を敢行(事件を解決、偉業を達成、悪者を退治etc.)するという話型。
特異な人たちの人集め、和気あいあいのイン・グループ、問題発生や障碍(場合によっては内輪の裏切り)、大成功、そして最後には別れていくというお話である。

『七人の侍』『荒野の七人』『スペース・カウボーイ』『ロング・ライダーズ』『ワイルド・バンチ』『ロード・オブ・ザ・リング』『ミニミニ大作戦』、それから望月三起也の『ワイルド・セブン』。

フランク・シナトラ主演の『オーシャンと11人の仲間』のリメイクだが、ジョージ・クルーニーを主役に錚々たる出演陣である。
この映画製作の実現自体が「人集め」話型であったことであろう。

以前、ジョージ・クルーニーは、「古典ハリウッドの大人」(@「シネつぶ」その18)であると書いたが、フランク・シナトラに擬したリメイクで証明された。

やっぱ今日のハリウッドにおけるジョージ・クルーニーのポジションってそういうものなんだ。

◆◆◆◆『ローラーボール』ROLLERBALL
d0016644_953548.jpg2002年アメリカ
監督:ジョン・マクティアナン
出演:クリス・クライン、ジャン・レノ、LL・クール・J、レベッカ・ローミン=ステイモス
久方ぶりにツタヤの惹句を引くと、以下のようです。

「近未来のサンフランシスコの公道をリュージュで疾走しスリルを楽しんでいた命知らずのジョナサンは、友人リドリーの誘いからローラーボールの選手となって一躍スターダムにのし上がる。世界中が熱狂するローラーボールとは、インラインスケートとオートバイで構成されたチーム同士が鉄球を使って得点を争うという命懸けのサバイバル・ゲーム。しかしテレビの視聴率アップの為にチームオーナーのペトロビッチは恐ろしい計画を企てる…。」

なかなか簡にして要を得た文章である。

この映画が言わんとするところは「ヨーロッパ人は大人、アメリカ人は童子」ということであろう。
そして映画のテーマは「馬鹿なアメリカ人はひどい目に遭う」だろうか。

でも最後はお約束どおり、童子が「悪しき」大人を退治し、旧弊で野蛮なシステムを破壊して、新しい秩序を構築するということが描かれる。
まったくアメリカ人というのは……。

わたくしが子供のころローラースケートが流行っていました。

ローラースケートというのは今流行のローラーブレードとは違う。ブーツ型ではなく、靴の上(靴の下と言うべきなんだろうか)に履いてベルトで締めて装着するものであった。

車輪もローラーブレードのような縦一列ではなく、自動車型で左右ふたつの前輪と後輪に分かれた四輪である。

金持ちのボンはゴム製タイヤ、ビンボたれは鉄製タイヤのものであった。
アキモトせんせがいずれを愛用していたかは火を見るより明らかであろう。
小学4年生のときに、10円玉貯金をしていた瓶を割って手に入れたのである。
今でも覚えているが、1680円であった。

その168枚の10円玉をじゃらじゃらとビニール袋に入れて、昨今問題視されている西武の系列スーパー「西友」に買いに行ったのである。

1000円札と500円札(というものが「いにしえの日本」にはあったのだよ)と100円玉に代えてくれと母親に頼んだら、「貯金をはたいて買いに来たんだね」と喜んでもらえるからそのまま10円玉を持って行きなさいと言われ、じゃらじゃらと持参したのである。

そこはかとなく不安があったのだが、案の定悪い予感が当たってレジで恥ずかしい思いをした(なんべん数えても167枚しかない)。

思うに、母親の「○○したら××だから△△せよ」という命令を鵜呑みにして、ろくな目に遭ったことがないような気がする。

爾来、わたくしは高校進学時も大学進学時も(言うまでもなく大学院進学時も就職時も)大人の意見は一切参照しないことにした(それでもなんとかなるものである)。

西友のレジのおばちゃんは、真っ赤に赤面して泣き出しそうな少年にたいへん同情的で、ビニール袋の隅に隠れた最後の10円を発見してくれた。

爾来、わたくしは包容力のあるおばちゃんにたいへん弱いような気がする。

子ども時代の夏の記憶のひとつに炎天下のローラースケートがある。
友だちと一緒にコンクリート道路で思い切りスピードを上げ、その余勢をかって滑走する。
両膝に手をついて疾駆していると、真っ白にハレーションしたコンクリートの路面が勢いよく後方へ流れてゆく。
頭の芯が麻痺したようなランニング・ハイに似たその高揚感を求めて、スピードを上げてはその余勢で流すというパターンを繰り返す。
あれも二度と経験することのかなわぬ身体感覚であり、失われた「小確幸」であろう。

当時、ローラーゲームという、スケートのショートトラックとホッケーとローラースケートを合体させた不思議なスポーツが流行っており、TVでも放送していた。
「東京ボンバーズ」というチームが一番人気だったやに記憶する。

あのローラーゲームに思い鉄球とバイク走者の選手とルール無用のアングラ・レスリングを合わせ、ローマのコロシアムみたいな見せ物の殺人ゲームを加味した近未来スポーツを中軸としたのが、かつての『ローラーボール』(1975年)という映画だった。

わたくしが子供のときに映画館で観た数少ない映画のひとつである。鉄球がごぉーっと転がる音、バイクのエンジン音と排気煙、人体がぶつかり合うドンという音が印象的だった。
『ゴッドファーザー』でマシンガン「蜂の巣惨死」を遂げる長兄ソニー役、ジェイムズ・カーン主演のカルト映画である。

そのリメイク映画。
アキモトせんせの映画的記憶のなかで神話的心象風景をなしている映画のひとつなのだから、点数が辛くなるのはしかたのないところであろう。

ジャン・レノをアルバイトがてらお呼びしてもだめよ。
低予算の半分は彼の出演料なのでしょう?

主演はクリス・クラインというキアヌ・リーブスを三発くらい殴ったような顔をした若手(無名、だと思う)俳優。
上で引いたツタヤの惹句にあるように、彼の役柄は「近未来のサンフランシスコの公道をリュージュで疾走しスリルを楽しんでいた命知らず」である。要するに脳味噌量のきわめて軽微なアメリカの若者である。

それが異国で邪悪な陰謀に巻き込まれ、正義のために立ち上がるわけです。

1975年のオリジナル・ヴァージョンは近未来映画だったが、リメイクの舞台は(近未来とされているけれども)明らかに現代である。
1975年が想定し投影した「近未来」は、今や「われらが同時代」なのだ。
今わたくしは「アキモト少年がかつてかいま見たデストピアの近未来」にいる。脳天気に真夏の直射日光のハレーションのなかでスピードに酔っていた20世紀少年の彼にそのことを教えてあげたい。

殺人ゲームがおこなわれるのは中央アジアの某国(カザフスタンとかアゼルバイジャンとか)という設定だが、あのオリジナル・ヴァージョンの「異界」が見せる異様な暗さは、中央アジアに舞台を移しても再現できぬ。

終末論的な世界像もメル・ギブソンの『マッドマックス』シリーズに比肩し得ない。

ごめんね、評価がきつくて。少年期の刷り込みの持続的衝迫ゆえと思ってお許しいただきたい。

でもデストピアには確かに8ビートとディストーション・ギターのヘビメタ・サウンドがよく似合うと思うよ。

とにかく欧米諸国にとって、崩壊した元社会主義国は、たがが外れ退廃した世界を表象し、倫理の圏外で「何でもあり」に見えるのだろう。

ジャン・レノをオーナーとするチームの試合は、殺人エンターテイメントとして欧米各国で実況中継されているという設定である。

そして視聴率アップのため、試合では過剰な暴力が勧奨される。
暴力、ギャンブル、八百長、ショーアップのために仕組まれたルール違反の策謀。
人命軽視、警察権力の腐敗。

舞台が元社会主義圏というところが「今日的」であろう。
欧米はつねに「まなざす側」にあり、他方、元社会主義国は奇異なものとして「まなざされる側」に位置づけられる。

「見る/見られる」関係の非対称性は権力関係に他ならない。

現実のニュースでもそうであろう。
今日の東欧、中欧、中央アジア諸国は、資本=欧米が草刈り場的に人も金も食い物にしている世界である。
だから一方的に「見られる者」たる選手の主人公が、搾取される側に味方するのは当然である。

かつて、ヒーローが弱者に味方するのは「正義」の語法によるものであった。そこにはなんら説明など不要だった。
今や某大国の「正義」の語法をはじめ、「正義」という概念がゆらぐ。
ヒーローが立ち上がるのには別の文法が必要となる。
ヒーローであるアメリカ人の(ちょっとお馬鹿な)若者は、元来「見る側」に位置していたのだが、「中央アジアの某国」において「不当にも」一方的に「見られる」弱者となったがゆえに、立ち上がるのである。

だから腐敗せし中央アジア社会にひとり介入して新秩序を打ち立てるヒーローは、「当然のことながら」アメリカ人なんですよね。

中央アジアを代表するのは、「ひたすら悪い奴」のジャン・レノくんだし。

2004-11-26
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by mewspap | 2006-01-07 01:15 | シネつぶアーカイヴ

シネマのつぶやき(その43:中)

■シネマ◆
■の■■■
■つぶ■■ ◆ その43(中)
■■■やき ■ ■ ◆ 2004-11-26

◆『モンスター』MONSTER
d0016644_8551177.jpg2003年アメリカ
監督:パティ・ジェンキンス
出演:シャーリーズ・セロン、クリスティーナ・リッチ、ブルース・ダーン、スコット・ウィルソン、プルイット・テイラー・ヴィンス
オフの日にちゃりんこを走らせて7分の近所のシネコンで観る。
6つあるシネコンの劇場のなかで200席ほどの、たぶんキャパが一番小さな劇場である。

どうもこの映画は人気なしという太鼓判を押されたようである。

暗がりにだんだん目が慣れてきたのでぐるりと見回すと……。

あれ、誰もいない。

人っ子ひとりいない。

猫の仔いっぴきいない(いたら抱っこしてあげて一緒に観るんだが、ふつう映画館に猫の仔はいない)。

もう始まる5分前なんだけど、ぽつねんとわたくしひとり。

もしかして生まれて初めての「ひとり劇場占拠」のぜいたくな映画鑑賞になるか、と思ったら若いカップルがひと組登場。次いでまたひと組、そのあとを追うようにまたひと組、カップルばっか。

なんだなんだ、そういう映画かこれは。

というわけで観客は総勢7人である。

ウィークデイの午前中という、脳天気に映画なんか観ていたら世間の労働者諸君に殴られそうな「そういう時間帯」をねらっていると言えばそうだけれど、いくらなんでもこれで大丈夫だろうか。
わたくしは心配する立場にはありませんが、費用対効果が悪すぎるでしょう。

つまりこれは、土日や祭日の午後なんかに満席の映画館に足を運んでいる人たちが、あたら暴利を貪られているということを意味する。
すなわち、がらがらの劇場でわたくしのような人間がのんびりと観ているその赤字コストを、彼らが肩代わりしてくれているのである。

ごめんね、みなさん。

劇場維持のためわたくしの赤字分を埋めてくださっている数多の労働者諸君に謝意を表して頭を垂れていると、映画が始まる。

むろん、いきなりシャーリーズ・セロンの醜悪変貌ぶりに腰を抜かす。

先般ご案内のように、シャーリーズ・セロンは「苛めたくなる知性派ぽい美人」コンペで金メダリストの栄誉に輝くハリウッド・ビューティであり(「シネつぶ」その39でわたくしが授与した)、つねに涙目になってうるうるとそのでっかい瞳をきらきらさせている姿こそ「シャーリーズ・セロン図像」と呼ぶべきものである(とわたくしが決めた)。

そ、それがこの変貌ぶり。

体重を13キロ増量し、体型を変え、さまざまな特殊メイクを施したやに聞くが、これだからシャーリーズ・セロンは「一押し」なのである。
この役者根性。えらいのである。りっぱなのである。

もうシャーリーズ・「うるうるお目々」・セロンなんて呼ばせないわ。

かねてより役者根性爆裂の方々が、役作りのために身体加工に果敢にチャレンジしてきました。
『レイジング・ブル』(体重増量+減量の過酷な身体造形)や『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(髪の毛抜き)のロバート・デ・ニーロ、『マイ・レフトフット』のダニエル・デイ・ルイス。

一応『ロッキー』シリーズのシルベスター・"ステロイド"・スタローンも挙げておきましょう。

『ゴッド・ファーザー』のマーロン・ブランドは綿を口に詰めて顔の輪郭としゃべり方を変えていましたし(でもあの肥え方は役作りの「ため」ではなかったことが後に判明)。

しかし、女優で、しかも「苛めたくなる知性派ぽい美人」コンペで優勝の栄誉に輝くシャーリーズ・セロン(しつこい)が……。

この映画におけるシャーリーズ・セロンの図像は、斜に構えた身振りと自身への不満と世間への憤怒にあふれた表情、とりわけ口の両端を下げた「へ」の字の口元である。

その表情はなんだかジョン・ボイトに似ている。

醜悪な風貌のドアップも耐え難きセロンは、「売春婦で人殺しの腐れ雌豚」役で鬼気迫る演技を見せる。

アイリーンは実在の女性で、この映画は6人もの人を殺した連続殺人犯として死刑に処された人をモデルにしている。

あらためて思うのは、アメリカの日常生活にはジャンクと無用なガジェットがあまりに過剰だということである。

何であんなに「物」があふれているのであろう。アメリカ語には「質素」の文字がないのであろうか。

自己の魂の内奥に沈潜していき、あるいは他者の人間性の核に触れるには、あふれかえった「物」がとにかく邪魔だ。

「物」が過剰にあふれており、それを操る彼らの仕草はあまりにオウクワードでがさつで不器用である。アメリカでは使い捨ての物が多いのもそのせいではないかと思う(「物」を扱うのが下手っぴだから)。

人間に対しても、あふれかえった「物」と同じように粗雑に扱って、「ばん」と一発の銃弾でリセットしてかまわないように思えてくるのではないか。

アイリーンの身体所作に必ずと言っていいくらい付随する煙草やビールに関しても同断である。

わたくしは両方とも(嬉々として)たしなむ人間であるが、そんな吸い方したら灰が落ちて絨毯が焦げるでしょ、あ、そんな乱暴な消し方で吸い殻のあふれた灰皿に押し付けたらちゃん火が消えないよ、火事のになるっしょ、と気になってしかたがない。

ビールのシックス・パックだってそんな放り方したら泡々になってしまうじゃないか。
缶を開けたあと振り回しながらしゃべるな、こぼれて部屋が汚れるでしょ、といらいらしてくる。

お金の扱い方も粗雑である。お札をくしゃくしゃにポケットに突っ込み、引っ張り出してそこらにばらまく。
お金をそんな粗末に扱ったらばちが当たるって小学校で習わなかったの?

子どもが抱くファンタジーまでお粗末なほど大味でがさつで貧困である。

アイリーンが夢見がちな少女時代に思い描いたファンタジーは、何が何でも有名な女優になるというものである。
巷間流通する支配的なジェンダー・イデオロギーを刷り込まれ、その物語を内化して育ったアイリーンは、みずからのファンタジーの犠牲者となる。

程度の差こそあれ、少女が物語性の貧困な定型的ファンタジーを疑問視することなく内化して成長するという点では、『ウェディング・プランナー』(@「シネつぶ」その33と類型的である。

もちろんレイピストと馬鹿親が一番悪いんだけれど。

そしてジャンクでガジェットな過剰の「物」のお隣に「神さま」がいる。
「上」は大統領から「下」はフッカーにいたるまで、そのへんがアメリカ人の想像力の摩訶不思議なところである。

「売春婦で人殺しの腐れ雌豚」は「神さま」とは縁もゆかりもないだろう、と考えるのは早計である。
アイリーンは現在の生活に絶望し、これからの人生に悲嘆して、最後に残ったわずかの金で一杯やったら自殺すると「神さま」に約束してたまたま安っぽいレズビアン・バーのドアをくぐる。

そいてレズビアンの少女セルビーと出会い、新たな生き直しが始まる。実は新たなデスペレートな人生が始まるだけなんだけど。

最後に残ったくしゃくしゃのお札とビールのピッチャーとハードドリンクのグラスと煙草の吸いさしとレズビアンの少女のとろんとしたでっかいお目々と、神さまが背中合わせにいる世界である。

このような「聖と俗」(神さまとジャンク)が混淆した世界のリアリティは、「アメリカ」というワンダーランドを措いて考えにくい。

セルビー役のクリスティーナ・リッチは、『アダムズ・ファミリー』のでっかいお目々とお下げの女の子だった方である。
あの当時からちょっと年齢不詳で成長が止まったような姿形に不思議な存在感を漂わせていたが、今回も大人の女とも少女とも、さらに言えば女の子とも男の子とも言えないような境界領域的な存在である。

このセルビーが「モンストラスなまでに」他者依存型の人間なのだ。

彼女はニートのプー太郎(プー子?)である。

学校でトラブルを起こして放校処分となり、家にいられず親戚のところにあずけられ、仕事もせず、夜にはレズビアン・バーに通うだけ。

「自立したフェミニスト的女性像」(そういうものがあるとして)が席巻する以前の「女性的」イメージを恥も外聞もなく上演する娘である。

アイリーンはセルビーに住む場所を与え、生活の糧を与え、保護し、世話する。

なんでなの?

と思う。

アイリーンはセルビーの「無邪気さ」に、夢見がちな幼女期の自分自身のイメージを投影して見ているのかもしれない。

そうすることで、自身の失われたファンタジーを埋め合わせ、損なわれた現実の平仄を合わせているのかもしれない。

セルビーのばかげたファンタジーの守護神となることは、代償的な自己慰撫なのだろう。

そしてセルビーがアイリーンへの依存度を深め、古典的フェミニンな依頼心を増大させてゆくのに反比例して、アイリーンはどんどん「男性化」してゆく。
「なんにも心配すんな、あたしに任せときな」という身振りは、たいそう「男っぽい」。彼女は古典的なマッチョと化してゆくのである。

と同時にアイリーンは、セルビーの言うがままに自己犠牲へとひた走る。セルビーに奉仕するその姿勢は異様なまでに「女性的」である。
この辺のジェンダー攪乱が不思議。「男勝り」な外観と行動を裏切るように、無私の精神で相手に尽くし、身を捧げる「女性性」をアイリーンは体現するのだ。

凶暴な連続殺人モンスターはこの両面性から生まれる。

無能で自立しない永遠の幼児セルビーは残酷である。
アイリーンに向かって自分の世話をしろ、約束したじゃないかと居直る。

セルビーとの出会いをきっかけに、アイリーンは「まっとうな人生」を生きようとフッカー生活から足を洗って「かたぎの仕事」を得ようとする。
それがかなわないと見るや、セルビーはアイリーンが売春で金を稼いでくることを容認するどころか、勧奨しさえするのである。

セルビーはアイリーンに生まれ変わるという希望の曙光を与え、そして事実上それを奪う。

セルビーとの生活を維持し、彼女の過大な願望を満たすため、再びアイリーンはハイウェイ脇に立ってフッカー稼業に戻る。
それにより、宿業にみちた「サイコな豚野郎」に殺害されそうになり、殺人を犯す。
最初の殺人は明らかに正当防衛だが、あとは坂道を転げ落ちるのみ。

アイリーンは自分が「豚野郎」を殺害することができるのを発見してしまったからである。
「豚野郎」に復讐する力が自分にあることを知ってしまったからである。

アイリーンがコミットするのは「動機なき殺人」「快楽殺人」などではない。
それは「処刑(execution)」と呼ぶに相応しい。

彼女の査定基準に照らして「有罪」を宣告された者(つまり「豚野郎」)を、アイリーンはためらうことなく殺害してゆく。その準拠枠から外れた「無実」の人間を殺害したのは、セルビーとともに暮らす生活のためである。

セルビーはアイリーンを「誤らせる誘惑」なのだ。
その誘惑とはこれまでの彼女の人生で系統的に奪われてきたもの、すなわち愛情や希望や将来の夢である。

アイリーンの「無目的」な連続殺人の物語は、リベンジ話型のように見える。
しかし、通常「男の」リベンジ・ストーリーには確固たる動機と目的があり、「目的を遂げる」ことにより幕を閉じるのが常だ。"getting even"によって失われた原初の均衡が戻るからである。
他方アイリーンの連続殺人には終局がない――目的がないから。

実際、男のリベンジ・ストーリーは、復讐相手と同時に、法の律する市民社会と警察機構が主たる敵となるアウトローのお話である。そして復讐を計画立案し、遂行する男には社会制度をくぐり抜ける方策がある。
アイリーンにはその意識がきわめて希薄である。

幼少時にファンタジーを抱かせ、暴力によってそれを破壊し、フッカーとして世捨て人となり、セルビーによって「まっとうな生活への夢」を抱かせ、そしてその希望を奪った男社会そのものに、アイリーンはリベンジしているようである。

アイリーンは真にデスペレートなリベンジャーである。
"despaire"は「sperare=希望」を「de=奪う」の謂いに他ならないのだ。

この映画を観て鬱々たる気分になるのは、ここに映し出されたアメリカにはあまりにも「人間の物語」が希薄で貧しいからである。
ぼんやりと神さまを信じている少女に、薄っぺらなファンタジーとジャンクとガジェットに加え、回復不能な傷痕を残す暴力を与えよ。
さすればフッカーのアイリーンが生まれる。
彼女に最後の希望を与え、そしてそれを奪い、代わりに一層の暴力とその暴力に拮抗する暴力性に気づかせよ。
さすればモンスターのアイリーンが生まれる。

そして人間もあふれかえった使い捨てのジャンクのようにゴミ箱行きとなる。

ひどい話であるが、それが実話(a true story)に基づく「本当の話」だとこの映画は言う。

アイリーンが生き直す可能性があるとすれば、それはジャンクなど一切存在せず、すべての「物」が器用仕事的に有効な再利用の潜在可能性を内包し、そしてモンスターはあくまでも「外部」にあると前提された自給自足の閉鎖的なコミュニティにおいてだけであろう。

すなわちナイト・シャマラン監督の『ヴィレッジ』(@「シネつぶ」その40)の世界である。
しかしあのコミュニティはシャマラン監督個人の頭から生まれた架空のお話であり、処刑台に向かうアイリーンはファンタジーでは救い得ないのである。

(以下その43後半に続く)
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by mewspap | 2006-01-07 01:10 | シネつぶアーカイヴ