カテゴリ:Aphorisms(ゼミ標語)( 1 )

Pseudo-Aphorisms(ゼミ標語のおおよそ解題付き)

創造的なものは混沌から生まれる
古事記によれば宇宙創造だってそうである。言葉を重ねて文章を紡ぎ出し、一編の論文を作成するというのは、ひとつの世界を創り出す、かくも創造的な行為なのである。むろん、実際に400字詰め原稿用紙50枚分、2万字の卒論を書き上げるには、具体的なリサーチ・スキルの涵養に努めなければならない。文献の調査方法やインターネット検索に通暁し、文章作法の錬磨に多くの時間を割くことになる。でも、こういう「アカデミック・リテラシー」の「向こう」に、ようやく本番が待っている。考える、考え込む。考えが千々に乱れ、行きつ戻りつし、積み上げてきたことが瓦解して混沌に陥る。そこから始まる。混沌に逢着しパニックに陥ったとき、実は卒論の半分は書き上げたも同然なのである(だから早めに混沌に逢着してパニックになるように)。

ジンチョウゲの季節とキンモクセイの季節
ジンチョウゲの季節に「思った」ことが「分かる」のはキンモクセイの季節である。
ジンチョウゲの季節に言われてよく分からなかったことはキンモクセイの季節に得心する。
ジンチョウゲの季節にやっておいたことはキンモクセイの季節に活かされる。

「考える」とは「書くこと」である
「まだ書いてないけど頭のなかにはある」というのは大いなる過誤である。自分で文章化するまで、自分が何を考えているのか分からないのである。How can you know what you think before you write it?

「書く」とは「書き直す」ことである
「自分の考えていることは他人には伝わらない」ということを出発点にすること。文章化した段階では、まだ「自分の考えていたことが自分で分かった」だけである。それは「伝達」になっていない。読み直し、書き直していない文章は、そも他人に伝える文章にあらず。文章を彫琢し研磨せよ。To write is to re-write!

明日の私は他人である
明日の自分にメッセージを送れ。日々メモを書き、研究ノートを記すこと。

研究ノートは一番頼りになるデータベースである
日常的に研究ノートを書き記して蓄積すること。それがいざというときに一番役立つデータベースとなり、また文章作成練習にもなる。

一番肝心なことこそ忘れるものである
アイデアをこまめにメモしておくこと。煩瑣なリサーチと執筆過程で、「これは一番肝心なことだから忘れるはずがない」と書き記しておかなかったことは、なぜか忘れちゃうもんなんですね、これが。

読み手を想定せよ
他人の目で自分の文章を読み直すべし。読み手は「他者」なれば、その「他者」に憑依し、「他者」の視点で読み直すこと。一番良いのは自分のなかの他者に向けて言葉を紡ぎ出すことである。そのために、自分のなかに「良き他者」を育むことである。他者を宛名にもたない文章は「独り言」にすぎない。

3回読んで分からない文章は100回読んでも分からない
ほんとにそうなんだな、これが。

一文の長短、読点の位置は、「意味単位」と「リズム」である
文章構成はまず「意味単位」で考え、コンセプトのまとまりで長さを考え、読点を打つ場所を考えること。次いで、文章の長さ、読点の位置について「肺と心臓」に尋ねるべし。呼吸と心拍がリズムの基本である。文章を整序するためには、自分の文章を音読することが効果的である。

序論と結論は「時制の異なる同じ内容」と心得よ
序論では、本論で何を論述し論証するか、具体的な「論証抜き」で素描すること。本論で議論しない作品や作者の背景などには触れない。結論では、何を論述し論証したかを、具体的な「論証抜き」でまとめること。すなわち序論と結論は本質的に同じであり、前者が「未来形」であり、後者が「完了形」ということにすぎない。

問題設定・問題関心が始まりである
よい問題設定にはよい解答がすでに含まれている。愚問には愚答しか返ってこない。

卒論は「共著」である
問題設定や切り口を除き、卒論の執筆は共同作業である。最初の問題設定「だけ」が自分のもので、あとは共同で進める。他人の意見に耳を傾け、自分の見解を磨き、新たな切り口を発見し、それを説得力ある論構成と文章によって表現するのが卒論である。「ソクラテス方式」で、進捗状況や観点、概要や下書きをゼミで報告し、チェックされ、コメントをもらい、ゼミとしてそれぞれの卒論を完成していくのである。

卒論執筆にエディターシップの視点を加えよ
論構成、論展開、文章研磨など、卒論執筆とは優れて編集作業なのである。編集されていない「ガキの文」で卒論を書いてはならない。

人は語彙の数だけ世界を拡げる
「わたしゃボキャ貧なんで」などと自嘲して済ましていてはいけない。人間はコトバで世界を分節する。コトバは茫漠かつ混沌とした世界に罫線を刻み込む分節軸である。人間は語彙の数で世界を見ているのである。したがってボキャ貧は立派な視野狭窄である。つねに言葉の蒐集家たれ。

「いかに」に照準せよ
「なぜ」という疑問は出発点にすぎない。「なぜ」(Why?)という疑問は、「なに」(What?)と「いかに」(How?)という設問につながるのが必然である。ただし、そのとき「なに」ではなく「いかに」「どのように」という問いに照準すること。美味しいパスタ喰って、「なんでこんなにおいしいの?」と思うでしょ。そのときに、「そも、パスタなるものはなんぞや」などと問うのは愚問である。「どのようにして美味しくなっとるか」と問うべきである。

論点は何かを自問せよ
「私が言っていることは何であるか」というメタ的な上位審級から俯瞰して、つねに「論点は○○だ」とつぶやきつつ思考し、執筆すること。

「ま、なんとかなるさ」という前向きの「根拠なき信憑」を核にもつ
この前向きさは生命力である。「ま、なんとかなるさ。そんな悪いことにはなるはずないよ―死なないし」と言える自分の分身を庭先に飼っておくこと(ときどきエサをあげなさい)。

王貞治主義と長嶋茂雄主義
二通りのスランプ脱出法。現役時代、王貞治はスランプに陥ったとき深更にいたるまでバットを振り続け、ひたすら練習をした。一方、長嶋茂雄は気分転換と称して練習を一切せず、徹底して遊びほうけた。自己の性格、気分、置かれた状況、締め切りまでの日程を考量し、お好みで選ぶべし。

卒論で大事なのは「オリジナリティ」よりも「プレゼンテーション」である
「何を」表現するかよりも「どのように」表現するかの方が重要である。

卒論というのはコミュニケーションである
論文は、書き手、読み手、そして対象とするテクスト(作品)という3者のコミュニケーションであり、意思疎通の主担者たる書き手というのは、そのコミュニケーションの主担者、司会者、コーディネイター、エディター、「場の取り持ち」である。

優れた感想文より出来の悪い論文を
感性豊かな優れた「感想文」は読んでいてたいへん楽しいが、卒論の査定としては0点である。出来の悪い「論文」を読むのは苦行に他ならないが、60点の評価はもらえる。

美文よりも論理的な文を
美しい文章などいらない。理路の通った論理的な文章を書くこと。

段階状進化論
こつこつやっていても、ちっとも進歩しないと思う時期がある。進化は直線ではなく段階状をなす。ある日、「目から鱗」のようにポンと次の段階にいたる。ある閾値にいたったのである。そしてまた平坦な道のりを歩む時期が続くが、そこで辛抱してこつこつやっているとまたポンと次の段階にいたる。なぜかと言うと、ま、そうゆうものなのである

文章を書くとは「散らかす」ことである
論文を書いていると、書物や資料やノートや下書き原稿で部屋は散らかるものである。気にしてはいけない。思考のアレンジメントにエネルギーを費やすのにしたがって、物理的空間はカオスへとばく進する。不可逆的に、加速的に。そういうものである。エントロピーの増大は宇宙の法則なのだから仕方がないであろう。

卒論は共著であり、共著とは読者と共同で書くことである。
こちらに「書き手」がいて向こう側に「読み手」がおり、その真ん中に「書き物=読み物」がある、というのは大いなる過誤である。
「書き物=読み物」というのは「書き手」と「読み手」のあいだに、つねに現在進行形として生起される、そして現在進行形としてしか生起されない現象である。
そういういまだに実現していない現象としての「書き物=読み物」を、時間を先取り的に引き寄せておこなうのが「書く」ということに他ならない。
「読み手」との共著「でない」書き物は存在しない。

書くというのは時系列の混乱であり、自我の分裂である。
なんでそういうことになるかっつーと、こういうことなのである。

いつか訪れる「学生が終わる」という事態から遡及的に振り返って、4月のゼミに臨むべし。
どうしてそんなこと言うかっつーと、ゼミも終わりに近づいたある年のゼミ生の嘆息と、王様編集長によるその解説を見ましょう。

研究論文を著すときの基本的な姿勢二題
(1)根拠を示しながら理路の通った思考過程を提示すること
 他の人、すなわちあなたの「あとから来る人」が、あなたが用いたものと同じ根拠を用いて同じ思考プロセスを辿るならば、「必ず」あなたと同じ結論に至るものとすることが肝要である。私にしか思いつかない根拠や論理展開など豚にでも食わせなさい。
 むろん、あなたの「あとから来る人」が、あなたが提示した根拠を覆す、あるいは新しい根拠を提出したり、あなたの理路そのものの瑕疵や陥穽を明らかにすることを目的にする場合もある。それはそれで大変喜ばしいことである。あなたが書いたものは、「あとから来る人」にそれだけの価値があったのである。人知れず自慢せよ。
(2)研究とは貢献である
 研究のプロセスは骨の折れることである。そして研究というのは個人ワークにとどまらず、積み重ねなのである。もうほとんど人類史的な。
 ある特定の領域、主題、モチーフ、観点で、「それはすでに誰かが骨の折れる作業をしているので、もう自分はしなくてよい」と思ってもらえるものを提出すること。あなたの「あとから来る人」が、「あなたの肩の上に立って」次の問題関心に向かうことができる、というものを提供するのが優れた論文である。

パラグラフは意味単位で構成されるので、感覚的に「そろそろ改行」は禁止(ブログ投稿も)
携帯電話の普及のせいだろうか。小さな画面で文章を読み書きするのに慣れているためか、やたらと改行する文章を書く癖が散見される。ブログなど端末の画面では一文ごとに改行した方が読みやすいのでこういう姿勢も分からないではないが、一文の途中で適当に改行しているものもある。パラグラフ構成のメンタリティを涵養するには、これは百害あって一利なしである。

相互査読・朱入れ期間には魔法が起こる
だいたい12月には他の人の下書きを短期間にチェックして朱入れをするが、その間にはあっと驚く魔法が起こる。不思議なことであるが、これがほんと起こるのである。私の予言はよく当たるのである。私の予言は外れないときには必ず当たるのだから相当な的中率と言わねばならない。

朱入れは書き手へのリスペクトであり贈与なのである
他の人の論文に訂正やコメントの朱入れをすることは、その書き手に対する「贈り物」である。その量が多ければ多いほど、書き手に対して高い「リスペクト」を払っていることを意味するのである。だから朱入れに遠慮はいらない。てか、量が少ないということは「この論文は私が朱入れをするに値しない」というチェッカーの方の肥大した自我をこそ露頭させるばかりでなく、書き手へのリスペクトの欠如を雄弁に語るものとなるであろう(し成績評価における素点の縮減という事態を招来するであろう)。

「共著の論文」を「私の論文」へと取り戻すときがやがて訪れる
卒論は「共著」である。ゼミ長との共著であり、ゼミ仲間との共著であり、なんと「読者との共著」なのでもある。このように幾重にも「共著」であるところの卒論下書きを、自分自身の元へと取り戻し、ようやく「私のもの」とするのが、たいていは締め切り前の年末年始の孤独な作業なのである。

佳境には磨くこと
 先般ご案内のように、「文章を書く」というのはすなわち「書き直す」ことである。せっせと読み直し書き直しして、文章を磨かなければならない。
 一文を丁寧に磨き磨きして仕上げると、その「完成した」文が寂しがって勝手に次の文を呼び招いてくれる。よい文はそれに続く次の文をすでにして胚胎しているものなのである。文が文を生み、それがひとかたまりとなってパラグラフとなる。そのパラグラフを磨き上げると、それが次のパラグラフを生み出し、それが集まってひとつの節となり、いくつかの節がまとまってひとつの章となり・・・おめでと、完成だねとなる。
 ちゃんとひとつの文を磨いてあげないと、その子はへそを曲げて次の文を生んでくれない。それで「借り物」か「継子」みたいな次の文をでっち上げて接ぎ木することになる。「ふん、ぼくなんかぼくなんか、どうせ余計者さ(涙)」(なぜかジェンダーは「ぼく」ちゃん)という、みずからの出自に癒し得ぬルサンチマンを抱えるその哀れな一文が、新たな輝ける嫡子を生み出すなんてあろうはずがない。「親」がちゃんと磨いてくれないと、子どもがへそを曲げるのは必定である。
 もしかしたら、書き手というのはただの「メディア」にすぎないのかもしれない。語られるべきことが漠としてある。それは適切に文章化されるべくふるふると期待に打ち震えながら待っている。それを心配性の親御さんのような「メディア」たるあなたが「ごしごし磨いて」あげて、適切なかたちに世に送り出す。そういう媒体とか媒介者というのが書き手というものの実体なんじゃなかろうか。文章が、書き手であるあなたを通じて、自己実現する、というのが文章というもののあるべき姿なのかもしれない。
 物語だってきっとそうでしょう。作家という「メディア」を通じて、みずからを生み出す。だからできの悪いメディア(映画監督、小説家、漫画家)に捕まっちゃった哀れな物語は、どんなに潜在的に優れたものだったとしても、「こんなはずじゃなかったのに、どうして私をこんな情けない姿にしたの!」と慨嘆する哀しい結末を迎えるかもしれない。だからよい物語は適切なメディアを選ぶ。さくらももこ画風の『風の谷のナウシカ』なんて考えられないし。
 ということで、いよいよ佳境に入って文章の彫琢、錬磨の期間になると、それは「終わりが見えてきたこと」を意味する。4月の初めはこんな「文章の錬磨」みたいな話はぜったいにしないし、しない方がいい。少々粗雑でも全体構想を描くことに重点をおいて、細部にはこだわってはならぬ。ましてや一文一文の彫琢なんてのはもってのほかである。木を見て森を見ぬどころか、目の前の一本の木に水と肥料をやって虫を駆除して丁寧なケアをしても、ふと周りを見回したら他にただの一本の木も生えていないはげ山だと気づくだけである。まずはやみくもに木を植え続け、見た目はいまいちだけど森にはなっている、という状態にしなければならない。細部の「剪定」などあとの話だ。
 ごく細部のケアから始めて、全体像までもっていけるのは、一部の天才だけであろう。以前、井上陽水が自分の作曲法について語っているインタヴューを見たが、それはあっと驚くものだった。陽水はほんのちょっとした、ほとんど断片的な「お、いいなという言い回し」や「ほっほー、このメロディいいじゃん」というとこから始めるのだそうである。そこから拡げて曲を完成する。これはほんとうにセオリー違反の天才のなせる技である。それを陽水は、レオナルド・ダ・ヴィンチに喩えてこんな風に語っていた。「ほら、ある日ダ・ヴィンチがさあ・・・モナリザの右目を、こう、完璧に描き上げるわけですよ、ふふふ。そうしたら、その完成品の右目に見劣りしないすてきな左目を描きたいって思うじゃない? 同じように、完璧な鼻を、口をって」。本来は作品の最終段階でおこなうべき細部の彫琢作業「から」陽水は始めるのである。すごいね(けっして真似してはならない)。

ケアレスミスはグリコのおまけ
 いよいよ論文提出間近になると不安感に襲われるものである。「自分では気づかないケアレスミス」の最後のひとつまで指摘してもらうために、私を召喚して「見直してください」という泣きが入ることがある。
 ぶっぶー。
 あのね、ちがうんだよ。ケアレスミスなんて「文章を書く人」にとって「必ずついてくるグリコのおまけ」(意味分からんかもしれんが)みたいなもんだ。卒論は共著である。共著としてここまで至ったものを、「自分の書き物」に取り戻すのが最後の最後の重要なミッションなのである。「共著ではあるが、その一切には私が責任を負おう」というパパ・メディア、ママ・メディア(@上記の「佳境には磨くこと」)を立ち上げなければならない。
 この宇宙でいまだ語られていないことが(たとえほんのささやかな一片であれ)あって、語られるのを待っている。この宇宙にその一片を付け加える。語られるべきこととそれを耳にする宇宙に対して、それを司会する媒介者としての全責任を負おうではないか、という覚悟が最終的に「書き手」に必須の要件なのである。真の媒介者たるママやパパの一言一言すべてのケアレスミスを私が直していたら、それは私の書き物であってあなたの書き物ではなくなる(当然、単位は私に与えられるべきものとなる)。
 キャラメルを食べたかったら「グリコのおまけ」もちゃんと自分の責で引き受けるべし。

書いたもの提出するのは禁止
査読し朱入れしてほしいと書いたものを提出する人がいる。
だめだよ。
書いたものはプリントアウトし、読み直し、書き直して再入力してから提出すること。
「書く」とは「書き直す」ことだとしつこく言ってるでしょ。
そもそも人類はまだモニター上で文章を十全に了解するまで進化しておらない。ペーパーベースで読み直せば、小さなケアレスミスやルール違反、論旨の破綻から文章の整序不足やらいろいろ見つかるものである。それを「書き直してから」でないと人に読んでもらうに値しない。
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by mewspap | 2005-04-30 20:42 | Aphorisms(ゼミ標語)