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シネマのつぶやき:『インベージョン』――母性神話vs.ゾンビ

シネマのつぶやき:『インベージョン』――母性神話vs.ゾンビ_d0016644_20365136.jpg『インベージョン』The Invasion
2007年アメリカ
監督:オリバー・ヒルシュビーゲル
出演:二コール・キッドマン、ダニエル・クレイグ、ジェレミー・ノーサム、ジェフリー・ライト、ジャクソン・ボンド

本日観てきた映画だが、近くのシネコンで観客は約8名。
一体どういう人たちがウィークデーの昼過ぎにこの映画を観に来るのか(そして来ないのか)。

これは地球外生物に人間が次々と「乗っ取られる」という、『光る眼』『ボディ・スナッチャー』『ノイズ』といった映画の正統なる継承者である。



というふうに見せかけた、実はジョディ・フォスターの『パニック・ルーム』『フライトプラン』、ナオミ・ワッツの『リング』1および2、ジュリアン・ムーアの『フォーガットン』と同型の「母性神話」映画であろう。

それに懐かしのゾンビ映画のかけ算と見た。
次々と「乗っ取られ」て「人間性を喪失した」人々が、いつもの日常を送っていた家庭で、近所で、街中で、わらわらと群れをなして襲ってくる図像は、ゾンビ映画の嫡子たるを証している。そしてこれがまたしても母は強しの「母性神話」映画であることはもはや言をまたない。

母は強い。
なぜか。
母性があるから。
なぜ母性があるのか。
母だから。
したがって母は強い。

という循環論法を自明視することに神話の神話性がある。
神話の神話性は、「なぜならそうなっているからそうなっているのである」というところにその骨法がある。理由は問うな、というところに。

そしてわらわらと群れを成して襲ってくるゾンビ的な群衆の「ほとんどが男」であることが、この神話性に暗黙の承認を与えている。

キャロル(ニコール・キッドマン)はバツイチで、ひとり息子のオリバー(ジャクソン・ボンド)と暮らしている。
まず何よりも、ア・プリオリに「父が不在」となる。
それにより「無条件に強い母性」というものが召喚される。

周りの人間が次々と地球外生物に浸食されて変身していくなか、行方不明となったオリバーを探して救い出すために、母には「何でもあり」なのである(車で轢き殺し、銃で撃ち殺しまくる)。
元夫のタッカー(ジェレミー・ノーサム)が、「きみのプライオリティではつねに息子が一番、自分は二番目だった」という恨み節をつぶやくが、それもむべなるかなである。

映画の終わり、ワクチンが開発されて元の人間に戻った人々は、乗っ取られたことも事件のこともまったく記憶していない。

それはよろしい。

キャロルはずっと恋人のベン(ダニエル・クレイグ)の求婚を拒否していたが、最後のシーンでは幸せな家庭を築いたことが示される。
目の前にいる妻キャロルが、プライオリティの頂点にある息子オリバーを守るべく、地球外生物に浸食されて変身した自分に向けて銃をぶっ放した記憶を、今のベンはもっておらないのである(よかったね)。

しかしながら、よろしくない人もおられる。
地球外生物に乗っ取られて人間性が変わることを拒否して自殺した人たちや殺された人たち。
変身後に、キャロルを初め反旗を翻して応戦してきた方々に殺害されてしまった人たち。
キャロルが殺害した者も十指を下るまい。

それにオリバーは母を助けるために父のタッカーを鉄パイプで殴り殺してしまう。
地球外生物に感染せずにサバイバルしたオリバーは、もちろん事件の記憶を鮮明に持ちつづけるであろう。
日常が戻ってきた世界で、今後「父殺し」の記憶がトラウマとなって取り憑かないことを祈るのみである。

異星人やモンスターの「乗っ取り」話型で一番恐いのは、『エイリアン』や『スピーシーズ』や『宇宙からの物体X』といった、見た目で「あ、化け物になっちゃった」と分かるものではない(自分も化け物になる恐怖はあるが)。

一番恐いのは、『ノイズ』や『光る眼』や『フォーガットン』やこの『インベージョン』のように、よく知っている人たちが、一見して以前と変わらずに日常生活の延長線上にありながら、見知らぬ他人となってしまうという話型である。

精神科医であるキャロルのもとにやって来た女性患者が言う。
"My husband isn't my husband."
この台詞に端的に表される「ファミリアなものへの違和感」が肝心である。
われわれは自分のよく知悉しているはずのものを、実はまったく分かっていないのではないかという不安をどこかで抱く。
ファミリアなものの陰にある他者性こそ、(見た目モンスター化しない)「乗っ取り」話型の肝要なるところである。

かつて、『トワイライトゾーン』という映画の冒頭のプロローグが、この恐さを端的に表現していた。
20年以上前の作品であるが、スティーブン・スピルバーグら4人の若手監督を起用したオムニバス映画である。
それぞれの監督が短編を一作ずつ担当する四話構成なのだが、そのよくできた四話のオムニバス作品よりも、冒頭に置かれた短いプロローグが一番恐かった。

こんな話。

深夜の幹線道路を若い友人同士の男ふたりが車を走らせている。
車内にはけたたましいロックが流れる。
ふたりは大声で馬鹿話に興じては爆笑する。互いを長年知る「バディ」同士であり、能天気なお友っちである。
ふと、ひとりが言う。「本当に恐いものってのを見てみたくないか・・・?」
もうひとりは「え、なーんだよばっかやろー」というノリであるが、相手が一瞬向こうに顔を隠してさっとこちらを振り返ると、異形のモンスターになっていて襲ってくる。

これは「のっぺら坊」の話型と同じである。
深夜の森で、あるいは山道で、顔のないストレンジャーに出くわす。
きゃあと悲鳴をあげてあたふたと逃げ帰り、ようやく馴染みの村が見えてくる。息も絶え絶えに通りがかった村人の背中に、「今そこに、か、顔のない化け物が・・・」と助けを求める。

するとその村人は、「そうか。それはもしかしたら、こ~んな顔だったんじゃあないかぁあああ」とゆっくりと振り返るのである。

恐いのは山道のストレンジャーではない。
「あなたのすぐ横にいる馴染み深い他者」なのである。
by mewspap | 2007-10-30 20:45 | シネマのつぶやき


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