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シネマのつぶやき(その43:後)

■シネマ◆
■の■■■
■つぶ■■ ◆ その43(後)
■■■やき ■ ■ ◆ 2004-11-26

◆◆『パニック・ルーム』THE PANIC ROOM
シネマのつぶやき(その43:後)_d0016644_943713.jpg2002年アメリカ
監督:デイヴィッド・フィンチャー
出演:ジョディ・フォスター、フォレスト・ウィテカー、ジャレッド・レト、クリスティン・ステュワート
2年くらい前に観た映画。
『エイリアン3』『ファイト・クラブ』『セブン』『ゲーム』のデイヴィッド・フィンチャー監督です。

主演はジョディ・フォスター。彼女の子音の発音が昔から好きなんですよね。

ジョディ・フォスターの娘役の女の子(クリスティン・ステュワート)がなかなか名演である。
閉所恐怖症の傷痕をもち、糖尿病の持病をもつという役柄。低血糖を起こして苦しむ顔のメーキャップは、ワイアット・アープものの『トゥームストン』で肺病のドク・ホリデー役をやったヴァル・キルマーばりである。
クリスティンちゃんの今後に大いに期待したい。

ジョディ・フォスターとクリスティンちゃんは親子ふたりの母子家庭である。
そして19世紀に建てられたマンハッタンの高級ブロック・ハウスに引っ越してくる。この建物がハイソな感じではなく、ゴシックな雰囲気なのがよい。『ヘルハウス』みたい。

そしてお引っ越し早々、夜中に悪い人たち3人が忍び込みます。

ひとりはぽっちゃり系の黒人俳優フォレスト・『スモーク』・ウィテカー、いい役者ですね。
悪人になりきれず、最後に捕まる危険を冒してまでもう一度戻ってくるとこを除けば、気弱で「優しい」犯罪者っていう人物像は結構リアリティあるのかも。

それからジャレッド・『ルール』・レト。
もうひとりは典型的な「ぶち切れサイコ野郎」(名前知らない、ラウールって名前でご登場)。

登場人物が少ない室内劇である。
こういうある限定された所与の条件の下で物語が展開する室内劇って好きなんですよ。
クラシックな重低音の音楽もよい。

ドアにいくつもの鍵をかけ、「閉じこもる」ことによって安全を担保しようというアメリカはニューヨーク流のおうちを逆立ちさせました。

「閉じこもる」安全の裏返しで「閉ざされる」とういモチーフにしよう、という脚本家の発想と監督との会話が聞こえてきます。

「知性派のジョディ・フォスターが乗ってくれるようなシナリオを書かないといけない」
「となるとサブプロットに母子の和解の物語を布置するなんてどう?」
「なら娘をもっとハイティーンにした方がいいね」
「いや、その母親役って言ったらおばさんになっちゃうじゃん。ジョディはまだ子供産んだばっかりなのに(実生活)、嫌だって言うよ」
「では娘は微妙な年齢で12歳くらいでと、そうだ娘は糖尿病って設定にしよう。閉じこもってたら安全ってことにならないように」
「犯人の方が閉じこもるって逆転もやろう、動きが少ないしね」
「ピストルもたせればいいやん」

ベタなストーリーである。
したがって成否はフィンチャー監督の撮影・演出の魔術にかかっている。

ということで脚本家と監督の会話は続く。

「4階というのを活かして、横の動きと縦の動きで空間感覚をフルに活かそう。部屋の間取りがそのままサスペンスを生み出すように」
「じゃカメラワークがんばらなくちゃね。ドアを巧く使って、鏡も巧く使って、横と縦は階段の吹き抜けを利用して」
「もちろんCGも使うんでしょ?」
「ときどきは透明図法もいいんじゃない」
「最後はセントラルパークの広々としたシーンで開放感とカタルシス、ということで」
「よいね。ほとんど全部家のなかだし、そのうえパニックルームの狭い空間だからな」

確かにカメラワークがおもしろい。
家のなかをワンショットで自在に動き、「あり得ない」狭い空間をすり抜けかいくぐっていくカメラワークである。

これはヒッチコック流なのだろうか。
蓮見重彦の『映画の神話学』にこんな一節があった。

閉ざされているはずの窓や扉をまるで嘘のように通過して、カメラまでがあっけらかんと室内に進入してしまう。『海外特派員』の飛行機に入り込むカメラ、『サイコ』冒頭で隣のビルの屋根から情事が演じられるベッドのかたわらまで、『間違われた男』でカメラが通りからアパートの内部まで滑り込んでいく。

うーむ。なるほど。

そういえばサム・ライミのとってもグロくてゾンビなホラー映画『死霊のはらわた』のエンディングでも、森のなかをローアングルの「悪魔の視点」が走り抜け、山小屋の裏のドアからすべり込み、部屋のドアを通り抜け、最後に玄関のドアをくぐり抜けて、玄関先に立っている唯一の生き残りのにいちゃんに襲いかかかるシーンがあった。

ヒッチコックとサム・ライミとデイヴィッド・フィンチャー。
並べたらどちらさんもお怒りになるかもしれないが。

ともあれ『パニック・ルーム』では、確かに当初は「閉所恐怖」というモチーフを考えておられたようだけれど、途中から「子を持つ母は強し」というお話になってしまった。

最後は身の丈に合った部屋に引っ越そうと母娘が相談しておしまい。贅沢や虚飾はイケナイということだね。

ということでこの映画の隠されたモチーフは「吾唯足知(われただたるをしる)」であると見た。

◆◆◆『オーシャンズ11』OCEAN'S ELEVEN
シネマのつぶやき(その43:後)_d0016644_951064.jpg2001年アメリカ
監督:スティーブン・ソダーバーグ
出演:ジョージ・クルーニー、マット・デイモン、ブラッド・ピット、ジュリア・ロバーツ、アンディ・ガルシア、ケイシー・アフレック、ドン・チードル、エリオット・グールド、エディー・ジェミソン、バーニー・マック、カール・ライナー、スコット・カーン
これまた2年ほど前に観た映画。

異能の男たちが集合し、ホモ・ソーシャルな集団を形成する。
それぞれの特技と個性を結集させて大泥棒を敢行(事件を解決、偉業を達成、悪者を退治etc.)するという話型。
特異な人たちの人集め、和気あいあいのイン・グループ、問題発生や障碍(場合によっては内輪の裏切り)、大成功、そして最後には別れていくというお話である。

『七人の侍』『荒野の七人』『スペース・カウボーイ』『ロング・ライダーズ』『ワイルド・バンチ』『ロード・オブ・ザ・リング』『ミニミニ大作戦』、それから望月三起也の『ワイルド・セブン』。

フランク・シナトラ主演の『オーシャンと11人の仲間』のリメイクだが、ジョージ・クルーニーを主役に錚々たる出演陣である。
この映画製作の実現自体が「人集め」話型であったことであろう。

以前、ジョージ・クルーニーは、「古典ハリウッドの大人」(@「シネつぶ」その18)であると書いたが、フランク・シナトラに擬したリメイクで証明された。

やっぱ今日のハリウッドにおけるジョージ・クルーニーのポジションってそういうものなんだ。

◆◆◆◆『ローラーボール』ROLLERBALL
シネマのつぶやき(その43:後)_d0016644_953548.jpg2002年アメリカ
監督:ジョン・マクティアナン
出演:クリス・クライン、ジャン・レノ、LL・クール・J、レベッカ・ローミン=ステイモス
久方ぶりにツタヤの惹句を引くと、以下のようです。

「近未来のサンフランシスコの公道をリュージュで疾走しスリルを楽しんでいた命知らずのジョナサンは、友人リドリーの誘いからローラーボールの選手となって一躍スターダムにのし上がる。世界中が熱狂するローラーボールとは、インラインスケートとオートバイで構成されたチーム同士が鉄球を使って得点を争うという命懸けのサバイバル・ゲーム。しかしテレビの視聴率アップの為にチームオーナーのペトロビッチは恐ろしい計画を企てる…。」

なかなか簡にして要を得た文章である。

この映画が言わんとするところは「ヨーロッパ人は大人、アメリカ人は童子」ということであろう。
そして映画のテーマは「馬鹿なアメリカ人はひどい目に遭う」だろうか。

でも最後はお約束どおり、童子が「悪しき」大人を退治し、旧弊で野蛮なシステムを破壊して、新しい秩序を構築するということが描かれる。
まったくアメリカ人というのは……。

わたくしが子供のころローラースケートが流行っていました。

ローラースケートというのは今流行のローラーブレードとは違う。ブーツ型ではなく、靴の上(靴の下と言うべきなんだろうか)に履いてベルトで締めて装着するものであった。

車輪もローラーブレードのような縦一列ではなく、自動車型で左右ふたつの前輪と後輪に分かれた四輪である。

金持ちのボンはゴム製タイヤ、ビンボたれは鉄製タイヤのものであった。
アキモトせんせがいずれを愛用していたかは火を見るより明らかであろう。
小学4年生のときに、10円玉貯金をしていた瓶を割って手に入れたのである。
今でも覚えているが、1680円であった。

その168枚の10円玉をじゃらじゃらとビニール袋に入れて、昨今問題視されている西武の系列スーパー「西友」に買いに行ったのである。

1000円札と500円札(というものが「いにしえの日本」にはあったのだよ)と100円玉に代えてくれと母親に頼んだら、「貯金をはたいて買いに来たんだね」と喜んでもらえるからそのまま10円玉を持って行きなさいと言われ、じゃらじゃらと持参したのである。

そこはかとなく不安があったのだが、案の定悪い予感が当たってレジで恥ずかしい思いをした(なんべん数えても167枚しかない)。

思うに、母親の「○○したら××だから△△せよ」という命令を鵜呑みにして、ろくな目に遭ったことがないような気がする。

爾来、わたくしは高校進学時も大学進学時も(言うまでもなく大学院進学時も就職時も)大人の意見は一切参照しないことにした(それでもなんとかなるものである)。

西友のレジのおばちゃんは、真っ赤に赤面して泣き出しそうな少年にたいへん同情的で、ビニール袋の隅に隠れた最後の10円を発見してくれた。

爾来、わたくしは包容力のあるおばちゃんにたいへん弱いような気がする。

子ども時代の夏の記憶のひとつに炎天下のローラースケートがある。
友だちと一緒にコンクリート道路で思い切りスピードを上げ、その余勢をかって滑走する。
両膝に手をついて疾駆していると、真っ白にハレーションしたコンクリートの路面が勢いよく後方へ流れてゆく。
頭の芯が麻痺したようなランニング・ハイに似たその高揚感を求めて、スピードを上げてはその余勢で流すというパターンを繰り返す。
あれも二度と経験することのかなわぬ身体感覚であり、失われた「小確幸」であろう。

当時、ローラーゲームという、スケートのショートトラックとホッケーとローラースケートを合体させた不思議なスポーツが流行っており、TVでも放送していた。
「東京ボンバーズ」というチームが一番人気だったやに記憶する。

あのローラーゲームに思い鉄球とバイク走者の選手とルール無用のアングラ・レスリングを合わせ、ローマのコロシアムみたいな見せ物の殺人ゲームを加味した近未来スポーツを中軸としたのが、かつての『ローラーボール』(1975年)という映画だった。

わたくしが子供のときに映画館で観た数少ない映画のひとつである。鉄球がごぉーっと転がる音、バイクのエンジン音と排気煙、人体がぶつかり合うドンという音が印象的だった。
『ゴッドファーザー』でマシンガン「蜂の巣惨死」を遂げる長兄ソニー役、ジェイムズ・カーン主演のカルト映画である。

そのリメイク映画。
アキモトせんせの映画的記憶のなかで神話的心象風景をなしている映画のひとつなのだから、点数が辛くなるのはしかたのないところであろう。

ジャン・レノをアルバイトがてらお呼びしてもだめよ。
低予算の半分は彼の出演料なのでしょう?

主演はクリス・クラインというキアヌ・リーブスを三発くらい殴ったような顔をした若手(無名、だと思う)俳優。
上で引いたツタヤの惹句にあるように、彼の役柄は「近未来のサンフランシスコの公道をリュージュで疾走しスリルを楽しんでいた命知らず」である。要するに脳味噌量のきわめて軽微なアメリカの若者である。

それが異国で邪悪な陰謀に巻き込まれ、正義のために立ち上がるわけです。

1975年のオリジナル・ヴァージョンは近未来映画だったが、リメイクの舞台は(近未来とされているけれども)明らかに現代である。
1975年が想定し投影した「近未来」は、今や「われらが同時代」なのだ。
今わたくしは「アキモト少年がかつてかいま見たデストピアの近未来」にいる。脳天気に真夏の直射日光のハレーションのなかでスピードに酔っていた20世紀少年の彼にそのことを教えてあげたい。

殺人ゲームがおこなわれるのは中央アジアの某国(カザフスタンとかアゼルバイジャンとか)という設定だが、あのオリジナル・ヴァージョンの「異界」が見せる異様な暗さは、中央アジアに舞台を移しても再現できぬ。

終末論的な世界像もメル・ギブソンの『マッドマックス』シリーズに比肩し得ない。

ごめんね、評価がきつくて。少年期の刷り込みの持続的衝迫ゆえと思ってお許しいただきたい。

でもデストピアには確かに8ビートとディストーション・ギターのヘビメタ・サウンドがよく似合うと思うよ。

とにかく欧米諸国にとって、崩壊した元社会主義国は、たがが外れ退廃した世界を表象し、倫理の圏外で「何でもあり」に見えるのだろう。

ジャン・レノをオーナーとするチームの試合は、殺人エンターテイメントとして欧米各国で実況中継されているという設定である。

そして視聴率アップのため、試合では過剰な暴力が勧奨される。
暴力、ギャンブル、八百長、ショーアップのために仕組まれたルール違反の策謀。
人命軽視、警察権力の腐敗。

舞台が元社会主義圏というところが「今日的」であろう。
欧米はつねに「まなざす側」にあり、他方、元社会主義国は奇異なものとして「まなざされる側」に位置づけられる。

「見る/見られる」関係の非対称性は権力関係に他ならない。

現実のニュースでもそうであろう。
今日の東欧、中欧、中央アジア諸国は、資本=欧米が草刈り場的に人も金も食い物にしている世界である。
だから一方的に「見られる者」たる選手の主人公が、搾取される側に味方するのは当然である。

かつて、ヒーローが弱者に味方するのは「正義」の語法によるものであった。そこにはなんら説明など不要だった。
今や某大国の「正義」の語法をはじめ、「正義」という概念がゆらぐ。
ヒーローが立ち上がるのには別の文法が必要となる。
ヒーローであるアメリカ人の(ちょっとお馬鹿な)若者は、元来「見る側」に位置していたのだが、「中央アジアの某国」において「不当にも」一方的に「見られる」弱者となったがゆえに、立ち上がるのである。

だから腐敗せし中央アジア社会にひとり介入して新秩序を打ち立てるヒーローは、「当然のことながら」アメリカ人なんですよね。

中央アジアを代表するのは、「ひたすら悪い奴」のジャン・レノくんだし。

2004-11-26
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by mewspap | 2006-01-07 01:15 | シネつぶアーカイヴ


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