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シネマのつぶやき(その40:後)

■シネマ◆
■の■■■
■つぶ■■ ◆ その40(後)
■■■やき ■ ■ ◆ 2004-10-18

◆◆『ヴィレッジ』VILLAGE
シネマのつぶやき(その40:後)_d0016644_20523433.jpg2004年アメリカ
監督:M・ナイト・シャマラン
脚本:M・ナイト・シャマラン
出演:ブライス・ダラス・ハワード、ホアキン・フェニックス、エイドリアン・ブロディ、ウィリアム・ハート、シガーニー・ウィーヴァー
シャマラン監督の話題作である。

話題作なのではあるがこれまた観客が少ない。
例によって後部側の座席最前列のど真ん中の指定席を買って開演5分前に行くと、座席ひとつ空けた左隣にぺちゃくちゃとおしゃべりしているおばちゃん二人組がいるのみである。

げげ。このおばちゃんらと3人で観るのかよ。

と思ったらマニアックぽい太ったお兄ちゃんが息せき切って登場。次いで悠然たる風情で暇そうなおっちゃん(人のことは言えない)がゆらりと現れ、それからわいわいとティーンズのグループ7人が駆け込んでくる。

ということで、シャマラン監督の話題作を計12名で観る。

ふむ。これはどういう映画であるか。

話し好きなともだちがいて、こちらがびっくりした顔をみせることだけを期待して、にこにこしながら不思議なお話を聞かせてくれる。
面白いんだけど、「その話、まえにも聞いたよ」と思う。でも彼はとても話し上手だし、彼自身がその話をとても気に入っている風なので、そんなことは言えない。

だって、繰り返すけれどシャマランくんはとてもお話好きでかつ話し上手だから、たとえ永久に第1作を越えることができなくても、次作への期待を持たせ続ける。

これはそういう映画である。

やはりシャマランくんはとても話し上手である。

白ペンキの家、赤ペンキの警告記号、森に近づくときに必ず身につける黄色いケープ。
いいですね、こういうの。

ジェット・リーの『英雄/HERO』では、語られるいくつもの物語にしたがって衣装の色を変えていたけれども(ワダエミのデザインだよね?)、それは「物語がフィクションであること」そのものを効果的に表していた。総じて、映画全体が一個のファンタジーであることも。

『ヴィレッジ』は物語の結構に奉仕する演出上の色づかいではない。
共同体内部の慣習として描かれているのである。
たとえ19世紀アメリカの孤絶した森のなかの小さな村であれ、そのような単純な「色分け」を原理として共同体運営がなされるとはとても考えられない。共同体の文化とその伝承は、もっと複雑で迂回的な表現を見るものでしょう。

このような単純化された文化表象は、この共同体の世界そのものがある意図と計画によって設計された人工物であること、そして作為的なフィクションであること暗示している。

このようなコミュニティが「現実」において存立不可能なことは、歴史が証明するところである(ロバート・オーウェンでも武者小路実篤の<新しき村>でも1960年代のヒッピー・コミューンでも)。
したがって、その不可能性がプロットのうえで惹起され、それがターニングポイントを生み出すのは必定である。

シャマラン監督は、このような脆弱なコミューンを成立させるために、対内的には禁忌、モンスター・クリーチャーの森、掟というかたちで、対外的には保護区の設定、壁の外周のパトロール、政治家への献金による上空の飛行禁止など、物語上のお膳立てを配している。

自給自足コミューンの不可能性は、基本的な消費物資はどのように供給されるのか、という問題のかたちをとって浮上することになる。
日常生活レベルでは問題を隠蔽することが可能でも、生死にかかわる医薬品はどうするのか。

ということでこの原始共産制のようなコミューンは必然的に崩壊の危機にさらされることになる。

よいです。うまいですね。

物語の結構として、このような自給自足コミュニティの不可能性が喚起されるのは適切である。

しかし、そのような物語を生み出すために前提となる条件はどうか。つまり、そもそも脚本のうえで、この不可能性はどのようにクリアされ、説得性が与えられているか。

残念ながらその点脚本にはいささか無理がある。

食器皿一枚、ガラスコップ一箇、革のベルト一本、フライパンひとつ、この孤絶した村の内部で作ることはできないではないか。
まさかバイオリンの弦まで自家製ということはないだろう。
そういったものは一体「どこ」からやってきたのか、という疑問が沸いてこざるを得ない。

『大草原の小さな家』のような19世紀アメリカにおけるコミュニティという設定を、冒頭の葬儀場面で、亡くなった子どもの墓標に刻まれた1897という「死亡年」というかたちで明示している。

こういうのは脚本上の観客操作という意味では有効なのだけれど、それだけである。
それはコミュニティ内部における住人たちにとって、まったく必然性のない年号であろう。それが1800年代であろうと紀元前であろうと23世紀であろうと。あるいは2004年であろうと。
村のリーダーである元歴史学者エドワード・ウォーカーが理想と見なした「時代」であるゆえ、というのはあと知恵であろう。
村の住人はあくまでもコミュニティの内的時間軸に沿って生きているわけだから、年号そのものに何ら意味は付与され得ない。

意味が生まれるとしたら、観客にとってだけである。
観客から見たこの村の風情と生活習慣と、時代のイメージを一致させるだけの「ためにする」脚本である。物語「内」的な必然性はない。

シャマラン監督が仕掛けた「だまし」の基本構成がここに表れている。
シャマラン流の「あっと驚く仕掛け」は、観客をこの村の「年少者」たる「子ども」と化することによって成立している。
観客は、冒頭場面の墓標に刻まれた1897という年号を信じて疑わないコミュニティの子供たちと、同じ世界観に縛られる。観客は「欺かれる子どもたち」の視点に置かれるのである。

シャマラン監督の話し上手なところは、カメラワークにも表れている。
全体に仰角カメラが多く、仰角を多用したカメラは静かな不安感を醸し出す。
お得意の頭上3メートルほどからの見下ろしショットもある。
シャマラン流「おいしい」カメラワークが多くてたいへん嬉しい。そこに特に「だまし」の意味や効果はないけど。そもそも主人公の娘アイヴィーは盲目という設定だし。

話し上手の人はディティールの構築を忘れず、雰囲気作りにも長けている。
黄色い旗、木材で作った物見櫓の見張り台、度胸試しの切り株、決して開けられることのない秘密の箱、避難用地下室といった大道具・小道具を布置して、独特の雰囲気を醸成している。

それからコミュニティを統括する仕掛け。
村の掟、コミュニティ創世神話、クリーチャーの森の伝説、森との協定(truce)という伝承、「バッド・カラー」としての赤色、そして何より禁忌(タブー)に統括された村。

さすがに、宇宙人を現実化・視覚化しちゃった前作の『サイン』よりはるかにいいが、この映画で語られるのは「愛」と「無垢」というアメリカの古い話型だ。

村の「年長者」たちは、トラウマ体験により世捨て人となる。
拝金主義者の父親が射殺されたり、姉がレイプされて殺害されてゴミ箱に捨てられたり、身内が強盗にあって殺害されて河に捨てられるといった、「現代アメリカ定型の体験」を「年長者」たちは共有している。

鍵を掛けられ決して開けられることのない秘密の箱とは、そのようなトラウマの具象化である。
見ることのかなわぬ、そして決して忘れることのかなわぬ過去の体験。
それは個人のトラウマであると同時にコミュニティ全体のトラウマであり、それゆえコミュニティの起源の物語群であり、コミュニティ生成のドライヴとなる。そしてそれゆえ「年少者」たちの抑えがたい好奇心を誘因する。

ところでコミュニティのリーダーのエドワード・ウォーカーという名前は、いかにもニュー・イングランドのWASPという感じである。
そう言えばこのコミュニティは「いかにもそういう人たち」ばかりだ。
アメリカにはアフリカ系、アジア系、中東イスラム系などさまざまなエスニック・グループがあり、当然の事ながらそういう人たちのなかで現実社会で傷つき損なわれてこのフィクショナルなコミュニティに参集した被害者たちもいるはずなのに、ごっそり丸ごと排除されている。

エドワード・ウォーカーくんが差別主義者であるはずはない。
しかしながら、そのようなエスニック・グループをこのコミュニティに入れる「配慮」をすれば、19世紀アメリカの「村」の雰囲気は損なわれる。
ちょっと不自然なトリックにより、19世紀アメリカの「自然な風景」が担保されている。

ナイト・シャマラン監督はインド系だから余計皮肉である。
シャマラン監督の「19世紀的なコミュニティ」のトリックは、「WASP以外入れない」という圧倒的に非PC的な作法により成り立っている。

このコミュニティの運営原則は「愛」と「無垢」であり、その保持が執拗に主張される。
そして「愛」と「無垢」の原理と対極にあるトラウマ体験が、このコミュニティを生成・維持しているのである。

土地と、壁と、村の建設と、外部パトロールと、さらには上空を飛行することを禁じるための政治家への賄賂と、莫大な金をかけて対外的に「愛」と「無垢」を守る。
モンスター・クリーチャーと、森の警戒と、協定と、禁忌と、さらにはモンスターを実在させるための「年長者」たちの不断の努力と、多くの「嘘」と「物語」によって、対内的に「愛」と「無垢」を守る。

皮肉な見方をすれば、現代アメリカの「愛」と「無垢」は、これくらいドル札を山積みしないと「買えない」ものなのである。

そしてこれら有形無形の「壁」が、村人たち(特に子どもたち)を「愛」と「無垢」の時空に「閉じこめ」るのである。徹底して外部を遮断することにより、子どもたちの「愛」と「無垢」を擁護するのである。

盲目のヒロイン、アイヴィーは恋人ルシアスの命を救うため禁断の森に入り、「外」の世界に向かう。
「外」の世界でパトロールの若者に接し、「町」でそんな「親切」に出会うなんて思ってもみなかったとアイヴィーは言う。「町」には悪魔のごとき鬼畜野郎が跋扈していると教え込まれてきたから。

しかし、彼女はコミュニティに戻ってくる。
単に瀕死のルシアスを救うという目的のためだけでなく、アイヴィーは確かにクリーチャーに出会ったのだから。盲目の彼女は、そのクリーチャーはノアが化けていたことを知るよしもない。

知的障害により「子ども」のままの無垢な精神をもつノアの嫉妬と、盲目のアイヴィーの「モンスターの森」体験によって、危地に瀕した創世神話は保持され、継承されるべき伝説は再強化され、「年少者」たちが恐怖の機構による統治にだまされ続けることによって、「愛と無垢」の平和の村の安定が担保される。

こうして、アイヴィーは村の長老である父の継承者となるべく約束される。

よかったよかった。

でも、ぼく、たとえ愛と無垢と平和に満ちていようとも、「大人の嘘」は嫌いだ(わたくしのなかの「子ども」の部分がね)。
そして同時に、いずれの世であれ、世界の創世に嘘が介在し、現世の維持に嘘が密かに基幹的な役割を果たしているというのは「確かにそうなんだろうな」と思う(わたくしのなかの「大人」の部分がね)。

長老たちはその嘘の責任を引き受け続けてきた。
そしてアイヴィーはその嘘の正統なる継承者にならねばならない。

ここに描かれているのは、「愛と無垢」の保持のためにそれと知りつつ嘘を付き続けることを引き受ける大人と、だまされ続けることによって安寧を得る子どもとの二種類の人間である。

その中間はない。
ひとりの例外、ノアを除いて。

ノアは永遠の無垢にして愛に満ちた平和主義者であり、その永遠の子どもの魂ゆえに「大人の嘘」によって逸脱し、村始まって以来の「殺人未遂」という犯罪を犯し、愛と無垢の平和なコミューンの維持に危機をもたらす。
そしてモンスターとして殺害されることによって殉教者として祭られる。
ノアは「愛と無垢」という村の理念にもっとも近く、それゆえにモンスター化し(「愛と無垢」を現出させる嘘と、その淵源である「秘密の箱」のトラウマを体現する)、それゆえに殺害され、それゆえに新たな伝説を生み、村の守護神となる。

ノアはコミュニティの存続のため生け贄となる供物なのだ。

この映画は、そういう共同体の生成と維持の物語である。

2004-10-18
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by mewspap | 2006-01-07 00:40 | シネつぶアーカイヴ


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