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シネマのつぶやき(その26:前)

■シネマ◆
■の■■■
■つぶ■■ ◆ その26(前)
■■■やき ■ ■ ◆ 2003-08-25

「週刊シネつぶ」のみなさん残暑お見舞い申し上げます。

ゼミのみなさんは、夏休みが残すところ半分になった今般こそが勝負所である。
秋に「(自分でも)あっと驚く」飛躍的な進化を見せて、卒論らくしなってくるために、残す休暇期間中は辛抱のしどころなのだ。心するように。

なお、わたくしは映画を観るので悪しからず。

すでにご案内のように、わたくしは出不精である(「太りやすいタイプ」=デブ性ではない)。
あんまりあちこちに行かない書斎派である。
大学の行き帰りに寄り道もめったにしない。

そのわたくしがはるばる福井県まで行ってきました。ご当地で開催された地方教育懇談会に出席し、父母のみなさんと親しく懇談するためである。

土曜日の午後、麗しのサンダーバード号に乗る。
車内宴会を繰り広げるおばちゃん軍団がわたくしの席を占拠している。
「いいっすよぉ」とにこにこ席を譲ってあげる。
「おにいちゃんありがと。ビールあげるワ」というありがたいお申し出を泣く泣く断る(まだ仕事があるので)。

福井駅に入るころ、鶯色の妙に圧縮したような不思議な単車両を車窓から目にしてびっくり。
なんだろうあれは、電車だよね。ローカル私鉄だろうか。
げに、世に謎は尽きることはない。

福井駅も不思議である。
細い謎めいた通路をてくてく渡って、業績不振のために左遷されたような出口(東口)にいたる。
改札といういうよりそのまんま「緑の窓口」なのだ。
そこに、まじめなんだけど今ひとつ結果につながらなくって窓際族の宿命を甘受しているという風のおじさん駅員がいる。
どうやら改札と緑の窓口の両者を兼ねているらしいが、普段切符を購入している緑の窓口に切符を渡して駅をあとにする、という仔猫にだまされたような経験を初めてした。

駅を出ると、おお、これは前回ご報告の埼玉県鴻巣市とそっくりの「JR線田舎の駅前」ではないか。
駅前が「やたらと広い」駅前通で、しばらく行くとT字路に突き当たる(そうして幹線道路とJRの線路が平行して走ることになるのであろう)。

ホテルで荷ほどきをしたら、すぐに打合会と懇親会。教育懇談会福井支部の評議員、愛娘を国文科に送り出しているという中学校の教頭先生とコンビを組むことになる。
とてもよい人である。
教頭先生であるから、宴会の席でも昨今の教育問題について次々と質問を浴びる。
酔っぱらいながらその場で瞬間的に思いついたことを、いかにも教育者として常々考えてきた見解であるかのようなまじめな顔をして速射砲のごとく放言する(何をしゃべったのかぜんぜん覚えていない)。
T田さんすみません。しゃべったことはほとんど口からでまかせです。

翌日の地方懇本番は、全学で100余名、文学部は工学部に次いで多い20名ほどのご父母の参加を得て、なんとか無事終わる。
T田さんほんとにお世話になりました。
来年5月に本学で開催される教育懇談会総会での再会を楽しみにしております。

個人面談では15名ほどのご父母の方々と面談する。
これは個人情報にかかわることであるのでつまびらかにできぬが、わたくしの印象は「福井県の人は実に変わっている」という一言にして言い表し得る。
わたくし好みである。
いいな、福井。住んでみたい土地である(魚が美味いし)。

個人面談終了と同時に脱兎のごとく福井駅に走り、そのまま一番早い特急、雷鳥の車中の人となる。
行きのサンダーバードを「翻訳」しただけの車名であるのに、天地ほどの差がある。
特急料金は一緒なのに、ひどい話である。
しかも、途中、敦賀付近で雷雨に見舞われ、車内灯が二度も停電し、終いにはゆらゆらと「惰性で走って」近江中庄という無人駅に停車する(というか力尽きる)。
車内は騒然、外はばりばり雷が鳴っている。
「安全装置が故障しました」というアナウンスがあるが、それっていったいなんであろう。
「安全装置が作動しました」の間違いであろうか。
安全装置という最終的なフェイル・セーフ機構が「故障」してしまってどうすんの。
あるいは「故障」と「作動」を言い間違えたのだとしても、こんなときにとんでもない言い間違いをする車掌じゃ頼りにならぬ。
どっちにしてもあぶない話ではないか。

幸い、10分ほどでゴトリと列車は動き出す。

しかし、JRの田舎の駅というのは結構アバウトで好きである。
おんぼろ雷鳥くんがしばし眠りについた近江中庄という駅も、山に挟まれた盆地の田んぼに突如場違いににょきにょきと生えてきてしまいましたけどどうもすみません、って感じの駅であるし。
「すっと」一瞬で通り過ぎた「今庄」という通過駅でも、アキモトせんせとしては断然黙過できぬ現象を目にした。
駅のホームの「端っこ」がだんだん曖昧に細くなって、人ひとりがようやく通れるかどうかの「路地」と化し、旧い謎めいた建物の「角を折れ」て「終わって」いる。
地続きというのであろうか。
「オイラ、ホームとその土地を峻別することなんぞに興味ないんだよね、けっ」と曖昧に嗤っているような感じなのである。
昔から、最寄り駅の形態はその土地の住人の心性・人生観・処世訓を表すと言う(言わなかったっけ?)。
わたくしとしては「今庄」駅周辺にお住まいの方々に、衷心よりの深い敬意と愛情を禁じ得ない。

U野さん、ということで福井に行ってきました。
よい土地で楽しかったです。
仕事なのでゆっくりあちこち見て回れなかったのが残念ですが(蕎麦も食えんし温泉にも入れんし、美味な魚も懇親会でちょっと食べただけだし)。

ということで、今回は福井の人々、とりわけ近江中庄および今庄周辺にお住まいの見ず知らずの方々に献じて、『スタートレック:叛乱』『ハムナプトラ2:黄金のピラミッド』『ドラキュリア』『ザ・メキシカン』『バトル・ロワイアル』についてつぶやきましょう。

なお、このラインナップが福井県の実在の人・団体とはいっさい関係がないことをお断りしておかねばならない。

◆『スタートレック:叛乱』STAR TREK: INSURRECTION
シネマのつぶやき(その26:前)_d0016644_1714018.jpg1998年アメリカ
監督:ジョナサン・フレイクス
出演:パトリック・スチュワート、ジョナサン・フレイクス、ブレント・スパイナー、レヴァー・バートン、マイケル・ドーン
緑深く美しき惑星バクーに住むバクー人。
わずか600人で平和な村を形成する彼らは、その衛星のリングの作用で不老不死なのである。

彼らは反文明、反テクノロジーを旨とし、自然と共生した中世のようなライフ・スタイルを堅持している。

これがアーミッシュのイメージを借りたものであることは言を俟たない。(アーミッシュの暮らしぶりってハリソン・フォードの『刑事ジョン・ブック:目撃者』で世界的に知られるところとなったよね。)

それから『風の谷のナウシカ』の風の谷の村ですね、イメージ造形としては。
ほとんどが「中世」の「北欧系」の「自給自足」の「村人」たち。

平和で穏やかな、「吾(わ)れ唯(た)だ足るを知る」といった観のバクー人。
そんなの許さぬ、という人たちがこの世に尽きることなきことは言うまでもない(でないとドラマになんないし)。

悪い奴ら登場。

老いさらばえ、皮膚移植を繰り返しながら永遠の若さを手に入れんと渇望する「醜いソーナ人」の陰謀の魔手が伸びる。
バクー人を排除して惑星を破壊し、不老不死のエネルギーを独占しようっての。

悪い奴らだね。

醜い奴らだね。

ほんとに醜いのは君たちの容貌ではなく、心なのだよ。はっはっは。(って小学校の道徳の時間に教わらなかったの?)

ソーナ人は放漫と飽食に生きる現代アメリカ人の自虐的な「自画像」だろうか。

そんでバクー人は、失われた旧き良き時代へのノスタルジックかつロマンティックな憧憬を表すのであろうか。
いやいや、映画スタッフは60年代の原始共産制的なヒッピー・コミューンを「歴史的な横目で」見ているのであろうことは、アキモトせんせにはだいたいお見通しである。

そしてそのようなコミューンが失敗を宿命づけられていることも、おりこうさんのスタッフは知悉していたはずだ。

だからドラマを生成する対立軸として、この映画は「自然と共生する反文明のコミュニティ」v.s.「テクノロジーに依拠した機械文明」という点に照準しない。

自然v.s.文明、共生社会v.s.高度テクノロジー社会という図式を慎重に避けている。

なぜってその図式を前景化したら、自己矛盾をきたすから。
ハイテクのエンタープライズ号の乗組員を初めとして連邦の人々は、「科学と文明の信奉者」に決まっているから。
それからノスタルジックな過去への回帰って、進歩主義progressivismを善しとするアメリカの国是に抵触するから。

その代わり、永遠の命、永劫の若さってのがメイン・モチーフとなって、対立軸は「美v.s.醜」「若さv.s.老い」にすり替えられる。

さらに、「平和愛好」と「好戦性」という対立図式をこっそり忍び込ませ、若く美しくそして「平和的な」バクー人v.s.老いて醜く「好戦的な」ソーナ人という構図を描く。

なぜか。

別に根拠らしきものが提示されることはない。そんな必要ないから。

一方では、小さなコミューンにひっそりと暮らすアーミッシュみたいな人々って平和愛好家であろう、という文化的参照枠に準拠している。

他方では、醜い奴らってワルモノに決まっているから戦争好きに違いない、という説話文法を暗黙了解として観客に要請する。

さらに、「自然v.s.文明」という図式を再編集したもうひとつの対立図式が物語に持ち込まれ、そしてその対立構図の「和解」が巧みに挿入されている。物語の表層には表れることはないけれど、「人間v.s.機械」という対立軸とその和解が、この映画のもっとも重要なモチーフとなる。

「人間v.s.機械」とういのは、解決の方途のない「自然v.s.文明」という図式の変奏であり、巧みなすり替えである。

アンドロイドのデータを登場させるのは、「人間v.s.機械」という構図を滑り込ませ、その対立の「解消」を描くためである。(そうしておそらくは「自然v.s.文明」という撞着をあたかも解決したかのような曖昧さへと溶融するためであろう。)

惑星バクーとその住民は、少数民族として連邦の庇護下にある。

連邦とバクー人というのは、アメリカ国家とアーミッシュ(意地悪く言えばインディアン居留地)との関係を想起すればよい。

ところが惑星バクーのスーパーヴァイザーを務めているのがワルモノのソーナ人たち。

狼に羊の監視を頼んでいるようなもんである。

連邦はそのことに気づかない。だからワルモノの陰謀に気づいたアンドロイドのデータが「叛乱」を起こし、バクー人の側に立って連邦に反逆することから物語は始まるわけです。

「シネつぶ」その23で触れた『スター・トレック:ファースト・コンタクト』でご紹介のとおり、データはかつてのミスター・スポック的キャラの代替である。
そして「感情教育(sentimental education)」のモチーフをさらにここで押し進める。
アンドロイドが非論理性、感傷、感情という「人間的なるもの」の意義を学習する。データには「感情回路(emotional tip)」という装置が着脱可能なのだ。

データの感情教育というモチーフは、バクー人の子どもアーティムとの哲学問答的なコミュニケーションで前景化する。

『スター・トレック:ファースト・コンタクト』でデータとのコントラストをなしていたのは、アンドロイドと類比的でかつ異質なる「モンスター」ボーグでした。

今回はアンドロイドと(当たり前だけど)類比的でかつ異なる「人間」(特に「子ども」)との対照が描かれます。

ちょっとずるいかな、この作り方は。

ボーグは「非人間的な大人」ばかりで、その親分はゾンビ「オバンバ」のような妖怪ばばあであった。
今度は人間であるばかりでなく、文明人が失ってしまった無垢を表象するアーミッシュ的人間像でかつ子どもを中心に描くのだから。

ゾンビばばあと邪気のない子どもじゃね、勝負にならん。

言うまでもなくアンドロイドのデータはかつて一度も子どもであったことがなく、子どもであることがどういうことかを知らない。
アーティムはデータに、ヴァイオリンとかチェスなんかではなく、子どもを経験したいなら「ただ楽しみのために遊ぶ(just play for fun)」ことを説く。

そして成長することもないマシンとして、データは「成長する(growing up)」ことに憧憬を抱く。アーティムに"Do you like being a machine?"と訊かれて、"I aspire to be more than what I am."と答えるのだ。

「今の自分以上の何かになりたい」というアメリカ人好みの「正答」で、データはすでにしてきわめて「人間的」であることをおのずと証明する。

かくしてデータの感情教育が果たされ、同時に「人間v.s.機械」という対立軸の解消が「データとアーティムはとっても仲良し」という図像で示されるわけです。

これがアンドロイドをめぐる人間存在論の到達点であり出発点となる。

でも、もうこれって40年も前に手塚治虫が『アトム』でやっているんだよね。

いずれにせよ、子ども時代の経験がなく、成長することもなく老いることもないデータという存在は、不老不死のバクー人と不老不死を手に入れようと奸計をはかる老醜のソーナ人という構図に対して、第三の項となります。

われわれはみなアンドロイドが大好きだ。

アトムやデータばかりではない。
『スターウォーズ』のC-3PO、『エイリアン』のアッシュ、『エイリアン2』のビショップ、『A.I.』のデイヴィッド、『ターミネーター』のシュワちゃん(ドナルド・レーガンに次いでハリウッド出身のカリフォルニア州知事になれるか)。

それから『ブレードランナー』(原作はフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』)のレプリカントたち。

『ブレードランナー』の主眼は若さでも老いでも永遠の生命でもない。アンドロイドの「感情教育」などともほど遠い。

「やがて死すべき運命(mortality)」が『ブレードランナー』テーマであった。

"mortality"という人間に組み込まれた遺伝子プログラムと同じ構造をもつばかりか、5年という短期寿命を約束するプログラムを人工的にビルトインされたレプリカントの自分探しと「私って誰?」という悲哀だった。

アンドロイドの「感情」や「人間性」というのは、"mortality"テーマに比していささか審級が低いか。

◆◆『ハムナプトラ2:黄金のピラミッド』THE MUMMY RETURNS
シネマのつぶやき(その26:前)_d0016644_171565.jpg2001年アメリカ
監督:スティーブン・ソマーズ
脚本:スティーブン・ソマーズ
出演:ブレンダン・フレイザー、レイチェル・ワイズ、ジョン・ハンナ、フレディ・ボース、アーノルド・ボスルー、パトリシア・ベラスケス
原題は『帰ってきたミイラ』。
おかえりなさいである。
直裁でよい。
前作に比べて格段にお金をかけましたね。
CGも加速度的に進化してゆくのがわかる。
前作への自己引用、自己パロディができるまでに映画的に成長しました。

ミイラが吼えるとき、顎が外れたかのようにみよ~んと伸びる。
ありゃ『スクリーム』の殺人鬼の仮面をパクったんだろう(んでこの『スクリーム』殺人鬼仮面はムンクの「叫び」がモチーフと見た)。

前作から8年後、リックとエヴリンは仲良しばかカップルとなり、8歳の息子アレックスがいます。
物語をこのアレックスの視点から描いている点がよい。
5千年前のエジプトの悲恋にはじまって、この映画には「悪人」がいない。
それも子どものアレックス視点という技法の効果か。
ワルモノのミイラくんだって、『千年の恋』の吉永小百合を遥かにしのぐ5千年の恋に焦がれるのである。実に哀れと言わなければならない。
スコーピオン・キングも敗北の将としての怨念から暗黒の魔神に魂を売るんだしね。

しゃあないよ。負けちゃった恨みがあるんだから。

でも最後には、5千年の恋に対して、たった8年の付き合いのばかカップル、リックとエヴリンが勝つ。
哀れイムホテップ、愛しのアナクスナムンはみずからの命を惜しんで彼を見捨て、一人逃げ去るのである。
げに、女はコワイ。
すべての男の背筋を寒からしめる、薄情な女である。
美しく自己中で薄情な女を今後「アナクスナムン系の女」と呼ぶことにしよう。
発音しにくいのが玉に瑕であるが。

「アナクスナムン系の女」元祖にも裏切られ、5千年も恋いこがれて待ったのに、哀れイムホテップは奈落の底の地獄へさようなら。

それにしてもアヌビス神に魂売ったスコーピオン・キングが、サソリと合体してモンスター化して登場するが、これまたやっぱり「蜘蛛」的な不気味さの形象だ。
「シネつぶ」その17でご紹介のとおり、欧米人は何が嫌いって蜘蛛が嫌いである。

主人公リックを演ずるブレンダン・フレイザーは唐沢寿明に似ている。
ってこういう「誰々に似てるよな」流の同感強制的言辞はたいてい誰も賛成してくれない。

でも未踏の森でわさわさ登場してくるピグミー族のミイラたちは、『もののけ姫』の「こだま」から思いついたんだよね。
もお、スティーブン・ソマーズくんってとっても宮崎駿ファンなんだからぁ。

できるだけ「ネタバレせぬよう似せないよう」努めている努力は認めよう。
よしよし。
でも「似ないように似ないように」という抑圧的な身振りによって、逆に兆候化してくるんですよ。

それから「体内に入り込んで蠢く虫」という「超気色悪い図像」がこの映画にも出てきた(『アラクニッド』にもあったな)。
その原型が『エイリアン』であることには贅言を要しない。

(その26後半へ続く)
by mewspap | 2006-01-05 23:20 | シネつぶアーカイヴ


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