■シネマ◆
■の■■■ ■つぶ■■ ◆ その23(前) ■■■やき ■ ■ ◆ 2003-08-04 シネつぶのみなさんごぶさたしています。 ちょうど3ヶ月ぶりです。 嗚呼、忙しかった。 わたくしは忙しいのが嫌いである。「りっしんべん」に「ほろぶ」と書いて「忙」でしょ。 心が亡んじゃうんだよ。 子どものときから、高度経済成長を担うおじさんたちを見上げて、怠け者かつ天の邪鬼なわたしくは「ああゆうあたふたと忙しいのはやだな」と思い決め、将来を遠望しつつ暗鬱となって進むべき進路に思い悩んだものである。 自分の趣味と思考に配慮する余裕のない生き方はいやだったのである。 別にわたくしが高尚な趣味や高邁な思考をもっているというのではなく、小人閑居して不善をなす「余裕」がないのがいやだということですけど。 それでこの業界をにうまくもぐり込んだのに。 それがまがう方なき「ポスト失われた10年」の「あたふたと忙しいおじさん」と化した自分がいる。 うう、とっても哀しい。 この間、5月には徳俵に足をかけつつ次々と発生する仕事を巧みにうっちゃりでかわし、ホラーの巨匠のおばか映画『ゴースト・オブ・マーズ』、学生のお勧めの『マイ・ドッグ・スキップ』、懐かしいポール・ニューマンが出ているフィルム・ノワール復権『ロード・トゥ・パーディション』、「ジェイソン宇宙へ行く」趣向の「うるとらおばか」映画『ジェイソンX』、観るの二度目だけどテレビでやっていた『Xメ ン』、ボスニア戦争を描いた秀作『ノー・マンズ・ランド』の他、『ミミックⅡ』『ナイン・デイズ』を観ました。 ところが6月には『ボーン・アイデンティティ』『マイノリティ・リポート』『たそがれ清兵衛』の3つしか観られなかった。 7月には幽冥界からやってきたウサギちゃんの『ドニー・ダーコ』、パスタ喰いたい『ディナー・ラッシュ』、イギリス英語をしゃべるイギリス人によるただしいイギリス映画『アバウト・ア・ボーイ』、例によって「悪魔が現代アメリカにやってきた」ジャンルの『エンド・オブ・デイズ』、ニコラス・ケイジがむきむきマッチョのヤクザをやってるリメーク版『死の接吻』、窪塚洋介の『狂気の桜』、一押しジュリエット・ルイスの『カーラの結婚宣言』、「夢うつつ」ジャンルの『カンパニー・マン』、ケヴィン・スペイシーが監督した『アルビノ・アリゲーター』、これまた「夢うつつ」ジャンルの一人芝居映画『レム』、クリント・イーストウッドがクリント・イーストウッド的役柄を演じてクリント・イーストウッド的失敗をした『目撃』を観ました。 なんやよく観てるじゃないか。 あんた暇やないのとおっしゃるかもしれない。 あれ、ほんとだ。 前回、最後に記したのは去年の8月に観た映画についてであった。 このままでは自分自身の過去に追いつかれ、追い抜かれる危惧がある。 なんとか夏休み中にこの危地を脱しなければならない。 果たしてアキモトせんせに明るい未来はやってくるであろうか。 ◆『ゴースト&ダークネス』THE GHOST AND THE DARKNESS 1996年アメリカ 監督:スティーブン・ホプキンス 出演:バル・キルマー、マイケル・ダグラス他のみなさんおよびアフリカ諸部族の方々と二頭のライオン 舞台は19世紀末のアフリカ。 大陸を縦断する鉄道敷設現場の最先端、世の果つるところ。ヨーロッパ「文明」と「暗黒大陸」アフリカの接点、「光」と「闇」、「啓蒙」と「未開」、「科学」と「自然」、「既知」のものと「未知」のもの、「知」と「野蛮・暴力」がガチンコ対決を繰り広げる現場ですね。 線路敷設の行く手を遮る河に橋を架けるべく、イギリスから橋梁技師ジョン(バル・キルマー)が派遣されてくる。 この辺、徹底的に大英帝国の植民地主義のお話である。 ジョンが直面する困難は難しい架橋工事だけではない。夜な夜な魔獣のごとき「ゴースト」くんと「ダークネス」くんの二頭のライオンが工事キャンプを襲い、人夫たちを喰い殺してゆくのである。 アフリカの様々な部族の人間たちも人夫として働き、誇り高きマサイ族でさえ白人による「暗黒大陸」開発、すなわち近代化への道に逆らうことはない。 「コロニアリズム」と「ネイティヴ・アフリカン」という構図が、近代化と啓蒙の白人v.s.アフリカの闇の魔獣という構図にすり替えられている。 ヨーロッパの白人たちの行動は何ら批判的に描かれることはない。 アフリカ人たちが迫害・抑圧される風もない。 ホラー映画の筆法により歴史的事実は脚色され編集され、「悪」はひたすら魔獣に投影され、二頭のライオンが体現することになる。 しかしライオンたちが鉄道工事の邪魔をし、白人をつけ狙うのは、反植民地主義のライオンだからなの? 変なの。 魔獣に挑戦するマサイ族の戦士たちは、「ありゃ悪魔」だと言って裸足で逃げ出す(最初から裸足か)。 現地人の英雄的な伝説の戦士はあっさり殺される。 なぜ、どうして殺されたのか不明。 ヨーロッパの内戦で祖国と家族を失った放浪の白人ハンター(マイケル・ダグラス)も、ずいぶん引っ張っておいてから、なぜかあっさり殺される。 理由は不明。 結局は植民地主義に荷担した橋梁技師ジョンが生き残るだけでなく、「お化け」のごとく神出鬼没のゴーストと「闇」から生まれたダークネスの二頭のライオンを見事に殺してのける。 そして橋を架けるのにも成功する。名声を得る。歴史に名を残す。金を得る。子どもが生まれる。 ライオンをやっつけて主人公が生還するのをみて、「よかったね」と思えないのは、アフリカの戦士と流浪の白人ハンターの二人の死の意味づけがないからである。 それと、そもそもなんでライオンが襲ってくんのかっていう質問にも答えていないから。 割り切れないお話で気持ちが片づかない。 ヴァル・キルマーは20世紀のロック・スター(『ザ・ドアーズ』のジム・モリソン、『トゥルー・ロマンス』のエルヴィス)だろうと19世紀のガンマン(『トゥームストン』のドック・ホリデー)だろうと未来の宇宙飛行士(『レッド・プラネット』)だろうと許そう。 しかし、19世紀のイギリス人には見えない。ぜんぜんイギリス英語じゃないし。 流浪の白人ハンター、マイケル・ダグラスはぼさぼさの長髪にヒゲヅラがいいではないか。あのぎらぎら目が際立つ。 『危険な情事』や『ローズ家の戦争』や『氷の微笑み』や『ディスクロージャー』や『ウォール街』のサクセスフル・アメリカンの退廃したエグさを体現するのがはまり役になってしまったが、きみは社会のアウトサイダーで陰影のある「わけあり中年」役の方がいいと思うよ(無精ヒゲのばしてさ)。 でも、なんで死に際も見せずに死んじゃったの? きみはヨーロッパの捨て子で、光から追放され、闇のアフリカを流浪する一匹狼のハンターっていう役でしょ。 自然と文明の両者を体現し、合理的知性と呪術に通暁し、ヨーロッパとアフリカを、光と闇を自由交通するスキルを持ったトリックスターの役柄だったはずだよ。 なのに「やっぱり殺されてしまいました」という事後描写だけではわたくしとしては得心ゆかない。 きみの非業の死を期待していた幾万もの観客に失礼ではないか。 これは絶対、脚本・監督の失敗だと言わなければならない。 高い経験値とスキルをもつプロのハンターたるきみが、ライオンのアタックを受けて「え、どうして?」という(あの目を活かした)表情で殺られるところを撮らなきゃだめでしょうに。 ちういしておく。 マイケル・ダグラスは製作総指揮にも入っている。 さてはアフリカで撮影中に日程がおしてきて、マイケルくんは別の仕事が入って急遽アメリカにご帰還されたのだと見た。 ダブル・ブッキングはいかんよ、マイケル。 それもちういしておく。 ◆◆『スター・トレック:ファースト・コンタクト』STAR TREK: FIRST CONTACT 1996年アメリカ 監督:ジョナサン・フレイクス 出演:パトリック・スチュワート、ジョナサン・フレイクス、ブレント・スパイナー、レヴァー・バートン、マイケル ドーン 『ベイブ』では豚を飼っている農夫役で、『ザ・ディレクター「市民ケーン」の真実 』では新聞王ケーンを演じたやたら長身のジェームズ・クロムウェルが、ロックンロール大好きでアル中の21世紀の科学者コクレーン博士という役を演じている。彼がエンタープライズ号でもっとも枢要なワープ航法の開発者ということになっている。 その21世紀の地球に暮らすコクレーン博士のもとに、24世紀から機械生命体の悪い奴らがやってきて、歴史改変をしようとしています。 そこで、悪い奴らの陰謀を阻むべくエンタープライズ号のみなさんが時空を越えて飛んできます。 気色悪い機械生命体のヒトビト、cybernetic+organism=サイボーグでございます。 そんで、このヒトビト、自称他称で「ボーグ」って呼ばれます。 登場人物のひとりのリリーが、「ボーグ? うーん、スエーデン人みたい」って台詞を吐きます(ビヨン・ボルグですね)。 サイボーグって石ノ森章太郎の『サイボーグ009』の昔から、人間的な身体に秘められたメカニックというかたちで、身体の柔らかな曲線に隠された角張った機械の生み出す異能力というミスマッチで、表象されていましたね。 つまり「秘められた」「隠された」ということがポイントなんだよね、美学的に。要するに身体の表層に機械性が「露出しない」ことを要諦としていた。 だって露出してたら気持ち悪いでしょう。 「ハイブリッド」というのは、それが外観に「キメラ」的露出すると、本質的に人間の感性が忌避するものなんだろう。 「キメラはだめよ」的お約束が、今では壊れていることは言を俟たない。 星野之宣、大友克洋と徐々に機械が表層に露出して、押井守『攻殻機動隊』や木城ゆきと『銃夢』にいたると、身体と機械との融合度の露出性に、表現の美意識が焦点化されてきている。 SFの定法として、機械人間たるロボット、人間機械たるサイボーグが登場するのは必然である。 スペース・オペラの古典『スター・トレック』では、かつてロボットもサイボーグも登場しなかった。 「理性」の怪物ロボットやサイボーグの代わりとして登場していたのがミスター・スポック。 「感情」というものを非合理なものとして退け、同時に人間「特有の」ものとしての「感情」の有効性を次第に学習していく異星人ミスター・スポックの「センチメンタル・エデュケーション」が、ストーリーの一つの縦糸になっていた。 この作品でミスター・スポックの代替をなすのは、アンドロイドのデータです。 彼は機械性が露出しないきわめて「人間的な」外見を持ちます。 これは別に『サイボーグ009』的表現に回帰しているというわけではなくて、ロボットを究極にまで洗練させると、人間とのインターフェースに困難のないよう、「洗練された人間的曲線」を持つ姿形となるからなんでしょう。 他方、ボーグって機械と生身両者の「気持ち悪いところ」を露出し前景化したようなハイブリッドである。どう見たってあれは「ゾンビ」だ。 ボーグの女親分なんて、胸から上だけで登場する。そんで胸の下から「脊髄」ぶらぶらしてやがんの。 彼女がかの有名なゾンビ「オバンバ」のパロディであることは言を俟たない(俟たないよね?)。 女親分を除くボーグたちは、意志なく思考なく感情もない。 ただただ無感覚なままに働く昆虫のようであり、必要に応じてみずからの唯一性などに鑑みることなく戦う戦闘マシーンと化するのみ。 かのジャン=ポール・サルトルくんの亡霊を召喚するまでもなく、人間の「実存的不安」というのは、この「私」が特権的唯一性などもたず、モノと同じように「代替可能」となることだ。 ボーグの群れが不気味なのは、その容姿が気持ち悪からだけではない。 その集合性・均質性・交換可能性が人を不安にさせる。そこには本質的な意味での「個体」が存在しない。 ボーグは心身ともに奇形なのである。 アンドロイドのデータはボーグと好対照である。 人間に憧れるデータはpersonalityをもち感情がある。 思考、感情、個性その他あらゆる「よきもの」と、洗脳、順応、均質、全体主義その他あらゆる「悪しきもの」との、実にわかりやすいコントラストである。 "individuality v.s. collectivity"であり、"uniqueness v.s. conformism"だね。 例によっていつものアメリカが発信する個人主義の哲学である(それは「自画自賛的な集団幻想」にすぎないのだけれど)。 アメリカ的な個の唯一性の哲学v.s.どっかの非アメリカ的な国家が表象する「疑似共産主義的全体主義」、という対立の絵図である。 こういう「政治的な映画」をアメリカ人は再生産して倦むことを知らない。 それにしても時間旅行というのはつねに哀しい(ドラえもんでもそうだ)。 ◆◆◆『フロム・ダスク・ティル・ドーン』FROM DUSK TILL DAWN 1996年アメリカ 製作総指揮:ローレンス・ベンダー、クエンティン・タランティーノ、ロバート・ロドリゲス 監督:ロバート・ロドリゲス 脚本:クエンティン・タランティーノ 出演:ジョージ・クルーニー、クエンティン・タランティーノ、ジュリエット・ルイス、ハーヴェイ・カイテル他ブッキーなヴァンパイア・ゾンビのみなさん ぐれーとなのけぞり映画。 クエンティン・タランティーノの脚本および制作総指揮で、タランティーノ流の「過去映画へのオマージュ映画」である。 70年代ホラーの哀切感もある。 ジョージ・クルーニーとハーヴェイ・カイテルをとことん使い倒すタランティーノは、やっぱり偉大である。 『ギルバート・グレイプ』にも出ていた、不思議な目をしたジュリエット・ルイス、鼻にかかった気怠い感じの声やよし。その悲鳴がタランティーノのお眼鏡にかなったか。 しかしタランティーノくん、クルーニーとカイテルとルイスを使って、よりによって「ヴァンパイア・ゾンビ」映画とは。 タランティーノはとことん「映画狂」である(まんまの「狂」もちょっと入ってるかに見受けられるが)。 タランティーノの前髪が後退したおでこのなかは、過去の名作・駄作取り混ぜ映画でいっぱい。彼の脳味噌は映画のおもちゃ箱なんだと改めて確信する。 そしてタランティーノは、映画とはハッピー・エンドにするべきだと思っているようだ。 この映画の(他のもそうだけど)「ハッピー・エンド」ってあくまでもカッコ付きだけど。(そんだけたくさん無惨に死んで、生き残った人だけハッピーだなんてね。) さらに、タランティーノは生き残った人にとってもやさしい。その分だけ死んじまった人たちには無関心である。(自分も殺されちまうけど。) 映画の前半は、ブチ切れチンピラ男タランティーノと、そのお兄ちゃん(クルーニー)の「強盗・殺人・逃避行」ものと思わせておいて(実際にそうだけど)、後半からお話が「ぶっ飛んでいく」ところがにくいにくい。 タランティーノ演ずるリチャード・ゲッコーは、パラノイアですぐキレます、すぐ吠えます、すぐ人を殺します。 一言にしてcreepyでweirdにしてdangerousな奴っす。 撃たれて穴の開いた自分の手のひらを、みずからガムテープでふさいで「こと足れり」とする奴っす。 この辺でもう「十分狂っている」ことは自明っす。 強盗の逃避行ものというカテゴリー内においても、すでにして「たがが外れた狂いぶり」を十分発揮してくれます。 クルーニー演ずるお兄ちゃん役セス・ゲッコーが自称「ただしい泥棒」の「良識派」で、映画ジャンルの文法をきちんと守っているので、タランティーノのサイコぶりが際立ちます。 タランティーノの狂いぶりが現実に不可解な歪みを与え、ジャンルの定法から徐々に踏み出していくので、それだけが後半の「ぶっ飛び」への回路となるのかもしれない。 実際、この映画はジャンルを飛び越えてしまう。 どのように? 突然、唐突に、突発的に、突飛に、藪から棒に。 観客はびっくりするけど、登場人物の方がもっとびっくりしているみたいである。 ジャンルを「架橋」しているのではない。いきなり飛び越えちゃうんだよ。 ジャンルの越境というよりも、ジャンルの接ぎ木と言うのがただしい。 クルーニーの「大人の顔と身体運用」によって表象されている、そこらのゴロツキとは異なる卓越した知的・暴力的スキルをもつハードボイルドな男が、ゾンビに出会ったらどうなるか。 映画のおもちゃ箱脳髄が、ある日このような問いを得たことは間違いない。 そしてこのような設問を立てること自体、タランティーノの狂いぶりがわかります。常人にはちょっと思いつかない着眼であり、映画の後半はこの設問自体がほとんど自動的に映画を動かしてゆきます。 ジャンル約束の破壊のこの意外性。 ハードボイルドなフィルム・ノワールにゾンビを登場させるなんて、なんたるジャンル約束違反なんだろう。 ジャンルの約束というのは、サムライの敵は刀を振り回す奴であらねばならぬってこと。バズーカ砲使っちゃだめってこと。 正義のガンマンの敵役は、黒服で早撃ちの拳銃使いだってこと。キングコングじゃだめってこと。 ジャンル約束違反っていうのは、マフィア映画にジョーズが出てきたり、戦争映画に「666」の刻印を身体に刻んだ悪魔憑きが登場したり、西部劇でジェイソンがチェーンソーを振り回したり、ホラー映画でクローゼットのブギーマンをサンダーバードが宇宙からミサイル攻撃して殺戮したりすることっす。 だから、ジャンルの定法としては、強盗で人殺しのタランティーノとクルーニーの敵は、刑事でなければならない。 ところが相手はデカではなくゾンビなのだ。 この文法破壊。 社会からはじき出されたアウトサイダーがヒトゴロシを続けても、もはやそんなのアメリカ(映画)的想像力では「自然」状態にすぎない。タランティーノはそれがご不満なのであろう。 例の如くタランティーノは社会のアウトサイダーを題材にしつつ、「ああ、ゾンビもの撮りたいな」という「ほとんど思いつき」の願望を、映画のモチベーションとした。 だから後半で、血に飢えたブチ切れ男でやたらと殺しまくるタランティーノ演ずる若造が、最初の犠牲者となるでしょ。 狂ったチンピラ殺人鬼が対処できる相手は、「人間」だけなんだよ。 バットマンやスーパーマンの眼前に、いきなり巨大な日本産ゴジラやガメラやモスラやジャミラやエレキングやキングギドラやバルタン星人がでてきたらどうなるか。 体格差がありすぎる。 柔道だってボクシングだってK1でさえ体重別なんだから。 チンピラ人殺し野郎と、ヴァンパイア・ゾンビでは、そもそも殺傷能力に「文法差」があるのね。 われわれはジャンル的思考を生きている。 ジャンルには文法があり、適切な語法があり、依存する語彙があり、優れた文体がある。 われわれが映画を観るときはそれにみずからのまなざしを自己規定し、かつ、それにまなざしを自己規定していることをたいてい意識化することはない。 タランティーノがジャンルを破壊するのは、われわれはジャンル的思考の虜囚であると教えるためだ。 ジャンルを「文化」と呼び換えてもよい。 文化というのは、われわれがそれによって生きており、かつ、それによって生きていることをほとんど意識化することのない、アモルファスな構造なのだから。 (その23後半に続く)
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| 2006-01-05 20:17
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