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シネマのつぶやき(その5)

過去の脳天気なつぶやきをアーカイヴにアップするつもりが、すっかり忘れていた。
3年前にゼミ生に向けて書いたものですけどね。

■シネマ◆
■の■■■
■つぶ■■ ◆ その5
■■■やき ■ ■ ◆ 2002-08-22

お盆も過ぎ、夏休みも残すところ半分となりました。
卒論は順調に進んでおるでしょうか。

わたくしはこの一週間、『ギルバート・グレイプ』と『ワイルド・アット・ハート』と『トゥルー・ロマンス』と『エボリューション』と『ゴースト&ダークネス』と『U.M.A.――レイク・プラシッド』と『ロック・ネス』と『スター・トレック――ファースト・コンタクト』と『フロム・ダスク・ティル・ドーン』と『シャドウ・オブ・ヴァンパイア』と、「わずかばかり」映画を観ました。

みなさん、映画なんか観てないで勉強しましょう。

今回のシネコンプレックスは、上記ばか映画とはまったく関係なく、『お早よう』『萌の朱雀』『シュリ』の3本立てエイシアン・ピクチャーズ特集。

今年の4月に観た映画なのである。

というか、学期始めの4月はとっても忙しかったので、観た映画はこの3本だけなんですよね(比較文化研究の授業のために観た西部劇約9本は別にして)。

◆『お早よう』
シネマのつぶやき(その5)_d0016644_201722100.jpg1959年日本
監督:小津安二郎
出演:佐田啓二その他、昔の有名な役者さんたち
【ジャンル:「おづやす」映画】
伝説の「おづやす」映画です。

わたくしは子供のころに、よくテレビで放映されるのを観ました。
とても印象に残った『東京物語』以外は、ぜんぶ「おんなじ」に思えた。

たぶん、ほんとうに全部「おんなじ」なんでしょう。

タイトルも紛らわしいよね。『秋刀魚の味』とか『お茶漬けの味』とか。
『麦秋』とか『晩春』とかね。

だいたい笠智衆と原節子が出てくるし。

久しぶりに「おづやす」を観たくなったのは、わたくしが師と仰いで私淑している神戸女学院の先生、内田樹師匠が「パロールの贈り物――『お早よう』を読む」(難波江和英・内田樹『現代思想のパフォーマンス』松柏社、2000所収)という論文で、おもしろいことを書いていたから確かめたくなったため。

たまたまこのころ授業でヘミングウェイの『武器よさらば』を読んでいて、ある学生がおもしろい発言をした。
この小説の登場人物たちは、お互いにコミュニケーションがとれておらず、相手の言うことに耳を傾けず、会話の内容にも内実がないように思える、と言うんですね。

それで、この点について内田師匠の上記『お早よう』論をネタにして、「無意・無意味な」「内実のない」会話について履修生に参考のメールを送った。

以下、そのメールを転用。

内田センセは、レヴィ=ストロースの知見に基づいて、会話というものについてあっと驚く逆説を提示しています。
彼の主張の主眼は、「コミュニケーションが成立していること」をおたがいに確認し合うことの方が、「コミュニケーションを通じて行き交うメッセージ」よりも大事だという点につきます。

以下、少し長いけどその論文から引用しますね。
なお、引用文中にある「パロール」というのはフランス語で「発話」のことです。

 「おはよう」もGood morningもBonjourも意味するところは同じである。それらの言葉は「あなたは早く目覚めた」とか「今日はよい日である」とかいう事実認知を行っているのではない。「おはよう」は人間から人間への直接な語りかけであり、祝福の遂行である。「おはよう」と語りかけたものは「今日一日があなたにとってよき日でありますように」という祈りを贈っているのである。
 レヴィ=ストロースのコミュニケーション論の知見を信じるならば、祝福の贈りものに対しては必ず返礼義務が発生する。
 祝福はあらゆる贈与がそうであるように、祝福を受けた側に、心理的な負債感を発生させる。この負債感は「受け取った以上のものを返礼し、相手に新たな返礼義務を課す」ことによってしか解消されえない。というより、そもそも「受け取ったのと、ぴったり同じだけ返す」こと自体が不可能なのだ。というのも、「最初に贈る」ということは、いわば「無からの創造」であり、純粋なイニシアティヴだからである。贈与の回路を立ち上げるということは、等量の返礼を返すことによってはけっして埋め合わせできないほどに過激で、無償で、冒険的な創造の行為なのである。
 だから、「おはよう」の挨拶を贈られたものは、とりあえず受けた挨拶よりも少しでも多くのメッセージを発信することを求められる。「おはよう、いいお天気ですね」とか「おはよう、どちらへ?」というふうに。
 外国語の初級読本にはたいてい次のような文例が出ている。
 「こんにちは」
 「こんにちは、お元気ですか?」
 「はい、元気です。あなたは?」
 「はい、私はたいへん元気です。ありがとう。ご家族はお元気ですか?」
 「はい、うちの家族はみな元気です。ありがとう。あなたのご家族は?」
 初学者はたいていここらまで読んだとき、ふと「この会話は、相手の言葉を繰り返しながら、終わりなく続くのではないか」という不安にとらえられる。さいわい教科書一頁におさまる行数には制約があるために、街角で出会った二人は終わりなき祝福の交換をどこかで打ち切って、右と左に別れることになる。
 けれども、初学者の心に兆した「おなじ言葉を繰り返す終わりなき挨拶」というという不条理な予感は、じつはコミュニケーションの本質を正しく直感しているのである。
 というのは、レヴィ=ストロースを信じるならば、コミュニケーションの本義は、有用な情報を交換することにあるのではなく、メッセージの交換を成立させることによって「ここにはコミュニケーションをなしうる二人の人間が向き合って共存している」という事実を認知し合うことにあるからだ。そして、私の前にいる人に対して、「私はあなたの言葉を聞き取った」ことを知らせるもっとも確実な方法が相手の言葉をもう一度繰り返してみせることであるとすると、心からコミュニケーションを求め合っている二人の人間のあいだでは、「相手の言葉を繰り返しながら」「ほとんど無意味な」挨拶が終わることなく行き交うことになるはずである。
 「おはよう。」
 「おはよう。」
 「いいお天気ですね。」
 「ほんと、いいお天気。」
というふうに。

……(略)(以下に出てくる実というのは、『お早よう』登場するやんちゃな子供)……

 実「だったら、大人だってよけいなことを言っているじゃないか。『こんにちは』『おはよう』『こんばんは』『いい天気ですね』『ああそうですね』『あら、どちらへ』『ちょっと、そこまで』『ああ、そうですか』。そんなことで、どこにゆくかわかるかい! 『ああ、なるほど、なるほど』。なーにが『なるほど』だい!」
 幼い合理主義者である実は、コミュニケーションとは要するに「メッセージ」を過不足なく伝えることだと信じている。

……(略)(以下、平一郎と節子は若いカップル)……

 映画の最後に駅で出会ったときも、ふたりは相変わらずお天気の話に終始する。しかし、このほとんど美しいほど無意味なリフレインに、小津は理想的なコミュニケーションの形を見出している。
 平一郎「やあ、おはよう。」
 節子「おはよう。ゆうべはどうも。」
 平一郎「いやあ。」
 節子「どちらへ。」
 平一郎「ちょいと、西銀座まで。」
 節子「あ、それじゃ、ご一緒に。」
 平一郎「ああ、いいお天気ですね。」
 節子「ほんと、いいお天気。」
 平一郎「この分じゃ、二三日続きそうですね。」
 節子「そうね、続きそうですわね。」
 平一郎「ああ、あの雲、おもしろい形ですね。」
 節子「ああ、ほんとにおもしろい形。」
 平一郎「何かに似てるな。」
 節子「そう、何かに似てるわ。」
 平一郎「いいお天気ですね。」
 節子「ほんとにいいお天気。」
 もしコミュニケーションの本義が有用な情報の伝達にあるとすれば、これはコミュニケーションではない。節子は平一郎の言葉をただ反復しているだけである。この会話から節子が引き出し得た情報は「平一郎が西銀座方面に出かける」ということだけである。平一郎に至っては節子から受け取る有意の情報はゼロである。けれども、それにもかかわらず、あるいは、それゆえにこそ、これはまぎれもなくコミュニケーションであり、それもきわめて高度のコミュニケーションなのである。実たちが「まだ」理解していないことを平一郎と節子は経験的に知っている。それはコミュニケーションの本当の目的は「有用な情報の伝達」ではなく、メッセージの贈与と嘉納を通じて「共同体を立ち上げる」ことだという事実である。
 「どちらへ?」と問いかける者は目的地を訊ねているのではない。そうではなく、これは「どこへ行かれるにせよ、貴方の歩みに天の恵みがありますように」という祝福の言葉を贈るための修辞的な問いなのである。だからこの問いに対しては「祝福をありがとう」という感謝を込めて「ちょいと西銀座まで」と答えるだけで足りるのである。

以上、引用おしまい。

まったくをもって内田師匠の仰せのとおりで、この映画のシーンでは、自宅のちゃぶ台においても、玄関先でも、飲み屋のカウンターでも、有意な情報の伝達はほとんどごっそり排除されている。

さらに、この映画はまた、上記「パロールの贈り物」だけでなく、「社会の成り立ちの考察」って感じもします。

『お早よう』の舞台は高圧電線の鉄塔が並ぶ土手沿いの、おそらく新興住宅地。

そこでは、めったに家を離れない専業主婦の奥さん連中が交わす「うわさ話」が流通していくんです。

映画の中で、奥様Aはご近所の婦人組の組長である。奥様Bは会計。

ある日、奥様Cが奥様Dに、婦人組の会費を払ったのにそれがどっかに行った、どうも最近洗濯機を月賦で買った奥様Aが怪しいとうわさする。

奥様Dは奥様Bにそれを伝える。

会計として気になった奥様Bは、奥様Cにそんなのやだわ、奥様Aに言って確認しようかしらと言うが、奥様Cに真偽のほどはいずれはっきりするから大丈夫と懐柔する。

ところが、自分に関するうわさをどっかで漏れ聞いた組長の奥様Aは、うわさの発信元は誰なのかを会計の奥様Bにねじ込んでくる。

そこで会費を受け取った受け取らないの応酬がある。奥様Aの母親(助産婦のおばあちゃん)に渡したと言う奥様Bに、それならおばあちゃんはちゃんと自分に渡しているはずだと切り返す奥様A……。

「うわさ話」というのは、「井戸端会議」と並んで、おばちゃんたちのコミュニケーション回路である。
内容は重要ではない。

しかし、一度「うわさ話」に有意な内実が伴ったら、そのときこそ問題が起こるのだ。

「うわさ話」は、無意でメッセージの内実が空っぽのとき、はじめてコミュニケーションとして機能している。

「うわさ」は「あいさつ」と類型的だ。
その共通点と差異を、うまく分析できないもんかね。

もひとつ気になるのは、ご近所の「モダンな」カップル。
中産階級の専業主婦たちのなかで、池袋の水商売の女というのは、明らかに「異要素」だ。

事実、彼女はうわさ話からも「あいさつ」行動からも組織的に排除されている。小津が予測してか知らずか、彼女こそその後の日本の都会の典型的人物像となるだろう。

主筋は、奥様Bと笠智衆パパの家の中学生・小学生兄弟がテレビをほしがり、パパに「女の腐ったみたいに余計なことばかり言うな」とたしなめられ、ずっとだんまりを決め込む話。

だけども、別に小津は映画人として、台頭著しいテレビを批判しているわけでもないだろう。
飲み屋での会話に、テレビは「一億総白痴化」を憂う会話が交わされるが、それも当時の典型的なクリシェであって、典型的なクリシェだけでなりたつ会話を造形するために入れただけのようだ。

それにしても、かつてのニッポン人の生活者は、歩くのが速い。しゃべるのも早い。

同時に、気が長い。

◆◆『萌の朱雀』
シネマのつぶやき(その5)_d0016644_20193976.jpg1997年日本
監督:河瀬直美
脚本:河瀬直美
出演:まさか素人じゃないよな、知らない人大勢
【ジャンル:かつて日本にはこういう「となりのトトロ」的世界があったのさ】
カンヌ映画祭で新人監督賞を受賞した、とっても若い女流監督。

みんなが食卓を囲む部屋から見た眺望がすごい。
あんな家に住んでみたいね。

全部夏の風景で、ほとんどが晴天。
ランニングシャツの小学生も、昔懐かしき日本の姿。『トトロ』の世界を地でいっている。
ワン・シークエンス、ワン・カットが原則で、朝、昼、晩と定型的にプロットを進める。

『お早よう』と一緒に借りて観たからそう思うのかもしれないけれど、この映画も「あいさつ」ばかりで台詞がきわめて少ない。

不思議だ。

台詞の少ないことといったら、異常なくらいである。

本当にあいさつばかり。
おはよう。いってらっしゃい。おかえり。ただいま。おやすみ。

それから台詞のない半長回しや、聞き取りづらいつぶやくような台詞が続く。

かつて日本人は、自分の内面を表情に出さない、語らないということを美徳にしていたんだね。
今日のようにぺらぺらと饒舌ではないのだ。

かつての任侠映画でもそうであろう。
それから三船敏郎の「男は黙ってサッポロビール」っていう昔のCMコピー知っているだろうか。

「近代的」感情表出はわずかなシーンを数えるばかりである。
おじさんが死んだ(失踪した?)あとの、エイちゃんがトンネルで見せるシーン。
母親とエイちゃんが雨に濡れて帰ってきたのを見てしまったミチルが、走って去るシーン。
ミチルが木の枝に座っているところをエイちゃんが迎えに来て、手を差し出すのをばしっと払いのけるシーン。
ショックを受けたミチルがお風呂でお湯にぶくぶく沈むシーン。

それでも感情の表出はだいぶ抑えている。

かつてしあわせだったという追想が、お盆のお墓参りとピクニックのフラッシュ・バックで描かれる。
おばあちゃん、お父さん、お母さんが子供たちが遊ぶのを眺めて微笑むシーン。

それから十数年たち、期待していた鉄道はまだ通らず、近所の老人は家を離れて老人ホームに行くことになり、経済困窮にあり、母親が働きに行くことによりエイちゃんとミチルのバイクの行き来という日常が消失し、母が病気になり、父が消え、母がおかしくなり、ミチルは思春期の揺れを見せる。

母娘が実家に帰ることにより、残されたおばあちゃんとエイえいちゃんも広すぎる家を放棄することになる。
そしておばあちゃんが「かくれんぼ」の唄を歌って死ぬ長回しで終わる。

永遠に変わらないかと思われた世界が消えてゆく。みんな見つけるひとのいない「かくれんぼ」をしている家族散会と家の消失の物語。

おじさんは、いつまでも鉄道が通らないトンネル、つまり「異界」へとつながる回路の「向こう」へ行ってしまう。

「近代化」という鉄道/トンネルは通じず、この世とあの世をつなぐ通路となってしまうんだよ。

◆◆◆『シュリ』SHURIシネマのつぶやき(その5)_d0016644_20211648.jpg
1999年韓国
監督:カン・ジェギュ
出演:ハン・ソッキュ、キム・ユンジン、チェ・ミンシク、ソン・ガンホ、パク・ヨンウ
【ジャンル:スパイ+「うう」と泣いてしまう悲恋もの】
女スパイ、イ・バンヒは北朝鮮で特種訓練を受け、韓国に潜入している。

ユ・ジュンウォンは、韓国情報機関「OP」の情報部室長で、スパイとは知らずに彼女とつき合っている。

もうすぐ結婚ってことになっている。

とってもシアワセそうな二人である。

最後の留守電に残っていた彼女の言葉、「今すぐ逢いたい、とても逢いたい」がとっても哀れ。
手紙じゃなくって留守電ってのが、映画表現だね。よいよい。

運命によって殺される女の人の、運命を選ぶことができない女の人の「ダイイング・メッセージ」である。

みんな水槽に囚われたキレイな魚ちゃんたち。

よい映画だ。

でもね、人を殺す訓練や、実戦格闘訓練、仲間同士で優れた方が生き残るサバイバル殺人ゲームと、特殊訓練が冒頭描かれているけど、そのトラウマが云々されることはない。

変だよ。あんな異常な体験を過去に持つのに。
イ・バンヒは、その段階ですでに狂っていたはずだ。

少なくとも、そのような非人間的な馴致がもたらすはずの傷痕や狂気が、画面に表出することがない。
これにはちょっと意外。

えらい長くなってしまった。
『文学部自己点検・評価報告書』ってやつの原稿書かにゃならんのに。

2002-08-15
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by mewspap | 2006-01-02 20:27 | シネつぶアーカイヴ


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