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つれづれレヴュー:『NANA』――未来の記憶(Mew's Pap)

矢沢あいの『NANA』です。
映画化もされるんですってね。

例によって朝日新聞で取り上げられているのを瞥見して、「へえ」と思って第1巻だけ購入し、リビングに放置していたところ、家人がはまってあとは全部購入してくれた(作戦成功)。

以下、ちょっとしたメモを書こうと思ったのに、だらだらと長くなってしまった(ごめんよ)。
それに「時間」をめぐる議論はややこしい(分かりにくくなって重ねてごめんよ)。
とりあえずアップして、ちょいちょい編集で直していきます。


この作品はずいぶん「饒舌」である。
とにかく情報量が多い。吹き出し以外にも、その吹き出しの台詞を枠外から「メタ的に批評する」言葉(内省、つぶやき、間投詞)に満ちている。
そもそも「少女漫画」というジャンルには、「言葉数の多い」ものが多いのだろうか。
慣れぬ読者は、最初この過剰な言葉の奔流にさらされてかなり疲れる。
一冊読んだだけでもうおなか一杯という感じ。

現在12巻まで出ていて、まだ未完。

「奈々」と「ナナ」という同じ名をもつふたりの女性を主人公とするこの物語は、絵に描いたような「分身譚」の話型で展開する(絵に描いているんだけど)。
自分の欠けているものを互いのなかに見て、それに憧憬の念を抱き、慈しみ、大事にしようとする。
しかし、さまざまなすれ違いによって相手を傷つけ、傷つけたことによって自分自身がさらに損なわれていく。

愛すべき天然ぼけで恋多き奈々と、天涯孤独の捨て子でヴィジュアル系パンク・ロッカーというアンチ・ヒーローのナナという人物造形は、いずれも類型的である。

この物語の意表を衝くところは、だいたい各章の終わりに付された「語り」にある。
ほとんどが奈々によるその語りは、ナナに向けられたものなのだが、それは「未来の記憶」というかたちをとるのである。

ねえ ナナ
ナナは今でも自分の故郷がどこにもないと思ってる?
あの窓辺の食卓も椅子も
あの頃のまま
あの場所にあるよ

これは物語の「現在」にある奈々が語るのではない。
いつとも知れぬ「未来の奈々」が「現在」を振り返って語るのである。
このように個々のエピソードは「未来の記憶」としてフラッシュバックされたものであることが明らかになる。
つまり物語の「現在」は語られつつあるときに、すでにして失われているのである。

サスペンスを維持するのは、「未来の奈々」の図像が決して登場しない点にある。
引き気味の画面のなか「未来の記憶」が語られるとき、その記憶を有する当事者の奈々は決して画面に登場しない。図像はあくまでも語られつつある過去に閉じこめられている。

このような「未来の記憶」の視点からの語りというのは、意表を衝く斬新さがある。

当然のことながら、「現在」において語られている奈々は、語り手である「未来の奈々」を知らず、その「未来の奈々」の感懐を持たない。徹底した断絶と乖離がある。

例えば次の語り。

ねえ ナナ
あれだけいつも一緒にいたのに
少しもナナの事
分かってなんかいなかった
傷つけている事にさえ
気づかなかった
あたしを許して

むろん「未来の記憶」は、かつての自分の無理解と無邪気さを「分かって」いて「気づいている」。
そしてそこに喚起されるのは、過去を振り返るひとつの感懐、つまり後悔の念である(「あたしを許して」)。

それは次の語りでもきわめて明示的である。

ノブが作った あの曲を
あの夜ナナが何を願って歌っていたのか
声をふり絞って あたしの耳に届くように
今なら分かるのに

取り返しのつかない「過去」への喪失感とそれが喚起する後悔を基本モチーフとする語りは、「過去」と「現在」(つまりいつとも知れない「未来」のある時点)との断絶と乖離を前提とする。

「未来の記憶」とは時制の混乱に他ならない。
いや、この時制の混乱こそこの独自の語りを際立たせている点である。

その時
てっきりナナは怒り出すかと思ったのに
叱られた子供のような顔をした
思い返す度
胸が痛む
あの頃あたしがもう少し大人で
ナナの弱さに気づいてあげていたら
今とは違う未来があったの?

「その時」「思い返す」「あの頃」「今」「未来」と時間にまつわる言葉を重ねる語りは、時間軸に眩暈を導入させる。
「その時/てっきりナナは怒り出すと思った」とは、「過去」の奈々の感懐である。
しかし、時間は即座に「未来である現在」に跳躍を見せ、「思い返す」「胸が痛む」のは「未来である現在」の視点から振り返る奈々の感懐となる。
さらに、「過去」を振り返る「未来である現在」の奈々も、鳥瞰図的な視座からの了解を禁じられている。
それは末尾の3行の疑問文からも明らかである。
そして「決して起きることなく失われた『今とは違う未来』」への喪失感まで語ってみせるのである。

奈々の語りで多用されるのは、「あの頃」「あの時」「あの夜」「あの場所」「あの窓辺」「あのテーブル」「あの川べり」「あの曲」等々、「あの」という指示形容詞である。

ねえ ナナ
あの川べりで肩を並べて
水面を彩る光を見たよね
あの頃 口ずさんでいたメロディーを
もう一度 聴かせてよ

あの夜
もしもナナが一緒にいてくれなかったら
あたしは身投げして多摩川の底に沈んでいたと思う
本気で そう思う

ねえ ナナ
今でも あのテーブル越しに ナナの姿を願わない日はない

つまり杳として行方の知れない「未来」のナナは言うまでもなく、ナナに語りかける「未来」の奈々も今は「ここ」にはいないということを暗示する。

「ここ」というのは時間と空間の両者を指さしている。「あの頃」という表現を典型例として表象されるかつてあった「過去」と、「あの川べり」「あのテーブル」の指示形容詞からも明らかなように、語りの時点で奈々もかつての懐かしい場所を失っているということを二つながらに表す。

「あのテーブル」は決して「このテーブル」とはならない。
出奔したナナを、奈々は忠犬ハチ公のごとく「過去」と不変の「このテーブル」に着いて待っているのではない。
不変の「私」が過去と変わらず「ここ」にいて、その永久現在の世界からひとりナナが脱落したわけではない。
奈々にとってもそれは「あのテーブル」に他ならず、過去の記憶と結びついた失われたものの象徴なのである。
奈々がナナに語りかける言葉のはざまに見え隠れするのは、結局失われた「私」なのである。

「未来の記憶」としての語りが登場するのは、第2巻で奈々がナナと出会ってからである。
「未来」の奈々が「過去」を振り返りつつ「未来」のナナに語りかける、というのが「未来の記憶」の語りの結構なのであるから、それがふたりの出会いから始まるのはいたって当然である。

あたし達の出会いを覚えてる?
電車は走ったり止まったり
結局東京まで5時間もかかってしまったけど
あたしは少しも退屈しなかった
だけどあたしは自分の事ばかりしゃべって
ナナの話は少しも聞いてあげられなかったね
もっともナナの事だから
聞いてもはぐらかしていたとは思うけど

第1巻では奈々とナナそれぞれの語りがあるが、それは「未来の記憶」の視点ではない。

あたしの生まれた故郷は
山に囲まれた
広くも狭くもない町で
ど田舎ではないけど都会でもない
観光にこられてもウリがない
あたしは3人兄弟の真ん中で
金持ちでも貧乏でもない親に
ほったらかされてスクスクと育ち
県内普通レベルの女子校を
もうすぐ卒業する

小松奈々
只今一九歳
彼氏はいれど遠距離恋愛
今に見てろよ大魔王

とこれが奈々。

そして次に引くのがナナの語り。

あたしは自分の生まれ故郷を知らない
父親の顔は見た事もないし
母親の顔もとうに忘れた
4つのときにこの海沿いの町に来て
小料理屋を営む祖母に
さんざん嫌みを言われまくって育ち
今はバイトに明け暮れながら
夢のかけらを磨いている

これらはいずれも物語の現在の視点からの語りである。
この時点ではまだ「未来の記憶」という意表を衝く技法は導入されていない。おそらくまだ作者にもその構想はなかったであろう。
物語の導入であり、人物紹介の役割を果たすので、この物語の現在の視点からの語りは了解できる。
ここでナナに一人称語りをさせているのも同様である。

以後、上述のように第2巻からは、奈々の「未来の記憶」によるナナへの語りかけという構想がコンスタントに続く。

しかし第8巻にいたってこの着想は裏切られる。
ナナの側の語り、それも「未来の記憶」としての語りが導入されるのである。

「あのさ ハチ」で始まるナナによる奈々への語り(内面描写)は痛々しくクールな哀切感をともなうが、ナナに直接語らせる誘惑は退けるべきだったと思う。

お間抜けな奈々、今生きている現在の重要性を了解していない脳天気な奈々が、未来のある時点から失われた現在という名の過去を振り返って語る、というところが重要な構想であったはずだ。

何よりも、ナナの内面は謎であるべきだった。
ナナの内面は、「忠犬ハチ公」のような奈々が繰り返し追い求めつつ、つねにその手をすり抜けていってしまうというのが物語論的に肝要なところであろう。
奈々の「未来の記憶」が語る失われた過去とは、ナナの内面の謂いに他ならないからである。

そして、ついには先が見えてしまった。

ノブはどんどんペシミズムを深化させて陰鬱になってゆく。
無邪気な破滅型のシンちゃんの末路は繰り返し示唆されている。
知性と良識と包容力で安定をもたらす重力の役割を果たしていた「弁護士」のヤスは、イエロー・ジャーナリストからナナを守るために暴力事件を起こす。かつての内集団の安寧は蚕食され、しだいにバランスが崩れてゆく。

そのときのナナの内的独白。

バカだこいつ
うちのメンバーはバカばっかりかよ
ノブは親に勘当されても、女に捨てられても懲りずにギターにしがみついてるし
シンはこのままほっといたら破滅の道まっしぐらだし
あたしが歌わなきゃ、未来がないじゃない

したがって「未来」が失われてゆく。
そこにふたつの伏線がいささか唐突に導入される。
ナナの過呼吸症候群と、ナナの恋人レンのドラッグ中毒である。

「ナナのいない未来」からの奈々の語りそのものを生み出することになる契機はなんなのか、物語的にも、奈々の語りのなかでも明示されず、それがずっとサスペンスを維持することにつながっていた。
ナナって死んじゃったのかな、と思わせるところもあったけど、奈々の語りは未来における「不在のナナ」に向けられており、またナナ自身の「未来の記憶」が語られるに及んで、それはなくなった。ナナはどこかにいるが、出奔して行方知れずということである。

この先の展開は、ふたつの伏線から推察し得る。

ナナは「ストレス性過呼吸」の誘発する何かで歌えなくなり(「あたしが歌わなきゃ、未来がないじゃない」)、レンはドラッグ中毒で死にいたり、そしてナナは失踪するんでしょ。

ちがう?

どうかまた意表を衝いて裏切ってくれることを願う。

と思っていたら、、第12巻の冒頭でまた意表を衝かれる。
いつとも知れない「未来の記憶」の時点に突然「フラッシュ・フォワード」するのである。

奈々は6歳になる子どものサツキを連れている。
つまり6年後だったんですね、その「未来」というのは。
ノブとシンちゃんとヤスに関しては、そしてレンに関しても予想が外れた。みな健在でした(よかったね)。
レンは場面に登場しないが、健在であることがさらりとメンションされる。

大外れでした(ごめんね)。

それでも、とうとう「いつとも知れない未来」も明らかにされちゃった(残念)、と思ったけれど、このフラッシュ・フォワードはなかなかよくできている。

第11巻の末尾で、ナナを初めとするグループのメンバーが、かつての部屋に集合して花火大会を見に行こうとする。
しかし、別の生活を始めた妊婦の奈々は、「もし今みんなにもう一度会えたら、あたしはきっとまた甘えてしまう。それが怖くてここから動けない」と近くまできているのに逡巡している。
そこで11巻は終わる。

続く12巻の冒頭で6年後にフラッシュ・フォワードするのだが、それを導くのは久しぶりに奈々の語りである。

ねえ ナナ
今年もまた
多摩川の真夏の花が咲く
707号室でみんなで待ってるよ
おそろいの浴衣も仕立ててあるよ

つねのパターンを壊して、ここでは途中にも語りが入る。

ナナ
今も聞いて欲しい話が沢山あるのに
この部屋は
思い出ばかりが目に映る

「707号室」は「あの部屋」ではなく「この部屋」になる。
そして上の語りのあとにフラッシュバックして、11巻の末尾の花火大会へと戻り、章の末尾で「未来の記憶」の語りが締めくくる。

ねえ ナナ
ナナが誰より望んでいた
取り戻せなかった夏が
今 ここにあるよ
ずっと待ってる
10年でも20年でも50年でも

この章(第42話)は、フラッシュ・フォワードした「未来」(おそらく6年後)の物語枠のなかで、さらにフラッシュバックした6年前が描写される。
枠組みはあくまでも6年後の「未来」にある。語りの背景に、例によって引き気味の画面が示すのは、この章だけ「未来」の図像である。
窓の外からの俯角で切り取った誰もいない部屋には、ナナ用の畳まれた浴衣がひとつぽつんと置かれている。
急激なクロースアップでその浴衣を映し、そして室内のテーブルの高さの目線から窓の外の打ち上げ花火を捉える。
テーブルの上には、かつて奈々とナナという分身の寸断を象徴した、ふたつの割れた苺のコップと同じものが、ひとつだけ置かれている。

実はこの花火というのは登場するのが3度目である。
奈々が他のメンバーと顔を合わせることを逡巡した花火大会を描いた第11巻では、ナナの語りによって、最初の「純粋に幸福な花火」がフラッシュバックでよみがえる。

夢じゃねえよ ハチ
またみんなで笑いながら
あの日みたいに過ごせるよ
やり直せるよ
もう一度やり直させて
あの夏の日に戻って
明るい未来へのシナリオを一緒に書き直そう

ナナのこの「現在」における語りで、「あの日」「あの夏の日」として言及されるのは、第8巻の出来事で、台風一過の川べりで花火に興じた記憶である。それはナナの語りが導入された最初の回で、途中に次のような語りが入る。

無邪気なんだかしたたかなんだか
あんたは気づいちゃいないだろうね
自分の一挙一動が
今や台風並みの勢力を持って
あたしの気持ちをかき乱しているなんて
あたしはまるで初めて恋を知った少年のように
高ぶる想いが決壊ギリギリ

こうして第8巻から、謎であったナナの「内面」なるものが開示されてしまう(ちょっと残念)。

いずれにしても、3回の花火が前後しながらも時系列を生成している。
無邪気に幸福だった川べりの花火、ナナがかつての幸福を取り戻そうと奈々を誘う花火大会、そして奈々が「未来の記憶」を発信する6年後のナナ不在の花火大会。

「未来の記憶」の時点が描かれてしまった第12巻には、それでも新たな謎を生み出しているところがある。

ひとつは、フラッシュ・フォワードの逸話を含む章の次の章(第43話)。
奈々とタクミの会話で、おなかの子は男の子かもしれないということがさらりと示唆されるのである。
もしそうなら、そのおなかの子はサツキではないということになる。
生まれてきた「男の子」はどうなったのか(あるいは生まれてこなかったのか)。
奈々のことを「ママ」と呼んではいるが、サツキはどういう出生をもつのか。
それにこのフラッシュ・フォワードの逸話は「6年後」ではないということになる。

さらに、上で触れたように、予想は外れてナナの恋人レンは死んではおらず(はははメンゴメンゴ)、その名がメンションされているが、それはこんな風に軽く触れられているのである。

ノブ:「ねえ今日レンは? 来ないの?」
奈々:「花火までには来るよ」
ヤス:「相変わらずマイペースだなあいつは」

なんか変だな(変じゃないだろうか)。
何でノブはナナの恋人レンのことを奈々に訊ね、しかも奈々はレンのことをそんなにも訳知りなのか、そして(ヤスの反応にあるように)そのことを周囲はごく自然に受け取るのか。

奈々の夫タクミのバンドのギタリストがレンという設定なので、奈々がレンの動向に通じていても別に不自然ではないということなのであろうか。
ナナの「失踪」後も、レンは(ドラッグ中毒も乗り越えて)「ここ」にいるということは分かる。

しかし、そのあとノブが、ひとりぼんやりしている奈々を気遣う風を見せると、「そんなに心配しなくてももう大丈夫だよ」と奈々は言う。

「もう大丈夫」というものが指し示しているのは何なのだろうか。
単にナナの失踪についてだけ言及しているのか。

フラッシュ・フォワードの逸話が残した謎は、サツキは11巻でおなかにいたタクミの子か、レンがどうなったか、そして「もう大丈夫」が示唆するものをめぐって解きほぐされていくであろう(たぶん)。

早く次の第13巻出ないかな。
by mewspap | 2005-08-11 15:01 | つれづれレヴュー


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