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シネマのつぶやき:『愛する人』――More Childless Than Motherless

シネマのつぶやき:『愛する人』――More Childless Than Motherless_d0016644_714182.jpg『愛する人』
Mother and Child
2009年アメリカ/スペイン
監督:ロドリゴ・ガルシア
出演:アネット・ベニング、ナオミ・ワッツ、サミュエル・L・ジャクソン、ケリー・ワシントン、デイヴィッド・モース、アイリーン・ライアン、ジミー・スミッツ、エルピディア・カリーロ、シモーネ・ロペス
クリント・イーストウッドの『ヒアアフター』を見てその職人芸に感嘆したんだけど、ロドリゴ・ガルシア映画を見たらイーストウッド映画がどっかに飛んでっちゃった感を覚えた。

邦題は好きなように付けていただいてかまわないが、原題はMother and Child。含蓄あるタイトルである。
このタイトルだとマリアとキリストの「聖母子像」が想起されるが、中心となるのは「母と娘」である。
実に多くの母娘関係が描かれる。そしてその関係のほとんどが、緊張感に満ちたもの、不幸なもの、充足されることのないものとして描かれる。

世に孤児物語、あるいは「母なき子」(motherless child)の話は多いが、この映画が照準するのは「子なき母」(childless mother)である。

多岐にわたると同時に暗に絡み合う人間関係や、並行するかと思えばふいに接近する複数のプロットが織りなす群像劇であるにもかかわらず、物語に複雑さを感じさせない。
しかし印象的なのはそこに登場する母娘の「数」の多さである。

思い出しながら書き連ねてみると、ほんとたくさんある。

50代初めのカレンと、生まれてすぐに養子に出された娘エリザベスが物語の中心にあるのは言うまでもない。
加えて、老母ノラとカレン、エリザベスと彼女が生むエラ、カレンの家に通ってくる家政婦ソフィアとその幼い娘クリスティがいる。
さらにエイダとその娘で不妊症のルーシー、ルーシーとその養子となるエラ、母レティシアとレイ。
エリザベスが出会う盲目の少女も、母親との葛藤を抱えている。ざっとこんだけ母娘関係が描かれる。

母娘ではないが、親子関係では他にもある。ティーンネージャーのレイと彼女が最後の最後になって養子に出すことを拒む赤子、ポールとその娘マリア、エリザベスの隣人の若夫婦(妻は妊娠している)、カレンの夫になるパコとその娘メリッサ、メリッサと7歳になる双子の男の子。

「女性を描かせたら右に出る者はない男性監督」という枕詞付きのロドリゴ・ガルシア監督が洞察する母娘関係はからは、なるほどなと思うところ多なのである。
とりあえずまずは一番肝心のカレンを中心とする物語について。

カレン、ノラ、エリザベスとネックレス
まず最初に描かれるのは老母ノラ(アイリーン・ライアン)と二人暮らしのカレン(アネット・ベニング)である。
二人の間には、それぞれに抑圧して言語化されないすさまじい葛藤と愛憎が伏流していることが見て取れる。



37年前、カレンが14歳で生んだ女の子をノラは養子に出す。それが母親として娘にしてあげられる最善のことと考えたのであろう。しかしそれが現在の二人の緊張関係の淵源となっている。

ほとんど台詞もなく、喜怒哀楽を顔に表すこともまれなノラの感情は、おそらく相当に複雑なはずである。
今や娘のカレンは経済的にも精神的にも自立し、かいがいしく自分の面倒を見てくれている。
しかし、娘が生んだ子を養子に出したことにノラは後悔の念と罪の意識を抱き続けてきたことは想像に難くない。
母親としてまだロー・ティーンだった娘のことを思って最善策をとり、にもかかわらずそのことで娘を傷つけ、けっして自分を許していないことを知っている。
おそらくその後がむしゃらに生きてきたカレンが、家庭をもつこともなく自分に孫をもたらさず、普通の幸福な祖母となれなかったことを深く恨んでいる。そして自分に恨む権利がないことを知ってもいる(だってそりゃ「逆恨み」だから)。
ノラは自分の亡き母からもらったネックレスを娘のカレンに譲らずに、通いの家政婦ソフィア(エルピディア・カリーロ)の幼い娘クリスティ(シモーヌ・ロペス)に与える。その一事にカレンに対するノラの複雑な感情を読むことができる。

カレンは家政婦のソフィアによい感情をもたず、クリスティを邪険に扱う。
祖母から母へ贈られ、そしていずれは自分に引き継がれるべきネックレスを母が家政婦の娘に与えたことを知って、カレンは抑えていた感情を爆発させる。
カレンは生まれてすぐに養子に出された娘に対して深い罪悪感を抱いている。その罪悪感は母ノラに対する怨嗟に転化され、そしてそのことを自覚するがゆえに母への恨みを抑圧する。同時に、恨み言も言わずに母親に注いできた愛情に見合うだけのものを、自分は母親から与えてもらっていないという気持ちを払拭できず、そのような気持ちを老いた母に対して抱くのは正しくないと抑え込もうとする。
母と娘の日々のルーティンの陰に抑圧された緊張と鬱屈は痛々しいほどだ。

母親は自分が不幸な老年を生きていることで娘を恨んでいるのではない(少なくともそれだけではない)。
娘が幸せにならなかったことで母親は娘を恨んでいるのである。

娘は自分が虚しい人生を強いられたことで母親を恨んでいるのではない(少なくともそれだけではない)。
母親が幸せな老後を送っていないことで娘は母親を恨んでいる。

そして二人はそれぞれにそのような感情をもつことに罪悪感を抱く。
そしてそのように自分に罪悪感をもたせる相手をお互いに許すことができない。

かくして、無限に閉じた負の感情の円環に囚われることになる。

この円環から逃れるすべもなくやがてノラは亡くなる。

カレンは最終的にこの円環から脱出する。
それにはいくつかの段階と、それに伴う突然の覚知がある。

最初に訪れるのは「母であること」の発見である。

当初カレンは単なる子ども嫌いか、子どもの扱いを分かっていない女性として描かれる。あるいは「子どもとは何か」を知らない女性、すなわち「母であること」を知らない女性として登場する。それはソフィアの幼い娘クリスティに対する大人げない仕打ちに如実に表れている。

カレンは真面目で自立しているが、四角四面で気難しい人間であることを自覚している。
彼女の周囲に対するとげとげしい姿勢は、彼女が決して自由になれないことの表れである。37年前に養子に出した娘に会って許してもらうことを夢想しているが、一歩も足を踏み出せず、投函されることのない娘宛の手紙を書き続け、毎年誕生日には贈る当てもないプレゼントを買う。
養子に出されて二度と会うことのかなわない娘のことをつねに想い続けているが、カレンは決して「母親」にはなれないのである。

そしてカレンは「母親であること」を発見する。
ある日、クリスティがリビング・ルームを散らかしたままソファでうたた寝しているのを見て、瞬間的に激しい怒りに駆られ、それから突然、啓示のごとく自分の内から「母親」としての愛情が沸き上がるのを覚える。無邪気で無防備な少女の姿を通じて、「母であること」の意味を発見するのである。このときカレンは代償的に「母であること」を体験する。
家政婦のソフィアは古典的な「よき母」として描かれる。不幸な母娘関係が数々描かれる物語にあって、例外的に幸福な関係である。
クリスティを通じて思いがけず「母性」を実感したカレンは、子どもに何かあったらと心配でたまらなくならないかとソフィアに問う。ソフィアは、「卵を落として割ってしまう」不安に、「ときどき」襲われるのが母親だと応じる。

やがてソフィアは、兄がテキサスで開店予定のレストランを手伝うため、家政婦を辞めて引っ越すことになる。
別れ際にクリスティは、ノラからもらったネックレスをカレンに渡す。

カレンはクリスティを通じて母性を発見し、母性を発見することで母ノラを再発見する。
ノラが自分にではなくクリスティに与えたネックレスを、クリスティが進んで渡してくれることで、カレンは亡きノラに対する複雑な感情からやっと自由になり、14歳のとき以来失われた母子関係をようやく再獲得するのである。
母から娘に代々譲られてきたネックレスは、「ただ自分の娘であってくれたこと」に対する母から娘への無条件の感謝のしるしである。
クリスティの無邪気で直感的な振る舞いは、「母」からの贈り物であり、「娘」からの贈り物でもある。こうしてカレンは「母であること」と「娘であること」を同時的に回復する。

母子関係を回復させる象徴としてのネックレスが次に手渡されるべき相手は、物語の要請のしからしむところであり、それがエリザベスであるは必定であろう。
ところが、映画はその必然にもうひとひねりを加える。

カレンが最終的に「母であること」を取り戻すしるしは、このネックレスを亡きエリザベスの幼い娘エラに渡すことにある。
こうしてカレンはエリザベスを取り戻し、「母であること」を成就する。それによってノラの娘である自分自身も取り戻す。ノラもエリザベスも亡きあと、カレンはようやく自分の「母であること」と「娘であること」をネックレスを付けた幼い少女の内に見いだすのである。


エリザベスと手紙
エリザベスはキャリアを積んだやり手の弁護士で、自立した女性の究極形である。

彼女は養育家と折り合いが悪く、十代ですでに自立している。そして17歳のときメキシコで卵管結束の避妊手術を受けている。
子ども(娘)であることを放棄したことと、母親になることを拒否していることは、おそらく表裏をなしている。その中心にあるのはニヒリズムであろう。
彼女は盲目の少女ヴァイオレットとの会話で、十代のころから死を恐れず、自分が「無」(nothing)だと感じるのは心地よかったと言っている。

エリザベスの情事(上司のポールおよび隣人のスティーヴンと)はいかにも唐突で衝動的である。
挑発的で攻撃的な性交はエロス(生への欲動)というより、タナトス(死への欲動)に駆動された自傷行為のようにさえ見える。
彼女のエロスが破壊衝動と表裏をなしていることは、スティーヴンを誘惑するエピソードに顕著だろう。
スティーヴンのアパートでエリザベスは、彼の目を盗んで下着を脱ぐと、妻トレイシーの下着入れの引き出しにしまい込む。
何の目的でか。
もちろん、この家庭にとんでもないトラブルが発生することを見込んでである。
そんなことして何の意味があるのか。
もちろん、何もない。そのままスティーヴンをベッドに誘うエリザベスのエロスは、タナトスと表裏一体だということを示している。

スティーヴンの妻トレーシーは妊娠しており、二人はエリザベスの前で「近く子どもが生まれる若夫婦の幸福な家庭」を演じる。
その自己満足の月並みさ、その幸福の凡庸さ、その小市民的な陳腐さは、エリザベスには欺瞞でしかない。
彼女はスティーヴンを誘うと同時に、トレイシーを傷つける。それは母と子を傷つけ、母子関係というものを攻撃することである。

そのエリザベスが死の直前、自分が生んだばかりの赤子を目にして幸福そうに、満足そうに、静かに息を引き取る。

エリザベスは妊娠することで、突如「母であること」を発見する。その発見の瞬間も一見したところエリザベス的なタナトスの発露であるように見える。エリザベスは怒り、破壊する。しかしそれがエロスの発露であることが分かる。
病院の診察で思いがけず妊娠が判明すると、女医は当然のようにその「処置」についてエリザベスに告げる。
無表情のエリザベスが突然ナース・ステーションでカウンターの上にある物をなぎ払い、叩き壊し、怒りを爆発させる。

エリザベスは立ちすくむ女医のもとにつかつかと歩み寄ると、声を荒げて「私のことを何も知らないくせに」と食ってかかる。
女医は唖然とする。
観客も唖然とする。
唖然とすると同時にすっきりする。
エリザベスの怒りの爆発は、カレンの抑圧された怒りの代償行為となるから。
自分が生んだ子どもを失った怒りを、カレンは黙して語らず抑え込んできた。その鬱屈を十分見てきた観客は、子どもの処分を当たり前のように口にする女医にエリザベスが怒りをぶつけるのにほとんどカタルシスを覚える。

エリザベスのこの衝動的な破壊行為は、タナトスをエロスへと転換する儀式となる。
自分の命を顧みることもなく、彼女は子どもを生むことにすべてを賭ける。

エリザベスの豹変の理由を、映画はまったく説明しない。
それでぜんぜんかまわない。
母に「捨てられた」娘は、自分が(図らずも)母になったのを知った瞬間、天啓のように「子を捨てない母」を全力で意志するようになるのである。
なんか問題でも?
私はそこに明晰な論理性さえ覚える。
「母に捨てられた子」であるエリザベスは、「子を捨てない母」になることで、かつての自分とこれまでの刹那的で虚無的な人生から回復するのである。

さらにエリザベスは、これまでまったく関心を払おうとしなかった実の母親のことを考えるようになる。
これも怪しむにあたわない。
母を許すことが、エリザベスが「母であること」の要件なのである。

実の母親の手がかりを求めて、エリザベスはかつて自分の養子縁組をした事務所を訪れる。そしてカレン宛の手紙を残す。

カレンの方はつねづね書き綴ってきた娘宛の手紙を決して出すことはなかった。
養子縁組事務所のシスター・ジョアンヌの強い勧めにもかかわらず、事務所に手紙を残すこともしない。
カレンが養子縁組事務所に手紙を残してさえいれば、エリザベスが訪れたときに二人はすぐに連絡を取り合うことができただろう(職員が誤った場所にファイルするボーンヘッドをしなければ)。
いささかロマンチックにすぎるこのすれ違いに、しばし観客はたじろぐかもしれない(たじろぐはずだ)。
なんじゃいな、作為的な脚本。二人の接点が生まれる可能性を強く示唆しつつ、その出会いを阻むためにする作り物のプロット。
しかしカレンが手紙を残すことをためらった理由が、娘に対する罪悪感とない交ぜとなった承認と許しを求める感情であり、その裏返しである拒絶の現実に直面する不安であるは言うを俟たない。(だから私はこのプロットの作為は許す。)

エリザベスは出産直後に亡くなる。
そして養子縁組事務所の手違いにより、エリザベスの手紙は彼女の死後1年にわたってカレンの許に届くことはない。
エリザベスの存在を知り、そして同時にその死を知ったカレンが覚えるのは、クリスティらを通じてようやく迂回的に得た「母であること」を再び失う喪失感である。
カレンの「母であること」は、結局会うことのかなわなかったエリザベスの死によって、回復不能なまでに損なわれる(はずである)。

しかし、エリザベスの手紙は彼女の娘へとカレンをつなぐものとなる。
養子縁組事務所を通じてルーシーの養子となっていたエリザベスの娘エラに、カレンは会う許可を得る。

カレンが幼いエラにネックレスを渡すのはもうほとんど物語の「論理的要請」である。
ノラがクリスティにネックレスを与えたことを知って、カレンは母の自分に対する愛情の欠如をあらためて感じ取り、「母であること」の喪失感を深める。
クリスティがカレンにネックレスを返すことは、「母であること」の回復であった。
エリザベスの死によるカレンの「母であること」の新たな喪失感は、エリザベスの娘エラにネックレスを贈ることで回復されるのである。

エリザベスの一通の手紙は、カレンの出されることのなかった数多の手紙の間隙を埋め、エリザベスの忘れ形見エラは、カレンの37年余りの空虚を満たすものとなる。
by mewspap | 2011-03-18 07:14 | シネマのつぶやき


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