月がふたつある世界を生み出す比喩

d0016644_2355515.jpg私も多くの読書人と同じく村上春樹の小説は読んできたが、村上春樹について書かれた文章はほとんど知らない。
今さらながらに私が村上春樹について云々してもたぶん屋上屋を架すだけだろうし、その文体の固有性をあれこれ言っても熱烈なファンは鼻で笑うだけだろう。でも長年あの独特で蠱惑的な比喩表現が不思議でならなかった。

文章を書くときには取って付けたような比喩はNGであるを学生時代に教わった。

学部も卒業年次の終わりのころ、友人が彼のゼミの女子学生の卒論原稿に触れて、その「自分勝手で読み手に共有されない比喩」の多用について苦笑していた。どんな比喩を使うんだいと尋ねると、一瞬の間をおいてから、「まるでゴミ箱に打ち捨てられた一輪の薔薇のように」みたいなのを脈絡なく書き付けるんだと言っていた。

今思うと、その女子学生は初期からの村上春樹ファンだったのかもしれない。
彼女の比喩を評した友人はGeorge Orwellの1984について卒論を書いていた。遠い昔、1984年のことである。

村上春樹の比喩表現は、絶対にレイモンド・チャンドラーの影響だと私は思っていたので(誰もそのことに触れないのか、当たり前の前提になっているのか知らないが)、彼が『ロング・グッドバイ』と『さよなら、愛しい人』を新たに翻訳すると知ったときにはやっぱりそうだよなと思った。

『1Q84』も村上節の比喩が満載でとても愉しい。



たとえば主人公のひとりの青豆がタクシーの車内にいる冒頭の1ページ目からこんな比喩が出てくる。
運転手もとくに熱心にその音楽に耳を澄ませているようには見えなかった。中年の運転手は、まるで舳先にたって不吉な潮目を読む老練な漁師のように、前方に途切れなく並んだ車の列を、ただ口を閉ざして見つめていた。
村上春樹はこういうのを多用するんですよね。

こういった比喩表現は「異化効果」(確か「オストラニーニェ」つったな)をもたらすものだ、というだけでは何か大事なものを言い落としている気がする。

比喩というのは通常、何かに喩えて分かりやすくする(アクセシビリティをつり上げる)ために用いられる。
ところが村上春樹独特の比喩表現は、そんなことを目的にしているとは思えない。
今回気がついたのは、村上春樹流の比喩は「喩えて分かりやすくする」のではなく、その対象の「リアリティをズラす」効果をもたらすということだ。

ということを枕にして村上春樹論を展開できればいいんだけど、単に「それだけ」が言いたかったんですよね。そんだけ。

それから比喩じゃなくってある種の誇張法なのだろうけど、何かに言及したり描写するときに、それをあえて対極のシチュエーションに引っ張っておいて、とって返す刀でそれを否定してみせる文体もよく出てくる。次の一節も1ページ目から。
タクシーのラジオは、FM放送のクラシック音楽番組を流していた。曲はヤナーチェックの『シンフォニエッタ』。渋滞に巻き込まれたタクシーの中で聴くのにうってつけの音楽とは言えないはずだ。
こういった語法も滑らかで引っかかりなくスルーしてしまう「自動化した」現実を、ざらついた手触り感に変換する「異化効果」をもたらすとともに、その本質は「リアリティをズラす」効果にあるんじゃないかと思う。

『1Q84』でも『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』でも『ねじまき鳥クロニクル』でも『海辺のカフカ』でも「鼠三部作」でも、「現実をズラされた」物語にこの比喩表現は奉仕するわけですね。

d0016644_1832425.jpg私が最初に読んだ村上春樹の本は『風の歌を聴け』で、1982年4月1日に大学駅裏のおかしな古本屋で買ったものである。
人気のケーキ屋さんメランジュの近くにあった――割とお気に入りの、そして私が割と気に入ったものの宿命により今はもうない――古書店である。
なんでそんなこと分かるかというと、別に憶えているわけじゃないんです。当の本の裏表紙に私の下手くそな字でそう書き付けてあるのである。ついでに言えば、「つまんない本を買ったもんだ!」なんて殴り書きまである(当時の生協「C定食」2食分くらいの値段がしたのだ)。
その後あちこち引っ越しをしたが、いまだにこの本が私の手許にあるとはわれながら驚きである。27年前ですよ。時はさらさらという以外に何も残響音を残さず過ぎてゆく。さらさら。

最初の村上春樹体験が芳しくなかった(なんかハードカバーの若手新進作家の小説はみな「こんな感じに自意識過剰」に見えて、当然のことながら自意識過剰を持て余していた猫元青年は嫌味に感じた)ため、その後、何年も流行作家となった村上春樹を手に取ることはなかった。

d0016644_073398.jpgそれから7年ほどして、大学院に在籍しているとき、とある先輩から『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』はおもしろいよと勧められて、生協の書籍部にあった箱入りの豪華版ハードカバーを買った。レジに持っていくと係のおねえちゃんが、秘密を共有する者同士という感じの目配せを送ってきて、「やっぱりハードカバーで読みたいですよね」とにっこり微笑みを浮かべた。意味が分からず、なんだか薄気味悪かったので、よっぽど買うのをやめようかと思った(「コープ・ランチ」5食分くらいはしたはずだ)。後日、すでに文庫版が出ていたのを知った。

『ねじまき鳥クロニクル』は神田の神保町にある大きな書店で平積みになっているのを買った(もう給料取りになっていたので食費と本代を比較することもなくお気楽だった)。

『1Q84』にはマイケル・ジャクソンへの言及もある。
この本は彼が亡くなる直前に出版され、そしていかにも唐突に、まるで青豆のなせるわざのごとくマイケル・ジャクソンは別の世界に送り込まれてしまった。

私は彼にも彼の音楽にも残念ながら好感をもつことは一度もなかったけれど、今のこのときに、彼と彼の音楽を愛した多くの人々に不敬にならないよう言葉遣いを自制するくらいの思慮はある。
彼の魂に安らぎが訪れていますように。

本日は皆既日食であるやに聞く。太陽が月の陰に入ってしまう。それが我が邦でも見られるそうである。そういう事態は直近では私が2歳くらいのころにあったそうである。もちろん覚えていない。そういう事態は直近で26年くらいしたらまたあるそうである。もちろん私には見ることはできないものと思量する。

大阪は曇天だし、どのみちいつもブラインドを下ろしているこの部屋から見えるわけでもない。
ふと思いついて、最上階まで階段を上って隣の建物との屋根のない渡り廊下に立ってみた。高所恐怖症の私は下を見るだけでちょっと目眩を覚える。上を見ても、やはり視界を邪魔する建物の遮蔽物に囲まれて、太陽がどちらにあるのかも私には分からない。酔狂じみたことはすぐにやめにして部屋に戻る。

月がふたつある世界では、皆既日食もおそらくずいぶん趣を異にするのだろうなと思う。それがどんな風変わりな様相を見せるのか、「この世界」の皆既日食を目にすることもない私にはちゃんと想像することもできない。

別に太陽を隠して鬼面人を驚かすパフォーマンスを見せなくとも、この惑星に寄り添ってそこに静かにたゆたう風情で十分だよと思う。

私の望むと望まざるとにかかわらず、きみはつねにそこにいる。きみが寄り添っているのが本意なのか、地球のくびきに捕らわれていたしかたなく悠久の時間そこに留まっているのか、私には知るよしもない。

でも、いにしえよりわが邦の方々はきみのことが好きだったみたいだ。少なくとも気になっていたことはまちがいない。日本人のイマジネーションと感性において、花鳥風月という「四天王」の一翼を担っているのだからそれは確かだ。この地では、きみはさまざまに見つめられ、思いいたされ、詠われてきた。異邦のまなざしはきみに言寄せてmoonyとかlunaticとかと形容したけど、そんな妙な「悪口」を言ったりもしていない。

私はきみの熱烈なファンというわけでないけれど、私がこの惑星に訪れるずっと前からそうであったように、私がこの惑星からいなくなった後もそのままそこにいてくれたらきっと嬉しいと思う。
ちと寂しくなったりひとりに飽きたりしたら、ふたつになってくれても私としてはかまわない。
月がふたつあっても特に困らないし、そのことにこれといって異論があるわけでもない。

だってそもそもわれわれが「200Qの世界」を生きているわけではないと誰に言えるだろう。
私の存在は私によって内在的に根拠づけられ得ない。私の存在は私の世界によって内在的に基礎づけられてはいない。むろん、私の世界は私によって保証されることもない。

月がふたつある世界で皆既日食がどんな様相を見せるのか私には分からない。
でも、それが誰のどんなに蠱惑的な比喩も必要としない、すでにズラされたリアリティであるは言うをまたない。

200Q――私がこの旧知の見知らぬ世界をそのように呼ぶことにしてもいい。
Qはquestion markのQだ。疑問を背負ったもの。

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by mewspap | 2009-07-22 18:33 | つれづれレヴュー


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